桜のような恋でした

平成二年の春、由芽は桜坂の家を見上げて、少しだけ場違いな場所へ来てしまったと思った。

大学の入学式を終えたばかりだった。
地方から出てきたばかりの由芽には、東京の家賃は高すぎた。
そんなとき大学の掲示板で見つけたのが、女子学生限定のシェアハウス募集だった。

古い日本家屋。庭あり。家賃安め。

ありがたい条件だったはずなのに、実際に来てみた家は、思っていたよりずっと古く、ずっと静かだった。

坂の上に建つ木造家屋。
広い庭の真ん中には、大きな桜の木。
玄関のガラス戸は少し歪み、縁側は軋む。
それなのに、不思議と荒れては見えない。
長く使われてきたものだけが持つ、手入れの行き届いた古さがあった。

由芽はキャリーケースの持ち手を握り直した。
ここでほんとうに暮らせるのだろうか。
知らない人たちとうまくやれるのだろうか。
大学も東京も何もかも新しくて、胸の奥がずっと落ち着かない。
門の前で立ち尽くしていると、後ろから自転車のブレーキ音がした。

「入居の子?」

振り返ると、女の人が立っていた。
肩までの髪を無造作に束ね、白いシャツにデニムという気取らない格好なのに、不思議と目を引く。
荷台にはカメラバッグらしい黒いケースが括りつけられている。

「え、あ、はい」
「今日来る子だよね。白石由芽ちゃん?」
「はい」
「私は藤崎真帆。二階のいちばん奥」

そう言って、真帆は軽く手を振った。
初対面なのに距離の詰め方が自然で、由芽は少し戸惑う。
こういう人は少し苦手だったはずなのに、この人に対してだけはなぜか身構えきれなかった。

「そんな緊張しなくて大丈夫だよ。古いけど、変な人はいないから」

その言い方がおかしくて、由芽は小さく笑ってしまう。

たぶん、それが最初だった。
最初に笑わせたのが真帆で、最初にそのことへ安心したのも真帆の前だった。

荷物を部屋へ入れ、一通り説明を聞き終えたころには、陽が少し傾いていた。
由芽の部屋は六畳ほどの和室で、窓から庭の桜がよく見えた。
畳の匂いは実家に少し似ている。
けれど外から聞こえる都内の車の音が、ここがもう別の場所なのだと知らせてくる。

襖の向こうから声がした。

「由芽ちゃん、生きてる?」

真帆だった。

襖を開けると、麦茶の入ったグラスを二つ持って立っている。

「片づけ終わった?」
「たぶん、なんとか」
「えらい。初日から完璧にやると息切れするよ」

片方のグラスを差し出され、由芽は礼を言って受け取った。冷たさが指先に気持ちいい。

「よかったら晩ごはん、一緒に食べる?」
「ご迷惑でなければ」
「それ、気にしなくていいって意味だよね?」

真帆は笑う。
由芽も今度はもう少しちゃんと笑った。

その日の夕飯は鍋だった。春先でまだ夜が冷えるからちょうどいい、と真帆が言う。
二人きりで囲む鍋は気まずいかと思ったのに、案外そうでもなかった。
真帆はよく話すが、一人で話しすぎることはなく、由芽が返しやすいところで自然に言葉を渡してくる。

どこから来たの。
学部は何。
兄弟いる?
桜は好き?

最後の問いに、由芽は少し考えてから答えた。

「好き、かも。散るのが早いから、ちょっと苦手でもあるけど」
「あー、わかる」
真帆は箸を持ったまま頷く。
「綺麗な時間が短いものって、見てると焦るよね」

その言葉が、なぜだか少し胸に残った。

それから二人は、少しずつ一緒にいる時間を増やしていった。

大学から帰ると、まず台所か縁側に真帆の気配を探すようになった。
夕飯の買い出しに行く。課題を見せ合う。夜更けにコンビニまで歩く。
朝、真帆が「桜、今いい感じ」と言えば、由芽も眠い目をこすってついていく。

ある夜、眠れなくて縁側へ出ると、真帆が一人で座っていた。
膝の上にカメラを置き、庭の桜を見ている。

「起きてたんだ」
「うん。なんか眠れなくて」

真帆が少し身をずらして座る場所をあける。由芽は隣へ腰を下ろした。

夜の桜は白く、少し遠い。
街灯の光が枝に引っかかり、風が吹くたび影が静かに揺れる。

「写真、撮らないの」
「今日は見てるだけ」
「そういう日もあるんだ」
「あるよ。撮るより先に、ちゃんと見たい日」

由芽はその言葉を反芻した。
真帆は明るくて軽やかに見えるのに、ときどき驚くほど丁寧にものを見る。

「由芽ちゃんは、なんでこの家にしたの?」

訊かれて、由芽は少し考える。

「安かったから」
「それはそう」
「あと……庭の桜が、なんとなく」
「なんとなく?」
「見たことある気がしたの。こんな家、来たことないのに」

言ってから変なことを言ったと思ったが、真帆は笑わなかった。

「私も」

由芽は横顔を見る。真帆は桜を見たままだった。

「最初にここ来たとき、初めてなのに懐かしかった」

その声は冗談めいていなかった。
なぜかそれがうれしくて、少し怖かった。

やがて真帆は立ち上がる。

「冷えるから入ろ」

自然に差し出された手を、由芽は少しためらってから取った。
大きくはない。でも思ったよりあたたかい手だった。

初夏が近づくころ、由芽はひどい風邪を引いた。

講義の途中から頭が重く、帰るころには足元がふわふわした。
なんとか玄関まで辿り着いたところを、ちょうど戻ってきた真帆が見つけた。

「ちょっと、由芽ちゃん」

額に手が触れる。

「熱あるじゃん」
「大丈夫……」
「熱ある人、全員そう言う」

そのまま半ば強引に部屋へ連れていかれ、布団へ押し込まれた。
しばらくして持ってきてくれたのは、スポーツドリンクと体温計と、おかゆだった。

「食べられる?」
「うん……」
「無理ならいい。薬飲めそうなら先に飲んで」

真帆は必要以上に心配そうな顔をしない。
けれど水が減れば足してくれるし、氷枕がぬるくなれば替えてくれる。
その匙加減が由芽にはちょうどよかった。

夜中に目を覚ますと、机の上に薄い詩集が置かれていた。
眠れなかったら一篇だけ読めばいいよ、と付箋が挟まっている。

由芽は朦朧としながら本を開いた。
頁のあいだから、細い銀色のものがするりと落ちる。

花びらの形。
細い鎖。
白く曇った小さな石。

見たことがないはずなのに、知っている気がした。

裏返す。

また春に

そのたった一言が、胸の奥へまっすぐ落ちた。

翌朝、由芽がしおりを返すと、真帆は朝食を食べながら言った。

「それ、管理人さんにもらったんだよね。昔からこの家にあったらしいよ」
「変な言葉、彫ってあるね」
「また春に?」
「うん」
「たしかに。ラブレターっぽい」
「そうかな」
「約束かもね」

約束。
そのほうがしっくりきた。

秋が来て、冬が過ぎ、また春が近づくころには、由芽は真帆の足音がわかるようになっていた。
玄関を開ける音、台所で食器を置く音、廊下を歩く癖。
他の住人とは違うそれを、意識しなくても拾ってしまう。

それが特別だと気づいたのは、住人たちと夕飯を囲んでいたときだった。

「二人、ほんと付き合ってるみたいだよね」

誰かが笑って言う。
一瞬、由芽の箸が止まる。
真帆が先に笑った。

「やだ、女同士だよ」
「いやでも、距離感がさ」
「仲いいだけ」

軽く流す声音だった。
由芽もそこで笑えばよかったのに、うまく笑えなかった。

仲いいだけ。

そう言われればその通りだ。
けれどその言葉が、ほんの少し胸に引っかかった。

夕食のあと、由芽が一人で食器を洗っていると、真帆が隣に立って皿を拭き始めた。

「さっきの、気にした?」
「別に」
「ごめん。なんか雑に流しちゃって」
「気にしてないよ」
「ほんと?」
「……たぶん」

真帆が少し笑う。

「その、たぶんって言うとこ好き」

由芽は振り向けなかった。
胸の奥が妙に騒がしくなったからだ。

その春、真帆は写真のコンクールで賞を取り、ほどなく海外の写真学校への推薦をもらった。

夜の縁側で、その話を初めて聞く。

「まだ受けるか決めてないんだけど」

そう言いながら、真帆は封筒の端を指でなぞった。
写真の話をするときの彼女はもっと迷いなく前を見る顔をするのに、今日は少し違う。

「由芽ちゃんは、どう思う?」

その目は、答えを試すようでも、ただ聞いているだけでもなかった。
由芽の言葉ひとつで、自分の気持ちまで少し変わってしまうことを知っている人の目だった。
だからこそ、由芽は怖くなった。

自分が引き止めたらどうなるのだろう。
そんな資格が自分にあるのだろうか。
真帆の未来に触れる言葉を、自分は持っていていいのだろうか。

「……真帆さんが、行きたいなら」

結局、それしか言えなかった。

真帆はしばらく黙り、やがてごく小さく笑った。

「そっか」

その笑い方で、何かを間違えたのだとわかった。
けれど何をどう言い直せばいいのかは、やっぱりわからなかった。

数日後、真帆は受験のために家を空け、戻ってきてすぐに言った。

「受かった」

由芽は息をのむ。

「……そっか」

また、それしか言えない。
違う。
もっとちゃんと、おめでとうって言いたいのに、うまく言葉が出てこない。

真帆は由芽の顔を見て、それから少しだけ視線を外した。

「うん。そっか、だよね」

その一言が胸に刺さった。

出発の日は、薄曇りだった。
満開を過ぎた桜が、風のたびに少しずつ散る。

駅まで見送りに行くと由芽が言ったとき、真帆は少し驚いた顔をして、それからうれしそうに笑った。

坂を下り、駅へ向かう道にも花びらが点々と落ちている。
二人で歩くのに、会話はあまり続かなかった。
重い沈黙ではない。けれどどちらも同じことを考えていて、その名前だけが出せないみたいな静けさだった。
駅が見えてきたところで、真帆が立ち止まった。

「私、たぶん向こうでも元気でやると思う」
「……うん」
「新しい友達もできるし、いっぱい撮るし、最初は日本のことあんまり考えないかもしれない」
「うん」
「でもたぶん、何かいいもの見たときに、いちばん最初に見せたいって思うのは由芽ちゃんだよ」

由芽は何も言えなかった。
胸が詰まる。

真帆は笑っている。
でも少しだけ泣きそうにも見えた。

「だから」

そこで小さく息を吸う。

「また春に」

由芽は顔を上げた。

また春に。

どこかで聞いたことがある気がした。
初めて聞くはずなのに、ずっと前から知っていたみたいに胸へ落ちる。

言わなければ、と思った。

今ならまだ間に合う。
行かないで、でもいい。
好き、でもいい。
何でもいいから本当のことを。

なのに、由芽の口から出たのは別の言葉だった。

「うん」

笑おうとして、うまく笑えないまま頷く。

「また春に」

真帆は一瞬だけ目を伏せた。
ほんの少しだけ。
けれど次に顔を上げたときには、もういつもの笑顔だった。

「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい」

電車が来る。
ドアが開く。
真帆が乗る。
こちらを向いて手を振る。
由芽も振り返す。

それで終わりだった。

ドアが閉まる直前まで、真帆は何か言いかけるような顔をしていた。
けれど結局何も言わないまま、電車は動き出した。
由芽はホームに立ち尽くす。

言えなかった。
引き止めることも、
一緒にいたいことも、
たぶん、好きだったことも。

電車が見えなくなってから、鞄の中の文庫本を思い出した。
待ち時間に読むつもりで持ってきたものだ。
何気なく取り出すと、頁のあいだから銀の栞が滑り落ちる。

花びらの形。
細い鎖。
白い石。

裏返す。

また春に

「……遅いよ」

誰に向けたのか、自分でもわからない。

春はまだ終わっていない。
桜もまだ少し残っている。
それなのに何もかもが、もう遅かった気がした。

帰り道、桜坂の家へ続く坂を一人で上る。
"家は同じ場所にあるのに、もう少し違って見えた。
玄関を開けても、台所を覗いても、縁側へ出ても、真帆の気配だけがない。"
たった一人分の不在が、こんなにも家の輪郭を変えるのかと茫然とする。

縁側へ座り、庭の桜を見る。

散っていく。

咲いているあいだは永遠みたいに見えたのに、散り始めたら早い。
まるで最初から、そうなると知っていたみたいに。

由芽は栞を掌にのせた。
冷たい金属は、すぐには体温に馴染まない。

あのとき好きだと言えていたら、何か変わったのだろうか。

答えはわからない。
わからないまま、たぶんこれから先も、春が来るたび少しだけ考えてしまうのだろうと思った。