りおの声を聞いて目覚めるのが好きだった。
純度の高い、透明な氷みたいに透きとおった声。その声ではじまる一日はそれだけで特別になった。
俺の兄貴がりおだったらよかったのになぁ。
自分の家族のことを思いだす。よく子供は親をえらべないっていうけど、親以外だってえらべない。えらべたら俺はりお一択なのに。
家に帰りたくないから、中学校のそばの公園で夜になるまでバスケをしていた。友達はみんな俺より先に帰る。でも俺はさびしくなかった。さびしいと思ったら終わりだったから。
頼めば家に泊めてくれる友達はたくさんいる。でも俺がべつの家で夜を越すことはあまりなかった。
おかえりって言ってくれるひととか、あったかい夕ごはんとか、俺が知らないものがこの世界にはあたりまえに存在するということが痛かった。
りおが自分の家族について話すことはほとんどなかった。
俺が知ってるのは、おじいさんの家にいることとおかあさんが病気で入院しているということだけ。でも、おかあさんのことはうそだと思う。隠したいことがあるときの顔をしてたから。
俺がりおと仲よくなりたいと思ったのは、りおも俺とおんなじでみんなが持ってるあたりまえを持ってなかったからだったかもしれない。
みんなは家に帰るとほっとする。家族は自分を守ってくれると思ってる。でも俺たちはちがう。家は地獄だし、家族は自分を傷つけるものでしかない。
でもそれをだれかに言えば『贅沢を言うな』『みんなそうだよ』と返ってくる――だから俺たちは自分のなかにだれにも救えない絶望が広がっていくのを見ていることしかできなかった。たすけなんて、どこにもない。
りおといると楽だった。最初はそれだけだった。
でもだんだんりおといるのが楽しくなって、なにをするにもりおがいてほしくなって、気がついたら俺の一番になっていた。それで。
あの日。文化祭の日、はじまっちゃいけない気持ちがはじまってしまった。
りおが好きだ。苦しいくらい。
はじめてできた親友に、俺は恋をしてしまった。
この気持ちは一生隠さなくちゃいけないと思った。この気持ちは悪いことなんだと思った。
だって、りおは今日もなにも知らずに俺のそばで笑っている。親友として俺を信頼してくれている。そんなりおを裏切りたくなかった。
――でも、りおを好きな気持ちが大きくなりすぎて。
笠森先輩に相談したら、『明日世界が終わるならどうするか』というアドバイスをくれた。
それで、それで俺はりおに告白することを決めた。この気持ちを伝えられないまま世界が終わったら死んでも死にきれないから。
――俺が好きって言ったら、りおはどんな顔するかなぁ。
前の日はベッドに入ったけど寝れなかった。なにも知らないりおの寝息がちょっと憎らしかった。
りおがほんとに兄貴だったらこんな気持ちになることなんてなかっただろう。それがいいのか悪いのか、もうよくわからない。
りおの笑い慣れてない笑顔が好き。退屈そうに窓の外を眺めてる横顔が好き。真面目に図書委員の仕事をこなしてるときの姿が好き。騒いでるやつに注意するときの冷たい声が好き。俺が話しかけると目の奥がやわらかくなるのが好き。大会の応援にきてくれたとき両手をぎゅっとにぎって祈っててくれたのが好き。つけあわせにミニトマトがでたときいかにも食べたくなさそうに箸で転がすところが好き。
りおの好きなところ、ほかにもいっぱいある。
こんなに好きしかないのってすごい。ちょっと怖くなるくらい。
――りおは俺の好きなところ、どれくらいあるかな。俺とりおの好きをくらべたらどっちが多いかな?……きっと、俺のほうが圧倒的に多いんだろうな。
そして、その『好き』は俺と同じ『好き』じゃない。わかってるけど。
俺は――もう、りおへの好きを隠しておけない。りおに伝えたくてしょうがない。
――んー、じゃあ、いつ伝える?
やっぱ夜かな。朝とか昼はないっしょ。そのあとの授業気まずいし。部活前に伝えるのもあわただしいからなし。
そうなると……夕飯食べおえてからか。笠森先輩も夜に告白したらしいし。
星空の下歩きながらって言ってたけど、それ、参考にしてもいいのかな? ロマンチックすぎ? りおってどんなのが好み?
あー、もう。
りおで頭がいっぱいだ。
告白のセリフはどうしよう。俺とつきあって、そういう意味で好きです、一生幸せにします、とか。なんかごちゃごちゃしてる。最後のはちょっとまだはやいか。プロポーズじゃん。
――俺とつきあってください、が一番いいかなぁ……
でもそのまえに俺がりおをそういう意味で好きってわかってもらわないと。恋愛的な意味で、って言えばいいの? 恋してるのほうがいい? うーん、考えすぎて頭が痛い。
こういうときはイメージトレーニングをしよう。噛まずに告白のセリフを言いきる俺。喜んでくれるりお。俺たちはまさかの両想いでした! 最高じゃん! それで――
……それで、俺たちは。
恋人としての新しい一日を縺ッ縺倥a繧九s縺?
『……帰ってこいよ。夕斗』
ダメだよ、りお。俺はもう
◇◇◇
悲鳴を聞いて矴先輩は迷わずに廊下へ飛びだした。花崎先輩もそれにつづき、俺はふたりの背中が見えなくなってからやっと我に返る。
ドアのところから顔をだすと廊下にはだれかがあおむけに倒れていた。矴先輩がその傍らに膝をつき、脈を取っている。花崎先輩はスマホでどこかに――救急に連絡していた。
「……S高の寮生なんですけれど、同級生が気を失って廊下で倒れているところを発見しました。息は……いえ、確認できません。心臓も止まっています。状態は……」
非常灯もない、月明かりだけの廊下を俺は歩く。
倒れているのは黒川だった。両目を見開き、あらんかぎりの大声で叫ぼうとしたかのように大口を開けている。
花崎先輩は逡巡したあと、見たままのことを言った。
「状態は……溺れかけた、みたいな感じです。ええ。水気のない廊下……なんですけど」
黒川の口には腐った水が溜まっていた。緑色の、藻が浮かんだ水が。
彼の長めの髪もTシャツもぐっしょりと濡れている。廊下の古いフローリングも。
まるで古いプールかどこかで溺れていたところを引きあげられたかのようだった。
「いえ、僕にもよく……とにかく来てください。……はい。わかりました」
花崎先輩はスマホをスピーカーにし、黒川をはさんで矴先輩の正面にかがみこむ。「指示通りに心臓マッサージを」と言われて矴先輩は黒川の濡れたTシャツの上に両手を置いた。スマホから聞こえる救急隊員の指示に従い蘇生をはじめる。
俺はそれを見ていることしかできなかった。
黒川が倒れている位置から俺の部屋までのあいだにドアはふたつあったけれど、そのどちらもいまはからだ。片方は使われていなくて、片方は部屋の主が帰省している。
――なら、なんで黒川はそこにいた? だれに用があった?
考えるまでもなかった。
零時過ぎ。黒川は俺の部屋へこようとして、そして――
俺は昼間夕斗が言っていたことを思いだす。
白昼夢のように消えていった彼は最後にこう言っていた。
『それに俺は、もう、生きてたころの俺じゃない。だって』
俺の脳裏にもがき苦しむ黒川の姿が浮かぶ。
昨日の俺のように侵入してくる水のなかに閉じこめられて溺れていく黒川と――それを昆虫でも観察するように眺める夕斗が。
『だって、いまの俺はかんたんにひとを殺せちゃう』
……夕斗は。本気で、黒川を殺そうとした。
夕斗を成仏させる。俺ならそれができると考えていた。
彼の心残り――それは俺に告白できなかったことだと思ったから。
だから今夜、彼と話をしてすべてを終わらせようとしていたのに。
【りおを傷つけるやつは消してあげる】
なあ、夕斗。
【だって俺、りおが大好きだから】
俺の声は、
【だれにも渡さないよ】
いまのおまえに、届くのか――?


