その翌日から、舞桜の八神先輩への猛アタックが始まった。
「この前みたいに、勝手に体を乗っ取らないでね」
僕は登校前に、舞桜に何度も念を押す。
舞桜は僕の言葉を理解しているのかいないのか、『わかってるよぉ』と笑っていた。
しかし、あんなに厳しく言ったはずなのに、登校中の八神先輩を見つけた舞桜は、早速僕に憑依し、八神先輩に飛びついた。
周りの生徒たちが、不思議そうにその光景を見ていたけれど、舞桜はそんなことにはお構いなしだ。
『八神様、おはようございます』
「あ、うん。おはよう」
僕がいくら「八神先輩から離れろ!」と叫んだところで、舞桜の暴走は止まらない。
「もしかして、君は雪村じゃなくて舞桜だろう?」
『はい、その通りです』
「ここは人目もあるし、雪村に後で怒られるからとりあえず離れてくれ」
『でも……』
「いいから離れろ」
『……わかりました』
シュンとした舞桜が、僕の体から離れていくのを感じる。
(元に戻った……)
僕は胸を撫で下ろす。
それから「すみませんでした」と八神先輩に深々と頭を下げて謝罪する。
八神先輩は「別に大丈夫だから」と笑っていたけれど、僕は舞桜を許すことができそうにない。
「舞桜、後で覚えてろよ?」
『嫌だ、一颯が怖い』
怯えた声を出す舞桜に文句を言いながら、教室へと向かった。
◇◆◇◆
教室について、椅子に座る。
僕は窓際の席だから校庭がよく見える。校庭の桜はもう満開だ。
(この桜が散ってしまえば……)
そう思うと強い焦燥感に襲われる。でもそれを舞桜に悟られたくなくて「大丈夫だから」と平気な顔をして見せた。
これでもし、八神先輩や月影先生がいなかったら、僕はどうなっていただろうか?
桜の木は僕たちの思いとは関係なく、綺麗な花をつけ、そして散っていく。
今までは「桜が綺麗だな」程度にしか感じていなかったけれど、今は違う。
(どうか、桜の花よ、散らないで)
叶わぬことを願わずにはいられない。
でも舞桜は穏やかな顔をしながら、窓の外を眺めている。その表情は、まるで全てを悟っているかのように感じられた。
禅さんと一緒に心中をしたあの日から、舞桜の時計の針は止まったままのような気がする。
『あ、一颯。八神様が校庭にいる』
「あぁ、一時間目が体育なんだろうね」
『そっかぁ。八神様は本当に禅さんにそっくりだなぁ』
愛おしそうな瞳で八神先輩を見つめる舞桜。
禅さんは一体どこにいってしまったのだろうか?
もし本当に舞桜を探していてくれるなら、早く迎えに来てくれればいいのに……。
『ねぇ、舞桜。休み時間に八神様に会いに行こうよ』
「休み時間に? でも……」
「そんなことを言ったら八神先輩に迷惑がかかるよ」と言いかけた言葉を、僕は呑み込む。
もしかしたら、舞桜はもうすぐ怨霊になってしまうかもしれない。そしたら、八神先輩にも会えなくなってしまうんだ。
「わかったよ、舞桜。先輩にメールしておくから」
『本当に? ありがとう、一颯』
僕は舞桜のことがあって以来、八神先輩に連絡先を教えてもらった。でも緊張してしまい、なかなかメールを送ることができずにいる。
でも、無邪気に喜ぶ舞桜を見ていると、できることはなんでもしてやりたいと思ってしまう。
八神先輩に会いたいなら会わせてあげたい。例えそれが禅さんでなくても……。
(よし!)
僕はドキドキしながら『舞桜が八神先輩に会いたがっているんですが、今日時間はありますか?』と、スマホに文章を入力する。
だけど恥ずかしいから、あくまでも『舞桜が会いたがっているんだ』ということを強調したい。
文章が入力し終わったから送信ボタンをタップしようとしたけれど、緊張してなかなか送信ボタンをタップすることができない。
(しっかりしろ、僕!)
窓から外を見ると、桜が風に舞いサラサラと揺れている。
あの桜が散る頃には、舞桜は怨霊になってしまうんだ。それを思うと、迷っている暇なんてない。僕は震える指先で送信ボタンをタップする。
たったそれだけで、今日一日分の力を使い果たしてしまったような気がした。
しばらくすると、八神先輩から『OK。じゃあ昼休みに、音楽室に集合で』というメッセージが届く。
(良かった、先輩に会える)
舞桜に先輩を会わせてあげられることも嬉しかったけれど、僕自身も先輩に会えることが嬉しかった。
昼休みになり僕は音楽室へと向かう。
四階にある音楽室は普段誰かが近寄る場所ではなく、静かな空間だ。音楽室前の階段を上っていると、遠くの方から生徒たちの楽しそうな声が聞こえてくる。でもここならば、八神先輩と手を繋いでいても、誰にも見つからないだろう。
ただ普段運動不足の僕にしてみたら、階段を上るということが大変な作業だ。
息を切らしながら階段を上る、もうすぐで音楽室だ、と思った瞬間、背後から「雪村」と言う声が聞こえてくる。
僕が振り返るとそこには八神先輩の姿が……。彼の息は全く切れておらず、涼しい顔をしている。彼の顔を見た瞬間、舞桜が『八神様!』と嬉しそうな声を上げた。
「舞桜、待って。まだ憑依しないで」
『禅さん!』
舞桜には僕の静止など全く届いていないようだ。彼はいとも簡単に僕の体に入り込み、八神先輩に向かい階段を駈け降りようとした。
その時──。
突然、背中を押されたかと思えば、その衝撃で僕の体は前方に傾いた。
階段で足元が浮いた瞬間、心臓が一瞬止まるような恐怖が走る。
視界がグラッと傾き、「落ちる」と本能的に感じた。
「雪村! 危ない!」
八神先輩の声が、嫌にはっきりと耳に届く。
体が下に向かい落ちていく光景が、不思議とスローモーションのように感じられる。
しかし現実は、体が宙に浮き、もの凄い勢いで階段下に向かい落ちていっていた。
けれど咄嗟に八神先輩が体を乗り出す。彼の目には必死の光があり、全身の力を込めて僕を受け止めようとした。
僕を受け止めた八神先輩は、その衝撃で勢いよく倒れ込む。
しかしその力強い腕に受け止められたおかげで、僕への衝撃は軽くて済んだ。
「危なかった……」
先輩が小さな声で呟く。
彼の胸に体を押し付けられると、激しく鼓動する心臓の音が聞こえてきた。
(もしもここに先輩がいなかったら……)
そう思うと、スッと全身から血の気が引いていく。
「大丈夫か?」
先輩が心配そうに顔を覗き込んできたから、僕は必死に頷く。
「痛いところはないか?」
「はい。僕は大丈夫です。でも、八神先輩は大丈夫ですか?」
「俺は大丈夫だ。なんともないよ」
気付いた時には舞桜は僕の体から離れており、真っ青な顔をしながら僕のことを見つめていた。
「大丈夫、大丈夫だから」
そんな舞桜に向かって声をかける。
先輩の腕の中で、僕はそっと息を整えた。
『ごめん、私、つい嬉しくなってしまって体が勝手に……』
舞桜は相当反省しているのか、唇を噛み俯いている。
「大丈夫だよ」とは言ったものの、今回は命にかかわることだ。八神先輩が僕を受け止めてくれていなかったら、今頃僕はどうなっていたことか……。
ここに来て、みんなが焦りを感じ、冷静な対応ができなくなってしまっている気がする。
特に舞桜……。
「舞桜、あれほど僕の体に勝手に憑依するなって言ったよね?」
『うん。でも私、八神様の姿をみたらつい嬉しくなってしまって……』
「だからって……。今頃僕は大怪我をしていたかもしれないんだぞ?」
『ごめんなさい……』
舞桜の頬を涙が伝うのを見ると、これ以上何も言えなくなってしまう。
そんな僕たちのやり取りを見ていた八神先輩が、そっと僕の手を握った。
「舞桜、一体何があったんだ?」
『それが、私にもよくわからないんです。でも、突然誰かに背中を押された気がして……』
「誰かに背中を押されたのは確かです。それは僕も感じました」
「そっか。じゃあ階段から降りるときにバランスを崩したんじゃなくて、誰かに背中を押されたんだな? でも、君たちの後ろには誰もいなかった。どういうことだ?」
『それは私にもわかりません』
「そっか……」
僕の後ろに誰もいなかったのに、僕は誰かに背中を押された……?
背中に受けた衝撃と、体のバランスが崩れた瞬間の感覚は、深く脳裏に焼き付いている。
僕の全身を悪寒が一気に走り抜ける。体が震え出し、心臓が不規則に高鳴り続けた。
得体のしれない不安と恐怖が全身を包み、身動きがとれない。
(僕の背中を押したのは誰だ?)
背中を押された感覚がまだ残っていて、体が強張る。
ただただ怖くて、落ち着かない。
助けを求めるように八神先輩の顔を見上げると、そっと僕を抱き締めてくれた。
「大丈夫だ。俺が傍にいる」
「でも、でも怖いです」
「うん。怖かったな」
「怖かった。死ぬかと思った」
僕の瞳からは涙が溢れ出し、八神先輩の制服にシミを作っていく。
「大丈夫だ、俺がついている」
何度も繰り返される八神先輩の言葉。
その言葉に縋りつくように、僕は八神先輩にしがみついた。
◇◆◇◆
それから舞桜は借りてきた猫のように大人しくなってしまった。
勝手に体を使われてしまうことは迷惑だけれど、こんなにも静かになってしまうと、それはそれで心配してしまう。
「舞桜、もう大丈夫だから」と声をかけても、「うん」と頷くだけ。
見ていて可哀そうになってしまうくらいだ。
桜の花は満開となり、お花見に出かける人が大勢いるとニュース番組でやっていた。
(早くしなくちゃ)
そう思う。
今僕が先輩に頼み込み、舞桜を憑依させて僕が抱かれたところで、舞桜は成仏できないだろう。
舞桜は、自分が愛し、自分が愛する人に抱かれたい。そう思っているはずだから──。
そんな元気のない舞桜を気遣ってか、八神先輩からメールが届く。
『今日部活がないから、放課後図書室に来られる?』
そのメールを読んだとき、心臓がトクンと跳ねる。
(八神先輩に会える)
僕の心は踊った。
それを舞桜に伝えると『そっか……』と寂しそうに俯く。
てっきり『行きたい、行きたい』と騒ぐと思っていただけに、拍子抜けしてしまう。余程先日のことを気にしているのだろう。
『私なんかが八神様に会ってもいいの? 私が八神様に会ったら、また嫌なことが起こらないかな?』
不安そうに舞桜が呟く。
「でも、八神先輩から誘ってくれたんだから大丈夫だよ。舞桜は八神先輩に会いたくないの?」
『会いたい! 今すぐにでも!』
「舞桜……」
八神先輩に会いたい思いを必死に堪えていたのかと思うと、胸が締め付けられる。
どうしていつの時代でも、舞桜はこんなに辛い思いをしなければならないのだろうか? 舞桜が可哀そうで仕方がない。
「八神先輩に会いたいなら行ってみようよ」
舞桜は少し悩んでからいつものように笑って頷いた。
『うん』
その笑顔を見た僕まで、嬉しくなってしまった。
放課後になり僕と舞桜は図書室に向かう。
図書室には数人の女子生徒たちが勉強をしていたけれど、僕たちが到着すると帰ってしまった。
夕陽が図書室の窓から差し込み、静かな空間をオレンジ色に染める。
八神先輩は先ほどまで勉強をしていたのだろう。積み上げた教科書を枕代わりに居眠りをしていた。
その優しい寝顔に、心が惹きつけられるように僕は彼に近づいた。
『ねぇ、一颯』
「ん? どうした?」
『私は八神先輩に直接触れてみたい。今度は暴走しないように頑張るから、どうか体を貸してもらえないかな?』
「僕に憑依するってこと?」
『うん』
舞桜が僕を見つめてゆっくりと頷く。
その真剣な表情に、僕の心は葛藤する。
また舞桜が暴走して、好き勝手なことをするのではないか? そんな不安が一瞬頭を過る。
しかし、今目の前にいる舞桜は真剣な表情をしている。そんな舞桜を前にして、僕は拒絶なんてできるはずがなかった。
「いいよ。少しだけなら」
『ありがとう、一颯』
その瞬間意識が遠のき、全身が氷のように冷たくなる。体を動かすこともできないし、声を発することもできない。
舞桜が僕の体に憑依した証拠だ。
八神先輩はそんな僕たちのやり取りなど知らず眠り続けている。
もしかしたら、先ほど図書室を出て行った女子生徒たちも、八神先輩を見に来ていたのかもしれない。
舞桜は八神先輩の顔をただ眺めている。
舞桜を通じて、彼がどんなにも禅さんに会いたいかが伝わってくる。
しかし、彼は八神先輩であって、禅さんではない。
それはまるで、手が届きそうで届かない、蜃気楼のようだ。
舞桜は静かに息を止め、八神先輩の頬にキスをする。
(……え?)
その瞬間、世界が止まったような気がした。
僕の心臓は激しく鼓動し、その音が耳に響いた。
八神先輩の頬の温もりが僕の唇に残り、胸の中はドキドキという鼓動でいっぱいになった。
その時、八神先輩がゆっくりと目を開く。
まだ寝ぼけているようだから、舞桜がキスしたことには気付いていないだろう。
(よかった。先輩にバレてなくて……)
僕は胸を撫で下ろす。
「君は舞桜?」
『はい、八神様。会いに参りました』
「やっぱり。最近は雰囲気で雪村か舞桜かの見分けがつくようになったよ」
そう言って笑う八神先輩。
「ずっと君を心配していたんだ。元気がないって雪村から聞いたから」
『すみません、ご心配をおかけして。でも私は大丈夫です』
「そっか。ならよかった」
先輩が立ち上がり、舞桜に近づこうとしたその時。
すぐ近くにあった背の高い本棚がぐらつき始める。
(まさか……。今度は本棚が……)
咄嗟に身を固くした僕の目の前で、本棚はゆっくりと、だけど確実に傾いてくる。
(ヤバイ、本棚の下敷きになる!)
頭ではそう思っているのに、体は凍り付いたように動かない。
僕の中にいる舞桜も何が起きているのかがわからず、どうすることもできずにいる。
「わぁぁぁ!」
僕が悲鳴を上げた瞬間、先輩が勢いよく僕の腕を掴み、力強く引き寄せた。
轟音と共に本棚が崩れ落ち、辺りに本が散乱する。
「危な……かった……」
先輩が目を見開きながら呟く。
僕は先輩の腕の中でただ震えていた。
舞桜が『ごめんね。また私のせいかな』と言いながら、僕の体から離れていくのがわかる。
「本当になんなんだよ、これは。本棚が倒れるなんてありえないだろう……。大丈夫か? 怪我はないか?」
「僕は大丈夫です」
「えっと、君は、雪村か?」
「はい。舞桜は『こうなったのは自分のせいかもしれない』と思ったらしく、僕の体から離れて行ってしまいました」
「そんな、舞桜のせいとは限らないだろう?」
「僕もそう思うんですが……。でも、なんでこんなことが立て続けに……」
その後僕の悲鳴を聞いた先生方が、図書室に駆けつけてきてくれた。
本棚が倒れているのを見て、先生たちはひどく驚いていた。それはそうだ。普通、こんな大きな本棚が地震もないのに倒れるはずもない。まして、人が動かすなんてまず無理だろう。
幸い僕と先輩は無傷で済んだ。
でも『自分が一颯に憑依している時に、また事故が起きた』と舞桜は自分を責め続けている。
『私が一颯に憑依すると悪いことが起きるんだ』
そう言い落ち込んでしまう。
そんな舞桜を、「そんなことはない。ただの偶然だよ」と八神先輩が優しく慰めてくれている。
でも、誰もいない階段で背中を押されて落ちたこと。決して倒れることのない本棚が倒れてきたこと。
これはただの偶然なのだろうか?
僕は不思議でならなかった。
◇◆◇◆
その日は八神先輩の所属するバスケ部の練習が早く終わったから、僕たちは一緒に下校することとなった。
しかも八神先輩の方から「一緒に帰らないか?」と誘ってくれたのだ。
元気のない舞桜を心配してくれたのだろう。
今日は八神先輩のおばあちゃんの家の近くで、『桜祭り』が行われるらしい。それに舞桜を連れて行ってくれることとなったのだ。
祭りの会場は、八神先輩のおばあちゃんのお宅のすぐ近くの神社で行われるらしい。
そう。それは舞桜と禅さんが心中した池の近くだった。
神社に着いた頃には辺りは真っ暗になってしまっていた。参道の両脇に桜の絵柄が描かれた行灯が置かれており、行灯の中の蝋燭に火が灯されている。
並んだ出店の前には、人々が賑わいを紡いでいる。
たこ焼きの香りが空気に漂い、その甘じょっぱいタレの美味しそうな香りは、舌先にも伝わるような気がする。
それぞれの出店からは、威勢良く客を呼び立てる声や、仲間同士の盛り上がった声が交差し、祭りの雰囲気を一段と盛り上げている。
射的や和太鼓の軽快な音や、威勢のいい掛け声が響く中、突如漆黒の空に大輪の花火が上がり、歓声が沸き起こる。
祭りの喧騒が、夜を鮮やかに彩っていた。
『懐かしいなぁ。このお祭りは私が生きていた頃と全然変わっていない』
「え? 舞桜が生きていた時代にもこのお祭りがあったの?」
『うん。こうやって桜の花が咲く頃に、毎年あったよ』
「へぇ、じゃあこのお祭りはかなり歴史のあるお祭りなんだね」
『そうだね』
僕たちは誰もいない石段に腰を掛け、三人で話をした。
八神先輩と手を繋ぐことも少しずつだけれど慣れてきて、手を繋いで会話ができなくなるほど緊張することはなくなった。
「陰間さんって、その何て言うか、一日何人くらいの男の人を相手にするの?」
『私はこう見えて、陰間茶屋でも人気だったんだ。だから一日多い日には五、六人のお客を相手にしてたよ』
「五、六人⁉ そんなことをしていたら体が壊れちゃうじゃないか!」
『でも、私たちのように陰間茶屋に売られてきた少年たちは、そうしていくしか生きていく術がなかったから』
「そんな……」
『好きでもない男に、抱かれるなんて本当に嫌なものだよ。禅さんを好きになってからは、なおのこと苦痛だった』
舞桜は少しだけ寂しそうに笑いながら言葉を紡ぐ。
彼は僕が想像していた以上に辛い人生を生きていたんだ。
「よく耐えたな」
そう言いながら、八神先輩が舞桜の頭を撫でてやると、舞桜が嬉しそうに笑う。僕は久しぶりに笑う舞桜を見て、嬉しくなってしまった。
『でも、桜祭りの日、一日だけ禅さんが私を外に連れ出してくれたんだ』
「え? 陰間さんって、陰間茶屋から出られないんじゃないの?」
『そうなんだけれどね。でもたくさんお金を払えば、陰間を一日、茶屋から連れ出すことができるんだ。……それで禅さんは、私を一日だけ外に連れ出してくれた』
そう微笑む舞桜。
きっと楽しい一日を過ごしたのだろう。幸せそうにはにかんでいる。
(だからさっき、あんな感じがしたんだ)
僕はつい先ほどの出来事を思い出す。
僕がバナナチョコを「美味しそう」と眺めていたら、八神先輩が一本買ってくれた。
その時、舞桜が禅さんにりんご飴を買ってもらう映像と重なった気がしたのだ。
『禅さん、ありがとう』
禅さんにりんご飴を買ってもらい、嬉しそうに笑う舞桜。もしかしたら、二人でこのお祭りに来たことがあるのかもしれないと思っていたけれど、やっぱりそうだったんだ。
花火の大輪が夜空に大きく花開いた瞬間、僕の頭の中にある記憶がもう一つ蘇る。
それは、あるお屋敷に、舞桜と禅さんがいる光景。
(この記憶はなんだ?)
この場所には見覚えがある。ここは、八神先輩のおばあちゃんのお宅だ。
僕は舞桜になっていて、禅さんと一緒に花火を見ている。今日は『桜祭り』の日だ。
桜は満開に咲き誇り、風が吹くと一斉に花弁が空へと昇っていく。その美しい光景を二人で眺めていた。
『舞桜』
『なんでしょう? 禅さん』
それからしばらく見つめ合った後に、口づけを交わした。
『舞桜が好きだ』
『んッ……ん、あ……ッ』
禅さんは舞桜に触れるだけの口づけをくれる。啄むような優しい口づけに、舞桜の心が少しずつ蕩けていくように感じられる。
『お前を、絶対に離さない』
『禅さん……』
舞桜が禅さんの顔を見上げると、優しい瞳と視線が絡み合う。まるで海みたいに透き通っていて、晴れ渡った青空のように綺麗な瞳だった。
布越しでも伝わってくる禅さんのぬくもりがむず痒くて、心地よくて……涙が溢れてきた。その涙を禅さんがチュッと唇で掬ってくれる。そのままそっと床に押し倒された。
『禅さん、私を抱いてくれますか?』
『あぁ、勿論だとも』
ふわりと微笑む禅さんに、鼓動がどんどん速くなる。
胸が苦しくて、呼吸が荒くなっていく。でもそれが、愛情からなのか興奮からなのか……舞桜にはわからなかった。
『舞桜は温かいなぁ』
ギュッと体を密着させると、禅さんの規則正しい鼓動が聞こえてくる。
『禅さん。大勢の男に抱かれた私の体は汚いです。それでもいいですか?』
陰間茶屋に売られたあの日から、舞桜の時間は今の今まで止まったままだったし、心も凍りついていた。何度体を洗っても、自分の体が汚らわしくてならなかった。
『舞桜は全然汚くなんかない。こんなに綺麗だし、こんなにも可愛い。だから、安心しろ』
その優しい言葉に、舞桜の心が震える。胸がいっぱいになり、返事の代わりに静かに目を閉じた。
ゆっくり、唇を重ね合わせれば、生まれて初めて口づけをした時と比べ物にならないくらい切なくなる。
幸せ過ぎて胸が痛い。こんな自分を綺麗だと言ってくれる禅さんの存在が嬉しくて、自然と息が上がっていく。
『舞桜、愛してるよ』
『私も禅さんが好きです。きっと、私の方が禅さんのことを好きだと思います』
『フッ。なんだよ、それ』
禅さんが泣きそうな顔をしながらも、優しく舞桜の髪を撫でてくれる。その表情や仕草に、舞桜の心はどんどん解けていった。
震える指先でそっと禅さんの首筋をなぞる。惚れ惚れする程の鍛え上げられた体。目の前の禅さんに全てを委ねてしまおう……。
舞桜はそう思った。
着ていた洋服を全て剥ぎ取られ、もう自分を隠しているものは何もない。
『こんな裸にされて、恥ずかしいです……』
『舞桜、可愛い。大好きだ。だから大丈夫』
恐る恐る見上げた禅さんの瞳は穏やかだった。
遠くのほうで、打ち上げ花火が上がる音がまだ聞こえる。
『花火が上がる度に、舞桜の体が色んな色になるな』
『え?』
『舞桜の体に花火が上がったみたいで、凄く綺麗だ』
体に指を這わせながらうっとりと微笑む禅さんの言葉に、舞桜の思考回路はますます蕩けていく。その言葉に抱かれているみたいだ。
『なぁ、舞桜。自分がどれくらい愛されているかを感じてほしい。どんな困難も、二人で越えて行きたいから』
『禅さん……』
禅さんが愛しくて、幸せで……。
時を同じくして、ドーンと大輪の花火が夜空に打ち上げられた。その雄大な光景を、禅さんの肩越しに眺める。
『愛してるからな』
『私もです』
そう囁いてから、禅さんの熱い昂りはそっと慎重に、舞桜の中に埋め込まれた。
ドンドンッ。
祭りは最高潮を迎えたようで、花火が絶え間なく上がり続ける。その音に合わせるかのように激しく打ち付けられる禅さんの腰に、一瞬舞桜の目の前にも火花が散った。
『あ、あ、あッ。あぁ……ッ』
『はぁ、舞桜。俺も気持ちいいよ……』
花火が打ち上がる度に、暗闇の中に舞桜の裸体が浮かび上がる。そんな姿に禅さんがうっとりと微笑んだ。
『禅さん、禅さん……!』
『なんだ?』
名前を呼べば、ぐいっと引き寄せて口づけをくれる。何度も何度も飽きるほどに口づけをくれた。
『舞桜、綺麗だ。本当に綺麗だよ』
耳元で囁かれる言葉や甘い吐息。温かくて大きな手に、自分を抱き締める逞しい腕。禅さんの全てに胸が熱くなる。
大輪の花達が夜空を飾り、風に乗り散っていく桜の花弁に包み込まれて……。二人は結ばれたのだった。
そして僕はふと我に返る。気付くと頬を涙が伝っていた。
そんな僕に、花火に夢中になっている二人は気付いていない。僕は慌てて涙を拭った。
今蘇ってきた思い出で、舞桜と禅さんがどれほど想い合っていたのかが、痛いほど伝わってくる。
それと同時に、どんな困難にも二人で立ち向かっていこうという、強い絆も感じられた。
それなのに、最期は心中と言う悲しい結末を迎えた二人。
本当に、この二人にはそんな結末しかなかったのだろうか?
(心が痛いよ)
僕は胸を押さえて体を縮こませる。
もしもここに自分しかいなかったら、声を出して泣きたいくらい心が悲鳴を上げていた。
そして僕は思う。もう一度二人を再会させてあげたいと──。
『八神様、花火が綺麗ですね』
「本当だな」
花火を見て無邪気にはしゃぐ舞桜を、本当に久しぶりに見た気がする。
嬉しそうに笑う舞桜を見て、僕は舞桜と禅さんの幸せを願ってやまなかった。



