人形姫は、猟犬の溺愛に瞳を潤ませる〜心を失った令嬢は秘密を抱えた執事に甘やかされて愛を知る〜


 目の前には、ぐすぐすと煙を上げる黒い物体が、複数転がっていた。



「何故……?」



 私は眉をひそめる。 

 

 どうしてこんな、取り返しのつかないことになってしまったのか。



 私はその原因について、直近の記憶を初めから辿ることにした。







 きっかけは、数多ある本の背表紙を眺めている時だった。



 アイザックが買ってくれた新品の本は、優に百を超えている。だから、アイザックが私への贈り物でいっぱいにしてくれた部屋の壁際は、全て本棚で埋められていた。



 アイザックが留守にしている日中は、私は大体の時間を、その『贈り物部屋』で過ごすようになっていた。

 せっかく頂いたのだから、という義理もある。が、これまで知らなかった沢山のことを知りたいという好奇心に勝てない、というのが本音の大部分だ。

 パズルを触ってみたり、画集をめくってみたり、はたまた、図鑑を持って庭に出たてみたりもした。

 アイザックに贈った花がネモフィラという名であることは、この時初めて知った。



 そんな、充実している生活が続いている中で、私は見つけたのだ。

 『お菓子の作り方』という本を。



 以前はアイザックに、花を手折って差し出すことしか出来なかった。

 だがこの本を読めば、お菓子を作れるようになるかもしれない。そうすれば、アイザックに改めて、ちゃんとした贈り物を渡せる。



 ネモフィラでも彼は大層喜んでくれたが、私は納得していない。どうせなら、彼のおかげで私にも出来るようになったことがあると、伝えたい。



 きっとそれが、何よりものお返しなのではないかと、私は思ったのだ。



 よって私は意気込んで、レシピの本と共にキッチンへと向かったのだ。  







 そして、今に至るのだが。

 私は、深くため息をついた。

 クッキーを焼いたはずだった。しかし、出来上がったのは、歪な黒焦げの粉の塊。

 思い至る節は、幾つかある。



 まず、薄力粉が何なのか、私は分からなかった。小麦粉なら、アイザックが使っているのを何度か見たことがある。しかし、薄力粉というラベルが付いた袋は見当たらない。

 だから、小麦粉以外の別の粉を使うことにしたのだ。



 また、私は、分量の測り方を知らなかった。グラムやリットルなどの複数の単位の区別がつかず、砂糖や塩、牛乳等の材料全てを大雑把に投入したのだ。



 さらに、オーブンで焼き上げている途中で、何度も様子を見るために扉を開けてしまった。



 これら以外でも、細かい所でミスを積み重ねたのだろう。結果、出来上がったのは悪霊の具現化の如き物体だ。



 私は再び、ため息をついた。



 クッキーが最も簡単だと本には書いてあったのに、それすらも完成させられなかった。その上、材料を幾つも無駄にしてしまった。



 そう考えると、お腹の中が煮え、全身を震わせたくなるような感覚に襲われた。



 これは、また。なんと懐かしい気持ちだろう。



 私は、自身に腹を立てているのだ。何も出来ない自分に、悔しくて憤っている。



 久々の怒りの感情を味わい、苛々しながら、しかし私は目の前の惨状に視線を向けた。



 出しっぱなしのボウルや泡だて器。粉まみれのテーブル。そして、出来損ないのクッキーの山。

 

 とにかく、片付けなければ。



 日光が、既に一日を終わりへと誘うオレンジ色になっている。アイザックが帰ってくる前にキッチンをきれいにしておかなければ、絶対に何があったか言及されるに違いない。



 そうなると、失敗したことを、言わなくてはならない。



 アイザックのがっかりした表情が想像出来る。と、胸がつきりと痛んだ。



 ────?



 この痛みは、何。



 どうして、彼をがっかりさせたくないと思うのだろうか。



 私はふと、思考のるつぼに迷い込む。



 この家から追い出されたくないから?確かに居心地は良いが、いや、違う。そんな、即物的なものではない。もっと何か根底の……。



 そんなことを、考えていた時だった。



「ガーネット様、ただいま戻りました。ここで何をされているのですか?」 

 

 あ、と気が付いた時には遅かった。



 振り返ると、やけににこにことしたアイザックが、キッチンの入り口に立っている。



「あ、えと。これは、その……」



 私は慌てて、せめて、とクッキーの乗った皿を背中に隠した。

 しかし、するりと近付いてきたアイザックに、いとも簡単に覗かれてしまう。



 私は、半ば諦めて、経緯を説明した。その間、彼の顔をみることが出来なかった。



「ガーネット様」

 

 説明を終えると、アイザックが私を呼んだ。それでも私は顔を上げられず、ごめんなさい、と呟くことしか出来ない。



 きっと失望された。どうしよう。

 

 どうしようもなく悲しい気分になり、唇を噛みしめる。



 が、突然、アイザックの温かい手に、両頬を包まれた。



「ひゃっ!」



 驚いた私は、思わず正面を向いてしまった。

 アイザックの視線とぶつかる。



 彼は、穏やかな笑みを浮かべていた。



「謝らなくていいんですよ、ガーネット様。わたくしは、ガーネット様が、自ら進んで挑戦してくれたこと自体に喜びを感じます」



 ぐぅ、と喉の奥が痛んだ。涙が、じわりと浮かんでくる。



「でも、アイザックに、何か出来るって証明したくて」



 私は、震える声を無理やり絞り出した。



 アイザックは分かっている、というように一度、頷く。そして、続けた。



「出来ているじゃないですか。世界に興味を持つようになった。心が動くようになった。そして何より、わたくしの側で、生きてくれている。これ以上大事なことが、おありでしょうか?」



 ──ああ、分かった。

 どうしてアイザックをがっかりさせたくなかったのか。アイザックに失望されたくなかったのか。



 彼の優しさを、失いたくなかったのだ。



「それにほら、」

 

 アイザックは皿から真っ黒のクッキーをヒョイ、とつまみ上げると、



「あ、」



 止める間もなく、一口、かじった。

 あたふたする私の目の前で、彼はクッキーをもぐもぐと咀嚼し、飲み込む。それから、にっこりと笑った。



「愛情がたっぷりで、美味しいです」



 アイジョウ。

 そんなものを入れた覚えは無いが、アイザックの笑顔に、私は心の底から安心した。



 その瞬間、ほろりと涙が一粒溢れてしまった。それを誤魔化すように、私は強く首を縦に振ったのだった。



「ええ……!」

 









 その週末のことだった。アイザックが、こんなことを言い出した。



「ガーネット様。明日の晩、舞踏会に参加しませんか?」



 と。