桜の花が散る時までに


 桜の花は、僕がいくら願っても散り続ける。そして、葉桜が目立つようになってきた。
 夜桜もとても綺麗だけれど、今はそんな悠長なことは言っていられない。
 桜の花が散っていく度、舞桜は段々元気を失っていく。
 いつもの笑顔は影を潜め、禅さんから貰ったトンボ玉を大切そうに胸に抱き、茫然としていることが増えてきた。
 それは僕たちが自宅療養を始めて三日目のことだった。
 舞桜の元気がないせいか、僕の体にも少しずつ異変が現れ始める。
 以前にも増して元気は出ないし、食欲も湧かない。自宅療養中だったのが、せめてもの救いだった。
 明日もまた、八神先輩と会うことになっている。
 毎日決まった時間にあの橋で待ち合わせをして、橋の下を流れている川に行ってみたり、近所の神社で何をするでもなく一緒に過ご している。
 それでも、八神先輩は舞桜に会うたびに優しい言葉をかけてくれる。だから、舞桜も八神先輩に会えることを、とても楽しみにしているのだ。
「舞桜。明日も八神先輩に会えるから、今日は早く寝よう」
 そう舞桜に声をかけても返事はない。いつもなら、『おやすみ』って笑ってくれるのに……。
 心配になって舞桜の顔を覗き込んだ瞬間「わぁぁぁ!」と僕は叫び声を上げ、舞桜から体を離す。幸い僕の叫び声は家族に聞こえていなかったらしく、家の中は静まり返ったままだ。


「舞桜……」
 僕はもう一度名前を呼んだ瞬間、彼の体から、じわりと黒い(もや)が湧き出し始めた。それはまるで、心の奥底から溢れ出る憎しみと悲しみが混ざり合ったかのように、みるみるうちに舞桜の体を覆いつくしていく。
『うぅ、苦しい……苦しい……』
 舞桜は苦しそうに呻き声を上げ、その瞳は血のように真っ赤な色に変わっていった。
 可愛らしかった面影は消え失せ、怨念に満ちた形相へと変わっていく。
 僕は恐怖に震えながらも、思わず彼の名前を叫んだ。
「舞桜!」
 その声が届いたかのように、舞桜の動きが一瞬止まる。
 僕は迷わず、その黒い靄に包まれた体を強く抱き締めた。
「舞桜! 舞桜! 飲み込まれたら駄目だ! 怨霊になっちゃう……!」
『い、ぶき……?』
「そうだよ、僕は一颯だ。だから舞桜、しっかりして!」
 ギュッと抱き締めた舞桜の体は冷たそうに見えるのに、温かく感じられる。
 僕の腕の中で、舞桜から湧き出ていた黒い靄はゆっくりと消え失せ、真っ赤だった瞳は再び澄んだ輝きを取り戻していく。
 そして僕の腕の中には、いつも通りの可愛らしい舞桜が横たわっていた。
『一颯、怖かった。あのまま怨霊になってしまうかと思った……』
「大丈夫。大丈夫だよ。今はいつも通りの舞桜だから」
『本当に? よかった』
 舞桜は安心したかのように、そっと僕の胸に顔を埋めた。


(舞桜は少しずつ怨霊になりつつある)
 僕の中で焦燥感が高まっていく。
 何とかしなければ……と思うのに、いい案が浮かんでこない。
(どうしたらいいんだ……)
 僕は舞桜を抱きしめたまま、途方に暮れてしまった。

◇◆◇◆

 翌日、僕は更に体調が悪くなっていた。
 体は怠くて仕方がないし、ベッドから起き上がるのも億劫なくらいだ。
 隣にいる舞桜を見ると、穏やかな顔をして眠っている。
「舞桜」
 僕はそっと名前を呼び、頭を優しく撫でてやる。
 本当ならば、舞桜はきっと禅さんに頭を撫でて欲しいのだろう。でも「今は僕で我慢してね」と、舞桜に向かってそっと呟く。
 今頃、禅さんは何をしているのだろうか?
 本当に舞桜を置いて成仏してしまったのか、それとも未だに舞桜を探し続けているのか……。
 どちらかはわからないけれど、できることならもう一度だけでも舞桜を禅さんに会わせてあげたい。その気持ちは舞桜と出会った頃から変わってはいない。
「舞桜、八神先輩に会いに行こう」
『う、うぅ……』
 そっと舞桜の体を揺らすと、まだ眠いのか嫌そうに顔を顰める。
 僕はそんな舞桜に安堵する。
(良かった。いつもの舞桜だ)
 それから僕は、八神先輩と待ち合わせをしている、あの橋へと向かう支度を始めた。


「おい雪村。君、大丈夫か?」
「え?」
「凄く体調が悪そうじゃないか?」
 八神先輩は僕の顔を見るなり、驚きを隠せなかったようだ。
 確かに今の僕は立っているのもやっとのくらい、体調が優れない。
 春真っ盛りの今、少しずつ気温は上昇し日差しも強い。舞桜が怨霊になっていくと同時に、僕の体にも異変が起きているのだろう。
「実は……」
 僕は昨夜舞桜の身に起こったことを、八神先輩に話した。
 八神先輩は目を見開いてびっくりした後、「そんなことがあったんだ……」と唸るように呟く。
「とりあえず、雪村も具合が悪そうだから、どこか休める場所に行こう? ここから雪村のおばあちゃん()って近いんだっけ?」
「はい。ばあちゃん()はすぐそこです」
「じゃあ、そこで休ませてもらえるかな?」
「はい。大丈夫だと思います」
「じゃあ、行こう」
 僕は八神先輩にそっと背中を押され、祖母の家へと向かった。

◇◆◇◆

 祖母の家へ行くと、母親から事情を聞いていたらしく、祖母が心配しながら僕を出迎えてくれた。
 僕は小さい頃から『おばあちゃん子』で、よく祖母の家に泊まりに来ている。だから祖母の家に、僕の部屋が一室あるのだ。
「ごめんね、ばあちゃん。先輩も連れてきた」と一言断りを入れてから、長い廊下を通り、祖母の家にある自室へと向かう。
 舞桜も祖母の家に久しぶりに来たせいか、少しだけ元気を取り戻していることが嬉しかった。
「八神先輩、あんまり綺麗にしてないけど入ってください」
「じゃあ、お邪魔します」
 そう言うと、八神先輩は僕が用意した座布団の上に座る。
(八神先輩が僕の部屋にいる……)
 祖母の家に着いてから、僕の心臓は高鳴りっぱなしだ。
 どうしたらいいかわからず落ち着けずにいると、先輩のほうから声をかけてきてくれた。


「雪村。俺、舞桜と話がしたいんだ。手を貸してもらってもいいかな?」
「あ、はい」
 僕は言われるがまま八神先輩に右手を差し出す。すると、彼は僕の手をそっと握った。
 密室で八神先輩と手を繋いでいるなんて……。緊張のあまり八神先輩の顔を見ることさえできない。心臓の鼓動がどんどん速くなり、八神先輩に握られている手が小さく震えた。
「舞桜、大丈夫かい?」
 静かな室内に八神先輩の声が響く。
 最近の舞桜の顔は透き通るように白く、今にも消えてしまいそうだ。そんな舞桜を見た八神先輩の顔が苦痛で歪む。
『八神様、ご心配をおかけして申し訳ありません』
「いや、大丈夫だよ。そんなことより、俺は舞桜が心配なんだ」
『八神様……』
 八神先輩の優しい言葉に舞桜の表情が緩む。
(よかった……)
 僕はそんな舞桜を見ていると、安心するのだ。


『一颯と八神様にお願い事があるのです』
「お願い事? 一体どんなこと?」
 遠慮しがちに言葉を紡ぐ舞桜の背中をそっと擦ってやる。
 舞桜が怨霊にならないで済むのであれば、自分にできることなら何でもしてあげたい──。僕はそう思っていた。
『実はこの前、八神様に頬に口づけ……キスをされたとき、ほんの少し元気になった気がするんです。だから、一颯の体を借りて、また八神様にキスをしてほしいのです』
「俺が舞桜にキスをすればいいのかい?」
『はい』
 僕と八神先輩は顔を見合わす。
 まさか舞桜の口から『キスしてほしい』などという言葉が出てくるとは思わなかったのだ。
 だからと言って、この非常事態に、舞桜が嘘をついているとは思えない。
 きっと彼は本心から、八神先輩にキスをしてほしいと思っているのだろう。
 八神先輩の頬がうっすらと赤く染まっていく。それから「わかった、いいよ。キスしてあげる」と笑う。
 そんな二人のやり取りを見ていると、僕の心が締め付けられるように痛む。なんとかして舞桜を助けてあげたいと、心の底から思った。


「僕もいいよ、舞桜。体を貸してあげるから」
『ありがとうございます。一颯、八神様』
 そう言うと舞桜の体が視界から消える。ふっと、自分の体が遠くなった。
『八神様、頬にキスしてください』
 僕に憑依した舞桜はまるで幼子のように、可愛らしくキスをねだった。
 その純粋な眼差しに、八神先輩の表情が柔らかくなる。「いいよ、キスしてあげる」と舞桜の耳元で囁くと、くすぐったいのか舞桜がくすくすと笑う。
 少し照れながらも、八神先輩が舞桜の頬にそっと顔を寄せた。舞桜の白い肌は、ひんやりと冷たい。
 八神先輩の唇が、ふわりと舞桜の頬に触れる。すると舞桜の顔に、はにかんだような笑顔が浮かんだ。
 僕と舞桜の心の中には、甘く、そして温かい感情が広がっていく。
 それは、言葉にならない、優しい愛の言葉のように感じられた。
『八神様、もう一度キスをください』
「いいよ。舞桜の為だったら何でもしてあげたい」
 八神先輩が僕の体を、自分の方へと引き寄せる。
 それから触れるだけの、優しいキスをくれた。
 八神先輩の唇は柔らかくて、温かい。冷え切った舞桜の心に、春の日差しが差し込んだような暖かさが戻ってくるのを感じる。
 それと同時に、僕の体も少しだけ軽くなったのを感じた。
(八神先輩のキスって、本当に元気になるんだ……)
 僕と舞桜は、この愛しい瞬間に、ただただ心を委ねていた。


 でも、八神先輩が舞桜にキスした瞬間、チクリと心が痛む。
(なんだ、これは……)
 僕はこの得体の知れない感情に強い戸惑いを感じる。
 八神先輩がキスしたのは僕ではなく、舞桜にしたんだ。
 それが心の中に、まるで棘のように突き刺さっている。
(僕も……僕だって、八神先輩にキスしてほしい……)
 その瞬間、僕は自分が八神先輩のことを好きになっていたことに気付いた。
 この気持ちに僕は驚き、同時に恥ずかしさに襲われる。
 顔が真っ赤になり、頭の中が真っ白になるような感覚だった。
 いつの間に僕はこんなにも八神先輩に惹かれてしまったのだろう? 彼は『高嶺の花』だとずっと思っていたのに……。
 僕は戸惑いながらも、その気持ちを抑えることができなかった。
 八神先輩は僕を通して舞桜に笑いかけている。
 それだけで僕の胸はいっぱいになってしまう。それは、嬉しさもあれば、何か切ないものも混じっているように感じられた。
(僕は、舞桜に嫉妬しているんだ)
 恥ずかしさと戸惑いが交じり合って、僕の心を強く揺さぶった。


 ほんの少しの戯れの後、八神先輩が僕の顔を覗き込む。
「どう? 少しは元気出たか?」
『やっぱり少し元気になった気がします』
「じゃあ、キスをすることで、舞桜が少し元気になれるんだな」
『はい。ありがとうございます』
 舞桜が潤んだ瞳で八神先輩を見つめる。
(すごく嫌な予感がする……)
 あの舞桜が、頬にキスをしてもらっただけで大人しく引き下がるとは思えない。
 舞桜に向かって「それ以上は調子に乗るなよ!」と叫んでみるものの、僕の言葉など最初から聞く耳を持っていないらしい。
 頬を赤らめ、八神先輩に体を密着させる。
 八神先輩もこういったシチュエーションには慣れているかもしれないけれど、相手はプロの陰間だ。戸惑いを隠しきれていない。


『八神様、舞桜は頬だけではなく、唇にもキスしてほしいです』
「え?」
『お願いです』
 そう言いながら、舞桜は八神先輩の唇を、指先でそっとなぞる。
 八神先輩は「舞桜、ちょっと待て! 落ち着けって!」と逃げ出そうとしている。しかし呆気なく舞桜に腕を掴まれてしまい、それは叶わなかった。
 僕は舞桜に向かって大声で叫んだ。


「舞桜、僕の体で勝手なことをするな!」
『だって、口移しの方が八神様から力を貰えそうじゃない?』
「でも、僕は今までキスをしたことがないんだ。ファーストキスは大切にとっておきたいんだよ!」
『ファーストキス?』
「そう! 初めてキスをすることだよ。ファーストキスは『大好きな人』とって、ずっと思ってたんだ。だから、舞桜、これ以上はやめてくれ!」
『そんなことを言ったって……』
「それに見てみろよ! 八神先輩だって困ってるじゃないか⁉」
『…………』


 八神先輩は一瞬驚いたような顔をしていた。けれど、すぐに少しはにかんだような笑顔を浮かべる。その笑顔に、舞桜の心は期待と少しの緊張で震えた。
「口移しの方が、より力が貰えそうってことか?」
『はい、そうです』
「じゃあ、仕方ないか……」
『八神様……』
 僕は思ってもいない展開に度肝を抜かれてしまう。
 舞桜が八神先輩とキス──。
 そう考えただけで、心がザワザワしてくる。
(この体は僕のものなのに……)
 自分の意思とは関係なく、舞桜に好き勝手されることが腹立たしいし、悲しくなってくる。
 僕の大切なファーストキスが、こんな形で終わるなんて……。
 でも舞桜が僕の体から出て行ってくれない限り、僕にはどうしようもない。

 
 八神先輩の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
 その瞬間、舞桜が僕の体から離れたのを感じる。
 そして、温かい先輩の唇が、僕の唇にそっと触れた。
(これが、キス……)
 それはまるで夢のような瞬間だった。
 先輩の唇は僕が想像している以上に柔らかく、そして、ほんのりと甘い香りがする。
 その甘さは僕の心を溶かし、全身に温かい電流が走るような感覚だった。
 僕は、このままこの瞬間に閉じ込められたいと思った。
 それと同時に、全身から力がみなぎってくるのを感じる。


『ファーストキスは好きな相手とできたんだから、もういいでしょ?』
 その時、頭の隅で舞桜の声が聞こえてくる。
 次の瞬間には体の自由が利かなくなり、声も出なくなってしまった。舞桜が再び僕の体に憑依したのだろう。
 舞桜なりに、僕のファーストキスを気遣ってくれたらしい。
 その瞬間だけ、僕の体から離れてくれたようだ。
(でも、舞桜はいつから、僕が八神先輩のことが好きだって気づいていたんだろう)
 そう思うと恥ずかしくなってくる。
 それでも、僕はずっと憧れていた八神先輩とキスができたことが嬉しかった。
 後は舞桜の好きにさせてあげよう。
 僕は舞桜と八神先輩を静かに見守った。


 唇が離れても、その甘い感触はまだ残っていた。
 舞桜はもっとこの温かさを感じていたいと思ったのだろう。
 八神先輩の目を見つめ、少し恥ずかしそうに、でもはっきりと呟いた。
『八神様。もう一度……』
「あぁ。わかった」
 八神先輩は舞桜の願いに優しく微笑んでくれた。
 そして何の躊躇いもなく、再び顔を近づけてくれる。
 二度目のキスは、一度目よりも更に深く、そしてゆっくりとしたものだった。
 先輩の唇が、僕の唇を包み込むように重なり、その温かさが全身に染み渡っていく。
 舞桜は八神先輩の首にそっと腕を回し、その甘く、そして深いキスにただ身を委ねた。
 僕と舞桜は、この瞬間がずっと続いてほしいと心から願う。
 不安や戸惑いは、もうどこにもなかった。
 ただ、先輩の優しさが僕たちの心を支配していた。


『八神様。ありがとうございました。私、大分元気になりました』
「それはよかったな」
 僕の体から離れた舞桜の頬は、林檎のように赤く色づいていて、先ほどより大分元気そうだ。
「よかった……」
 そう思ったのは束の間。舞桜が僕の体から離れてしまった後は、僕と先輩の間に気まずい空気が流れる。
 咄嗟に八神先輩から体を離したものの、心臓は口から飛び出るほどドキドキしているし、顔から火が出そうなほど恥ずかしい。
 穴があったら入りたい、とはこういうことを言うのだろう。
 先輩の方を盗み見ると、先ほどまでキスをしていたせいか、唇が艶々と光って見える。
 そんな姿を見た僕は、更に恥ずかしくなってしまった。
「舞桜、元気になったみたいでよかったな」
「あ、はい。色々とすみませんでした」
 その後も僕と八神先輩はギクシャクしたまま、時間だけが過ぎていく。
(家に帰ったら、絶対に舞桜に文句を言ってやろう) 
 僕はそう心に誓ったのだった。

◇◆◇◆

 僕たちが自宅療養を言い渡されて五日目。その頃は四月の半ばに差し掛かっていて、桜はもうほとんど葉桜になってしまっていた。
 自宅療養中にもかかわらず、八神先輩は毎日舞桜に会いに来てくれた。最近は祖母の家で一緒に過ごしている。
 かつて可愛らしい笑顔で僕たちを魅了してくれていた舞桜は、今では苦しみに満ちた表情をしていた。
 その苦しみは体の芯から滲み出てくるようなもので、周りの空気すら重く押し付けてくるようだった。
 しかしその苦しみにもかかわらず、舞桜は何かに抗いながら、まるで何かに引き寄せられるように怨霊へと近づいていった。
 苦しみとの狭間で、舞桜の心は激しく揺れ動いているように感じられる。
 大切なものをどうしても手に入れたいという思いと、もう無理なのだという諦め。
『苦しい……苦しい……』
 そう言いながら、トンボ玉を抱き締める舞桜を見ていると、僕の心は引き裂かれそうなほど痛んだ。
 どうにかしてあげたいけれど、何もしてあげられない。
 その無力感に、ただただ打ちのめされた。
 そんな舞桜の楽しみが、八神先輩に会うことだった。
「舞桜。大丈夫か?」
『はい、八神様』
 八神先輩に会うと苦しそうな表情が少しだけ緩み、笑顔を見せる。
 そんな舞桜の顔を見ることが僕は嬉しかった。


 八神先輩と初めてキスをした日、僕は初めて八神先輩のことが好きなんだと自覚した。
 でも舞桜は、それ以前に僕が八神先輩に惹かれていることに気付いていたらしい。
 そんな舞桜に、僕はそっと問いかけた。
「ねぇ、舞桜。どうして僕が八神先輩のことが好きだって気付いたの?」
『え⁉ 近くで見てたら一目瞭然だったよ。八神先輩が大好きですって、顔に書いてあったもん』
「本当に? 超恥ずかしいんだけど……」
『一颯は本当に鈍感だね。自分の思いにも気づかないなんて』
 そうやって僕を茶化す舞桜に、顔がどんどん火照っていくのがわかる。
『でもね、誰かを本気で好きになるって、とっても素敵なことだよ』
 舞桜が春の日差しのように、ふんわりと笑う。
 でも、僕だって本当は気付いていたんだ。
 八神先輩のことが好きだって──。
 だけど、あんな『高嶺の花』に恋をしたところで、この思いは報われることなんてない。だから、八神先輩に恋焦がれる思いに気付かないふりをしてきた。


 八神先輩とキスをして以来、僕と八神先輩は会うたびにキスをするようになった。
 でも、そのキスは八神先輩と舞桜がしているのであって、僕はそれをただ見ているだけだ。
 今も僕の体に憑依した舞桜が、可愛らしく八神先輩にキスをねだっている。
『八神様、今日もキスをしていただけますか?』
「うん、いいよ。こっちにおいで」
『はい』
 しばらく見つめ合った後、柔らかく重なる唇と唇。
 深い口づけに舞桜が『あ、んぁ……』と甘い吐息を吐く。
 潤んだ瞳に、少しだけ乱れた呼吸。今の舞桜は、男を狂わすには十分なほどの魅力を持っているだろう。
 舞桜はツーッと八神先輩の首筋を指でなぞる。
『八神様、もっと、もっとキスをください』
「わかった、わかったから待ってよ」
『でも、早く八神先輩のキスがほしい。ん、あ、はぁ……』
 舞桜は八神先輩の首に自ら腕を回し、彼の唇を強引に奪う。
 柔らかくて、温かくて甘い八神先輩の唇を無心で頬張る舞桜。八神先輩も、そんな情熱的なキスに応えてくれた。
 僕は、それをただ遠くから眺めていることしかできない。


 八神先輩とキスをする度に、体に生命を吹き込まれている感覚がする。
 舞桜だって、これで元気を取り戻すことができるのだ。
 だから「これは舞桜が元気になるために必要なことなんだ」と、何度も自分に言いきかせる。
 でも、僕はヤキモチを妬かずにはいられない。
 僕だって、もう一度、八神先輩とキスがしたい。
 『舞桜』ではなく、『僕』が八神先輩とキスをしてみたいという願望が、日に日に強くなるのを感じる。
 だけど、「僕も八神先輩とキスがしたいです」なんて、弱虫な僕には言えるはずなんてない。


 一度だけ、八神先輩に「雪村だって甘えていいんだぞ?」と言われたことがある。
 舞桜が怨霊に近づくにつれて、体調が悪くなっていく僕を心配してくれたのだろう。
 その時は「はい、ありがとうございます」とお礼を言っただけだったけれど、本当は僕だって八神先輩に甘えてみたい。
 舞桜のように、可愛らしく、艶っぽく。
 幸い、舞桜は八神先輩と一度キスをしたことで心と体が満たされたらしい。僕の体から抜け出し、眠ってしまっている。
(今が、チャンスかもしれない……)
 僕は勇気を振り絞り、近くにある八神先輩の手を握った。


「八神様」
「ん?」
 繋いだ手から温もりがじんわりと心に染み渡る。
 けれど胸の奥では、小さな緊張が波打っていた。
 もう一度先輩の唇に触れたい。その思いは、僕の心を支配していたけれど、同時に言葉にするのが怖かった。
 だから、僕は舞桜のふりをした。
 雪村一颯として、八神先輩にキスをねだる勇気がなかったから──。
 僕は八神先輩の顔をそっと見上げた。彼の優しい瞳が僕を見つめ返してくれる。その視線に、少しだけ勇気をもらった。
 繋いだ手にギュッと力を込める。
 そして震える声で、でも、はっきりと伝えた。
「八神様……あの、もう一回キスしてください」
「もう一回?」
「は、はい」
 僕の言葉に八神先輩は驚いたような顔をしたけれど、すぐにいつものように笑ってくれた。
「いいよ。じゃあ、目を閉じて?」
「……はい」
 その言葉に、僕の心臓がトクンと跳ねる。
 目を閉じると、八神先輩の温かな唇が、僕の唇にそっと重なった。
 それは僕の緊張を優しく包み込み、安心感を与えてくれるようなキスだった。
(ようやく、僕が八神先輩とキスをすることができたんだ……)
 嬉しくて、胸の奥が熱くなる。
 胸がいっぱいになり、涙が一筋頬を伝う。八神先輩に気付かれてはいないだろうか?と心配になってしまった。
 今まで満たされなかった幸福感が、静かに満たされていくのを感じる。
 僕は舞桜としてではなく、雪村一颯として八神先輩とキスをすることができたことが、心の底から嬉しかった。
 そんな僕の耳元で、八神先輩がフッと笑う。


「舞桜のふりなんかしなくても……」
「え?」
「素直に自分もキスしてほしいって言えばいいじゃん?」
「…………⁉」
「君、雪村だろ? バレバレなんだよ」
 八神先輩の悪戯っ子のような笑みに、一瞬心臓が止まりそうになった。
 まさかバレていたなんて……。
 恥ずかしさのあまり、僕はその場から逃げ出したくなってしまう。
「な、なんで、わかったんですか……?」
「舞桜と違ってキスが下手くそだったから」
「……そんなぁ……」
 僕はもう消えてなくなりたかった。
 舞桜のふりをしてキスをねだっただけでなく、キスが下手だなんて言われてしまうなんて……。 
 僕はあまりの恥ずかしさに、頭を抱えて蹲る。
(もう消えてなくなりたい……)
 目頭が熱くなり、床にあるシミが歪んで見えた。その時──。
 僕は八神先輩に腕を引かれ、気が付いた時には彼の逞しい胸の中にいた。


「キスは下手くそだけど、そんな不器用なところが可愛いよ」
「え?」
「雪村には雪村のいいところがたくさんある」
「僕のいいところ、ですか?」
「そう」
 僕は八神先輩の言っていることが理解できなかった。
 元々僕は自分に自信のない地味なタイプの人間だ。八神先輩のように、みんなの人気者になれるような人間ではない。
 そんな僕に、いいところなんてあるはずがないじゃないか?
 僕が黙って俯いていると、優しく髪を撫でてくれる。
「舞桜の為に一生懸命になっているところなんて、本当に尊敬する。俺も頑張らなくちゃ、って思えた」
「そんな、僕……」
「誰かの為に一生懸命になれるなんて、本当に凄いよ。よく頑張ってると思う」
「八神、先輩……」
 僕は八神先輩に言われたことが嬉しくて、言葉を失ってしまう。
 こんな地味で、なんの取り柄もない僕が、みんなの『高嶺の花』である八神先輩に褒めてもらえるなんて。
 八神先輩の真っすぐな言葉が、僕の心にじんわりと広がっていく。
「あ、ありがとうございます」
「でもさ。あんまり一人で抱え込むなよな? 大丈夫。君には俺がついてるから」
 その一言が、今僕が抱えている悩みや不安を全て吹き飛ばしてくれるような気がする。
 八神先輩の言葉は、僕にとって何よりも確かなご褒美であり、明日への大きな力となった。
「俺は、雪村が可愛いよ」
 八神先輩が僕の前髪を掻き上げ、そっと唇を押し当てる。彼の唇が触れた場所が、少しずつ温もりを帯びていく。
 僕はこの瞬間を、大切な宝物のように心に刻み込む。
(あぁ、僕はやっぱり八神先輩が好きなんだ)
 温かくて逞しい腕の中で、僕はぼんやりとそう思った。