桜の花が散る時までに

 
『見て見て、一颯!』
 舞桜の甲高い歓声が、朝の静けさを破って響く。
 僕も思わず「本当に綺麗だね」と、心の底から湧き上がる感動を声にした。
 舞桜と顔を見合わせ、その美しさにただ魅了された。
 風がそよぐ度に、花弁がハラハラと舞い落ち、地面をピンク色に染めていく。
 その光景は、あまりにも美しく、そして同時に胸の奥にじんわりと広がる、寂しさも感じさせた。
(この桜が散ってしまう頃には……)
 この素晴らしい瞬間は、やがて終わりを迎え、辛い別れがやってくる。
 満開の桜が散っていくその儚さが、こんなにも切ないものだと、僕は初めて知った。
 今までは季節の移り変わりを、ただぼんやりと見ていたけれど、この一瞬一瞬が大切に感じる。
 この光景を、いつまでも胸に留めておきたい。
(どうか、桜よ、散らないで)
 僕は心の底からそう願わずにはいられなかった。


 地面に落ちている桜の小枝を見つける。とても可愛らしくて綺麗だ。
「舞桜、こっちに来て」
『ん? なに?』
 散っていく花弁と戯れていた舞桜を呼ぶ。舞桜は不思議そうに僕の方へと近寄ってきた。
「ほら、これ。舞桜に似合うと思って」
 僕は桜の枝を簪のように、舞桜の髪に刺してやる。
 舞桜と可愛らしい桜はとてもよく似合う。だからこそ、禅さんは桜のトンボ玉を彼に送ったのだろう。
『わあ、嬉しい』
「とっても似合うよ」
『本当に? ありがとう、一颯』
 そう言いながら舞桜が笑う。
 その笑顔は無邪気で、とても透き通って見えた。
 まるで。今にも消えてしまいそうなくらい……。


 最近僕は、舞桜のことが心配で、夜も眠れないし、食事もろくに喉を通らない。
 舞桜自身も顔色が悪く、どんどん元気を失っていく。
 僕たちの周りは花が咲き乱れ、活気づいているのに。そんな華やかな春に、僕たちだけが置き去りにされたように感じられた。
「舞桜。大丈夫?」
『うん。大丈夫だよ』
 心配になって舞桜に声をかけると、舞桜はいつものように笑う。でもその笑顔が透き通っているように見えて、僕は心配になってしまう。
 このまま舞桜が怨霊になってしまうのではないか、と。
 そんな日々が何日か続いた。

◇◆◇◆

「はぁ、次の授業は体育か……」
 僕は大きく息を吐く。
 今日の六時限目の授業は体育だ。
 一日の最後の授業が体育なんて本当についてない。体力のない僕は今にも倒れてしまいそうになってしまう。
 でも舞桜には心配をかけたくないから、あえて平然と振る舞った。
 だけど、僕の体は限界がきていたのかもしれない。
 校庭に出ると強い日差しが差し込み、汗が出てくる。
 僕は体育教師の指示に従って、準備体操をした後に、校庭を走ることになった。
(なんだか体がおかしい……)
 その頃から体調の異変を感じていた。
 体はフラフラするし、視界が歪んで見える。
 舞桜が憑依したのかと思い舞桜を見上げると、茫然と桜を見つめている。
 校庭を走っているうちにどんどん体調は悪化し、目の前が真っ暗になる。
 僕はそのまま、地面に倒れこんでしまった。
「おい、雪村大丈夫か⁉」
 体育教師が心配そうに僕の方へ駆け寄ってくる。
 その声を、僕は薄れていく意識の中で聞いた。


 僕は保健室に運ばれた後、泥のように眠った。
 今までの睡眠不足と、食事が摂れていなかったことから、軽い貧血を起こしたのかもしれない。
 体は思うように動かないし、怠くて仕方がない。
 その時、「失礼します」という八神先輩の声が聞こえた。
 もしかしたら、僕のことを心配して様子を見にきてくれたのだろうか?
 僕は八神先輩が来てくれたことが嬉しくて、起き上がろうとしたけれど、体を動かすことができない。
 
 すると八神先輩と養護教諭の話が遠くから聞こえてきた。
「あの、雪村は大丈夫ですか?」
「うん。たぶん貧血だと思う。悪いけど、先生、どうしても出席しないといけない会議があるから、少しだけ雪村君を見ててもらってもいいかしら? 会議自体はすぐに終わると思うから」
「はい。わかりました」
「もうすぐ雪村君のお母さんが来てくれると思うけど、何かあったら職員室に来てもらえる?」
「はい」
「じゃあ、お願いね」
 そう言うと養護教諭は保健室を後にした。


 放課後の保健室は、夕焼けが差し込みひっそりとしていた。
 八神先輩は僕が寝ているベッドの近くに置いてある椅子に座り、僕のことを見つめている。
「おい、雪村、大丈夫か?」
 八神先輩の問いかけに「大丈夫です」と答える力がない。僕は薄く瞳を開いて頷いた。
「ならよかった。雪村が倒れたって聞いたから、心配で部活を休んで様子を見に来てやったんだ。感謝しろよな」
 そう言いながら八神先輩が僕の頭を撫でてくれる。
 それが気持ちよくて、僕は目を細めた。
 その時、舞桜の『ごめんね、一颯』と言う声が頭の中で響く。
(え? 待ってよ)
 舞桜の声が頭の中で聞こえた後、体が動かなくなる。全身が氷のように冷たくなり「駄目だ、舞桜」と言いたいのに、それは言葉にならない。
(舞桜、一体何をする気だ……)
 舞桜が何を考えているのかがわからず、僕は「やめてくれ!」と叫び続ける。しかし、その言葉は舞桜には届いていないようだ。
 舞桜はゆっくりと体を起こし『八神様』と彼の名を呼ぶ。
 その瞬間、強い風が吹き校庭の桜の木が一斉に揺れる。
 僕の体は、もはや僕の体ではなく、完全に舞桜に乗っ取られてしまっていた。


『八神様』
 舞桜の声はひどく熱を帯びていた。
 その妖艶な仕草はいつもの可愛らしい舞桜ではなく、陰間の舞桜の姿だった。
『八神様、お願いがあります』
「えっと? 君は舞桜だな?」
『はい』
 そう言うと、舞桜は熱っぽい瞳で八神先輩を見つめる。
『一颯は意識がはっきりしていなかったので……』
「そうなのか」
『……まぁ、今は何か言っているようなので、少し休めば元気になりそうです』
 舞桜のやつ、僕の声がちゃんと聞こえているはずなのに、お構いなしで通すつもりだな……!
 舞桜が憑依している元気そうな僕を見て、八神先輩がホッと胸を撫で下ろしたのがわかる。
 部活を休んでまで僕の様子を見に来てくれたなんて……。嬉しくて、心が震えた。


 舞桜は八神先輩の目を見つめながら、少し震える声で囁く。
『八神様、桜の花がもうすぐ散ってしまいます』
 八神先輩の視線が僕の唇に落ちるのを感じながら、舞桜はベッドから足を下ろし、彼が座る椅子の前に立った。
 そして、先輩の膝に手を置き、その感触を確かめるようにゆっくり上体を屈める。
 八神先輩の顔が、僕の目の前にある。
 そして舞桜が、信じられない言葉を呟いた。
『八神様。私を抱いてください……』
 その言葉を紡ぎながら、舞桜は八神先輩の腰に手を回し、ゆっくりと、しかし確かな意志を持って彼の膝に跨った。
 八神先輩の体が一瞬硬直し、その戸惑いが舞桜を通じてじんわりと伝わる。彼の視線は宙を彷徨い、舞桜と視線を合わせようとしない。しかし、その耳は赤く染まっている。
 僕が何度も「舞桜、駄目だ! やめてくれ!」と叫んでも、今の舞桜には届かない。
 何度も体に力を込めて舞桜に抗おうとしたけれど、そんな抵抗は舞桜の前では無力でしかなかった。
 舞桜は八神先輩の膝の上で、彼の温もりを全身で感じながら、ゆっくりと顔を上げた。
 舞桜の視線は、八神先輩の瞳を真っすぐに捉える。
 そして少しだけ挑発するように、舞桜は彼の首筋に顔を近づけ、深く息を吸い込んだ。八神先輩の香りが、舞桜を満たす。
 八神先輩の首筋に顔を埋めた舞桜は、彼の首筋にそっと唇を寄せる。
 そんな舞桜を、八神先輩は拒絶することなく、優しく抱き締めてくれた。
 八神先輩の温かい体温が、僕を包み込む。僕と八神先輩の体温が、少しずつ上昇していった。


 舞桜はもう一度、熱い息を交えながら囁く。 
『八神様。もっと深く私を抱き締めてください』
「舞桜……」
『大丈夫です。私に身を委ねてくだされば、八神様を快楽の世界へとお連れしますから』
「でも……」
『もうすぐ、桜の花が散ってしまいます。もう私には、時間がありません』
 舞桜はまるで八神先輩の一部になりたいと願うかのように、彼の胸に顔を埋めた。
『だから、お願いです。どうか私を抱いてください』
 八神先輩の息遣いが、僕の鼓動と重なるように乱れていく。
 舞桜は八神先輩の顔を両手で包み込み、ゆっくりと、しかし確実に自分の唇を八神先輩に近づけていく。
 その瞬間、八神先輩の瞳が大きく見開かれ、戸惑いの色が更に深まるのがわかった。
 舞桜はそんな八神先輩を見つめてから、そっとその頬に唇を寄せる。チュッという音の後、舞桜は名残惜しそうに八神先輩から体を離した。


『私を抱いてくれますか?』
 もう一度、舞桜が八神先輩に問いかける。
 八神先輩は少し困った顔をした後、自分の両手を包み込んでいた舞桜の手をそっと握り締める。
 それから、優しく、諭すように言葉を紡いだ。
「舞桜、俺は君を抱けないよ?」
『なんでですか? 私が男だからですか?』
「いや、正直陰間さんを舐めていた。今の君は本当に色っぽいよ」
『じゃあ、なんで……』
「俺は禅さんじゃないから」
『え?』
「俺は君が大好きな禅さんじゃない。だから今、君は俺に抱かれたところで成仏なんてできはしないよ」
『で、でも……』
「以前君は、俺に『もしも俺が舞桜を抱くとき、愛しいと思って抱いてほしい。それだけで自分は成仏できるから』って言ってたじゃないか? だから、今の俺たちの関係では、君を成仏させることはできないんじゃないかって、俺は思う」
『そんな……』
「まだ桜が散るまでには時間がある。だからもう少し時間をかけて仲良くなろう? 大丈夫、まだ桜の花弁は散り切ってはいないから」
『八神様……』


 その時、保健室の窓ガラスにパキッという音を立てて、一筋の亀裂が入る。
(なんだ? 今の音)
 最初は小さなひびが、ガラスの表面にひび割れのように広がり始めた。そのひびは、まるで生き物のように、ゆっくりと確実に成長していった。
 やがて、ひびがガラスの中心に到達した瞬間、大きな割れ目が走り、ガラスが粉々に砕け散った。
「危ない!」
 咄嗟に八神先輩が舞桜を庇うように抱き寄せる。
 ガラスは外から圧力をかけられたかのように砕け散り、室内にガラスの破片が散乱していた。
「なんでこんなことが……」
 八神先輩が呆然と呟く。
 冷たい風が室内に吹き込んできて、風で散った桜の花弁がまるで絨毯のように保健室の床に積もっていく。


『……一颯、ごめんなさい』
 舞桜はそう言いながら、僕の中から離れていく。
 僕の体は自由を取り戻したけれど、あまりの恐怖に八神先輩から離れることができずにいる。
 鼓動が速くなり、呼吸が浅くなる。
「なんでこんなことばかりが起こるんだ……」
 僕を必死に守ろうとしてくれたのだろう。八神先輩は力強く僕を抱き締めていて、彼の腕の中から抜け出すことさえできない。聞こえてくる八神先輩の心音が、今にも爆発してしまいそうだ。
 僕は、自分のことを庇ってくれた八神先輩が怪我をしてないかが心配だった。
 廊下が騒がしくなってきたから、きっと先生がこの騒動に気付いたのだろう。こちらにたくさんの足音が近づいてくる。
「大丈夫ですか? 八神先輩」
 僕は恐る恐る声をかける。すると、「俺は大丈夫だ」という力強い八神先輩の声が聞こえてきた。
 僕は八神先輩が無事だったことに安堵する。
 養護教諭が保健室の惨劇を見て悲鳴を上げた。
「これは一体何事なの⁉」
 それから心配そうな顔で僕たちの方に駆けつけてくれる。
 僕たちが無事だということがわかると「よかったぁ!」と目を潤ませていた。


 僕たちは無事だったけれど、先生や両親の反応は深刻だった。この数日の間に、僕たちの身には様々なことが起こりすぎたから。
 階段から落ちたり、図書室の本棚が倒れてきたり。今日は原因もわからず窓ガラスが粉々に砕け散ったのだ。
 周りの大人たちが心配しないわけがない。
 今日から僕と八神先輩は、先生からの勧めで一週間自宅療養することとなった。

◇◆◇◆

 一週間自宅で療養しろと言われても、元気なのだから療養する必要もない。
 それに桜はどんどん散り始めている。
 もう舞桜には時間がない。だから自宅でゆっくり療養していることなんてできないのだ。
 今の僕は気持ちばかり焦ってしまい、空回りしてしまっているように感じられる。
 それでも何かしていないと落ち着かない僕は、自宅療養初日に八神先輩と待ち合わせをして、月影先生のお宅に行くことにした。
 この不可解な現象が起こる原因を、月影先生に相談したかったのだ。 


 待ち合わせ場所で八神先輩を待っているとドキドキしてきてしまう。
 これではまるでデートの待ち合わせみたいだ……。そう思うと、緊張せずにはいられない。
 待ち合わせ場所は、月影先生のお宅のすぐ近くにある橋だ。舞桜と出会ったばかりの頃は、いつもここで二人して夕陽を眺めていた。
 この川の両橋には、見事なまでに満開の桜がまるで生垣のように重なっている。
 風に煽られ無数の花弁が一斉に空高くへと舞い上がった。それはまるで濃いピンク色の霧が、一瞬にして天に向かって吹き出したかのようだ。
 風が止むと、舞い上がった花弁は、川の流れに沿ってまるで絨毯のように静かに川面を覆っていく。
 毎年、この光景をただ「綺麗だな」と眺めていた。
 でも今年は違う。この桜が全て散ってしまう頃には、舞桜は怨霊になってしまうのだ。
 それでも、桜は容赦なく散っていく。僕は季節の移り変わりを残酷なまでに感じていた。


 その時「雪村」と呼ばれた僕は、声がした方に視線を移す。
 そこには私服姿の八神先輩が──。
 制服姿の八神先輩もいいけれど、私服姿の八神先輩もかっこいい。「待たせてごめんな」と僕の方に向かって近づいて来る八神先輩に、しばしの間見惚れてしまう。
 ハッと我に返った僕は、慌てて八神先輩に頭を下げた。


「八神先輩! この前は保健室で僕をガラスから庇ってくれてありがとうございました」
「いや、別に大丈夫だよ。雪村に怪我がなくてよかった」
「八神先輩……」
 八神先輩は一見冷たそうに見えるけれど、とても優しい。僕は高嶺の花に少しだけ近付けたことが嬉しかった。


「それから……」
「ん? なんだよ?」
「あの……」
 僕は八神先輩に言いたいことがまだあるのだけれど、照れ臭くてなかなか言い出すことができない。
「あの、その……」とブツブツ言いながら俯いていると、急に手を握られる。
 びっくりした僕が顔を上げると、八神先輩は僕の右肩を見つめて微笑んだ。
「舞桜、元気にしてるか?」
『八神様……』
「なんだかやつれたんじゃないか? 大丈夫か?」
『八神様に心配していただけるなんて、私、嬉しいです』
 八神先輩に声をかけられた舞桜は、顔を赤らめて照れ臭そうに笑っている。
 久しぶりに見た舞桜の笑顔に、嬉しくなるのと同時に、沸々と怒りが湧いてきた。


「舞桜、まず八神先輩に謝るべきだろう⁉」
『謝るってなにを?』
「何をじゃないだろう⁉ 八神先輩に対してあまりハレンチなことをしないでほしい!」
『はれんち? なにそれ? 別に契りを交わすくらいどうってことないでしょう? 一颯は怒り過ぎだよ』
「舞桜は陰間だったかもしれないけれど、僕はキスだってしたことがないんだ!」
『キス? キスって口づけのこと? そんなことは私には関係ないもん』
「なんだよ、それ⁉ 舞桜の暴走で僕がどれだけ迷惑していることか!」
『だから、いつも謝っているじゃん!』
「謝って済む問題じゃ……」
「まぁまぁ、喧嘩はそこまでにして」
 僕と舞桜の喧嘩を仲裁してくれたのは、八神先輩だった。
 八神先輩の前で激しく言い争ってしまったことに、今更ながら恥ずかしくなってしまう。
 僕はもう一度「すみません!」と頭を下げているのに、舞桜は不貞腐れたような顔をしている。


「落ち着けよ雪村」
「で、でも……」
「俺、雪村って言うか、舞桜に迫られるのは嫌じゃないんだ」
「……え?」
 僕は突然の八神先輩の言葉に目を見開く。
「正直、俺は舞桜が可愛い。だから、あんなふうに誘惑されてしまうと、ついムラムラしちまうんだ。ただそれだけのこと」
「八神先輩が、ムラムラ……」
「それに、俺と雪村は、いつかエッチしなきゃなんだろう? だから、少しくらい構わないよ。俺はもう、覚悟を決めたから」
「…………⁉」
 八神先輩は少し照れたように顔を逸らしながら呟く。
 その言葉に、僕は一瞬息を呑んだ。
 まるで全身に電気が走ったかのように、背筋がゾクゾクとし、心臓が耳元で鳴り響くかのように感じられた。
 予想外の言葉に、全身の血が一気に顔に集まるような感覚で、顔も真っ赤になってしまった。
 周りの空気も熱くなり、繋いでいる手がしっとり汗ばんだ。


 そんな僕たちを見た舞桜が『月影先生のお宅に行くんじゃないの?』と、冷やかし半分に声をかけてくる。
「あ、そうでしたよね」
「じゃ、じゃあ、行くか?」
「はい」
 僕たちは握り合った手を一瞬で離す。
 心臓は今も高鳴りっぱなしだ。
 僕たちは気まずい沈黙のまま、月影先生のお宅へと向かったのだった。

◇◆◇◆

 今日は月影先生に前もって連絡をしておいたから、僕たちがお邪魔した時には笑顔で迎え入れてくれた。
「よく来たね、待ってたよ」
「月影先生、度々お邪魔してしまいすみません」
「いやいや大丈夫だよ。八神君もいらっしゃい。ん?」
 月影先生が八神先輩に向かって笑顔で話しかけている時、ふと真顔になる。
 彼は僕の右肩の方をじっと見つめ、何かを考えているようだ。
(え? 急になんだろう……)
 僕が不安になっていると、月影先生は「じゃあ上がって」といつも通りの笑顔になる。
 月影先生のさっきの反応はなんだったんだろう? 僕は不安に思いながらも、月影先生のお宅へと上がったのだった。


 月影先生はいつものように、お茶とお菓子を出して僕たちをもてなしてくれた。
 それでも、月影先生は僕の右肩の方をじっと見つめている。
 僕の右肩には舞桜がいる。月影先生はきっと舞桜のことを見つめているのだろう。
 それに気付いた僕は、恐る恐る月影先生に声をかけた。
「あの、月影先生。先ほどから、もしかして舞桜のことを見ていますか」
「うん。実はそうなんだ」
「やっぱり……。月影先生は舞桜を見て、何か感じるんですか?」
「うーん……」
 月影先生は低く唸り声を出した後、黙り込んでしまう。
 怖いくらいの沈黙に、僕は八神先輩に視線を送る。すると「大丈夫だ。俺がついてる」と背中を擦ってくれる。
 僕はその大きな手に、体の力を緩めることができた。


「言いにくいんだけど……」
 月影先生が言葉を選ぶように、ゆっくりと話し出す。
 僕と八神先輩は、体を乗り出して月影先生の言葉に耳を傾けた。
「ボクは舞桜君の影しか見ることができないけど、舞桜君の影がどんどん黒くなっている。目も、赤く光っているように感じられるんだ」
「え? どういうことですか?」
「単刀直入に言うと、舞桜君は少しずつ怨霊に近づいているんじゃないかな?」
「……舞桜が、怨霊に?」
「うん。最近君たちの周りで、変わった出来事は起きなかったかい」
「それなんです。それについて、先生の話が聞きたくて。実は……」
 僕は最近起きた出来事を月影先生に話した。
 誰もいない階段で背中を押されて転落したこと。倒れることのない本棚が倒れたこと。保健室のガラスが急に割れたこと。
 しかも、この不思議な現象が起こる時には、舞桜が僕に憑依している時だということ。
 その全てを月影先生に話すと、彼はまた「うーん」と唸り、何かを考え込んでしまった。


 少し間を置いてから、月影先生はポツリポツリと話し始めた。
「舞桜君が、怨霊に近づいているのは間違いなさそうだ。これは……もうあまり時間がないのかもしれない」
「そんな……」
 僕はその言葉に強い衝撃を受ける。
 舞桜が怨霊に。
 舞桜が……。
「あぁ、それから、これは僕の推測だけどね……」

◇◆◇◆

 僕たちは橋の上から桜を眺める。
 先ほど月影先生から聞いた言葉が今でも信じられなくて……。誰も、言葉を発しない。
 橋の上を下校途中の子どもたちが、楽しそうに走っていく。それをぼんやりと見つめた。
 西の空は燃えるような夕焼けに染まり、その光が、眼下の川面に長く黄金色の道を映し出している。
 土手に咲く満開の花が、その夕陽を浴びて、淡い桃色から深い深紅色へと刻々と表情を変えた。
 ふと穏やかな風が吹き抜ける。橋の上を越えて、風に乗った花弁が何枚もはらりと舞い上がった。それは一瞬だけ空中に漂い、やがて川面へと落ちていく。
 川の流れに乗って、花弁たちはゆらゆらと下流へと運ばれていくのだった。
 僕たちはただ、その美しく移ろいゆく光景を、無言で見つめた。


 先ほど月影先生に言われた言葉を思い出す。
 それは衝撃的で、でもひどく悲しいものだった。


「舞桜君は、無意識に禅さんを恨んでいるのかもしれないね」
「舞桜が禅さんを? そんなことあるはずがないです。だって、二人はあんなにも愛し合っていたのに……」
「愛し合っていたからこそ、じゃないのかな?」
 僕は言葉を失ってしまう。
 舞桜が禅さんを恨んでいる。そんなことがあるはずないじゃないか? 隣にいる舞桜に視線を移すと、着物で口元を覆っている。彼も、その言葉を受け入れることができなかったのだろう。
「愛していたからこそ、自分を置いて先に成仏をしてしまった禅さんが許せない。だから、無意識のうちに、禅さんの生まれ変わりである八神君に危害を加えたんじゃないのかな?」
「そんな……」
「でも、そうしたら説明がつくじゃないか? 君たちの周りで不思議なことが起こるときには、舞桜君が一颯君に憑依していた時だということに」
「確かにそうですが……」
「一見、一颯君を狙っているように見える出来事でも、本当に狙われていたのは八神君だったのかもしれないね」
 その月影先生の言葉が、僕たちの胸に突き刺さった。


『私は無意識のうちに、禅さんを恨んでいたのかな?』
「舞桜、それはわからないよ」
『でも、私が禅さんを憎んだ挙句に八神様に危害を加えようとした。そう考えれば、全てが一本の線で繋がるじゃない?』
「舞桜、でも……」
『私が、全て悪い。私は最低な人間だ。あんなにも愛していた人を憎むなんて……』
 舞桜の瞳から涙が溢れ、幾筋も頬を伝う。


『全ては私が、愛するあの人を恨んでしまったから……』


 夕陽の光が舞桜の顔に落ち、その静かに流れる涙が、まるで宝石のように輝いていた。
 彼の表情には深い悲しみが籠っていたけれど、それでも、その涙を流す姿にはどこか美しいものがあった。僕はその光景を、息を呑んで見つめた。
 同時に、胸の奥が締め付けられるような切なさが襲ってくる。
 舞桜の悲しみが、僕の奥底にある何かを失ったような寂しさに響き、心が痛くなった。
(愛していた人を恨んでしまった舞桜は、どんなにも辛いだろうか?)
 その瞬間、僕は自分が何もできないことに、深い無力感に襲われた。
 ただ、舞桜の傍にいて、その涙を見守ることしかできない。
(舞桜になんて声をかけてあげればいいんだろう)
 なんとか舞桜を励ましてあげたくて、僕は試行錯誤を繰り返す。
 でも、気の利いた言葉なんて見つからなかった。


 その時、「なぁ、雪村」と八神先輩が静かに口を開いた。
「舞桜を雪村の体に憑依させてくれないか?」
「でも、そうしたらまた何かが起こるんじゃ……」
「起こってもいい。俺は、このまま舞桜を放っておけないんだ」
「八神先輩……」
 八神先輩の真剣な表情に僕は強い戸惑いを感じる。彼が舞桜を思う気持ちは嬉しいけれど、また何か危害を加えられたら……。
 そう考えると気が進まないが、ハラハラと涙を流す舞桜を見ていると、胸が締め付けられるように痛む。
「わかりました」
 僕は頷いてから、そっと舞桜に声をかけた。


「ねぇ、舞桜。僕に憑依してくれない?」
『でも、私が一颯に憑依したら、きっとまた何かが起こるから……』
「八神先輩が舞桜のことをとても気にかけてくれているよ?」
『……本当にいいの?』
「うん。大丈夫だよ。だから僕に憑依してほしいんだ」
『…………』
 舞桜は少し躊躇った様子を見せたものの、いつものように微笑む。
『わかった。じゃあ、少しだけ一颯の体を借りるね』
「うん」
 そう言った舞桜の姿が消えるのと同時に、目の前の景色がグニャリと歪む。
 舞桜が僕の体に憑依した瞬間、彼の心の痛みが伝わってくる。僕の体を、心が張り裂けそうなほどの悲しみが支配した。


「君は舞桜かい?」
『はい、八神様。この度は本当に申し訳ありませんでし……えっ』
 その時、ゆっくりと僕を包み込むように、八神先輩がそっと腕を回してくれた。
 八神先輩の大きな手が僕の背中を優しく撫で、そのまま強く僕の体を自分の方へと引き寄せる。八神先輩の胸に顔を埋めると、温かい体温と、彼の落ち着いた心臓の音が伝わってきた。
 まるで世界の全てから守られているような、深い安心感が僕と舞桜を包み込んだ。
 舞桜の頬を濡らしていった涙は、八神先輩のシャツに吸い込まれていった。


「俺は大丈夫だから」
『……え?』
「俺は大丈夫だから、こうやってたまには舞桜に触れてみたい」
『でも、そうしたら八神様にまた危害が……』
「だから、俺は大丈夫だから」
 僕を抱き締める八神先輩の腕に、力が込められる。
「だって悪いのは禅さんだ。生まれ変わったら再会しようなんて言っておきながら、一人だけどこかへ行っちまうなんて、最低じゃないか」
『八神様、そんなことはありません!』
「ごめん、舞桜。俺に過去の記憶がなくて……。もし俺に過去の記憶があれば、こんなにも君を苦しめずに済んだのに……。本当にごめん」
『八神様、そんなことはおっしゃらないでください』
「だから、俺は舞桜を守りたい。君を怨霊になんてしてたまるものか」
 僕を抱き締める力強い腕から、八神先輩の強い決心が伝わってくるようだ。
「俺が舞桜を守るから……」
 八神先輩の腕の中で、僕は静かに呼吸を整える。


 ふと彼の温かい手が、僕の頬をそっと包む。
 そしてその柔らかい唇が、そっと僕の額に触れた。それは柔らかく、そしてどこまでも優しい口づけだった。僕の心の奥深くに、じんわりと温かさが広がっていく。
「俺は雪村と、舞桜が大切なんだ。だから、舞桜を怨霊になんてさせないから」
 そのまま八神先輩の唇は、ゆっくりと僕のこめかみを撫でるように滑り、頬へと降りてくる。彼の息遣いがすぐ近くに感じられ、肌が微かに粟立つ。
 そして耳元を通り過ぎ、僕の首筋へとその温もりが移っていった。
 繊細な皮膚の上が、八神先輩の唇の柔らかさに包まれ、全身に甘い痺れが走る。
 彼の吐息が、まるで心の奥底に染み渡るように感じられ、僕はただ、その優しさに身を委ねた。
「俺は雪村も舞桜も可愛いよ」
 その言葉が、胸にスッと染み込んでいく。
(可愛い……。八神先輩が僕のことをそんな風に思ってくれていたなんて……)
 八神先輩の腕の中で、僕と舞桜はただ泣き続けることしかできなかったけれど、不思議と、心の奥に温かい光が宿ったのを感じた。