それは、僕たちの自宅療養が終わる日のことだった。
明日からは学校に通わなくてはならない。
しかし、舞桜は明らかに怨霊へと近づいていた。
いつも苦しそうに『ふーふー』と呼吸をしながら、トンボ玉を抱き締めている。
舞桜の体からは黒い靄のようなものが立ち上がり、目が窪んで見える。
それに関係しているのだろう。僕の体調も悪くなっている。
体は怠いし、食欲もない。寝ても悪夢ばかり見る。
この一週間、八神先輩に毎日会ってキスをしてもらって何とかここまできたけれども、それも限界なのかもしれない。
桜の花は全て散り、青々とした新芽が日差しを受けキラキラと輝いている。
新緑が芽吹くこの季節も綺麗だけれど、僕たちにしてみたら悲しい季節の始まりだ。
『一颯……』
舞桜が弱々しく僕の名を呼ぶ。
「舞桜、辛いの?」
僕に向かい弱々しく差し出された手を、そっと掴む。
『ごめんね。私のせいで、一颯にまで辛い思いをさせて……』
「何言ってるんだよ。自分のほうが辛いだろうに」
『私は大丈夫。自分のことより、私は一颯が心配なんだ』
そう言いながら微笑む舞桜。
その笑顔は透き通っていて、怖いくらいだ。
自分のほうが辛いだろうに、無理して笑顔を作る舞桜が痛々しくて……。涙が出そうになる。
「ごめんね、舞桜。桜の花が散っちゃった」
『ううん、大丈夫。私はもう覚悟ができているから。例え怨霊になって地獄に引きずり込まれても、一颯と八神様のことは絶対に忘れないからね』
「舞桜、そんなこと言わないで……。最期まで希望を捨てないでよ」
僕は舞桜の手を握る自分の手に、更に力を込める。
だって、舞桜には最期まで諦めてほしくなんてない。
舞桜は可愛くて、優しい霊だった。
最初に会ったときには、それはびっくりしたし、時々暴走して迷惑を被ったけれど……。
僕は舞桜が大好きだ。
優しくて、可愛い舞桜が大好きなんだ。
だから怨霊になってほしくない。
できることならば、禅さんと再会して幸せに成仏してほしい。
(禅さん、お願いだから舞桜を迎えに来て……)
もう何度もそう願った。
でもその希望は叶わず、桜は全て散ってしまった……。
その時──。
優しい光を放っていた舞桜の体が、徐々に黒い瘴気に包まれ始めていた。
その瞳からは、かつての温かさは消え失せ、底知れない怨念が宿りつつある。
『苦しい……苦しい……。禅さん……』
苦しそうに愛しい人の名前を呼ぶ舞桜を見ていると、心が張り裂けそうになる。
舞桜は『苦しい』と繰り返しながら、胸の辺りを必死に掻きむしっている。
その形相に、僕は目を見開く。
何とかしなくちゃ……。
頭ではわかっているのに、足に根が生えてしまったかのように体が動かない。
(このままでは、舞桜は完全に怨霊になっちゃう……!)
僕の心は、激しく警鐘を鳴らしていた。
「舞桜、そっちに行ったら駄目だ……!」
僕は、もう変貌しかけている舞桜の体に、必死にしがみついた。
舞桜の体から発せられる瘴気が、僕の肌をじりじりと焼いていく。
熱い痛みが全身を襲い、触れている肌はみるみるうちに赤く爛れてしまった。
舞桜は、強い力で僕を弾き返そうと暴れる。まるで、僕の手を振り払って、地獄へと自らの意思で堕ちていこうとするかのように──。
それでも、僕は決して手を離さなかった。
この手を離してなるものか、という強い思いが、僕の体を動かしていた。
肌が爛れても、骨が砕けても、この舞桜を、かつての優しかった舞桜を、失いたくなんかない。
その一心で、僕は必死に、ただひたすらに、舞桜を抱き締め続けた。
「行かせない……! 絶対に、行かせないから……!」
僕の声は、痛みと決意に震えていた。
舞桜の体はまだ暴れていたけれど、その動きは少しずつ、ほんの少しずつではあるが、弱まっているように感じられた。
それは、僕の必死な思いが、舞桜の心に届き始めている証拠かもしれない。
痛みに耐えながらも、僕は、この温かい光を、もう一度舞桜の中に取り戻すことを強く願っていた。
『一颯……』
「……舞桜? 君は舞桜なの?」
『うん。ありがとう。一颯の声が聞こえたから、またここに戻ってこられたんだ』
「舞桜、お願いだから行かないで。ずっとずっと僕の傍にいて……」
『ありがとう、一颯。私は一颯が大好き』
そう言いながら、舞桜は僕に体を寄せる。
舞桜が僕の手にそっと触れると、不思議と手の爛れが治っていた。きっと舞桜が治してくれたのだろう。
本当に優しい舞桜。僕だって大好きだよ。
『一颯、これを見て』
「え? これは禅さんに貰ったトンボ玉でしょう?」
『そう。ずっと綺麗な桜色だったんだけど、今はこんなにも濁ってしまって、ヒビまで入ってしまっている』
「本当だ」
『多分、このトンボ玉が粉々に砕け散った時、私は怨霊になってしまうのかもしれない。そんな気がするんだ』
「舞桜……」
『地獄へ落ちることは少しだけ怖いけど、それよりも一颯や八神様と会えなくなる方が寂しいかも……』
舞桜は笑って見せるけれど、そんなことは強がりだってわかってしまう。
だから、その笑顔が痛々しく感じられた。
『桜の花が散っちゃったね』
「……うん」
僕たちは、いつか来るその瞬間を待つしかできないのだろうか?
何かできることがあると言えば、八神先輩にキスをしてもらうこと。
でもそれさえも、今の舞桜には効果がないような気がした。
『八神様は、今何をしているんだろう?』
「用事があるって。でも夕方には舞桜に会いに、自宅まで来てくれるって言ってたよ」
『本当に? 楽しみだなぁ』
「楽しみだね」
舞桜と二人で部屋の窓から外を眺める。
儚くも美しい花弁が、空に舞い、地面を薄紅色に染め上げていった。
その光景を目にする度に、胸の奥がきゅっと締め付けられるような、深い悲しみが込み上げてくる。まるで、素敵な夢から覚めてしまったかのような、切ない喪失感に包まれる。
けれど、時間の流れは無情だ。散りゆく桜は悲しみを与える間もなく、枝々には瑞々しい新緑が芽吹いていた。
それは、かつての華やかな桜とは全く異なる、穏やかで深みのある緑の葉。
日の光を浴びてキラキラと輝く葉桜の姿は、どうしようもなく美しく、僕の目を覆った。
昼過ぎになり、舞桜はまた苦しみ始める。
黒い靄が室内中に立ち込め、まるで自宅が火事になってしまったかのように感じられる。家に誰もいないことがせめてもの救いだ。
『苦しい……禅さん、禅さん……』
トンボ玉を抱き締め、もだえ苦しむ舞桜。
夕方には八神先輩が会いに来てくれることになっているけれど、それまで舞桜は持つだろうか……。すでに悪霊になりつつある舞桜を見ていると、不安が大波のように襲ってくる。
『禅さん……』
その声を聞いていると、心が張り裂けそうになる。
どうにかしてあげたくて、僕は舞桜に話しかけた。
舞桜の顔は透き通るように青白く、目は赤く輝いて見える。
それは、もう舞桜が怨霊になりかかっている証だった。
「今から八神先輩に来てもらって、抱いてもらおう?」
『でも、一颯……』
「もう、それしか手段はないよ!」
僕は舞桜の目を見つめる。
あんなに可愛らしかった舞桜の面影は、今はない。
これは僕にとって苦渋の選択だった。
舞桜が僕の体に憑依し、八神先輩とキスをするだけでも切なくて悲しかった。
でも、今度は舞桜が八神先輩に抱かれるのを、僕は見ていなければならない。
体は八神先輩と結ばれるけれど、心が結ばれることはない。大好きな八神先輩が舞桜を抱く──。
果たして、僕はそれに耐えられるだろうか?
でも、今はそんなことを言っている場合ではない。
月影先生に相談に乗ってもらおうと思い、何回か電話をしたけれど出てもらえなかった。彼は売れっ子の作家さんだから、もしかしたら忙しい時期なのかもしれない。
僕は八神先輩に今すぐ来てもらおうと、スマホを手に取ろうとした瞬間。そっと、その手を掴まれた。
『一颯、大丈夫。私はこのまま怨霊になるから』
「でも、八神先輩に抱いてもらえれば、もしかしたら成仏ができるかもしれない。僕は……僕は、舞桜に怨霊になってほしくないんだ」
『ありがとう一颯。一颯は本当に優しいね』
舞桜は僕の手をとり、自分の胸の前でそっと抱きしめた。
『でも、体を重ねるっていうことは、愛し合った者同士がすることだよ。陰間である僕は、ただ性欲処理の為にたくさんの男に抱かれてきた。だからこそ、そう思うんだ』
「でも……」
『私が好きなのは八神様ではなくて、禅さんだ。それは今も変わらない』
舞桜の赤く光る瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
結局、禅さんはどうなってしまったのかわからないままだった。
それでも尚、まだ禅さんのことを想い続ける舞桜に、胸が打たれる。
『それに一颯は八神様のことが好きでしょう?』
「……うん」
僕は恥ずかしさを感じながらも、舞桜の目をしっかりと見つめながら頷く。
『だったら尚更、私は八神様に抱いてもらうことなんてできない』
「舞桜、僕は大丈夫だから! だからお願い! 八神先輩にお願いしよう!」
『ううん。僕も、禅さん以外の人に、もう抱かれたくないんだ。このまま地獄へ堕ちるよ。それが僕の運命だったのかもしれない』
「本当に、それでいいの……?」
『うん。でも、最後にもう一度禅さんに会いたかったなぁ』
そう呟く舞桜の瞳から、一粒の涙が零れる。
『ありがとう一颯、私は一颯のことが大好き。だからお願い。一颯、笑って。最後は笑って、さようならをしてほしいな』
「舞桜……」
『一颯と八神様と過ごした日々は本当に楽しかった』
なんて綺麗な笑顔なんだろう。その時僕は思う。
とても可憐で、可愛らしくて、笑顔が透き通るくらい綺麗で……。
しかし、舞桜がずっと大切にしていたトンボ玉が、残酷にも砕け散る。
そしてこれが、僕が見た舞桜の最後の笑顔だった。
◇◆◇◆
夕方になり、舞桜の様子がいよいよとおかしくなってきた。
不安に駆られた僕は、八神先輩に「できるだけ早くこっちに来てほしい」とメールをした。すると、「わかった、すぐに向かう」と返信がくる。
それに僕は胸を撫で下ろす。
こうやって、舞桜と二人きりでいることが辛くなってきたから。
もう舞桜は、以前の舞桜じゃない。
きっと、これが怨霊というものなのだろう……。
真っ赤な太陽が沈み、辺りが暗くなってくる。
暗闇が訪れると同時に、ますます不安は強くなってきた。
僕はスマホを握り締める。
(八神先輩早く来て……!)
僕はもう祈ることしかできなかった。
その時、黒い影がゆらりと揺れる。
「……なんだ?」
恐る恐る舞桜がいる方へ視線を移すと、そこに舞桜はいない。
先ほどまで、苦しそうに蹲りながらトンボ玉の欠片を抱き締めていたのに……。
「舞桜」
そっと名前を呼んでみる。
(まさか本当に、成仏してしまったのかな……)
そう思った次の瞬間。
背後から『はぁ、はぁ……』という苦しそうな呼吸の音が漏れてくる。それは、本当に僕のすぐ後ろから聞こえてきていた。
冷たい風が背後から吹き抜け、頬をそっと撫でていく。僕はその冷気に、ブルッと身震いをした。それと同時に感じる強い悪寒。
体が金縛りにあったかのように動かない。冷たい汗が、全身を伝っていくのを感じた。
後ろを振り返りたいけど、振り返れない。
きっと、僕の背後には、見てはいけないものがいるはずだから──。
金縛りが解けた瞬間、背後から黒い靄のようなものが立ち込める。
僕が恐る恐る振り返った瞬間。
「わぁぁぁぁ‼」
そこには黒くて大きな影が僕を包み込もうとしていた。
「う、嘘だろう……。これが舞桜のはずがない……。舞桜のはずが……」
僕の視線の先には怨霊がいた。
漆黒の瘴気を纏い、その目は赤く爛々と輝いている。
『一颯、一颯……』
舞桜と思われる怨霊が、ゆっくり、ゆっくりと僕に近付いてくる。
今目の前にいるのは、もう舞桜じゃない。あの優しかった舞桜の面影なんて、どこにもなかった。
(怖い……)
僕は初めて舞桜に対し恐怖を感じた。
舞桜はもう舞桜ではない。怨霊になってしまったのだ。
驚きと恐怖から腰が抜けてしまい、その場に力なく座りこんでしまう。
『禅さん、禅さん……』
舞桜はブツブツと何かを呟きながら、僕の方へと更に近寄ってくる。そして、僕の目の前で立ち止まった。
その姿が恐ろしくて、体がガタガタと震える。
「ま、お……」
やめて、と言いたいのに、声を発することもできない。
真っ黒な瘴気に包まれた舞桜を、ただ見上げた。
『ねぇ、その体ちょうだい?』
「え?」
『その体ちょうだい?』
「い、嫌だ……!」
僕の叫び声は、空しく闇に吸い込まれていった。
舞桜の、いや、怨霊と化したそれは、僕の意識に直接語りかけてきた。
僕の心と体を乗っ取ろうと、その邪悪なエネルギーが僕を包み込む。
全身が粟立ち、激しい拒絶反応を起こすのに、抵抗する力がどんどん弱まっていく。
内側から侵食される感覚。
まるで、自分の体が自分のものではないかのように、意識が遠のき、視界が歪んでいく。
どれだけ抗っても、もがいても、その侵食を止めることはできない。
(このままじゃ、乗っ取られちゃう──⁉)
最後に残った理性で、僕は必死に抗ったけれど、それも虚しく、僕の意識は深い闇の中へと引きずり込まれていった。
完全に体を乗っ取られた瞬間、僕の口から漏れたのは、もう僕のものではない、冷たい嗤い声だった。その目には、憎しみと怨念が宿っている。
僕は、僕でなくなってしまった。
「八神先輩、八神先輩……!」
舞桜の中で何度も彼の名前を呼んだけれど、それは言葉にならない。
ただ、八神先輩の身に危険が迫っているのを感じた。
「八神先輩、逃げて……!」
僕は舞桜の中で叫ぶ。
その時、舞桜が床に落ちているスマホを手に取る。
(一体何をする気だ……? まさか……)
僕の頭の中に一つの仮説が浮かび、一気に血の気が引いていく。
舞桜は器用にスマホを扱いはじめた。
いつスマホの扱いを覚えたんだ?と不思議に思っていると、静かな室内に舞桜の声が響き渡った。
『もしもし、八神先輩ですか? 僕です、雪村です』
(あぁ、やっぱり……)
僕の仮説は、最悪の形で的中してしまう。
『今から、あの池に来てくれますか? そう。舞桜と禅さんが心中したあの池です。どうしても先輩に見せたいものがあって』
駄目だ、八神先輩……逃げて……。
『はい。わかりました。じゃあ、あの池で』
最後にそう言うと、舞桜は静かにスマホをきって、床に放り投げる。
八神先輩……‼
『禅さん、私は絶対にあなたを許さない。一緒に地獄へと堕ちましょう』
そう言い残すと、舞桜は僕の部屋を後にした。
◇◆◇◆
舞桜は迷わず、あの池へと向かった。
運動音痴の僕の体とは思えないほど、素早く動く足。
僕の体は、もう舞桜に完全に乗っ取られてしまったらしい。
『許せない、許せない、禅め、禅め……‼』
舞桜は同じことを呟きながら走り続ける。
(最悪の結末を迎えてしまった……)
僕は思う。
あんなに可愛かった舞桜が……。
(舞桜、八神先輩に何をするつもりなんだ……)
僕は嫌な予感がした。
あの池に着くと、八神先輩はすでに辿り着いていた。
池の周りの桜の木の花弁は散り果て、薄桃色の花弁が池の水面を覆うように浮かんでいる。
三人で眺めた、美しい桜の花はもう見ることができない。
「雪村?」
八神先輩が僕に向かって話しかけてくる。
そんな八神先輩の顔を見た瞬間、ふと頭にある映像が浮かんできた。
そこには舞桜がいて、いつものように微笑んでいる。そして、その横には、舞桜のことを愛しそうな表情で見つめる禅さんがいた。
(あぁ、これは……。きっと舞桜の記憶だ)
咄嗟にそう思う。
ここは陰間茶屋だろうか? 舞桜と禅さんが花火を一緒に眺めている。きっとこれは、『桜祭り』の日の記憶だ。
舞桜と禅さんは、二人で体を寄せ合い、窓から花火を眺めている。
夜空に広がる大輪を、舞桜は目を細めて見つめていた。時々ドンドンという大きな音と共に、遠くから賑やかな人々の声と、お囃子の音が聞こえてくる。
そんな光景だけで、舞桜の心はウキウキしている。
『舞桜、花火が綺麗だね』
『はい。とっても綺麗です。私もいつか桜祭りに行ってみたいな』
『じゃあ来年の桜祭りは一緒に行こう? 俺も舞桜と一緒に祭りに行きたい』
『でも……。私を一日陰間茶屋から連れ出すには、大金がかかってしまいます』
『そんなことは構わない。私は舞桜の夢を叶えてやりたいんだ』
『禅さん……』
その言葉を聞いた舞桜の表情が、まるで夜空の花火が上がったときのように、一瞬で明るくなる。
『じゃあ、来年一緒に桜祭りへ行こう。約束だぞ』
『はい。禅さん、楽しみにしています』
二人は見つめ合いながら、小指を絡め合わせ指切りをする。
次から次へと打ち上げられる花火が、夜空でパッと花を咲かせ、まるで星屑のようにキラキラと消えて行く。
舞桜と禅は、体を寄せ合い幸せな思いで、花火を見つめる。
そんな舞桜の長い髪には、桜の花弁を閉じ込めたトンボ玉が光輝いていたのだった。
しかし、この約束は果たされたけれど、二人はこの池で心中してしまう。
楽しく、色褪せることのない思い出と共に『死』を選んだ二人。
ずっとずっと一緒にいたいと思い、二人は心中という悲しい選択をした。
来世では、きっと結ばれると信じて……。
それなのに、禅さんを見つけることはできず、舞桜はこうして怨霊になってしまった。
こんなにも幸せだった二人の結末は、これしかなかったのだろうか?
もっと、違う選択肢はなかったのだろうか?
二人は、来世では幸せになれると信じていたはずなのに……。
「雪村……? 違う。君は舞桜か?」
『禅さん……禅さん……』
「舞桜? 本当に君は、舞桜なのかい?」
『禅さん……。ようやく見つけた……』
漆黒の暗闇の中、怨霊に憑かれた舞桜が蠢いて現れた。
その体は青白く、周りには冷たい空気が流れている。池の水面がザワザワと音を立てて揺れた。
「君……本当に舞桜なのか……?」
八神先輩が後退る。
舞桜の目は真っ赤に燃え、憎しみと怨念が込み上げている。
その視線は鋭く、八神先輩をじっと見つめていた。
『あなたも……私の苦しみを知るのだ……。私と一緒に地獄へ行こう』
「舞桜……。お前、怨霊になっちまったのか……?」
舞桜の姿を見た八神先輩の顔が一瞬で青ざめ、言葉を詰まらせる。
『なんで私を置いていってしまったの? 来世で再会して、また愛し合おうって約束したのに……。私を残してどこへ行ってしまったの……?』
「舞桜、俺は君が探している禅さんじゃない」
『いいえ、あなたは禅さんだ』
「舞桜、聞いてくれ! 俺は……」
『うるさい! 黙れ!』
そう叫ぶと、舞桜は突然八神先輩に飛び掛かり、青白い両手で彼の首を絞めつけた。
「く、うぐぅ……」
八神先輩が苦しそうな呻き声をあげる。
それでも舞桜の、長くて細い指は八神先輩の首を絞めつけていく。
八神先輩は苦しそうに息を切らし、顔が真っ赤になり始めた。
「舞桜、駄目だ! やめてくれ!」
『黙れ、一颯! もうお前の体は私のものだ!』
「八神先輩の代わりに、僕が一緒に地獄へ行ってあげる。だから寂しくなんかないよ!」
僕は必死に舞桜に語り掛ける。
この言葉は舞桜には届かないかもしれない。それでも、声の限り叫び続けた。
「だからお願い! 八神先輩から手を離して! 彼は舞桜が探している人じゃない! その人は禅さんじゃないんだ!」
『うるさい‼』
突然の舞桜の大声が空気を切り裂いたような錯覚に襲われる。
(もう、舞桜には何を言っても届かない……)
僕は絶望に圧し潰されてしまう。
『禅さん、一緒に地獄へと行きましょう。もう、決して離れることのないように……』
舞桜は力を入れ続け、八神先輩の首からはギシギシという音が聞こえてきた。
八神先輩の両手は空中に振り上げられ、何かを掴もうとしていたけれど、それは徒労に終わった。
地獄の炎が近づき、熱い空気が襲ってくる。
八神先輩の必死の抵抗も、舞桜の力が強すぎて逃れられそうにない。
『禅さん。私と一緒に、行きましょう……』
舞桜の言葉は暗闇の中で響き渡り、八神先輩は朦朧とした目で舞桜を見つめる。
真っ赤だった八神先輩の顔が、次第に青ざめていく。
今にも途切れてしまいそうなはずなのに、八神先輩の瞳の光は、まだそこにあった。口元が震えながら空気を求めて、声が振り絞られる。
「わかった……舞桜……っ俺と一緒に、地獄へ、堕ちよう……」
『…………』
「だから……雪村だけは、助けてやってくれ……彼の体を、返してやってほしい……っ」
八神先輩が舞桜の手を掴み、そう囁く。
その言葉に僕の胸は熱くなる。
結ばれなかった二人は、また悲劇を繰り返してしまうのだろうか?
舞桜と禅さんは、どうしても結ばれない運命なのだろうか?
神様とはなんて意地悪なのだろう。
舞桜と禅さんは、ただ純粋に愛し合っているだけなのに──。
どうにか、舞桜と禅さんを一緒に成仏させてあげたい。
神様、お願いです。どうか僕の願いを叶えてください。
僕がそう願った時……。奇跡が起きた。
『舞桜』
八神先輩がそっと舞桜の頭を撫でる。
その表情は、舞桜を想う愛情に満ち溢れていた。
(あれは八神先輩じゃない。もしかして……)
僕は咄嗟に思う。
この人が、禅さんだと──。
それは、禅さんが八神先輩に憑依した瞬間だった。
『舞桜、一人きりにさせてごめん。俺はどうにかあの壺の封印を解いて、君のことをずっと探していたんだ。よかった。ようやく君を見つけられて……』
『……ぜん、さん……』
『あぁ、そうだよ。俺は禅だ。舞桜、ずっと会いたかった』
『禅さん……。禅さんなの……?』
舞桜から発せられていた瘴気は消え去り、赤く光っていた舞桜の瞳が、いつもの優しい輝きを取り戻す。
禅さんは体を起こし、舞桜をそっと抱き寄せた。
『君が怨霊となり地獄へ堕ちるのであれば、俺も共に行こう』
『禅さん……』
『これからは、ずっと一緒だよ』
再会の喜びを分かち合う二人を、優しい光が包み込んだ。
僕と八神先輩が目を覚ました時には、舞桜と禅さんが光に包まれ、天へと昇っていく瞬間だった。
ずっと探し求め合っていた二人の魂は、長い時を経て再び巡り合い、お互いの存在を確かめ合うように、そっと抱きしめ合っていた。
舞桜の髪には、桜の花を閉じ込めたトンボ玉の簪が輝きを放ちながら刺さっている。
「舞桜、禅さんに会えたんだね」
震える声で尋ねると、舞桜がいつものように可愛らしく笑う。
『うん。私、ようやく禅さんと再会できたよ。一颯ありがとう』
舞桜の横には、八神先輩にそっくりな顔をした男性が、そっと寄り添っている。
(あれが禅さん……)
ようやく二人が再会できた喜びに、僕の胸が震え、頬を幾筋もの涙が伝う。
「よかった、よかったね、舞桜……」
肩を揺らし泣く僕の体を、八神先輩がそっと抱き寄せてくれた。
『一颯、八神様、迷惑をかけてごめんなさい。でもこれで、私たちは二人で成仏できるよ』
「舞桜。行っちゃうの?」
『うん。天国へね』
「じゃあ、今、舞桜は幸せだね?」
『うん。とっても幸せだよ』
そしてゆっくりと彼らの体は光の粒子となって、空へと舞い上がっていく。
キラキラと輝くその光は、夜空に美しく散りばめられた。
『ねぇ、一颯。一颯も幸せになってね。私は遠くから、一颯のことを見守っているから』
「ありがとう。僕も、頑張ってみるよ」
『離れていても、心はずっとずっと一緒だよ』
「うん。わかった」
『じゃあ、行くね。ありがとう。一颯、八神様』
「舞桜!」
二人は愛と喜びの中で一つになり、広大な夜空へと消えていった。
そこは、もはや苦しみも悲しみもない、幸せな世界だろう。
「舞桜、ありがとう。そして、さようなら」
二人は光り輝く、夜空の煌めく星となった。
「舞桜が行っちゃった……」
「あぁ。行っちゃったな」
涙を流し続ける僕を八神先輩がギュッと抱き締めてくれる。
まるで夢のような出来事が、今終わった。
僕は八神先輩の腕の中で、多幸感と安心感に包まれる。
「大丈夫。これからもずっと、俺は雪村の傍にいるから」
「八神先輩……」
「俺たちも、これからはずっと一緒だ」
僕たちは強く抱き締め合った後、二人が消えて行った夜空を見つめたのだった。



