紗代宛ての手紙を読んだあと、凛はしばらく何も言えなかった。
便箋を封筒へ戻し、写真帳の上へそっと重ねる。
たった数行の手紙だったのに、指先にはまだ別の時代の熱が残っている気がした。
春になったら、今度こそ迎えに行く。
知らない人の約束だ。
会ったこともない兄妹の、間に合わなかった春の話だ。
そう思えばいいのに、胸の奥だけがその言葉を自分のことみたいに抱え込んで離さない。
「少し、休みますか」
榊が控えめに言った。
凛は顔を上げた。
さっきから彼の視線が、手紙ではなく自分へ向いていることに気づく。
「平気です」
言ってから、同じ返事を何度目だろうと思った。
榊はそれ以上は言わない。
ただ、写真帳を閉じる代わりに、畳の上へ一枚の紙を広げた。
簡単なメモだった。年代ごとに見つかったものを整理するための一覧らしい。
「今日は無理に読み進めなくていいので、まず分類だけしましょう」
「分類?」
「写真帳、書簡、家計簿、蔵書、裁縫関係、居住者不明の遺品。ざっくりそれで」
仕事の声だった。
静かで、一定で、こちらが息を整えやすい声。
凛は封筒をもう一度見下ろした。
朔と紗代。
大正十四年四月。
記録として見れば、それだけの情報だ。
けれど今は、それだけと思えない。
「……手伝います」
榊は小さく頷いた。
その日は結局、手紙の中身をそれ以上読まなかった。
代わりに、家中の棚や引き出しや押し入れから出てきたものを、時代ごとにゆるく分けていく。
古い家というのは不思議なもので、使う人がいなくなっても、暮らしの癖だけは隅々に残る。
文机の奥からは、大正期のものらしい和綴じの本が数冊。
居間の箪笥からは、昭和の帳面と端切れ。
二階の物入れからは、平成らしいプラスチックケースと、写真の入った封筒。
年代も用途もばらばらなのに、どれもみな、この家でいったん誰かの手を温めたことだけはわかる。
途中、榊が台所で湯を沸かし始めた。
やかんの音を聞きながら、凛は少しだけ肩の力を抜く。
「勝手に使ってすみません」
流し台のほうから声がする。
「お茶淹れるくらいなら、どうぞ」
「ありがとうございます」
そのあと少し間を置いて、
「ほうじ茶でよかったですか」
と訊かれた。
その言い方が妙に可笑しくて、凛は思わず息を漏らす。
家を資料として扱うように見えていた人が、こういうときだけやたらと生活に触れてくる。
「選べるんですか」
「たまたま見つけた缶が二つありました」
「じゃあ、ほうじ茶で」
「了解です」
しばらくして、湯呑が二つ運ばれてくる。
片方を受け取ると、掌がようやく自分の温度を取り戻した気がした。
「榊さん」
「はい」
「この家、やっぱり昔は別邸だったんでしょうか」
榊は湯呑を持ったまま、窓の向こうの桜を見た。
「たぶん。庭の造りと、写真帳にあった記録を見るかぎりは」
「じゃあ、大正の写真の人たちは……」
「当時の住人かもしれません。もしくは親族」
「朔と紗代」
「ええ」
名前を口にした瞬間、胸がまた少しだけざわつく。
榊も同じように感じているのかと思って見たが、彼は表情を変えなかった。
ただ、湯呑の縁へ視線を落としただけだった。
「調べれば、もう少しわかるかもしれません」
「調べるんですか」
「役所の古い台帳や土地の記録で、所有者の変遷くらいなら」
「そんなことまで」
「気になるので」
さらりと言われて、凛は一瞬言葉に詰まる。
仕事だからではなく、気になるので。
その率直さが、意外に思えた。
「榊さん、こういう家、よく見るんですか」
「よく、というほどでは」
「じゃあ、全部にそんなふうに……気になってるんですか」
「全部に、ではないです」
きっぱり言い切られると、なぜかそれ以上訊きづらい。
それでも凛は、湯気の向こうの横顔を見ながら思った。
この人はたぶん、気になるものだけは簡単に手放せない人だ。
翌日も、その次の日も、二人は桜坂の家で顔を合わせた。
文化保存課からの確認は、本来なら一日か二日で済む程度の作業だったらしい。
けれど見つかるものが思ったより多く、榊の上司も「資料化できるならしておきたい」と言い出したらしい。
凛にとっては、家を早く片づけてしまいたい気持ちと、もう少しだけ見ていたい気持ちの両方があった。
どちらが本音なのか、自分でもよくわからない。
三日目の午後、奥の和箪笥から一冊の大学ノートが出てきた。
表紙に「昭和三十八年 仕立帳」とある。
中は布の種類や寸法の控えで埋まっていたが、後半になるにつれ文字が乱れ、数字の横に何度も計算し直した跡が残っている。
最後の頁にだけ、ぽつんと一行。
春 入学金
教科書代
下宿初月
それを見た瞬間、凛はノートを持つ手に力を入れた。
昭和の章で見た、母と娘の名が胸に浮かぶ。
もちろん現実には、その話を知っているはずがない。
けれどこの家の中にいると、見つかるものの順番まで、こちらの知らない感情に導かれている気がした。
「どうしました」
榊が隣へ来る。
凛はノートを差し出した。
「これ、たぶん」
「ええ」
榊が頁を見て、小さく頷く。
「仕立ての帳面ですね」
「最後だけ、急に」
「進学費用、でしょうか」
「……たぶん」
その夜、凛は帰宅してもなんとなく落ち着かなかった。
スマートフォンを見ても上の空で、夕飯も簡単に済ませ、結局また紗代の手紙のことを思い出す。
そして昭和の帳面の最後の頁を思う。
誰かが、自分の手元の小さな数字を積み上げて、別の誰かを遠くへ送り出そうとした痕跡。
祖母の家だと思っていた。
けれど桜坂の家は、もっとずっと前から、誰かの「待つ」と「送る」が積もってできている家なのかもしれない。
その週の終わりごろ、今度は二階の押し入れから平成のアルバムが見つかった。
市販のフォトブックだった。
表紙には英字で簡単なタイトルが入っている。
Spring House
真帆が作ったものだと、凛はなぜだか直感した。
一頁目には、縁側に座る学生たち。
二頁目には、台所で笑っている女の子たち。
三頁目には、庭の桜。
そして四頁目で、凛の指先が止まる。
若い女の子が一人、縁側に座って文庫本を読んでいる写真だった。
風が吹いて髪が揺れ、伏せた目元がどこか寂しそうで、でもやわらかい。
「……きれい」
思わず呟く。
榊が少し覗き込むようにして隣へ来た。
「この人が」
「由芽、でしょうか」
「たぶん」
写真の余白に、小さな文字で日付が入っている。
二〇一〇年四月。
その次の頁には、同じ子が笑っている写真。
台所で鍋をよそっている写真。
駅のホームらしい場所で、こちらに振り返った横顔。
最後の頁だけ、写真ではなく短い文章になっていた。
何かいいものを見たとき、
いちばん最初に見せたいと思う相手がいることは、
たぶんとても幸せなことだ。
名前はない。
けれどそれが誰へ向けた言葉か、凛にもわかった。
「これも、出せなかったんでしょうか」
気づけば訊いていた。
榊はしばらくその文章を見つめていたが、やがて静かに答える。
「出したのかもしれませんし、出さなかったのかもしれません」
「曖昧ですね」
「そういうもののほうが、案外残るので」
凛はページを閉じた。
その言い方が、事実を言っているだけなのに妙に胸へ染みた。
言えなかったこと。
渡せなかったもの。
間に合わなかった約束。
そういうものばかりが、この家には残っている。
「嫌な家ですね」
ぽつりと言うと、榊は意外そうに凛を見た。
「嫌?」
「だって、どれもこれも、惜しいところで終わってる」
「……たしかに」
「今さら見つかっても、本人たちはもういないし」
「はい」
「誰にも届かなかった気持ちばっかり、きれいに残ってる」
そこまで言って、凛は息を吐いた。
ただ家に八つ当たりしているだけだと思った。
けれど榊は否定しなかった。
代わりに、窓の外の桜を見ながら言う。
「それでも残ったから、今ここにあるんでしょうね」
「慰めですか」
「いえ。事実として」
その声にはいつもの温度しかなかったのに、凛の胸は少しだけ静かになった。
便箋を封筒へ戻し、写真帳の上へそっと重ねる。
たった数行の手紙だったのに、指先にはまだ別の時代の熱が残っている気がした。
春になったら、今度こそ迎えに行く。
知らない人の約束だ。
会ったこともない兄妹の、間に合わなかった春の話だ。
そう思えばいいのに、胸の奥だけがその言葉を自分のことみたいに抱え込んで離さない。
「少し、休みますか」
榊が控えめに言った。
凛は顔を上げた。
さっきから彼の視線が、手紙ではなく自分へ向いていることに気づく。
「平気です」
言ってから、同じ返事を何度目だろうと思った。
榊はそれ以上は言わない。
ただ、写真帳を閉じる代わりに、畳の上へ一枚の紙を広げた。
簡単なメモだった。年代ごとに見つかったものを整理するための一覧らしい。
「今日は無理に読み進めなくていいので、まず分類だけしましょう」
「分類?」
「写真帳、書簡、家計簿、蔵書、裁縫関係、居住者不明の遺品。ざっくりそれで」
仕事の声だった。
静かで、一定で、こちらが息を整えやすい声。
凛は封筒をもう一度見下ろした。
朔と紗代。
大正十四年四月。
記録として見れば、それだけの情報だ。
けれど今は、それだけと思えない。
「……手伝います」
榊は小さく頷いた。
その日は結局、手紙の中身をそれ以上読まなかった。
代わりに、家中の棚や引き出しや押し入れから出てきたものを、時代ごとにゆるく分けていく。
古い家というのは不思議なもので、使う人がいなくなっても、暮らしの癖だけは隅々に残る。
文机の奥からは、大正期のものらしい和綴じの本が数冊。
居間の箪笥からは、昭和の帳面と端切れ。
二階の物入れからは、平成らしいプラスチックケースと、写真の入った封筒。
年代も用途もばらばらなのに、どれもみな、この家でいったん誰かの手を温めたことだけはわかる。
途中、榊が台所で湯を沸かし始めた。
やかんの音を聞きながら、凛は少しだけ肩の力を抜く。
「勝手に使ってすみません」
流し台のほうから声がする。
「お茶淹れるくらいなら、どうぞ」
「ありがとうございます」
そのあと少し間を置いて、
「ほうじ茶でよかったですか」
と訊かれた。
その言い方が妙に可笑しくて、凛は思わず息を漏らす。
家を資料として扱うように見えていた人が、こういうときだけやたらと生活に触れてくる。
「選べるんですか」
「たまたま見つけた缶が二つありました」
「じゃあ、ほうじ茶で」
「了解です」
しばらくして、湯呑が二つ運ばれてくる。
片方を受け取ると、掌がようやく自分の温度を取り戻した気がした。
「榊さん」
「はい」
「この家、やっぱり昔は別邸だったんでしょうか」
榊は湯呑を持ったまま、窓の向こうの桜を見た。
「たぶん。庭の造りと、写真帳にあった記録を見るかぎりは」
「じゃあ、大正の写真の人たちは……」
「当時の住人かもしれません。もしくは親族」
「朔と紗代」
「ええ」
名前を口にした瞬間、胸がまた少しだけざわつく。
榊も同じように感じているのかと思って見たが、彼は表情を変えなかった。
ただ、湯呑の縁へ視線を落としただけだった。
「調べれば、もう少しわかるかもしれません」
「調べるんですか」
「役所の古い台帳や土地の記録で、所有者の変遷くらいなら」
「そんなことまで」
「気になるので」
さらりと言われて、凛は一瞬言葉に詰まる。
仕事だからではなく、気になるので。
その率直さが、意外に思えた。
「榊さん、こういう家、よく見るんですか」
「よく、というほどでは」
「じゃあ、全部にそんなふうに……気になってるんですか」
「全部に、ではないです」
きっぱり言い切られると、なぜかそれ以上訊きづらい。
それでも凛は、湯気の向こうの横顔を見ながら思った。
この人はたぶん、気になるものだけは簡単に手放せない人だ。
翌日も、その次の日も、二人は桜坂の家で顔を合わせた。
文化保存課からの確認は、本来なら一日か二日で済む程度の作業だったらしい。
けれど見つかるものが思ったより多く、榊の上司も「資料化できるならしておきたい」と言い出したらしい。
凛にとっては、家を早く片づけてしまいたい気持ちと、もう少しだけ見ていたい気持ちの両方があった。
どちらが本音なのか、自分でもよくわからない。
三日目の午後、奥の和箪笥から一冊の大学ノートが出てきた。
表紙に「昭和三十八年 仕立帳」とある。
中は布の種類や寸法の控えで埋まっていたが、後半になるにつれ文字が乱れ、数字の横に何度も計算し直した跡が残っている。
最後の頁にだけ、ぽつんと一行。
春 入学金
教科書代
下宿初月
それを見た瞬間、凛はノートを持つ手に力を入れた。
昭和の章で見た、母と娘の名が胸に浮かぶ。
もちろん現実には、その話を知っているはずがない。
けれどこの家の中にいると、見つかるものの順番まで、こちらの知らない感情に導かれている気がした。
「どうしました」
榊が隣へ来る。
凛はノートを差し出した。
「これ、たぶん」
「ええ」
榊が頁を見て、小さく頷く。
「仕立ての帳面ですね」
「最後だけ、急に」
「進学費用、でしょうか」
「……たぶん」
その夜、凛は帰宅してもなんとなく落ち着かなかった。
スマートフォンを見ても上の空で、夕飯も簡単に済ませ、結局また紗代の手紙のことを思い出す。
そして昭和の帳面の最後の頁を思う。
誰かが、自分の手元の小さな数字を積み上げて、別の誰かを遠くへ送り出そうとした痕跡。
祖母の家だと思っていた。
けれど桜坂の家は、もっとずっと前から、誰かの「待つ」と「送る」が積もってできている家なのかもしれない。
その週の終わりごろ、今度は二階の押し入れから平成のアルバムが見つかった。
市販のフォトブックだった。
表紙には英字で簡単なタイトルが入っている。
Spring House
真帆が作ったものだと、凛はなぜだか直感した。
一頁目には、縁側に座る学生たち。
二頁目には、台所で笑っている女の子たち。
三頁目には、庭の桜。
そして四頁目で、凛の指先が止まる。
若い女の子が一人、縁側に座って文庫本を読んでいる写真だった。
風が吹いて髪が揺れ、伏せた目元がどこか寂しそうで、でもやわらかい。
「……きれい」
思わず呟く。
榊が少し覗き込むようにして隣へ来た。
「この人が」
「由芽、でしょうか」
「たぶん」
写真の余白に、小さな文字で日付が入っている。
二〇一〇年四月。
その次の頁には、同じ子が笑っている写真。
台所で鍋をよそっている写真。
駅のホームらしい場所で、こちらに振り返った横顔。
最後の頁だけ、写真ではなく短い文章になっていた。
何かいいものを見たとき、
いちばん最初に見せたいと思う相手がいることは、
たぶんとても幸せなことだ。
名前はない。
けれどそれが誰へ向けた言葉か、凛にもわかった。
「これも、出せなかったんでしょうか」
気づけば訊いていた。
榊はしばらくその文章を見つめていたが、やがて静かに答える。
「出したのかもしれませんし、出さなかったのかもしれません」
「曖昧ですね」
「そういうもののほうが、案外残るので」
凛はページを閉じた。
その言い方が、事実を言っているだけなのに妙に胸へ染みた。
言えなかったこと。
渡せなかったもの。
間に合わなかった約束。
そういうものばかりが、この家には残っている。
「嫌な家ですね」
ぽつりと言うと、榊は意外そうに凛を見た。
「嫌?」
「だって、どれもこれも、惜しいところで終わってる」
「……たしかに」
「今さら見つかっても、本人たちはもういないし」
「はい」
「誰にも届かなかった気持ちばっかり、きれいに残ってる」
そこまで言って、凛は息を吐いた。
ただ家に八つ当たりしているだけだと思った。
けれど榊は否定しなかった。
代わりに、窓の外の桜を見ながら言う。
「それでも残ったから、今ここにあるんでしょうね」
「慰めですか」
「いえ。事実として」
その声にはいつもの温度しかなかったのに、凛の胸は少しだけ静かになった。



