四月に入ると、桜坂の家の庭は一気に花を開いた。
凛は仕事のあとに家へ寄ることが増えた。
最初は片づけのためだったはずが、今ではもう半分以上、桜と、家と、その中に積もった時間を見に来ている気がする。
榊もほぼ毎日いる。
書類をまとめ、写真を撮り、時々はパソコンを開いて記録を入力している。
ある晩、気づけば榊が夕方からずっと何も食べていないことに気づいた。
「お昼、食べました?」
「……たぶん」
「たぶん、って」
「忘れました」
あまりにも普通に言うので、凛は呆れる。
冷蔵庫には祖母が最後に使っていた調味料と、最近凛が持ち込んだ最低限の食材しかない。
それでも米はあるし、卵もある。
「ちょっと待っててください」
台所へ立つと、榊が後ろから言う。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないです。顔色悪いので」
「そこまででは」
「そこまでです」
自分でも驚くくらい、言い切っていた。
卵雑炊しかできなかったが、湯気の立つ器を前にすると榊は少しだけ困った顔をした。
「すみません」
「そういうときだけ素直なんですね」
「反省しています」
「してる顔には見えません」
「してます」
そんなやりとりをしながら、二人で台所の小さな卓を挟んで座る。
古い家の夜は、灯りの届く範囲だけが世界みたいに見える。
外では風に花が揺れていた。
「雨宮さんも、よく来ますね」
雑炊を食べ終えたあとで、榊が言った。
「私の家でもありますから」
「そうですね」
「……でも、最初は早く終わらせたかったんです」
正直に言うと、榊は頷いた。
「今は?」
「まだ、わかりません」
「壊すのが惜しくなりましたか」
「惜しい、というより」
凛は少し考える。
「放っておくのが嫌、かもしれません」
「放っておくのが」
「このままなかったことみたいに壊して、終わりにするのが」
「……そうですか」
榊はそれ以上踏み込まなかった。
けれどその沈黙は、どこか安堵しているようにも見えた。
何日かあと、凛のもとへ一本の電話が入った。
金沢の小さな美術館からだった。
以前応募していた学芸員枠の採用について、正式な打診をしたいという内容。
条件は悪くない。
むしろかなりいい。
東京を離れることにはなるが、ずっとやりたかった仕事に近い。
電話を切ったあと、凛はしばらくスマートフォンを見つめていた。
うれしいはずなのに、すぐには何も感じない。
その夜、桜坂の家へ行くか迷って、結局行った。
榊は縁側で資料を読んでいた。
凛の顔を見ると、なぜかすぐに気づいたらしい。
「何かありましたか」
「顔に出てます?」
「少し」
凛は苦笑する。
「仕事の話です」
「転職?」
「まだ決めてませんけど」
「そうですか」
そこで終わると思ったのに、榊は珍しく少し間を置いてから訊いた。
「どこへ」
「金沢です」
「遠いですね」
「そうですね」
たったそれだけの会話なのに、妙に空気が変わる。
榊は資料へ視線を戻したが、その手元がほんの少しだけ止まっているのを、凛は見逃さなかった。
「榊さんは」
なぜか、自分も訊き返したくなった。
「異動とか、ないんですか」
今度は榊が黙る番だった。
数秒後、ごく小さく息を吐く。
「あります」
「え」
「五月から、別の自治体へ。まだ正式発表前ですが」
「……どこへ」
「長崎です」
金沢よりずっと遠い。
そう思った瞬間、凛は笑いそうになった。
この家で、どうしてこう、皆そろって遠くへ行こうとするのだろう。
「言わなかったんですね」
「聞かれなかったので」
「聞けば答えるつもりだったんですか」
「たぶん」
たぶん。
その曖昧さが妙に腹立たしかった。
「そういうところ、よくないと思います」
「すみません」
「またそれですか」
「……すみません」
凛は思わず吹き出しそうになる。
けれど笑えなかった。
笑ってしまえば、胸の奥の焦りまで軽くなってしまいそうだったからだ。
その日の帰り際、玄関で靴を履きながら、凛は何気ないふりをして言った。
「また春になったら、この家のこと思い出すんでしょうね」
言った瞬間、自分で少し驚く。
どうしてそんな言い方をしたのか。
来年の春の話なんて、まだ何も決まっていないのに。
榊の手が止まった。
振り返る。
静かな目が、まっすぐ凛を見ている。
けれどその中にだけ、今まで見たことのない揺れがあった。
「……そうですね」
答えた声は、いつもより少し低かった。
凛はそれ以上何も言えず、玄関を出た。
門を閉めるとき、庭の桜から一枚だけ花びらが落ちるのが見えた。
次の春。
また春に。
そうやって先へ延ばしてしまう言葉ばかりが、この家には残っている。
そのことが、なぜだか急に怖くなった。
第九章 春を待たない
桜が満開を過ぎるころには、桜坂の家の取り壊し日程もほぼ決まっていた。
完全に更地にするのではなく、庭の桜と縁側の一部、それから一室だけを資料室として残せないか。
榊はそう提案し、上司や所有者側と掛け合ってくれていた。
凛も相続関係の書類を揃え、保存に必要な条件を確認し、気づけば完全に当事者になっていた。
最初は終わらせるために来ていたのに、今は残すために動いている。
変わったのは家だけではない。
榊と会うのも、もはや特別なことではなくなっていた。
鍵を開ける音がして、ああ来たのだと思う。
台所から湯の音がすれば、今日もいるのだとわかる。
遅い時間になれば、何か食べたか気になる。
そんな日常めいたことが、いつの間にか増えすぎていた。
だからこそ、五月という言葉が近づくたびに、胸の奥が落ち着かない。
金沢からの返事の期限も迫っていた。
榊の異動も、正式にはまだ出ていないとはいえ、ほぼ覆らないだろう。
ある夕方、凛は資料室として残す予定の一室で、由芽のフォトブックを整理していた。
ページの間に、一枚の小さなメモが挟まっているのに気づく。
紙は新しい。
平成の遺品にしては傷みが少ない。
開いてみると、たった一行だけ、丸い字で書いてあった。
帰ってきたら見せたい写真が、まだある。
宛名も署名もない。
出したのか、出していないのかもわからない。
凛はしばらくその紙を見つめていた。
何かいいものを見たとき、いちばん最初に見せたいと思う相手。
帰ってきたら見せたい写真。
この家には、最後の一歩だけ間に合わない言葉が本当に多い。
「雨宮さん」
廊下から榊の声がする。
振り向くと、襖の向こうに立っていた。
相変わらず静かな顔なのに、今日は少しだけ疲れて見えた。
「どうしました」
「役所と話がつきました」
「え」
「桜と資料室、残せます」
「本当に?」
凛は思わず立ち上がる。
榊は小さく頷いた。
「予算は最小限ですが。完全保存までは無理でも、春季だけ公開するかたちなら」
「……すごい」
「雨宮さんが協力してくれたからです」
「そんな」
「本当です」
あまりにもまっすぐ言われて、凛は少しだけ目を逸らす。
うれしい。
それと同時に、苦しい。
残るものが決まるほど、自分たちのほうが残れないかもしれない現実がはっきりするからだ。
「榊さん」
「はい」
「もし私が、金沢へ行ったら」
「はい」
「この家のこと、お願いします」
言ってから、ひどくつまらない頼み方だと思った。
お願いします、ではない。
本当に言いたいのは別のことだ。
けれど榊は、すぐには返事をしなかった。
長い沈黙のあとで、ようやく言う。
「嫌です」
凛は息をのんだ。
凛は仕事のあとに家へ寄ることが増えた。
最初は片づけのためだったはずが、今ではもう半分以上、桜と、家と、その中に積もった時間を見に来ている気がする。
榊もほぼ毎日いる。
書類をまとめ、写真を撮り、時々はパソコンを開いて記録を入力している。
ある晩、気づけば榊が夕方からずっと何も食べていないことに気づいた。
「お昼、食べました?」
「……たぶん」
「たぶん、って」
「忘れました」
あまりにも普通に言うので、凛は呆れる。
冷蔵庫には祖母が最後に使っていた調味料と、最近凛が持ち込んだ最低限の食材しかない。
それでも米はあるし、卵もある。
「ちょっと待っててください」
台所へ立つと、榊が後ろから言う。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないです。顔色悪いので」
「そこまででは」
「そこまでです」
自分でも驚くくらい、言い切っていた。
卵雑炊しかできなかったが、湯気の立つ器を前にすると榊は少しだけ困った顔をした。
「すみません」
「そういうときだけ素直なんですね」
「反省しています」
「してる顔には見えません」
「してます」
そんなやりとりをしながら、二人で台所の小さな卓を挟んで座る。
古い家の夜は、灯りの届く範囲だけが世界みたいに見える。
外では風に花が揺れていた。
「雨宮さんも、よく来ますね」
雑炊を食べ終えたあとで、榊が言った。
「私の家でもありますから」
「そうですね」
「……でも、最初は早く終わらせたかったんです」
正直に言うと、榊は頷いた。
「今は?」
「まだ、わかりません」
「壊すのが惜しくなりましたか」
「惜しい、というより」
凛は少し考える。
「放っておくのが嫌、かもしれません」
「放っておくのが」
「このままなかったことみたいに壊して、終わりにするのが」
「……そうですか」
榊はそれ以上踏み込まなかった。
けれどその沈黙は、どこか安堵しているようにも見えた。
何日かあと、凛のもとへ一本の電話が入った。
金沢の小さな美術館からだった。
以前応募していた学芸員枠の採用について、正式な打診をしたいという内容。
条件は悪くない。
むしろかなりいい。
東京を離れることにはなるが、ずっとやりたかった仕事に近い。
電話を切ったあと、凛はしばらくスマートフォンを見つめていた。
うれしいはずなのに、すぐには何も感じない。
その夜、桜坂の家へ行くか迷って、結局行った。
榊は縁側で資料を読んでいた。
凛の顔を見ると、なぜかすぐに気づいたらしい。
「何かありましたか」
「顔に出てます?」
「少し」
凛は苦笑する。
「仕事の話です」
「転職?」
「まだ決めてませんけど」
「そうですか」
そこで終わると思ったのに、榊は珍しく少し間を置いてから訊いた。
「どこへ」
「金沢です」
「遠いですね」
「そうですね」
たったそれだけの会話なのに、妙に空気が変わる。
榊は資料へ視線を戻したが、その手元がほんの少しだけ止まっているのを、凛は見逃さなかった。
「榊さんは」
なぜか、自分も訊き返したくなった。
「異動とか、ないんですか」
今度は榊が黙る番だった。
数秒後、ごく小さく息を吐く。
「あります」
「え」
「五月から、別の自治体へ。まだ正式発表前ですが」
「……どこへ」
「長崎です」
金沢よりずっと遠い。
そう思った瞬間、凛は笑いそうになった。
この家で、どうしてこう、皆そろって遠くへ行こうとするのだろう。
「言わなかったんですね」
「聞かれなかったので」
「聞けば答えるつもりだったんですか」
「たぶん」
たぶん。
その曖昧さが妙に腹立たしかった。
「そういうところ、よくないと思います」
「すみません」
「またそれですか」
「……すみません」
凛は思わず吹き出しそうになる。
けれど笑えなかった。
笑ってしまえば、胸の奥の焦りまで軽くなってしまいそうだったからだ。
その日の帰り際、玄関で靴を履きながら、凛は何気ないふりをして言った。
「また春になったら、この家のこと思い出すんでしょうね」
言った瞬間、自分で少し驚く。
どうしてそんな言い方をしたのか。
来年の春の話なんて、まだ何も決まっていないのに。
榊の手が止まった。
振り返る。
静かな目が、まっすぐ凛を見ている。
けれどその中にだけ、今まで見たことのない揺れがあった。
「……そうですね」
答えた声は、いつもより少し低かった。
凛はそれ以上何も言えず、玄関を出た。
門を閉めるとき、庭の桜から一枚だけ花びらが落ちるのが見えた。
次の春。
また春に。
そうやって先へ延ばしてしまう言葉ばかりが、この家には残っている。
そのことが、なぜだか急に怖くなった。
第九章 春を待たない
桜が満開を過ぎるころには、桜坂の家の取り壊し日程もほぼ決まっていた。
完全に更地にするのではなく、庭の桜と縁側の一部、それから一室だけを資料室として残せないか。
榊はそう提案し、上司や所有者側と掛け合ってくれていた。
凛も相続関係の書類を揃え、保存に必要な条件を確認し、気づけば完全に当事者になっていた。
最初は終わらせるために来ていたのに、今は残すために動いている。
変わったのは家だけではない。
榊と会うのも、もはや特別なことではなくなっていた。
鍵を開ける音がして、ああ来たのだと思う。
台所から湯の音がすれば、今日もいるのだとわかる。
遅い時間になれば、何か食べたか気になる。
そんな日常めいたことが、いつの間にか増えすぎていた。
だからこそ、五月という言葉が近づくたびに、胸の奥が落ち着かない。
金沢からの返事の期限も迫っていた。
榊の異動も、正式にはまだ出ていないとはいえ、ほぼ覆らないだろう。
ある夕方、凛は資料室として残す予定の一室で、由芽のフォトブックを整理していた。
ページの間に、一枚の小さなメモが挟まっているのに気づく。
紙は新しい。
平成の遺品にしては傷みが少ない。
開いてみると、たった一行だけ、丸い字で書いてあった。
帰ってきたら見せたい写真が、まだある。
宛名も署名もない。
出したのか、出していないのかもわからない。
凛はしばらくその紙を見つめていた。
何かいいものを見たとき、いちばん最初に見せたいと思う相手。
帰ってきたら見せたい写真。
この家には、最後の一歩だけ間に合わない言葉が本当に多い。
「雨宮さん」
廊下から榊の声がする。
振り向くと、襖の向こうに立っていた。
相変わらず静かな顔なのに、今日は少しだけ疲れて見えた。
「どうしました」
「役所と話がつきました」
「え」
「桜と資料室、残せます」
「本当に?」
凛は思わず立ち上がる。
榊は小さく頷いた。
「予算は最小限ですが。完全保存までは無理でも、春季だけ公開するかたちなら」
「……すごい」
「雨宮さんが協力してくれたからです」
「そんな」
「本当です」
あまりにもまっすぐ言われて、凛は少しだけ目を逸らす。
うれしい。
それと同時に、苦しい。
残るものが決まるほど、自分たちのほうが残れないかもしれない現実がはっきりするからだ。
「榊さん」
「はい」
「もし私が、金沢へ行ったら」
「はい」
「この家のこと、お願いします」
言ってから、ひどくつまらない頼み方だと思った。
お願いします、ではない。
本当に言いたいのは別のことだ。
けれど榊は、すぐには返事をしなかった。
長い沈黙のあとで、ようやく言う。
「嫌です」
凛は息をのんだ。



