雨宮凛が桜坂の家に着いたのは、三月の終わりだった。
坂の上に建つ古い家は、記憶の中よりもずっと小さく、けれど庭の桜だけは不自然なくらい大きかった。
曇り空の下でも枝いっぱいに花を抱え、いまにも風が吹けば、庭じゅうを薄紅にしてしまいそうだった。
門柱には古びた表札の跡だけが残り、文字はもう剥がれている。
祖母が亡くなってからひと月あまり、誰も住まなくなった家は、息をひそめたまま凛を待っていた。
待っていた、という言い方がふいに胸に浮かんで、凛は眉を寄せた。
そんなふうに思うほど、この家に思い入れがあるわけではない。
子どもの頃、夏休みに数日泊まりに来たことがあるだけだ。
縁側で麦茶を飲んだこと。夜になると廊下がやけに暗かったこと。押し入れのにおい。
祖母が庭を見ながら、春はきれいよ、と言ったこと。その程度の、途切れ途切れの記憶しかない。
なのに、錆びた門扉に手をかけた瞬間、どうしてだか胸の奥が小さく痛んだ。
まるで、ここへ帰ってくるのが遅すぎたみたいに。
考えすぎ、と小さく息を吐いて、凛は鍵を差し込んだ。
古い鍵は少しひっかかり、それから観念したように回った。
扉を開けると、ひやりとした空気が流れ出す。
閉め切られた家特有の、木と紙と埃のにおい。凛は靴を脱ぎ、無人の玄関に一歩踏み入れた。
しんとしている。
壁際の電話台も、擦りガラスの引き戸も、きちんと揃えられたままのスリッパも、持ち主だけが消えてしまったみたいに整然としていた。
祖母は几帳面な人だった。会うたびに少し緊張するような、背筋の伸びた人。
けれど一度だけ、凛が小学生のころ、熱を出して寝込んだ夜に、祖母の膝が思いがけずやわらかかったのを覚えている。
思い出そうとしなければ出てこないような記憶ばかりだ。
なのに今日は、家のあちこちに触れるたび、それが向こうから浮かんでくる。
凛はバッグを置き、居間へ向かった。
障子を開けると、南向きの部屋に薄い光が落ちていた。
座卓の上には、祖母が最後まで使っていたらしい眼鏡と、閉じた文庫本が一冊。
誰もいないのに、ついさっきまでここで読書をしていたような気配が残っている。
凛は文庫本を手に取った。
表紙は色褪せ、題名もほとんど消えかけている。
ぱらりと開いた拍子に、中から細い銀色のものが滑り落ちた。
反射的に手を伸ばしたが、畳に落ちる方が早かった。
小さな音がして、花びらみたいな形の栞が転がる。
銀細工というほど大げさではないけれど、今どき売っているような量産品にも見えない。
薄い金属板を桜の花びらの形に抜き、その先にごく細い鎖がついている。
鎖の先端には、淡く曇った小さな白石。
凛はそれを拾い上げ、指先で裏返した。
裏には、小さな文字が彫られていた。
また春に
思わず、息が止まる。
その短い言葉を、以前どこかで聞いた気がした。誰に。いつ。思い出せない。
思い出せないのに、胸の奥にだけ、先にさざ波が立つ。
凛は栞を握ったまま、庭の桜を見た。
風もないのに、枝先がわずかに揺れている。
そのとき、玄関の方で呼び鈴が鳴った。
凛は現実に引き戻される。
そういえば、市の文化保存課の担当者が来ると言っていた。
祖母の遺した書類や古い家財の中に、保存対象にしたほうがいいものがあるかもしれないから、立ち会ってほしいと。
正直、面倒だった。家を片づけて、必要なものだけ持ち出して、あとは整理業者に任せたい。
祖母の思い出を他人に査定されるみたいで、あまり気分もよくない。
もう一度だけ掌の栞を見下ろしてから、凛はそれを文庫本に戻した。
玄関へ向かい、扉を開ける。
外には、黒いスプリングコートを着た男が立っていた。
三十前後だろうか。すらりと背が高く、やわらかそうな顔立ちのわりに、目だけが妙に静かだった。
「雨宮さんですか」
低く落ち着いた声だった。
「市の文化保存課の榊です。お約束していた件で」
「ああ、はい」
「突然すみません。少し早く着いてしまって」
男は軽く頭を下げた。礼儀正しい。けれど凛は、なぜだか一歩も気を許せなかった。
この人は、この家を見ても、古い建物だとか、昭和の意匠だとか、そういうことしか考えないのだろうと思った。
ここに誰がいて、何を食べて、何を待っていたのかなんて、関係ないのだろうと。
「どうぞ」
必要最低限の声でそう言うと、榊は玄関で靴を脱いだ。
上がり框に足を置いたところで、ふと彼の視線が凛の手元に落ちる。
さっき無意識に持ってきてしまったのか、凛の指の間には、あの銀の栞が挟まっていた。
榊はそれを見るなり、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
ごく短い間だったが、見間違いではなかった。
「それ」
彼は言いかけて、なぜか言葉を切った。
「……いえ。なくさないほうがいいです」
その言い方が妙に自然で、まるで前から知っているものに触れるみたいで、凛はかえって警戒した。
「古いだけの、しおりですよね」
「たぶん」
榊はそう言ったが、視線はまだ栞に残っている。
たぶん、のわりに、確信がある顔だった。
凛は栞を握りこんだ。
春の匂いがした。
まだ桜は散っていないのに、なぜかもう、何かが終わりかけているときの匂いだった。
「確認って、どこまで見るんですか」
居間へ通しながら、凛はわざと事務的に訊いた。
「書類と、本棚と、押し入れ。あと蔵があれば見せてください。家自体は取り壊し予定でも、個別に残したほうがいいものがあるかもしれないので」
「蔵はありません」
「そうですか」
榊は室内を見回した。じろじろ見るという感じではない。
ただ、何かを数えるみたいに、壁や建具や床の傷を静かに目で追っていく。
その仕草が妙に気に障って、凛は先回りするように言った。
「別に、大した家じゃないです。祖母がひとりで住んでただけで」
「そうですね」
肯定が早くて、凛はむっとした。
「でも、大したことのない家ほど、あとで残らないので」
榊は縁側の向こうに広がる桜を見たまま続けた。
凛は口をつぐむ。
反論したかったのに、その言葉にはどこか温度があった。
建物ではなく、ここで過ぎた時間の話をしているみたいだった。
榊はコートのポケットから白い手袋を取り出し、はめた。
「祖母さまのお名前、改めて確認してもいいですか」
「雨宮志津」
「桜坂の家には、いつ頃から」
「詳しくは知りません。祖父の代からだと思います。昔は別荘みたいな扱いだったって聞いたことがありますけど」
「別荘」
榊が小さく繰り返す。凛はそれが記録のための復唱だと思った。
なのに、彼の声音には、なぜか確かめるような響きが混じっていた。
「何かありますか」
「いえ。ただ、庭の造りがそんな感じだったので」
あくまで淡々とした説明だったが、凛はそれでもまだ気に入らなかった。
「そんなに珍しいもの、あります?」
「見てみないとわかりません」
「残す価値があるかどうかってことですよね」
榊はようやく凛を見た。その目は穏やかだったが、逃げない目でもあった。
「価値、という言い方がいちばん誤解を招くんですけど」
「でもそういうことじゃないんですか」
「違います」
意外なほどきっぱり言われて、凛は言葉を失った。
「高価かどうかでも、有名かどうかでもないです。ここで暮らした人が、どういう時間を持っていたかが残るものなら、残したいと思っています」
凛は思わず笑いそうになった。
そういう綺麗なことを、役所の人間が言うのかと思ったからだ。
けれど榊の顔には取り繕った感じがまったくない。
むしろ、自分でも少し言いすぎたと思ったのか、視線を逸らして書類ケースを開いた。
「……すみません。うまく言えなくて」
「別に」
凛はそう返したが、少しだけ肩の力が抜けているのを自覚した。
榊は最初に本棚を見たいと言った。
居間の隣の和室には、天井近くまである造りつけの棚があり、祖母の本や古い帳面が詰め込まれている。
凛は踏み台を出しながら言った。
「こういうの、全部見るんですか」
「背表紙と中身をざっと。古い写真帳や書簡が混ざっていることがあるので」
「他人の手紙まで?」
「読むためじゃないです。保存の必要があるかどうか確認するだけです」
「似たようなものじゃないですか」
榊は手を止めた。それから、少しだけ困ったように笑う。
「そう言われると、反論しにくいですね」
その表情が、思ったより若かった。
初対面の硬さが一瞬ほどけ、凛は不意を突かれる。
けれどすぐに榊はまた仕事の顔に戻った。
一冊一冊抜き出して確認する手つきは驚くほど丁寧で、慣れていた。
紙魚に食われた和綴じ本も、表紙の剥がれた洋書も、乱暴に扱わない。
凛は縁側近くに腰を下ろし、なんとなくその手元を見ていた。
「雨宮さんは、この家にあまり来られなかったんですか」
「はい。祖母、あんまり人を呼ぶ感じじゃなかったので」
「そうですか」
「父も母も仕事が忙しかったし。私はたまに預けられるくらいで」
言いながら、凛は少し意外に思った。
どうしてこんなことを説明しているのだろう。相手はただの担当者なのに。
榊は棚の上段から一冊のアルバムを抜いた。
布張りの古い写真帳だった。留め金が緩み、端が変色している。
「開けても?」
「どうぞ」
白手袋の指が慎重に表紙をめくる。
最初の頁には、若い女が写っていた。
きちんと髪を結い上げ、着物姿で縁側に座っている。
その隣には、小さな女の子。どちらもこちらを見ていない。
庭のどこかを見て、微かに笑っている。
凛は身を乗り出した。
「これ、祖母かな……」
「若いですね」
「祖母、こんな柔らかい顔するんだ」
思わず漏れた言葉に、榊がこちらを見る。
「ご存じない表情でしたか」
「知りませんでした。いつももっと、ぴしっとしてたから」
榊は何も言わなかった。
ただ、次の頁をめくる指先がさっきよりわずかに遅い。
そこには庭の桜が写っていた。
今よりずっと若い木だ。それでも枝ぶりに同じ気配がある。
幹のそばには、和服の青年と少女が立っていた。
青年はまっすぐ前を向き、少女は少し伏し目がちで、手には本を抱えている。
凛は知らず、息をひそめた。
「この人たちは……?」
「ご親族でしょうか」
「わからないです。祖母の親戚なんて、ほとんど聞いたことないから」
写真の端に、墨で細い文字が書かれていた。
朔、紗代。大正四年四月。
その名を見た瞬間、凛の胸の奥で何かがかすかに震えた。
理由のない懐かしさ。
会ったこともないはずの人の名なのに、ひと目見ただけで取りこぼしたものを思い出しそうになる。
榊も写真を見つめたまま動かない。
「どうしました」
問いかけると、彼は少し遅れて顔を上げた。
「いえ」
だが、否定する声がわずかに掠れていた。
そのときだった。
ぱた、と軽い音がして、写真帳のあいだから何かが落ちた。
折りたたまれた薄茶色の封筒だった。
封はされておらず、長いあいだ頁に挟まれていたらしく、中央に折り目がついている。
榊が拾おうとするより先に、凛が手を伸ばした。
封筒の表には、古い筆文字でこう書かれていた。
紗代様
凛は一瞬ためらった。勝手に見るのはためらわれる。
けれどここまで来て、見ないという選択のほうが不自然だった。
榊も止めなかった。むしろ、息を殺して待っているようだった。
凛は封筒から、薄い便箋を引き出す。
古い紙の乾いた手触り。墨の色は少し褪せていたが、文字は思ったより鮮明だった。
最初の一行を目で追った瞬間、凛は指先に力を入れた。
紗代、春になったら、今度こそ迎えに行く。
その短い文の向こうから、知らないはずの誰かの焦りが、まっすぐ胸へ流れこんできた。
なぜだろう。
ただの昔の手紙なのに。
凛は便箋を持つ手を少し下ろした。息がうまく吸えない。
読まなければ、と思うのに、先へ進むのが怖い気さえした。
その横で、榊が低く言う。
「雨宮さん」
呼ばれただけなのに、肩が跳ねる。
「……今日は、そこまでにしたほうがいいかもしれません」
凛は顔を上げた。
榊の目は手紙ではなく、凛を見ていた。
紙の色よりもずっと白くなった自分の顔を見て、そう言ったのだとわかる。
「平気です」
反射的に返した声は、自分でもわかるほど固かった。
「たぶん、少し……昔の字に慣れてないだけで」
「無理しなくていいです」
その声音が妙にやさしくて、凛はかえって腹が立った。
自分でも何に苛立っているのかわからない。
ただ、知らない人に見透かされたくなかった。
この家に踏み込んできたばかりの人に、胸のざわつきまで触れられたくなかった。
「仕事ですよね」
凛は便箋を封筒へ戻しながら言った。
「だったら、続けてください。今日終わらせたいので」
榊はすぐには答えなかった。
縁側の向こうで、ようやく風が起きた。
庭の桜が大きく揺れ、薄紅の花びらがいくつもガラス戸に触れてすべり落ちる。
その音を聞きながら、榊は静かに頷いた。
「わかりました」
けれどそのあと、彼は写真帳を閉じ、手紙と封筒を丁寧に重ねて凛の前へ置いた。
「ただ、これは、なくさないでください」
白手袋の指先が、封筒の端をかすかに押さえる。
さっき銀の栞に向けたのと、ほとんど同じ口調だった。
なくさないほうがいい、ではない。
なくさないでください。
その違いに、なぜか凛は言い返せなかった。
庭では花びらが散り始めている。
まだ満開のはずなのに、もう何かが動き出している気がした。
凛は封筒を見下ろしたまま、そっと指先で宛名をなぞる。
紗代様。
知らない名前だった。
知らないはずなのに、その文字の上に触れた途端、胸の奥のどこかが、遅れて春になったみたいに痛んだ。
坂の上に建つ古い家は、記憶の中よりもずっと小さく、けれど庭の桜だけは不自然なくらい大きかった。
曇り空の下でも枝いっぱいに花を抱え、いまにも風が吹けば、庭じゅうを薄紅にしてしまいそうだった。
門柱には古びた表札の跡だけが残り、文字はもう剥がれている。
祖母が亡くなってからひと月あまり、誰も住まなくなった家は、息をひそめたまま凛を待っていた。
待っていた、という言い方がふいに胸に浮かんで、凛は眉を寄せた。
そんなふうに思うほど、この家に思い入れがあるわけではない。
子どもの頃、夏休みに数日泊まりに来たことがあるだけだ。
縁側で麦茶を飲んだこと。夜になると廊下がやけに暗かったこと。押し入れのにおい。
祖母が庭を見ながら、春はきれいよ、と言ったこと。その程度の、途切れ途切れの記憶しかない。
なのに、錆びた門扉に手をかけた瞬間、どうしてだか胸の奥が小さく痛んだ。
まるで、ここへ帰ってくるのが遅すぎたみたいに。
考えすぎ、と小さく息を吐いて、凛は鍵を差し込んだ。
古い鍵は少しひっかかり、それから観念したように回った。
扉を開けると、ひやりとした空気が流れ出す。
閉め切られた家特有の、木と紙と埃のにおい。凛は靴を脱ぎ、無人の玄関に一歩踏み入れた。
しんとしている。
壁際の電話台も、擦りガラスの引き戸も、きちんと揃えられたままのスリッパも、持ち主だけが消えてしまったみたいに整然としていた。
祖母は几帳面な人だった。会うたびに少し緊張するような、背筋の伸びた人。
けれど一度だけ、凛が小学生のころ、熱を出して寝込んだ夜に、祖母の膝が思いがけずやわらかかったのを覚えている。
思い出そうとしなければ出てこないような記憶ばかりだ。
なのに今日は、家のあちこちに触れるたび、それが向こうから浮かんでくる。
凛はバッグを置き、居間へ向かった。
障子を開けると、南向きの部屋に薄い光が落ちていた。
座卓の上には、祖母が最後まで使っていたらしい眼鏡と、閉じた文庫本が一冊。
誰もいないのに、ついさっきまでここで読書をしていたような気配が残っている。
凛は文庫本を手に取った。
表紙は色褪せ、題名もほとんど消えかけている。
ぱらりと開いた拍子に、中から細い銀色のものが滑り落ちた。
反射的に手を伸ばしたが、畳に落ちる方が早かった。
小さな音がして、花びらみたいな形の栞が転がる。
銀細工というほど大げさではないけれど、今どき売っているような量産品にも見えない。
薄い金属板を桜の花びらの形に抜き、その先にごく細い鎖がついている。
鎖の先端には、淡く曇った小さな白石。
凛はそれを拾い上げ、指先で裏返した。
裏には、小さな文字が彫られていた。
また春に
思わず、息が止まる。
その短い言葉を、以前どこかで聞いた気がした。誰に。いつ。思い出せない。
思い出せないのに、胸の奥にだけ、先にさざ波が立つ。
凛は栞を握ったまま、庭の桜を見た。
風もないのに、枝先がわずかに揺れている。
そのとき、玄関の方で呼び鈴が鳴った。
凛は現実に引き戻される。
そういえば、市の文化保存課の担当者が来ると言っていた。
祖母の遺した書類や古い家財の中に、保存対象にしたほうがいいものがあるかもしれないから、立ち会ってほしいと。
正直、面倒だった。家を片づけて、必要なものだけ持ち出して、あとは整理業者に任せたい。
祖母の思い出を他人に査定されるみたいで、あまり気分もよくない。
もう一度だけ掌の栞を見下ろしてから、凛はそれを文庫本に戻した。
玄関へ向かい、扉を開ける。
外には、黒いスプリングコートを着た男が立っていた。
三十前後だろうか。すらりと背が高く、やわらかそうな顔立ちのわりに、目だけが妙に静かだった。
「雨宮さんですか」
低く落ち着いた声だった。
「市の文化保存課の榊です。お約束していた件で」
「ああ、はい」
「突然すみません。少し早く着いてしまって」
男は軽く頭を下げた。礼儀正しい。けれど凛は、なぜだか一歩も気を許せなかった。
この人は、この家を見ても、古い建物だとか、昭和の意匠だとか、そういうことしか考えないのだろうと思った。
ここに誰がいて、何を食べて、何を待っていたのかなんて、関係ないのだろうと。
「どうぞ」
必要最低限の声でそう言うと、榊は玄関で靴を脱いだ。
上がり框に足を置いたところで、ふと彼の視線が凛の手元に落ちる。
さっき無意識に持ってきてしまったのか、凛の指の間には、あの銀の栞が挟まっていた。
榊はそれを見るなり、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
ごく短い間だったが、見間違いではなかった。
「それ」
彼は言いかけて、なぜか言葉を切った。
「……いえ。なくさないほうがいいです」
その言い方が妙に自然で、まるで前から知っているものに触れるみたいで、凛はかえって警戒した。
「古いだけの、しおりですよね」
「たぶん」
榊はそう言ったが、視線はまだ栞に残っている。
たぶん、のわりに、確信がある顔だった。
凛は栞を握りこんだ。
春の匂いがした。
まだ桜は散っていないのに、なぜかもう、何かが終わりかけているときの匂いだった。
「確認って、どこまで見るんですか」
居間へ通しながら、凛はわざと事務的に訊いた。
「書類と、本棚と、押し入れ。あと蔵があれば見せてください。家自体は取り壊し予定でも、個別に残したほうがいいものがあるかもしれないので」
「蔵はありません」
「そうですか」
榊は室内を見回した。じろじろ見るという感じではない。
ただ、何かを数えるみたいに、壁や建具や床の傷を静かに目で追っていく。
その仕草が妙に気に障って、凛は先回りするように言った。
「別に、大した家じゃないです。祖母がひとりで住んでただけで」
「そうですね」
肯定が早くて、凛はむっとした。
「でも、大したことのない家ほど、あとで残らないので」
榊は縁側の向こうに広がる桜を見たまま続けた。
凛は口をつぐむ。
反論したかったのに、その言葉にはどこか温度があった。
建物ではなく、ここで過ぎた時間の話をしているみたいだった。
榊はコートのポケットから白い手袋を取り出し、はめた。
「祖母さまのお名前、改めて確認してもいいですか」
「雨宮志津」
「桜坂の家には、いつ頃から」
「詳しくは知りません。祖父の代からだと思います。昔は別荘みたいな扱いだったって聞いたことがありますけど」
「別荘」
榊が小さく繰り返す。凛はそれが記録のための復唱だと思った。
なのに、彼の声音には、なぜか確かめるような響きが混じっていた。
「何かありますか」
「いえ。ただ、庭の造りがそんな感じだったので」
あくまで淡々とした説明だったが、凛はそれでもまだ気に入らなかった。
「そんなに珍しいもの、あります?」
「見てみないとわかりません」
「残す価値があるかどうかってことですよね」
榊はようやく凛を見た。その目は穏やかだったが、逃げない目でもあった。
「価値、という言い方がいちばん誤解を招くんですけど」
「でもそういうことじゃないんですか」
「違います」
意外なほどきっぱり言われて、凛は言葉を失った。
「高価かどうかでも、有名かどうかでもないです。ここで暮らした人が、どういう時間を持っていたかが残るものなら、残したいと思っています」
凛は思わず笑いそうになった。
そういう綺麗なことを、役所の人間が言うのかと思ったからだ。
けれど榊の顔には取り繕った感じがまったくない。
むしろ、自分でも少し言いすぎたと思ったのか、視線を逸らして書類ケースを開いた。
「……すみません。うまく言えなくて」
「別に」
凛はそう返したが、少しだけ肩の力が抜けているのを自覚した。
榊は最初に本棚を見たいと言った。
居間の隣の和室には、天井近くまである造りつけの棚があり、祖母の本や古い帳面が詰め込まれている。
凛は踏み台を出しながら言った。
「こういうの、全部見るんですか」
「背表紙と中身をざっと。古い写真帳や書簡が混ざっていることがあるので」
「他人の手紙まで?」
「読むためじゃないです。保存の必要があるかどうか確認するだけです」
「似たようなものじゃないですか」
榊は手を止めた。それから、少しだけ困ったように笑う。
「そう言われると、反論しにくいですね」
その表情が、思ったより若かった。
初対面の硬さが一瞬ほどけ、凛は不意を突かれる。
けれどすぐに榊はまた仕事の顔に戻った。
一冊一冊抜き出して確認する手つきは驚くほど丁寧で、慣れていた。
紙魚に食われた和綴じ本も、表紙の剥がれた洋書も、乱暴に扱わない。
凛は縁側近くに腰を下ろし、なんとなくその手元を見ていた。
「雨宮さんは、この家にあまり来られなかったんですか」
「はい。祖母、あんまり人を呼ぶ感じじゃなかったので」
「そうですか」
「父も母も仕事が忙しかったし。私はたまに預けられるくらいで」
言いながら、凛は少し意外に思った。
どうしてこんなことを説明しているのだろう。相手はただの担当者なのに。
榊は棚の上段から一冊のアルバムを抜いた。
布張りの古い写真帳だった。留め金が緩み、端が変色している。
「開けても?」
「どうぞ」
白手袋の指が慎重に表紙をめくる。
最初の頁には、若い女が写っていた。
きちんと髪を結い上げ、着物姿で縁側に座っている。
その隣には、小さな女の子。どちらもこちらを見ていない。
庭のどこかを見て、微かに笑っている。
凛は身を乗り出した。
「これ、祖母かな……」
「若いですね」
「祖母、こんな柔らかい顔するんだ」
思わず漏れた言葉に、榊がこちらを見る。
「ご存じない表情でしたか」
「知りませんでした。いつももっと、ぴしっとしてたから」
榊は何も言わなかった。
ただ、次の頁をめくる指先がさっきよりわずかに遅い。
そこには庭の桜が写っていた。
今よりずっと若い木だ。それでも枝ぶりに同じ気配がある。
幹のそばには、和服の青年と少女が立っていた。
青年はまっすぐ前を向き、少女は少し伏し目がちで、手には本を抱えている。
凛は知らず、息をひそめた。
「この人たちは……?」
「ご親族でしょうか」
「わからないです。祖母の親戚なんて、ほとんど聞いたことないから」
写真の端に、墨で細い文字が書かれていた。
朔、紗代。大正四年四月。
その名を見た瞬間、凛の胸の奥で何かがかすかに震えた。
理由のない懐かしさ。
会ったこともないはずの人の名なのに、ひと目見ただけで取りこぼしたものを思い出しそうになる。
榊も写真を見つめたまま動かない。
「どうしました」
問いかけると、彼は少し遅れて顔を上げた。
「いえ」
だが、否定する声がわずかに掠れていた。
そのときだった。
ぱた、と軽い音がして、写真帳のあいだから何かが落ちた。
折りたたまれた薄茶色の封筒だった。
封はされておらず、長いあいだ頁に挟まれていたらしく、中央に折り目がついている。
榊が拾おうとするより先に、凛が手を伸ばした。
封筒の表には、古い筆文字でこう書かれていた。
紗代様
凛は一瞬ためらった。勝手に見るのはためらわれる。
けれどここまで来て、見ないという選択のほうが不自然だった。
榊も止めなかった。むしろ、息を殺して待っているようだった。
凛は封筒から、薄い便箋を引き出す。
古い紙の乾いた手触り。墨の色は少し褪せていたが、文字は思ったより鮮明だった。
最初の一行を目で追った瞬間、凛は指先に力を入れた。
紗代、春になったら、今度こそ迎えに行く。
その短い文の向こうから、知らないはずの誰かの焦りが、まっすぐ胸へ流れこんできた。
なぜだろう。
ただの昔の手紙なのに。
凛は便箋を持つ手を少し下ろした。息がうまく吸えない。
読まなければ、と思うのに、先へ進むのが怖い気さえした。
その横で、榊が低く言う。
「雨宮さん」
呼ばれただけなのに、肩が跳ねる。
「……今日は、そこまでにしたほうがいいかもしれません」
凛は顔を上げた。
榊の目は手紙ではなく、凛を見ていた。
紙の色よりもずっと白くなった自分の顔を見て、そう言ったのだとわかる。
「平気です」
反射的に返した声は、自分でもわかるほど固かった。
「たぶん、少し……昔の字に慣れてないだけで」
「無理しなくていいです」
その声音が妙にやさしくて、凛はかえって腹が立った。
自分でも何に苛立っているのかわからない。
ただ、知らない人に見透かされたくなかった。
この家に踏み込んできたばかりの人に、胸のざわつきまで触れられたくなかった。
「仕事ですよね」
凛は便箋を封筒へ戻しながら言った。
「だったら、続けてください。今日終わらせたいので」
榊はすぐには答えなかった。
縁側の向こうで、ようやく風が起きた。
庭の桜が大きく揺れ、薄紅の花びらがいくつもガラス戸に触れてすべり落ちる。
その音を聞きながら、榊は静かに頷いた。
「わかりました」
けれどそのあと、彼は写真帳を閉じ、手紙と封筒を丁寧に重ねて凛の前へ置いた。
「ただ、これは、なくさないでください」
白手袋の指先が、封筒の端をかすかに押さえる。
さっき銀の栞に向けたのと、ほとんど同じ口調だった。
なくさないほうがいい、ではない。
なくさないでください。
その違いに、なぜか凛は言い返せなかった。
庭では花びらが散り始めている。
まだ満開のはずなのに、もう何かが動き出している気がした。
凛は封筒を見下ろしたまま、そっと指先で宛名をなぞる。
紗代様。
知らない名前だった。
知らないはずなのに、その文字の上に触れた途端、胸の奥のどこかが、遅れて春になったみたいに痛んだ。



