大正四年の春、紗代はその家を、世界のすべてだと思っていた。
高遠家の別邸、桜坂の家。
本宅から少し離れた小高い場所にあり、庭には年を経た桜が一本、ゆるやかに枝を広げている。
空気がよく静かで、療養にはうってつけだと医師が言ったのは、紗代が十になるころだった。
以来、紗代はほとんどの季節をその家で過ごしている。
朝は薬湯を飲み、昼は縁側で日を浴び、夜は少し早く休む。
長く歩くこともできず、外へ出るのも体調次第。
それでも紗代は、自分をことさらに不幸だと思ったことはなかった。
春になれば、兄が来るからだ。
「お嬢様、今日は朝から落ち着いていらっしゃいますね」
老女中の侍女が湯呑を置きながら目を細めた。
紗代は庭を見たまま頷く。
「ええ。今日は胸も苦しくないの」
「それはようございました」
「それに、朔兄様がいらっしゃるもの」
侍女は笑いを堪えるように口元を和らげた。
紗代は膝の上の本を閉じた。
昨日まで何度も読んでいた頁なのに、今日はひとつも頭へ入らない。
耳はずっと、門の外の気配を待っている。
まだ昼には早い。
そうわかっていても、庭の小鳥が枝を鳴らすたび顔を上げてしまう。
そのとき、門のほうで車輪の軋む音がした。
紗代は立ち上がった。
急に動いたせいで少し眩暈がしたが、そんなことに構っていられない。
廊下へ出ようとすると、侍女がすぐに声をかけた。
「お履物を」
「あとでいいわ」
「あとでは駄目です」
言われた通り草履を履いたところで、玄関のほうから低い声がした。
「紗代」
振り向くと、朔が立っていた。
濃い鼠色の羽織に袴姿。
父に似た端正な顔立ちだが、紗代を見るときだけ、目元がやわらぐ。
東京で学問をしている兄は、会うたび少し遠い人になっていくようにも見えるのに、その声を聞くだけで胸の奥がほどけた。
「お帰りなさいませ、兄様」
「ただいま」
朔は手にしていた包みを持ち上げる。
「土産だ」
「お菓子?」
「本だ」
紗代はぱっと顔を輝かせた。
居間に通され、包みを解くと三冊出てきた。
薄い詩集、挿絵入りの童話集、それから植物図鑑。
どれも寝台の上でも読みやすそうな、軽い本ばかりだ。
「そんなにたくさん」
「寝ている日でも退屈しないようにと思ってな」
「図鑑まで?」
「庭に出られなくても花は見られる」
紗代は嬉しさを隠しきれず、図鑑を開いた。
知らない花の絵がいくつも並んでいる。
頁のあいだから細い銀色のものが滑り落ち、膝へ転がった。
花びらの形をした銀の栞だった。
先には細い鎖がつき、その先に小さな白い石が揺れている。
「まあ……きれい」
朔は湯呑を置き、何でもないように言った。
「それも入れておいた」
「兄様が?」
「ああ」
「わたしに?」
「他に誰がいる」
紗代はそっと掌へ載せる。
ひやりとした感触が、すぐに体温へなじんでいく。
「使ってもよろしいの」
「そのためのものだ」
「なくしたら」
「なくさない」
朔は即答すると、紗代が笑う。
「わたしが、です」
「なら、なおさら俺が見ている」
あまりに真顔で言うので、紗代は吹き出した。
「四六時中、兄様がこちらにいらっしゃるなら安心ですけれど」
そう言った途端、朔が少しだけ黙った。
紗代は首を傾げる。
「どうかしたの?」
「……いや」
朔は視線を植物図鑑へ落とす。
「来年の春は、今年より長くここにいる」
「本当に?」
紗代は思わず身を乗り出すと、朔はまっすぐ頷く。
「ああ」
「お忙しくても?」
「そうする」
「父上が何とおっしゃっても?」
「何と言われてもだ」
ほんのわずか、朔の口元が硬くなった。
だが、次の瞬間には揺らがない目で言った。
紗代は栞をぎゅっと握った。
父は兄に家業を継がせたがっている。
医学など学んでも仕方がないと、何度も言っているらしいことは紗代の耳にも届いていた。
それでも朔は医の道を選んだ。
「兄様は、ほんとうにお医者様になりたいの」
「ああ」
「どうして」
朔はしばらく答えなかった。やがて低く言う。
「助けたいものがあるからだ」
その言葉に、紗代は胸がきゅっと縮まるのを感じた。
自分のことだと決めつけるのは傲慢だと思いながら、それでもそうであってほしいと願ってしまう。
「では、そのうちこの庭に、ライラックも植えてくださいませ」
「ライラック?」
「図鑑にあったの。寒い土地の花なのでしょう? 兄様がお医者様になったら、何でもできそうだもの」
「何でもではない」
「では、軽々しくない約束をしてください」
朔は困ったように黙り、窓の外の桜を見た。
「来年の春は、今年より長くここにいる」
それだけを、今度は先ほどより静かに言うと、紗代は微笑んだ。
「覚えております」
「忘れるな」
「ええ」
その約束だけで、次の春がもう胸の中に咲いたような気がした。
けれど、朔が東京へ戻ったあと、桜坂の家は急に広くなった。
実際に部屋が増えたわけではない。
ただ、人がひとりいなくなるだけで、こんなにも廊下の先が遠くなるのかと紗代は思った。
兄にもらった本はすぐに読み終えてしまった。
植物図鑑のライラックの頁には、銀の栞を挟んだままだった。
最初のうち、便りが来ないことをそれほど気にしてはいなかった。
東京では忙しいのだろう。朔はもともと筆まめな人でもない。
父に呼ばれれば家のこともある。
それでも十日が過ぎ、二十日が過ぎると、庭の景色まで違って見え始めた。
ある昼下がり、紗代は縁側で本を閉じた。
「侍女、今日は何日?」
「四月二十日でございます」
「そう」
侍女は茶器を拭きながら、少しだけ紗代を見た。
「お兄様からのお便りなら、じきに参りましょう」
「待ってなどおりません」
「左様でございますか」
その静かな返事が、かえって胸に刺さる。
そのとき、玄関先で声がした。
低く抑えた父の声に、紗代は思わず足を止める。
襖の陰へ身を寄せたつもりはなかった。
ただ、その場を動けなかった。
「まだ見せるな」
「しかし旦那様、お嬢様が……」
「余計な気を回すな。若様の手紙など、今は毒になるだけだ」
紗代は息を止めた。
手紙。
朔の。
「若様は何通も」
「だからこそだ。医術がどうの、迎えに行くだの、余計なことばかり書く」
そこから先の言葉は、まともに耳へ入らなかった。
兄は書いていたのだ。
来ないのではなく、届かなかったのだ。
その夜、紗代は久しぶりに熱を出した。
身体よりも胸の奥が重かった。
侍女は何も聞かず、冷やした布を取り替えてくれる。
紗代もまた、手紙のことを口にしなかった。
問えば、侍女が困るとわかっていたし、なにより、自分が耐えられそうになかった。
数日後、父が別邸へ来た。
「来月、本宅へ戻るように」
座敷に呼ばれ、告げられたのはそれだけだった。
「別邸を、畳まれるのですか」
「いつまでも維持する必要はない」
「でも、療養が」
「本宅でもできる」
相談ではなく通達だった。
「朔兄様は、ご存じですか」
その名を出した途端、父の顔が冷えた。
「朔は関係ない」
「ですが」
「おまえは余計なことを考えず、身体を治すことだけ考えていればよい」
その余計なことの中に、兄のことが含まれているのだと、紗代にもわかった。
別邸を去る日が近づくと、家の中は少しずつ片づいていった。
客間の調度が減り、納戸の箱が運び出され、暮らしの気配だけが先に去っていく。
紗代はそのたび、自分がこの家から少しずつ剥がされていくような気がした。
前夜、どうしても眠れず、紗代は布団を抜け出した。
夜風はまだ冷たい。
けれど最後にどうしても桜のそばへ行きたかった。
庭は月明かりで青白く、桜だけがぼんやり浮かんで見える。
兄がよく立っていた幹の近くへ行ったとき、足元に白いものが落ちているのが見えた。
二つ折りにされた便箋だった。
夜露を吸って端が少し湿っている。
震える指で拾い上げる。
開かなくてもわかった。この筆跡を見間違えるはずがない。
紗代
呼びかける最初の二文字だけで、視界が滲んだ。
春になったら、今度こそ迎えに行く。
おまえをこの家へ置いたままにしない。
父上が許すかどうかはわからない。医師の免状もまだ先だ。
それでも俺はそうするつもりでいる。
おまえは何も案ずるな。
おまえが笑っているだけで、この家の春は春になる。
だから待っていてくれ。
来年の春は、今年より長くここにいる。
その約束だけは違えない。
墨は少し掠れていたが、筆の勢いはまっすぐだった。
朔らしい、飾りのない言葉だった。
紗代は便箋を胸へ押し当てた。
待っていてくれ。
ずっと待っていたのに。
兄は本当に来ようとしていたのに。
どうして今、ここに手紙だけがあるのだろう。
答えは考えなくてもわかった。
父の目を盗んで誰かに託したのかもしれない。
自分で届けようとして叶わなかったのかもしれない。
どちらにしても、間に合わなかったのだ。
「兄様……」
声にした途端、喉が震えた。
そのとき、戸の開く音がして、侍女が駆け寄ってきた。
「お嬢様、こんなところで」
叱るより先に、侍女は紗代の手元を見て息をのんだ。
「……見つかってしまわれましたか」
紗代は顔を上げる。
「兄様は、書いてくださっていたのね」
「……はい」
「何通も?」
「はい」
それだけで十分だった。
紗代は泣いた。声を立てることはできなかったが、便箋を胸に抱えたまま、侍女の肩へ額を寄せる。
「若様は、お嬢様をお忘れではございません」
「ええ……」
「ずっと、お案じで」
返事はできても、それで何かが戻るわけではなかった。
翌朝、桜坂の家を去る支度は予定通り進められた。
空は皮肉なほどよく晴れていた。
玄関先には車が待ち、本の入った小箱は紗代の膝に抱えられている。
そのいちばん上に、兄の手紙を挟んだ植物図鑑がある。
「少しだけ」
そう言って、紗代は桜の幹の前まで歩いた。
ざらりとした樹皮に触れる。
懐から銀の栞を取り出し、朝の光に透かす。
「なくさないわ」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
そのとき、門の外で荒く砂利を踏む音がした。
紗代の心臓が跳ねる。
思わず顔を上げる。
門の向こうに、背の高い人影が見えた。
羽織の袖が揺れる。
顔までは見えない。けれど、見えなくてもわかった。
朔だ。
「兄様」
名を呼ぼうとした瞬間、使いの者が門の前へ出て何か言った。
低い声が遮るように返る。
門は開かない。
紗代は一歩踏み出しかけたが、咳が込み上げて言葉にならなかった。
それが合図だったみたいに、車へ乗るよう促される。
「お嬢様、お時間が」
侍女に支えられ、紗代は車へ乗り込んだ。
戸が閉まる直前、最後の力で顔を上げる。
門の向こうに、たしかに朔がいた。
まっすぐこちらを見ている。
本当に来たのだ。
約束を違えないために。
来たのに。
車輪が動き出す。
花びらが風にあおられ、一斉に舞う。
門も人影も、その向こうの坂道も、薄紅の靄の中へ飲まれていく。
兄の姿は、もう見えなかった。
紗代は膝の上の小箱を抱きしめた。
そのいちばん上にある手紙の場所だけが、どうしようもなく熱い。
兄の文字はたしかにやさしかった。
兄の約束も、たしかに本物だった。
ただ、その春だけが、どうしても間に合わなかった。
高遠家の別邸、桜坂の家。
本宅から少し離れた小高い場所にあり、庭には年を経た桜が一本、ゆるやかに枝を広げている。
空気がよく静かで、療養にはうってつけだと医師が言ったのは、紗代が十になるころだった。
以来、紗代はほとんどの季節をその家で過ごしている。
朝は薬湯を飲み、昼は縁側で日を浴び、夜は少し早く休む。
長く歩くこともできず、外へ出るのも体調次第。
それでも紗代は、自分をことさらに不幸だと思ったことはなかった。
春になれば、兄が来るからだ。
「お嬢様、今日は朝から落ち着いていらっしゃいますね」
老女中の侍女が湯呑を置きながら目を細めた。
紗代は庭を見たまま頷く。
「ええ。今日は胸も苦しくないの」
「それはようございました」
「それに、朔兄様がいらっしゃるもの」
侍女は笑いを堪えるように口元を和らげた。
紗代は膝の上の本を閉じた。
昨日まで何度も読んでいた頁なのに、今日はひとつも頭へ入らない。
耳はずっと、門の外の気配を待っている。
まだ昼には早い。
そうわかっていても、庭の小鳥が枝を鳴らすたび顔を上げてしまう。
そのとき、門のほうで車輪の軋む音がした。
紗代は立ち上がった。
急に動いたせいで少し眩暈がしたが、そんなことに構っていられない。
廊下へ出ようとすると、侍女がすぐに声をかけた。
「お履物を」
「あとでいいわ」
「あとでは駄目です」
言われた通り草履を履いたところで、玄関のほうから低い声がした。
「紗代」
振り向くと、朔が立っていた。
濃い鼠色の羽織に袴姿。
父に似た端正な顔立ちだが、紗代を見るときだけ、目元がやわらぐ。
東京で学問をしている兄は、会うたび少し遠い人になっていくようにも見えるのに、その声を聞くだけで胸の奥がほどけた。
「お帰りなさいませ、兄様」
「ただいま」
朔は手にしていた包みを持ち上げる。
「土産だ」
「お菓子?」
「本だ」
紗代はぱっと顔を輝かせた。
居間に通され、包みを解くと三冊出てきた。
薄い詩集、挿絵入りの童話集、それから植物図鑑。
どれも寝台の上でも読みやすそうな、軽い本ばかりだ。
「そんなにたくさん」
「寝ている日でも退屈しないようにと思ってな」
「図鑑まで?」
「庭に出られなくても花は見られる」
紗代は嬉しさを隠しきれず、図鑑を開いた。
知らない花の絵がいくつも並んでいる。
頁のあいだから細い銀色のものが滑り落ち、膝へ転がった。
花びらの形をした銀の栞だった。
先には細い鎖がつき、その先に小さな白い石が揺れている。
「まあ……きれい」
朔は湯呑を置き、何でもないように言った。
「それも入れておいた」
「兄様が?」
「ああ」
「わたしに?」
「他に誰がいる」
紗代はそっと掌へ載せる。
ひやりとした感触が、すぐに体温へなじんでいく。
「使ってもよろしいの」
「そのためのものだ」
「なくしたら」
「なくさない」
朔は即答すると、紗代が笑う。
「わたしが、です」
「なら、なおさら俺が見ている」
あまりに真顔で言うので、紗代は吹き出した。
「四六時中、兄様がこちらにいらっしゃるなら安心ですけれど」
そう言った途端、朔が少しだけ黙った。
紗代は首を傾げる。
「どうかしたの?」
「……いや」
朔は視線を植物図鑑へ落とす。
「来年の春は、今年より長くここにいる」
「本当に?」
紗代は思わず身を乗り出すと、朔はまっすぐ頷く。
「ああ」
「お忙しくても?」
「そうする」
「父上が何とおっしゃっても?」
「何と言われてもだ」
ほんのわずか、朔の口元が硬くなった。
だが、次の瞬間には揺らがない目で言った。
紗代は栞をぎゅっと握った。
父は兄に家業を継がせたがっている。
医学など学んでも仕方がないと、何度も言っているらしいことは紗代の耳にも届いていた。
それでも朔は医の道を選んだ。
「兄様は、ほんとうにお医者様になりたいの」
「ああ」
「どうして」
朔はしばらく答えなかった。やがて低く言う。
「助けたいものがあるからだ」
その言葉に、紗代は胸がきゅっと縮まるのを感じた。
自分のことだと決めつけるのは傲慢だと思いながら、それでもそうであってほしいと願ってしまう。
「では、そのうちこの庭に、ライラックも植えてくださいませ」
「ライラック?」
「図鑑にあったの。寒い土地の花なのでしょう? 兄様がお医者様になったら、何でもできそうだもの」
「何でもではない」
「では、軽々しくない約束をしてください」
朔は困ったように黙り、窓の外の桜を見た。
「来年の春は、今年より長くここにいる」
それだけを、今度は先ほどより静かに言うと、紗代は微笑んだ。
「覚えております」
「忘れるな」
「ええ」
その約束だけで、次の春がもう胸の中に咲いたような気がした。
けれど、朔が東京へ戻ったあと、桜坂の家は急に広くなった。
実際に部屋が増えたわけではない。
ただ、人がひとりいなくなるだけで、こんなにも廊下の先が遠くなるのかと紗代は思った。
兄にもらった本はすぐに読み終えてしまった。
植物図鑑のライラックの頁には、銀の栞を挟んだままだった。
最初のうち、便りが来ないことをそれほど気にしてはいなかった。
東京では忙しいのだろう。朔はもともと筆まめな人でもない。
父に呼ばれれば家のこともある。
それでも十日が過ぎ、二十日が過ぎると、庭の景色まで違って見え始めた。
ある昼下がり、紗代は縁側で本を閉じた。
「侍女、今日は何日?」
「四月二十日でございます」
「そう」
侍女は茶器を拭きながら、少しだけ紗代を見た。
「お兄様からのお便りなら、じきに参りましょう」
「待ってなどおりません」
「左様でございますか」
その静かな返事が、かえって胸に刺さる。
そのとき、玄関先で声がした。
低く抑えた父の声に、紗代は思わず足を止める。
襖の陰へ身を寄せたつもりはなかった。
ただ、その場を動けなかった。
「まだ見せるな」
「しかし旦那様、お嬢様が……」
「余計な気を回すな。若様の手紙など、今は毒になるだけだ」
紗代は息を止めた。
手紙。
朔の。
「若様は何通も」
「だからこそだ。医術がどうの、迎えに行くだの、余計なことばかり書く」
そこから先の言葉は、まともに耳へ入らなかった。
兄は書いていたのだ。
来ないのではなく、届かなかったのだ。
その夜、紗代は久しぶりに熱を出した。
身体よりも胸の奥が重かった。
侍女は何も聞かず、冷やした布を取り替えてくれる。
紗代もまた、手紙のことを口にしなかった。
問えば、侍女が困るとわかっていたし、なにより、自分が耐えられそうになかった。
数日後、父が別邸へ来た。
「来月、本宅へ戻るように」
座敷に呼ばれ、告げられたのはそれだけだった。
「別邸を、畳まれるのですか」
「いつまでも維持する必要はない」
「でも、療養が」
「本宅でもできる」
相談ではなく通達だった。
「朔兄様は、ご存じですか」
その名を出した途端、父の顔が冷えた。
「朔は関係ない」
「ですが」
「おまえは余計なことを考えず、身体を治すことだけ考えていればよい」
その余計なことの中に、兄のことが含まれているのだと、紗代にもわかった。
別邸を去る日が近づくと、家の中は少しずつ片づいていった。
客間の調度が減り、納戸の箱が運び出され、暮らしの気配だけが先に去っていく。
紗代はそのたび、自分がこの家から少しずつ剥がされていくような気がした。
前夜、どうしても眠れず、紗代は布団を抜け出した。
夜風はまだ冷たい。
けれど最後にどうしても桜のそばへ行きたかった。
庭は月明かりで青白く、桜だけがぼんやり浮かんで見える。
兄がよく立っていた幹の近くへ行ったとき、足元に白いものが落ちているのが見えた。
二つ折りにされた便箋だった。
夜露を吸って端が少し湿っている。
震える指で拾い上げる。
開かなくてもわかった。この筆跡を見間違えるはずがない。
紗代
呼びかける最初の二文字だけで、視界が滲んだ。
春になったら、今度こそ迎えに行く。
おまえをこの家へ置いたままにしない。
父上が許すかどうかはわからない。医師の免状もまだ先だ。
それでも俺はそうするつもりでいる。
おまえは何も案ずるな。
おまえが笑っているだけで、この家の春は春になる。
だから待っていてくれ。
来年の春は、今年より長くここにいる。
その約束だけは違えない。
墨は少し掠れていたが、筆の勢いはまっすぐだった。
朔らしい、飾りのない言葉だった。
紗代は便箋を胸へ押し当てた。
待っていてくれ。
ずっと待っていたのに。
兄は本当に来ようとしていたのに。
どうして今、ここに手紙だけがあるのだろう。
答えは考えなくてもわかった。
父の目を盗んで誰かに託したのかもしれない。
自分で届けようとして叶わなかったのかもしれない。
どちらにしても、間に合わなかったのだ。
「兄様……」
声にした途端、喉が震えた。
そのとき、戸の開く音がして、侍女が駆け寄ってきた。
「お嬢様、こんなところで」
叱るより先に、侍女は紗代の手元を見て息をのんだ。
「……見つかってしまわれましたか」
紗代は顔を上げる。
「兄様は、書いてくださっていたのね」
「……はい」
「何通も?」
「はい」
それだけで十分だった。
紗代は泣いた。声を立てることはできなかったが、便箋を胸に抱えたまま、侍女の肩へ額を寄せる。
「若様は、お嬢様をお忘れではございません」
「ええ……」
「ずっと、お案じで」
返事はできても、それで何かが戻るわけではなかった。
翌朝、桜坂の家を去る支度は予定通り進められた。
空は皮肉なほどよく晴れていた。
玄関先には車が待ち、本の入った小箱は紗代の膝に抱えられている。
そのいちばん上に、兄の手紙を挟んだ植物図鑑がある。
「少しだけ」
そう言って、紗代は桜の幹の前まで歩いた。
ざらりとした樹皮に触れる。
懐から銀の栞を取り出し、朝の光に透かす。
「なくさないわ」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
そのとき、門の外で荒く砂利を踏む音がした。
紗代の心臓が跳ねる。
思わず顔を上げる。
門の向こうに、背の高い人影が見えた。
羽織の袖が揺れる。
顔までは見えない。けれど、見えなくてもわかった。
朔だ。
「兄様」
名を呼ぼうとした瞬間、使いの者が門の前へ出て何か言った。
低い声が遮るように返る。
門は開かない。
紗代は一歩踏み出しかけたが、咳が込み上げて言葉にならなかった。
それが合図だったみたいに、車へ乗るよう促される。
「お嬢様、お時間が」
侍女に支えられ、紗代は車へ乗り込んだ。
戸が閉まる直前、最後の力で顔を上げる。
門の向こうに、たしかに朔がいた。
まっすぐこちらを見ている。
本当に来たのだ。
約束を違えないために。
来たのに。
車輪が動き出す。
花びらが風にあおられ、一斉に舞う。
門も人影も、その向こうの坂道も、薄紅の靄の中へ飲まれていく。
兄の姿は、もう見えなかった。
紗代は膝の上の小箱を抱きしめた。
そのいちばん上にある手紙の場所だけが、どうしようもなく熱い。
兄の文字はたしかにやさしかった。
兄の約束も、たしかに本物だった。
ただ、その春だけが、どうしても間に合わなかった。



