私には、何もない。
優しい家族も、友人も、そして感情すらも──。
私、ガーネットは、クロム王国の辺境伯、ローザン家の一人娘としてこの世に生を受けた。きっと、神に祝福されて、生まれ落ちたに違いない。
でも、その後の扱いは酷いもの。
「笑うな!お前のおぞましい笑顔など、目にしたくない!」
2歳の時の、唯一の父親との関わり。
「泣かないで!あなたの泣き顔なんて、見たくないわ!」
3歳の時の、唯一の母親との会話。
「手間を掛けさせないで欲しいわ……。あなたに尽くしても、報酬は貰えないもの」
4歳の時の、唯一のメイド長とのやりとり。
こうして幼い私は、感情を表にすることも、誰かに頼ることも禁じられた。
何故こんなにも疎まれているのか。そんな疑問すら、沸き起こらなかった。
幼い私は、これが当たり前のことだと、思い込んでいた。
そして5歳の時。
「ここが、おまえの部屋だ」
仏頂面の父親に連れられたのは、屋敷の最上階の一番奥にある、小さな部屋。
家具は、隅にあるぼろぼろのベッドと、中央に置かれた、一脚の椅子のみ。
その椅子は、小窓から差し込む日光にぼんやりと照らされていて、なんだか寂しそうに見えた。
「今日から食事や勉強の時間以外は、ここで過ごすように」
父親が口を開いた。
父親から、生まれて初めてモノを貰った。その事が私はとても嬉しくて、思わず飛び跳ねそうになった。
が、
「本当はお前に教育を施すのも、この部屋を与えるのも屈辱なのだがな。体裁というものが存在するのが忌々しい」
父親が続けた言葉に、身体が硬直する。
いけない。感情を表に出しては。
そう必死に自分に言い聞かせ、胸の痛みにも気付かないふりをする。
そうしないと、涙が零れそうだったから。
父親を怒らせてはならない。私のせいで、気持ちを煩わさせてはいけない。
私は一切の感情を押し殺し、椅子に腰掛けた。
木製の座面は、とても冷えていた。
そして、私は十八歳になった。
相変わらず、食事と勉強以外の時間は、部屋で椅子に座って過ごしている。
変わったのは、身長や黒い髪が伸びたことと、そして、感情を『押し殺す』ことが無くなったこと。
昔は、喜びや悲しみを顕にしないようにと堪えることが多かったが、今ではそんな気持ち自体が起こらなくなった。
ただ無表情で、一日中椅子に座り続ける私を、使用人たちは蔑称としてこう呼ぶ。
人形姫、と。
私自身も、理解している。
人生において、何の楽しみも、興味も、欲しいものも、何一つとしてない。あまつさえ、感情すら失った。
ただ呼吸をし、食事をし、最低限の知識を得るだけで、私の一生は終わっていくのだろう。
でも、それで良いのだ。
それが最も、周囲の人を不快にしない方法なのだ。
だから、私はこのままこうして、椅子に座っていよう。
私は、人形姫なのだから。
でも。
ある、春の陽射しが温かく振り注ぐ朝だった。
私の運命を大きく変えたのだとしたら。
きっとこの日が、そうなのだろう。
「おはようございます、皆様。わたくし、アイザックと申します」
家族や使用人が一同に集うダイニングルームで、見知らぬ美青年がにっこりと微笑んでいた。
ローザン伯爵家は、クロム王国の端に位置する。隣国、カーノヴォン連合国との境界付近ということもあり、来客はほとんどない。
故に、人手の過不足も滅多に起きない。ローザン家に仕える使用人の顔ぶれが変わったことは、ガーネットが記憶する限り一度もなかった。
だから、本当に、珍しい。
「初めまして。わたくし、アイザックと申します。本日から執事として、この屋敷に勤めることになりました。よろしくお願いします」
優雅にお辞儀をするこの青年が、新しい使用人であることに。
さら、と揺れる金髪。柔らかく弧を描く目は、湖の様な静かな蒼色。そして、すらりとした体躯と小さな頭。美しい、と形容するしか無いその男の登場に、女性の使用人はおろか、母親まで頬を赤くして見惚れている。
何故、こんな人が、こんな辺鄙な所に。
私は不思議だった。
これだけ器量が良くて所作も完璧なら、わざわざこの家に勤めなくても、働く場所は山程あるに違いないからだ。
だが、私はそれ以上考えることはしなかった。
彼について思考を巡らせても仕方がない。なぜなら、彼と関わることは、今後ないのだから。
そう結論付け、私は朝食に手を付けるべく、席に着こうとした。
その時だ。
「ガーネット様、わたくしが」
すっと、アイザックが近付き、私が座れるようにわざわざ椅子を引いてくれたのだ。
そんなことを人生で初めてされたので、私は反応に困る。
この場合、どうするべきなのだろう。素直に腰掛けるべき?それとも、拒否をするべきなのだろうか。
さっ、と父親と母親、そしてアイザックの表情を伺う。父親は無関心を貫き、母親は腹立たしげにこちらを見ていて、アイザックは柔らかく微笑んでいる。
遠慮する、というのを第一に考えたが、私がここで彼を拒否すると、アイザックは母親の椅子を引かないかもしれない。それは、さらに母親の機嫌を損ねることになるだろう。
ということで。
「……ありがとうございます」
私は大人しく、引かれた椅子に腰掛けた。
しかし、アイザックの突飛な行動は、これだけでは終わらなかった。
恭しく私に頭を下げたかと思えば、にっこり笑って、こんなことを口にする。
「ガーネット様、ですね。わたくし、ガーネット様にお会いするのを楽しみにしておりました。」
アイザックはただのリップサービスのつもりなのだろうが、私は、戸惑うばかりだ。
誰かと必要以上の会話をしたことがないから、何と返せば良いか分からない。それに、そのせいで余計な感情を抱くのも面倒だ。
「……ええ」
結局、適当に返事をする。
しかし、アイザックは、
「申し訳ございません。馴れ馴れしすぎましたか……?以後気を付けますね」
と、眉を下げるのだ。
今は何も知らないから、私にも優しく接してくれるのだろう。が、いずれは他の使用人と同様、私のことなど煩わしく感じるようになる。
だからきっと、アイザックとのこんな関わりは、これが最後だ。
「……ええ」
私は、彼の捨てられた子犬のような表情から目を逸らし、朝食を始めた。
だが。
アイザックは次も、その次の日も、私に声を掛けてきた。
「おはようございます。ガーネット様」



