矴先輩のノートを読みふけっているうちに夜が明けていた。いつの間にかカーテンが開けられていて、部屋が明るくなっている。
先輩を放置してしまった。俺はベッドにうつぶせになって本を読んでいる矴先輩に「すみません」と謝る。彼は不思議そうに俺を見た。
「ん、なんで?」
「部屋に置かせてもらってるのに無視するみたいなかたちになってしまって。すみません」
「あは、いいよいいよ。それだけ夢中になって読んでもらったら書いたかいもあるし」
すごい集中力だったねえ、と先輩は起きあがってのどかに笑う。
そしてヘッドボードで充電していたスマホを取りあげ、「花崎から連絡きてたよ」と言った。
「家族に連絡つかなかったとかでなかなか帰れなかったみたいだね。これ、朝二時。黒川の意識はまだ回復してないけど、どうすることもできないから近くのファミレスで時間潰してから寮に帰るってさ」
「……そう、ですか」
「きみが気に病むことじゃないよ。黒川はある意味自業自得。花崎もこういうことには慣れてるから」
矴先輩の言いたいことはわかるけれど、それでほんとうに気に病まずにいられるほど俺は器用な性格じゃない。曖昧にうなずきを返す。
「すこしここで寝てから寮に帰ったら? ぶっとおしで読んでたでしょ」
「……大丈夫です。ありがとうございました」
俺はすべて読みおえたノートを先輩に返す。「はい、どういたしまして」と先輩は笑顔でそれを受けとった。
「で、夜津くんはこれを読んでどう思った?」
「自分が通ってる学校でこんなに事件が起きてるなんて思いませんでした」
三十年前の蕪木さんの死以降、『溺死未遂事件』とでも言うべき奇妙な事件は何回か起きていた。
二十年前には野球部の三年生たちが溺れかけ、十四年前には生徒に陰湿な体罰を与えていた教師が同じように溺れて死にかけている。十年前にはかつあげの常習犯だった素行の悪い生徒たちがやはり水気のない場所で溺れかけていた。八年前には生物部が飼っていた小動物が全滅し、その犯人である生徒が授業中に口から腐った水を吐いて気絶した。
直接命を奪われたひとはいないみたいだけど、その事件をきっかけに『腐った水の臭いがする』『どこにいてもなにかが水漏れしている気がする』『水溜まりを踏む足音が聞こえる』といった幻覚の類に悩まされて自ら命を絶つことはすくなからずあったという。なのに知らなかったなんて。
俺だけなら先輩・OBたちとの関わりがすくないからで済む。でも日記を読むかぎり夕斗もだれからも聞いていないようだった。なぜこんな奇妙な事件が伝わってきていないのだろう。
その疑問を率直に口に出すと、「奇妙すぎるからだろうね」と矴先輩は答えた。
「突然腐った水を吐いて溺れる。常人の脳ではとても理解できない現象だ。だからみんな、このことをなかったことにした。その場にいた生徒も、話を聞いた生徒も、みんな。そうしなければとても正気を保てなかったから」
「じゃあ、当事者のひとたちは……?」
「こんな目に遭った、と話してもだれにも信じてもらえない。真実を話しても周りからは頭が変になったのだと思われる。水を吐いた感触は体がはっきり覚えているのに、だ。
……これはこれで、とても正気じゃいられなかったと思うねえ」
当事者は壊れてゆき、関係者は壊れないために真実を歪ませていく。
『取りこわされたプールの霊』。なんの変哲もない怪談にはそんな裏話があった。
「じゃあ、今回の黒川のことも……」
「病院は適当な理由をつけて『正常なこと』にすると思うよ。騒ぎにはならない」
俺たちは、今夜『異常』があったことを知っているけれど。
でも俺たちが無闇に言いふらすことはないし、きっと黒川も同じだ。真実は闇のなかに消えていく。
「……蕪木さんがいままでだれかと混ざったことはなかったんですね」
「みたいだね。歴史の長い学校だから在学中に亡くなった生徒もいただろう。でもね、ふつうは病院で息を引きとるものだ。その場合蕪木優太郎がいる場所とは重ならない。体育館で亡くなった西永夕斗は稀なケースだ」
こんなふうに夕斗の話をすることにちくりと胸が痛んだ。矴先輩は俺の表情が変わったことを鋭く見抜き、「いまの言い方は無神経だったね、ごめん」と謝ってくる。
いいえ、と俺は首を振った。
「矴先輩は夕斗と面識はあったんですか?」
「や、俺は部活も委員会もべつだったからね。でも後輩ににぎやかな子がいるなとは思ってたよ。花崎からもよく話聞いてたし」
「そう、ですか」
「もちろん夜津くんの話もね?」
俺の話なんてどうせろくなものじゃない。俺は視線を窓の外に向けて、かれらはいまどうしているだろうと思った。
夕斗と毎日のように部活動をしていたかれらは――
九時過ぎに体育館に行くとバスケ部はもう練習をしていた。
部活動に興味がない俺でもバスケ部の情報は気にしている。インターハイに進んだかれらの練習には一際熱が入っていて、ボールが床を打つ音とシューズが床をこする音が高い天井に響きわたっていた。
そして、開けはなされた渡り通路側のドアの傍らにはペットボトルのスポドリや夕斗が好きだったガムがたくさん供えられていた。夏の暑さにしおれたブーケは品よくまとまっていて、きっと女性の先生が置いてくれたんだろうと思った。
ああ、夕斗って愛されてたんだな。
そう思ったら鼻の奥がつんとした。
夕斗はもういない。その事実を、こんなにたくさんのひとたちが悲しんでいる。
「っ、う……」
声が漏れそうになって俺は唇を噛んだ。
夕斗の死。それが全身にのしかかってくるみたいだった。心臓が、肋骨の奥のなにかの器官が包丁でえぐられているみたいに痛い。
ぜんぶ夢ならよかった。夕斗が死んだことも。彼が霊になったことも。
それはきっとおそらく、俺が夕斗の死を認められずに彼に帰ってきてほしいと願ってばかりいたせいで、
「……おまえ、大丈夫?」
手で口元を押さえて必死に嗚咽を飲みこんだときだった。バスケ部のひとりが体育館の入口に立って心配そうに俺を見下ろしていた。
「……すみません。大丈夫です」
「夕斗の友達、だよな。よく大会の応援にきてくれてた」
「……はい」
「えっと……夜津、だっけ? ほんとに大丈夫?」
俺はうなずく。
大丈夫なわけ、なかったけど。
何度もあふれそうになる涙をぬぐい、俺は咳払いをしてからそのひとに言った。
「練習中にすみません。笠森先輩、今日部活にでてらっしゃいますか?」
「あ、俺」
「え?」
「俺だよ。笠森。……ピンポイントで俺に会いにくるってことはさ、もしかして」
たぶん、先輩の考えている『もしかして』と実際の理由はちがう。でも俺はあえてなにも言わず、「そっかぁ……」と彼が感慨深そうに俺を見つめてくるままにしておいた。
「ちょっと練習抜けるわ。待ってて」
「あ、終わってからで――」
「いいから!」
笠森先輩は靴を鳴らしながら部活仲間のもとへ駆けていく。
声はここまで聞こえない。笠森先輩がなにか言って、ほかのひとたちが俺を見てくる。かれらは夕斗の葬儀で俺が錯乱したことも憶えているかもしれない。
どんなふうに俺のことを話したのかはわからないけれど、すぐに笠森先輩はもどってきた。お待たせ、と浅黒い顔に大型犬みたいな笑みを浮かべる。
「サロンでいい? 財布もスマホも部室だからなんも奢れないんだけどさ。外よりは涼しいし。行こ」
笠森先輩は靴を履きかえるとさっさと歩きだす。散歩のとき飼い主をぐいぐいひっぱっていく犬みたいだと思った。


