桜のような恋でした

一年後の春、桜坂の家は小さな公開日を迎えていた。

正門の横に控えめな案内板が立ち、
「桜坂の家 春季公開」
とだけ記されている。
保存されたのは、庭の桜と縁側、それから一室分の資料室だけ。
けれどその小ささが、かえってこの家らしいと凛は思う。

全部を残すことはできなかった。
けれど、何もなかったことにもさせなかった。

資料室には、大正の写真帳、昭和の仕立帳、平成のフォトブックの複製が並ぶ。
原本は適切に保管し、見せるべきものだけを静かに展示する形式にした。
説明文も必要最小限だ。
誰が誰に何を言えなかったのかまでは書かない。
ただ、この家で暮らした人たちがいて、それぞれの春があったことだけが伝わればいい。

凛はその展示の監修に関わることになった。
金沢の話は、最終的に辞退した。
代わりに、文化保存課と連携した地域資料アーカイブの契約職を受け、東京近郊に残った。
最初からその道が見えていたわけではない。
でも、いちど手を伸ばしてしまったものを、自分の意志で残す仕事がしたかった。

榊の異動も、結局見直しが通った。
完全に希望通りというわけではないが、少なくとも今年いっぱいはこのプロジェクトに関われることになった。

春の公開初日、資料室には思ったより人が来た。
近所の人、昔を知るらしい年配の夫婦、大学生、写真好きの若い子。
みな、庭の桜を見て、古い家を見て、小さな展示を静かに読んでいく。
その流れの中にいると、過去の誰かたちが、ようやく少しだけ報われるような気がした。

昼過ぎ、ひと段落ついたところで、凛は縁側へ腰を下ろした。
庭の桜は満開だった。
去年と同じ木なのに、去年より少し近い。

「休憩してます?」

後ろから榊の声がする。
振り向くと、紙コップを二つ持っていた。

「五分だけ」
「はい、五分だけ」

そう言って隣に座る。
去年と同じ縁側。
同じ桜。
違うのは、今年はもう、次の春まで待つ必要がないことだ。

凛は紙コップを受け取りながら言う。

「今日は忙しいですね」
「予想以上でした」
「嬉しい誤算」
「ですね」

風が吹く。
花びらが一枚、二人のあいだへ落ちた。

資料室には展示しなかったものが一つだけある。
銀の栞だ。

あれは今、凛の手元にある文庫本へ挟まっている。
展示ケースの中へ置くには、少しだけ生きすぎていると思ったから。
誰かの待つ言葉ではなく、今の時間の中で使いたかった。

「そういえば」

榊が言う。

「最初に見つけたときから、あの栞だけは展示しないと思ってました」
「わかるんですか」
「少し」
「勝手に読まないでください」
「読んでません。たぶん、そうだろうと思っただけです」
「たぶん、便利ですね」
「便利です」

凛は笑う。

それから、庭を見たまま静かに言った。

「ねえ」
「はい」
「去年、門を開けたとき」
「はい」
「ここへ帰ってくるのが遅すぎたみたいだと思ったんです」
「……俺もです」
「やっぱり」
「はい」

それ以上の説明は要らない。
前世の記憶なんてない。
答え合わせもない。
ただ、同じ春に、同じように遅かったと思った二人が、今年はもう隣にいる。

凛は膝の上の文庫本を開いた。
頁のあいだから銀の栞がのぞく。
花びらの形、細い鎖、白い石。
裏の文字は、相変わらず小さくそこにある。

また春に

その言葉は、もう別れの約束ではなくなった。
来年も、その次の春も、ただ一緒に迎える季節の名前になった。

「榊さん」
「はい」
「来年も、ここで公開やりましょう」
「もちろん」
「再来年も」
「はい」
「その次も」
「できるだけ」

凛はふっと笑う。

「今度はちゃんと、毎年にしましょう」
「ええ」

桜が揺れる。
花びらが舞う。
去年はその散り際が怖かった。
けれど今は、散ることさえ次の春へ続いているのだと知っている。

ずっと昔から、春になるたび、誰かを探していた気がする。

けれど今年は違う。
もう探さなくていい。
隣にいるから。

それは、桜のような恋でした。
幾度も咲いて、幾度も散って、それでも今年やっと、散る前に手を取れた恋でした。