昭和三十八年の春、春は母の背中を、きれいだと思ったことがなかった。
小さな座敷机に向かい、夜ごと針を持つその背中は、いつも少しだけ丸まっていた。
髪をきちんと結い、家の中を整え、笑うときでさえどこか慎重で、感情をこぼしすぎない人。
春にとって母の澄子は、美しいというより正しい人だった。
だから春は、母の背中を見るたび少し息が詰まった。
桜坂の家は、昔は別邸だったらしい。
今は広いだけの古い家だ。冬は廊下が冷え、雨のたびに雨戸が鳴る。
それでも庭の桜だけは見事で、春になれば門の外から近所の子どもたちが覗き込んでいく。
春はその桜が好きだったが、母はあまり見上げなかった。
「お母さん、これ」
夕飯のあと、春は美大の募集要項を食卓へ置いた。
油絵科の文字を、澄子はちらりと見ただけで箸を揃える。
「まだそんなこと言っているの」
「願書の締切まであと二週間しかないの」
「二週間もあるでしょう」
「そういう話じゃなくて」
春は思わず声を強くした。
けれど澄子は動じない。食器を流しへ運びながら、静かな声で言う。
「東京の学校へ行って、それで食べていけるの」
「やってみないとわからないじゃない」
「わからないことに、そんな大金は出せません」
その言い方がいやだった。
夢でも努力でもなく、最初から勘定で切られた気がした。
「じゃあ何ならいいの。ここにいて、お見合いでもして、適当に暮らせってこと?」
「そんなこと言ってないでしょう」
「言ってるのと同じよ」
澄子はようやく手を止めた。
振り返った顔に怒りはなく、ただ疲れがある。
「春。私は無理だと言っているの。あなたのために」
その一言が、春にはいちばん残酷に聞こえた。
自分のため。
母はいつもそう言う。
危ないから、無理だから、あなたのためだから。
「私のため、ばっかり」
吐き出すように言う。
「私がどうしたいかは、どうでもいいんだ」
澄子の表情がわずかに揺れた。
けれど結局、何も言わない。
その沈黙が、春には拒絶そのものに思えた。
春は募集要項を掴み、座敷を出た。
自室へ飛び込み、机の上のスケッチブックを開く。
描きかけの桜があった。
何度描いても、自分の見ている桜にならない。
花びらでも枝ぶりでもなく、そこにある気配ごと掴みたいのに、うまくいかない。
鉛筆を握る。
けれど一本線を引いたところで芯が折れた。
障子の向こうでは、かすかに針の音がしていた。
カタン、スッ。
カタン、スッ。
その音を聞くたび、春は余計にいらだった。
母は何も言わない。
言わないくせに、背中だけはこちらへ向けて、正しさばかり押しつけてくる気がした。
翌日も、その次の日も、家の中は妙に息苦しかった。
春が進学の話をしようとすると、澄子は話題を変える。
澄子が何か言いかけても、春のほうが先に黙ってしまう。
けれど三日目の夕方、帰宅した春は玄関を開けた瞬間、胸騒ぎを覚えた。
家が静かすぎた。
「お母さん」
返事はない。
居間にも台所にもいない。
奥の座敷の襖が半分開いていた。
近づくと、何かが床へ落ちる軽い音がする。
春は襖を開けた。
澄子が、裁縫机の横に崩れるように座りこんでいた。
「お母さん!」
駆け寄ると、顔色は真っ青で、額にうっすら汗がにじんでいる。
呼吸は荒くない。けれど明らかに普通ではない。
「大丈夫、少し目眩がしただけ」
「嘘」
春は母の肩を支えた。
驚くほど軽い。いつからこんなに細くなっていたのだろうと、触れた瞬間ぞっとした。
机の上には仕立てかけの着物が何枚も重なり、帳面には数字がびっしり書き込まれている。
見たことのない名前まで並んでいた。
最近増えた仕事だと、見ただけでわかった。
「これ、全部……最近の仕事?」
「少しだけ」
「少しじゃないでしょ」
澄子は答えなかった。
その夜、近所の医者が来てくれた。
診察を終えた医者は、廊下で春に言った。
「過労ですね。栄養も足りてない。貧血も強いです」
「入院は」
「そこまではいりません。ただし、今みたいな働き方を続けたら別です。しばらく夜なべは駄目」
医者が帰ったあと、春は粥を作って母の枕元へ運んだ。
澄子は布団に横たわったまま、すまなそうに目を伏せている。
「食べて」
「……ごめんね」
「なんで謝るの」
春は膝をついた。
心配だった。怖かった。
それと同じくらい、腹が立った。
「仕事、増やしてたんだね」
澄子の手が止まる。
「何に使うつもりだったの」
「春」
「美大の学費?」
沈黙が答えになった。
春はしばらく、何も言えなかった。
胸の中で、いくつもの気持ちが一度にひっくり返る。
母は反対しているのだと思っていた。
ここへ縛りつけたいのだと思っていた。
違った。
出してやるために働いていたのだ。
「なんで言わないのよ」
声が震えた。
「言ったら、あなたが行かないと言うでしょう」
その一言で、春は俯いた。
たしかにそうだと思った。
母がこんなふうに身体を削って工面していると知れば、自分はきっと願書を出すこと自体をためらったはずだ。
「でも、じゃあなんで無理だって」
「無理なものは無理だから」
澄子は静かに言う。
「行かせてあげたい。でも、簡単にできることじゃない。だからあなたに希望だけ持たせるのが怖かったの」
春は唇を噛んだ。
「お母さんは、私に行ってほしいの」
「行ってほしいわ」
澄子ははっきり言った。
「行って、描いて、あなたの生きたいように生きてほしい」
「……じゃあ、どうして」
「でも、行かないでほしいとも思うの」
春は目を見開く。
澄子は少しだけ笑った。
泣くのを堪える人の、頼りない笑みだった。
「あなたのいない家を、まだうまく想像できないの」
春はとうとう俯いた。
涙が畳へ落ちる。
その答えは、あまりにもまっすぐだった。
引き止めたいのではない。
軽んじていたのでもない。
ただ、送り出したい気持ちと、手放すのが怖い気持ちの両方を抱えていただけだった。
「ずるいよ」
泣きながら言う。
「そんなの、ずるい」
「ごめんなさい」
澄子の手が、ためらいがちに春の頭へ触れる。
少し冷えた掌だった。
「私のほうが、ごめん」
春は布団へ額を押しつけた。
ずっと見ていなかったのだと思う。
母の背中ばかり見て、それを自分を閉じ込める壁みたいに感じていた。
けれど本当は、その背中はずっと、自分を送り出すためにこちらを向かないでいたのかもしれない。
しばらくして春は顔を上げた。
「願書、出してもいい?」
「ええ」
「受かるかわからないよ」
「それでも」
「ちゃんとやっていけるかもわからない」
「それでも、行きたいなら行きなさい」
その夜、春は母の枕元で眠った。
何度か目を覚ますたび、澄子の寝息を確かめる。
ちゃんと生きている。それだけで胸の奥が少しずつ落ち着いていった。
明け方近く、澄子が浅く目を覚ました。
「春」
「うん」
「机の下の引き出しに、白い封筒があるの」
「封筒?」
「あなたに渡そうと思っていたのだけれど……もし言えなかったときのために」
朝になってから、春は裁縫机の引き出しを開けた。
そこには白い封筒と、花びらの形をした銀の栞が入っていた。
封筒を開く。
便箋には、澄子の字でこうあった。
春へ
あなたが小さいころから、絵を描く顔を見るのが好きでした。
あのときだけ、あなたはどこか遠いところまで行ってしまうような顔をするから。
そのたび、少し寂しくて、少し誇らしかった。
だから本当は、ずっと行かせてあげたかった。
ただ、私はあなたのいない家をまだうまく想像できません。
それでも、あなたが遠くへ行けるなら、それでよかったのだと思えるようになりたい。
春になったら、帰っておいで。
母より
春は手紙を抱えたまま動けなかった。
泣くまいと思ったのに無理だった。
自分はこの家を出たいのだと思っていた。
けれど本当は、この家に帰ってこられる場所があるまま出たかったのだと、ようやくわかる。
夕方、少し回復した澄子は、春の泣き腫らした目を見て何も聞かなかった。
代わりに食卓へ小さな箱を置く。
「これも、持っていきなさい」
中には、あの銀の栞が入っていた。
「昔からこの家にあったものらしいの」
「この栞が?」
「ええ。詳しいことは知らないけれど、春になると桜のそばに置かれていたものだと聞いたことがあるわ」
春はそっと裏返した。
また春に
「誰かの約束みたい」
「そうかもしれないわね」
澄子は窓の外の桜を見た。
「家族かもしれないし、友達かもしれないし、恋人かもしれない。でも、誰かが誰かを待っていた言葉ではあるでしょうね」
春はその栞を握りしめた。
数週間後、美大の合格通知が届いた。
「受かった」
そう言うのがやっとだった。
澄子は一瞬目を見開き、それから静かに笑った。
その顔を見た瞬間、春ははっとした。
きれいだ、と思った。
若いとか美しいとか、そういう意味ではない。
何かを手放す覚悟と、それでも手放したい願いとが同時に顔へ出ると、人はこんなふうに見えるのかと思った。
「よかったわね」
春は頷いた。
嬉しい。
けれど同じだけ怖い。
「私、ちゃんと帰ってくるから」
「ええ」
「春になったら、帰ってくる」
「待っているわ」
出発の日、桜坂の家の庭は満開だった。
風が吹くたび花びらが舞い、縁側にも石畳にも母の肩にも降りかかる。
春は鞄を持ち、玄関先で何度も靴を履き直した。
行きたい。
けれど行きたくない。
置いていくのも怖いし、置いていかれる母も怖い。
その両方を抱えたまま歩き出すしかないのだと、今日だけははっきりわかる。
「忘れ物は?」
「うん」
「切符は」
「ある」
「お金」
「持った」
そこまで言って、二人とも少し笑った。
春は鞄の中の本へ触れた。
その頁には、銀の栞が挟まっている。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
門へ向かい、そこで一度だけ振り返る。
桜の木の下に母がいる。
古い家がある。
帰る場所がある。
春はそれを確かめてから、坂を下りはじめた。
母は引き止めなかった。
自分も立ち止まらなかった。
その春、ようやく二人は、同じ痛みを抱えたまま、正しいほうへ別れることができた。
小さな座敷机に向かい、夜ごと針を持つその背中は、いつも少しだけ丸まっていた。
髪をきちんと結い、家の中を整え、笑うときでさえどこか慎重で、感情をこぼしすぎない人。
春にとって母の澄子は、美しいというより正しい人だった。
だから春は、母の背中を見るたび少し息が詰まった。
桜坂の家は、昔は別邸だったらしい。
今は広いだけの古い家だ。冬は廊下が冷え、雨のたびに雨戸が鳴る。
それでも庭の桜だけは見事で、春になれば門の外から近所の子どもたちが覗き込んでいく。
春はその桜が好きだったが、母はあまり見上げなかった。
「お母さん、これ」
夕飯のあと、春は美大の募集要項を食卓へ置いた。
油絵科の文字を、澄子はちらりと見ただけで箸を揃える。
「まだそんなこと言っているの」
「願書の締切まであと二週間しかないの」
「二週間もあるでしょう」
「そういう話じゃなくて」
春は思わず声を強くした。
けれど澄子は動じない。食器を流しへ運びながら、静かな声で言う。
「東京の学校へ行って、それで食べていけるの」
「やってみないとわからないじゃない」
「わからないことに、そんな大金は出せません」
その言い方がいやだった。
夢でも努力でもなく、最初から勘定で切られた気がした。
「じゃあ何ならいいの。ここにいて、お見合いでもして、適当に暮らせってこと?」
「そんなこと言ってないでしょう」
「言ってるのと同じよ」
澄子はようやく手を止めた。
振り返った顔に怒りはなく、ただ疲れがある。
「春。私は無理だと言っているの。あなたのために」
その一言が、春にはいちばん残酷に聞こえた。
自分のため。
母はいつもそう言う。
危ないから、無理だから、あなたのためだから。
「私のため、ばっかり」
吐き出すように言う。
「私がどうしたいかは、どうでもいいんだ」
澄子の表情がわずかに揺れた。
けれど結局、何も言わない。
その沈黙が、春には拒絶そのものに思えた。
春は募集要項を掴み、座敷を出た。
自室へ飛び込み、机の上のスケッチブックを開く。
描きかけの桜があった。
何度描いても、自分の見ている桜にならない。
花びらでも枝ぶりでもなく、そこにある気配ごと掴みたいのに、うまくいかない。
鉛筆を握る。
けれど一本線を引いたところで芯が折れた。
障子の向こうでは、かすかに針の音がしていた。
カタン、スッ。
カタン、スッ。
その音を聞くたび、春は余計にいらだった。
母は何も言わない。
言わないくせに、背中だけはこちらへ向けて、正しさばかり押しつけてくる気がした。
翌日も、その次の日も、家の中は妙に息苦しかった。
春が進学の話をしようとすると、澄子は話題を変える。
澄子が何か言いかけても、春のほうが先に黙ってしまう。
けれど三日目の夕方、帰宅した春は玄関を開けた瞬間、胸騒ぎを覚えた。
家が静かすぎた。
「お母さん」
返事はない。
居間にも台所にもいない。
奥の座敷の襖が半分開いていた。
近づくと、何かが床へ落ちる軽い音がする。
春は襖を開けた。
澄子が、裁縫机の横に崩れるように座りこんでいた。
「お母さん!」
駆け寄ると、顔色は真っ青で、額にうっすら汗がにじんでいる。
呼吸は荒くない。けれど明らかに普通ではない。
「大丈夫、少し目眩がしただけ」
「嘘」
春は母の肩を支えた。
驚くほど軽い。いつからこんなに細くなっていたのだろうと、触れた瞬間ぞっとした。
机の上には仕立てかけの着物が何枚も重なり、帳面には数字がびっしり書き込まれている。
見たことのない名前まで並んでいた。
最近増えた仕事だと、見ただけでわかった。
「これ、全部……最近の仕事?」
「少しだけ」
「少しじゃないでしょ」
澄子は答えなかった。
その夜、近所の医者が来てくれた。
診察を終えた医者は、廊下で春に言った。
「過労ですね。栄養も足りてない。貧血も強いです」
「入院は」
「そこまではいりません。ただし、今みたいな働き方を続けたら別です。しばらく夜なべは駄目」
医者が帰ったあと、春は粥を作って母の枕元へ運んだ。
澄子は布団に横たわったまま、すまなそうに目を伏せている。
「食べて」
「……ごめんね」
「なんで謝るの」
春は膝をついた。
心配だった。怖かった。
それと同じくらい、腹が立った。
「仕事、増やしてたんだね」
澄子の手が止まる。
「何に使うつもりだったの」
「春」
「美大の学費?」
沈黙が答えになった。
春はしばらく、何も言えなかった。
胸の中で、いくつもの気持ちが一度にひっくり返る。
母は反対しているのだと思っていた。
ここへ縛りつけたいのだと思っていた。
違った。
出してやるために働いていたのだ。
「なんで言わないのよ」
声が震えた。
「言ったら、あなたが行かないと言うでしょう」
その一言で、春は俯いた。
たしかにそうだと思った。
母がこんなふうに身体を削って工面していると知れば、自分はきっと願書を出すこと自体をためらったはずだ。
「でも、じゃあなんで無理だって」
「無理なものは無理だから」
澄子は静かに言う。
「行かせてあげたい。でも、簡単にできることじゃない。だからあなたに希望だけ持たせるのが怖かったの」
春は唇を噛んだ。
「お母さんは、私に行ってほしいの」
「行ってほしいわ」
澄子ははっきり言った。
「行って、描いて、あなたの生きたいように生きてほしい」
「……じゃあ、どうして」
「でも、行かないでほしいとも思うの」
春は目を見開く。
澄子は少しだけ笑った。
泣くのを堪える人の、頼りない笑みだった。
「あなたのいない家を、まだうまく想像できないの」
春はとうとう俯いた。
涙が畳へ落ちる。
その答えは、あまりにもまっすぐだった。
引き止めたいのではない。
軽んじていたのでもない。
ただ、送り出したい気持ちと、手放すのが怖い気持ちの両方を抱えていただけだった。
「ずるいよ」
泣きながら言う。
「そんなの、ずるい」
「ごめんなさい」
澄子の手が、ためらいがちに春の頭へ触れる。
少し冷えた掌だった。
「私のほうが、ごめん」
春は布団へ額を押しつけた。
ずっと見ていなかったのだと思う。
母の背中ばかり見て、それを自分を閉じ込める壁みたいに感じていた。
けれど本当は、その背中はずっと、自分を送り出すためにこちらを向かないでいたのかもしれない。
しばらくして春は顔を上げた。
「願書、出してもいい?」
「ええ」
「受かるかわからないよ」
「それでも」
「ちゃんとやっていけるかもわからない」
「それでも、行きたいなら行きなさい」
その夜、春は母の枕元で眠った。
何度か目を覚ますたび、澄子の寝息を確かめる。
ちゃんと生きている。それだけで胸の奥が少しずつ落ち着いていった。
明け方近く、澄子が浅く目を覚ました。
「春」
「うん」
「机の下の引き出しに、白い封筒があるの」
「封筒?」
「あなたに渡そうと思っていたのだけれど……もし言えなかったときのために」
朝になってから、春は裁縫机の引き出しを開けた。
そこには白い封筒と、花びらの形をした銀の栞が入っていた。
封筒を開く。
便箋には、澄子の字でこうあった。
春へ
あなたが小さいころから、絵を描く顔を見るのが好きでした。
あのときだけ、あなたはどこか遠いところまで行ってしまうような顔をするから。
そのたび、少し寂しくて、少し誇らしかった。
だから本当は、ずっと行かせてあげたかった。
ただ、私はあなたのいない家をまだうまく想像できません。
それでも、あなたが遠くへ行けるなら、それでよかったのだと思えるようになりたい。
春になったら、帰っておいで。
母より
春は手紙を抱えたまま動けなかった。
泣くまいと思ったのに無理だった。
自分はこの家を出たいのだと思っていた。
けれど本当は、この家に帰ってこられる場所があるまま出たかったのだと、ようやくわかる。
夕方、少し回復した澄子は、春の泣き腫らした目を見て何も聞かなかった。
代わりに食卓へ小さな箱を置く。
「これも、持っていきなさい」
中には、あの銀の栞が入っていた。
「昔からこの家にあったものらしいの」
「この栞が?」
「ええ。詳しいことは知らないけれど、春になると桜のそばに置かれていたものだと聞いたことがあるわ」
春はそっと裏返した。
また春に
「誰かの約束みたい」
「そうかもしれないわね」
澄子は窓の外の桜を見た。
「家族かもしれないし、友達かもしれないし、恋人かもしれない。でも、誰かが誰かを待っていた言葉ではあるでしょうね」
春はその栞を握りしめた。
数週間後、美大の合格通知が届いた。
「受かった」
そう言うのがやっとだった。
澄子は一瞬目を見開き、それから静かに笑った。
その顔を見た瞬間、春ははっとした。
きれいだ、と思った。
若いとか美しいとか、そういう意味ではない。
何かを手放す覚悟と、それでも手放したい願いとが同時に顔へ出ると、人はこんなふうに見えるのかと思った。
「よかったわね」
春は頷いた。
嬉しい。
けれど同じだけ怖い。
「私、ちゃんと帰ってくるから」
「ええ」
「春になったら、帰ってくる」
「待っているわ」
出発の日、桜坂の家の庭は満開だった。
風が吹くたび花びらが舞い、縁側にも石畳にも母の肩にも降りかかる。
春は鞄を持ち、玄関先で何度も靴を履き直した。
行きたい。
けれど行きたくない。
置いていくのも怖いし、置いていかれる母も怖い。
その両方を抱えたまま歩き出すしかないのだと、今日だけははっきりわかる。
「忘れ物は?」
「うん」
「切符は」
「ある」
「お金」
「持った」
そこまで言って、二人とも少し笑った。
春は鞄の中の本へ触れた。
その頁には、銀の栞が挟まっている。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
門へ向かい、そこで一度だけ振り返る。
桜の木の下に母がいる。
古い家がある。
帰る場所がある。
春はそれを確かめてから、坂を下りはじめた。
母は引き止めなかった。
自分も立ち止まらなかった。
その春、ようやく二人は、同じ痛みを抱えたまま、正しいほうへ別れることができた。



