桜のような恋でした

「……嫌?」
「はい」
「どうして」
「それを、俺だけの仕事にしたくないので」

その答えは卑怯だった。
仕事の話みたいに聞こえるのに、そうではないことがわかってしまう。

凛は唇を結ぶ。
榊のほうも、言いすぎたと思ったのか視線を落とした。
けれどもう遅い。
言葉は出てしまったあとだ。

「榊さんは、行くんでしょう」

気づけば責めるみたいな言い方になっていた。

「長崎」
「行きます」
「じゃあ」
「でも」

榊がこちらを見る。
これまででいちばん、迷いのない目だった。

「行くことと、黙って手放すことは別です」

凛は返せなかった。

その日の夜、凛は家へ戻ってからも落ち着かなかった。
金沢の雇用条件のメールを何度も開き、閉じる。
学芸員としての仕事は魅力的だ。
ずっと求めていた場所に近い。
けれど、今になってその「ずっと」が少し変わってしまった気がする。

自分は何を求めていたのだろう。
遠くへ行くことか。
好きな仕事をすることか。
何かを残す側に回ることか。
それとも、隣にいてほしい人のいる場所で生きることか。

答えは簡単ではない。
けれど、少なくとももう、何も失わずには選べない。

数日後、桜坂の家の最終確認の日が来た。

取り壊し前に残す部分の範囲を決め、搬出するものと残すものの札を貼る。
庭の桜は満開を過ぎ、風が吹くたび花が散る。
明るい昼のうちは淡い春そのものみたいなのに、夕方が近づくにつれて、散り際の匂いが濃くなる。

作業が終わったのは、日がかなり傾いてからだった。
他の担当者たちは先に帰り、家には凛と榊だけが残る。

縁側に腰を下ろすと、庭じゅうに花びらが落ちていた。
石畳にも、踏み石の隙間にも、濡れた土の上にも。
散る桜は、満開のときよりもずっと現実味がある。

「終わりましたね」

凛が言うと、榊が小さく頷く。

「はい」
「でも終わってない」
「そうですね」
「残るから」
「ええ」

そのあとはしばらく、二人とも何も話さなかった。

風が吹く。
花びらが縁側へ流れこんでくる。
その一枚が、凛の膝に落ちた。

昔の人たちも、こうして花の散る気配を見ていたのだろうか。
紗代も。
春も。
由芽も。
みんな、この一枚を取りこぼす前に何か言えたなら、少しは違ったのだろうか。

「榊さん」

凛は膝の上の花びらを見たまま言った。

「もし、また春になったら」

そこまで言ったところで、隣の気配が動いた。

「その言い方」

榊の声が、ひどく近い。

凛が顔を上げると、榊はもうこちらを見ていた。
静かな人だと思っていた。
感情をあまり表へ出さない人だと思っていた。
けれど今の目だけは違う。
ひどく強く、ひどく切実で、少し怒っているようにも見えた。

「その言い方、やめてください」

凛は息を止める。

「どうして」
「また春に、じゃなくて」

榊は一度だけ目を伏せ、それから言った。

「今、あなたが好きだ」

世界が、急に音を失う。

風の音も、葉擦れも、遠くの車の音も、いったん全部消えたみたいだった。
好きだ、という言葉だけが、遅れて胸の奥へ落ちていく。

「次の春を待って、また何も言わないまま終わるのが嫌です」
「……榊さん」
「金沢へ行くなら止められない。俺も長崎へ行くかもしれない。仕事もあるし、生活もある。だから簡単な話じゃないのはわかってます」
「……うん」
「でも、それと、何も言わずに離れるのは違う」

凛は何も言えない。
言えないのに、胸の奥で何かがほどけていくのがわかる。
ずっと焦っていた。
でも何に対してか、認めないふりをしていた。
次の春に。
落ち着いたら。
今決めなくても。
そうやって先へ延ばして、たぶん平気な顔をしたまま別れてしまうのが、いちばん怖かったのだ。

「俺は」

榊の声が少しだけ掠れる。

「たぶん最初にここへ来た日から、あなたに対して変でした」
「変って」
「初対面のはずなのに、遅かったと思った」

凛の目が見開く。
同じだ、と思った。
自分も門に手をかけた瞬間、ここへ帰ってくるのが遅すぎたみたいだと思った。

「この家のことも、資料も、もちろん大事です。でも」

榊はまっすぐ凛を見る。

「あなたがいなくなるのが、嫌です」

それ以上は要らなかった。

凛はふいに、笑いそうになる。
泣きそうでもある。
どちらも本当だった。

「ずるいです」

声にすると少し震えた。

「何がですか」
「そういうこと、先に言うの」
「先に言わないと、あなたはまた春にって言うので」
「言うつもりでした」
「知ってます」

凛はとうとう笑った。
泣きながら笑うみたいな、どうしようもない笑いだった。

「私だって」

やっと言葉が出る。

「私だって、嫌です」
「はい」
「この家だけ残して、全部終わったみたいになるの」
「はい」
「榊さんがいなくなるのも、嫌」

言い切った瞬間、胸の奥の何かがすっと定まる。
ああ、自分はこれを認めたかったのだと思う。
仕事のことも、家のことも、大事だ。
でもそれとは別に、この人を失いたくない。

榊が、ひどく静かな顔で息を吐いた。
それからようやく、少しだけ笑う。

「よかった」
「何が」
「片思いではなかったので」
「……いま確認したんですけど」
「十分です」

凛は膝の上の花びらを見下ろした。
散る前に触れたら壊れてしまいそうな薄さなのに、指先へ乗せるとたしかにここにある。

「金沢」

榊が言う。

「行きたいなら、行ったほうがいいです」
「うん」
「でも、行く前提で諦めるのは、違うと思う」
「うん」
「俺も、異動の希望を出し直します。通るかわからないけど」
「そんなこと、できるの」
「最後まで粘るくらいは」
「……仕事、好きなんですよね」
「好きです」
「私も」
「知ってます」

凛は少し考え、それから言った。

「金沢の返事、少し待ってもらいます」
「はい」
「この家の資料整理と公開計画、ちゃんと形にしたい」
「はい」
「それと」
「はい」
「離れたとしても、終わりにしない」

榊は目を細めた。
その表情は初めて見るのに、なぜかずっと前から知っていたみたいに安心した。

「それなら」

彼が言う。

「今度は間に合います」

凛はその言葉に、少しだけ目を見張る。
どうして彼がそんな言い方をしたのか、たぶん本人にも説明できないだろう。
けれど不思議と、凛にはよくわかった。

間に合わなかった春が、この家にはたくさんあった。
だから今度だけは、そうしない。

凛はそっと手を伸ばした。
榊も同じように手を出す。
触れた指先は、思ったよりも温かい。

散る桜の下で、ようやく手を取る。

それは遅すぎた告白ではなかった。
たぶん、やっと間に合った春だった。