桜の花が散る時までに


 交通事故にあった日、僕たちは何もなく無事に帰宅することができた。
 しかし、僕の身に最大のピンチが訪れた。
 なんと放課後、僕は八神先輩に呼び出されたのだ。
(僕、何かしたかな?)
と不安になってきてしまう。
 その日は、午後は休校で部活も休みの日だった。
 僕は先輩に言われた通り、校門の前で八神先輩を待った。
(何を言われるんだろう)
 僕の心臓は先ほどからドキドキしっぱなしだ。
 先日の事故にあった日、八神先輩と初めてちゃんと話したけど……僕は何かをやらかしてしまったのだろうか。そう考えると急に怖くなってしまう。
「八神先輩には申し訳ないけれど、やっぱり帰ろう」
 僕が校門に背を向けた瞬間、「雪村」と背後から声がする。恐る恐る振り返ると、そこには八神先輩が立っていた。
「あ、八神先輩……」
「ごめん、待たせて」
 そう言いながら僕の方に駆け寄ってくる。
 あの『高嶺の花』である八神先輩が僕の名前を呼び、そして僕の方へと走ってくる。
 こんな奇跡的なことが起こるなんて、まるで夢のようだ。
 僕は遠くから走ってくる八神先輩に見惚れてしまった。


「ごめん、急に呼び出して。今日用事とかなかった?」
「全然大丈夫です! 僕はいつでも暇ですから!」
 つい八神先輩の前では緊張して力が入ってしまう。
 だって、今日の八神先輩もとってもかっこいい。僕たちの横を通る女子生徒たちが「あ、八神先輩だよ」「かっこいい」と言っているのが聞こえてくる。
「今舞桜も隣にいるの?」
「あ、はい」
「じゃあ、ちょっと行きたい所があるからついてきてくれないかな?」
「行きたい所?」
「そう。禅さんのことがわかるかもしれないんだ」
「本当ですか⁉ わかりました」
 八神先輩のその言葉に、僕は身が引き締まる思いがする。
 駅の方に向かって歩き出す八神先輩の背中を、僕は夢中で追いかけた。


 それから電車をいくつか乗り換えて辿り着いたのは、周囲が山に囲まれた田舎町だった。
「田舎過ぎてびっくりした?」
「い、いえ」
 八神先輩は少しだけ照れ臭そうに笑う。でも、僕たちが普段住んでいるような都会もいいかもしれないけれど、たまにはこんな田舎もいいな、と感じる。
 案内されるまま道を歩いていくと、やがて、古びた大きな屋根が見えてきた。一際目立つその家は、家というより最早、お屋敷。
 お屋敷の目の前に立ち止まった八神先輩と、屋敷の外観の間を、僕は視線を行ったり来たりさせた。
「ここだよ。ここに雪村と舞桜を連れてきたかったんだ」
「え? ここに?」
「凄く古い屋敷だろう? 江戸時代に建てられたらしい」
「江戸時代……? 舞桜と禅さんが生きていた時代だ」
「そう。今はもう誰も住んでいないんだけど、つい最近まで俺の祖母が一人で住んでいたんだ。そんな祖母も一人暮らしが大変になっちまったから、今は一緒に東京で暮らしているんだけどな」
 屋敷は一周塀で覆われており中を見ることはできない。八神先輩が正門に手をかけて思いきり押すと、ギギギギッと古い木が軋む音と共に扉が開かれた。 
 門が開くと広い庭が目の前に広がり、庭の真ん中にある桜の木は五分咲きといったところで、その立派な風貌に僕は思わず視線を奪われた。


「どうぞ、入って」
 八神先輩が手招きをしている。
 広い庭を抜けると母屋に、離れと思われる建物もあり、大きな蔵もあった。
 庭に植えられている木々がサラサラと揺れる光景に目を細める。ここだけ切り取られたかのように、時間が止まってしまっている……と、僕は感じた。
 八神先輩に案内されたのは、古くて立派な蔵だった。
 何百年も風雪に耐えてきた黒漆喰の壁は、触れると驚くほど冷たく、けれどその壁には、時代の重みのような確かな存在が息づいている。


「この蔵はずっと放置されていたみたいだけれど、開くかな?」
 八神先輩が蔵の鍵を取り出し鍵穴に差し込む。何度か勢いよくガチャガチャと鍵を回してみるが空回りしてしまい、なかなか開けることができない。
「もうどこもかしこも古いからガタがきててさ。鍵を開けるのも一苦労だよ」
 困ったように笑いながらガチャガチャと鍵を回し続ける八神先輩を見ていると可笑しくなってきてしまう。「くそ、全然開かない」と困り果てているようだ。
「僕も手伝います!」
 二人でゆっくりと鍵を回すと、ガチャッという無機質な音をたてながら鍵が開いた。
「あ、開いた!」
「よかったですね、八神先輩! ……あ、すみません」
 僕は無意識に八神先輩の手を握ってしまっていたことに気が付き、慌てて体を離す。
 無意識だったとは言え、八神先輩の手に触れてしまったことが恥ずかしくて仕方がなかった。顔が火照ってきてしまい、思わず両手で顔を覆う。
「まぁ、とにかく中に入ってみよう」
 僕は八神先輩に背中を押されて、蔵の中に入ったのだった。


 横開きの扉を開けた瞬間、室内のヒンヤリとした空気が頬を撫でる。外は少しだけ暑かったから、僕はホッと胸を撫で下ろした。
 埃を少し含んだ光が、高い天井から柔らかな筋となって降り注いでいる。
 蔵の中は、外の喧騒が嘘のように静寂に満ちていた。
(この蔵の中には、一体何があるんだろう)
 僕はそう思いながら蔵を見渡す。
 この蔵は、僕の祖父の家の蔵よりも大分立派な蔵だった。
 その時。頭の中を、ある映像が流れ出した。


『舞桜、今日少し遠出をしたからお土産があるんだ』
『お土産ですか?』
『あぁ、これを君にあげよう』
 舞桜が渡されたのは、小さな木箱だった。その箱をそっと開く。
 箱の中に入っていた物は、桜の花弁が薄く閉じ込められたトンボ玉。
 ガラスの表面が不思議なほど光を反射して、キラキラと瞬いて見えた。
『わぁ、綺麗なトンボ玉。禅さん、ありがとうございます』
『喜んでもらえてよかったよ。どれ、君の簪につけてあげよう』
『ありがとうございます』
 禅さんは舞桜の長い髪を綺麗に結わえている簪にトンボ玉をつけてやる。
 そのトンボ玉は光り輝き、可愛らしい舞桜によく似合う。
『とても綺麗だよ』
『ありがとうございます』
 舞桜は嬉しそうに禅さんに飛びつく。
 それから二人は、熱い抱擁を交わした──。


「ハッ」
 僕は突然現実に引き戻される。
 最近、自分の記憶ではない映像が、突然頭の中に流れ込んでくることがある。
 それは嫌にリアルで、まるで自分がそれに触れているような錯覚にさえ陥る。
 そして必ずそこには舞桜と禅さんがいる。だから、これはきっと舞桜の記憶なのだろう。舞桜の記憶が自分に流れ込んでいる……。そんな風に感じられた。
 でも舞桜と禅さんはいつも仲が良くて幸せそうだから、見ていて恥ずかしくなってしまう。
 だからこそ、二人を再会させてやりたいと強く思ってしまうんだ。
 すると、八神先輩が何かを探しながら僕に声をかけてくる。
 

「昨日ばあちゃんに、うちの蔵にも『何か』を閉じ込めた壺がなかったか聞いてみたんだ」
「え! そ、それでおばあさんはなんて?」
「大昔に、叶わぬ恋をして心中した青年の怨霊を閉じ込めた壺が、この蔵にあるっていう言い伝えがあるらしい」
「ほ、本当ですか?」
「あぁ。なぁ、舞桜が封印されていた壺ってどんな感じだった?」
「えーと、そんなに大きくはなくて、お札がいっぱい貼ってありました」
「そっか。じゃあ、そんな感じの壺を探せばいいんだな」
「僕も探します」
 僕はたくさんある棚を見落とさないように見て回る。
『ねぇ、一颯。もしかして禅さんがここにいるの?』
「うん。八神先輩のおばあちゃんが言ったことが本当だったらね」
『本当に? 早く禅さんに会いたい』
 八神先輩の前では大人しくしていると約束していた舞桜が、ひょっこり顔を出す。
「ねぇ、舞桜。禅さんの名残とか、感じない?」
『うーんそうだなぁ……そういえば、微かに蔵の奥の方から禅さんの匂いがする気がする』
「蔵の奥?」
『うん。あっちだよ』
 舞桜が指さすのは蔵の一番奥だ。
 そこは日の光も当たらず、真っ暗で薄気味悪い。
 でも、そこに禅さんがいるというのであれば仕方がない。僕は「よし」と気合いを入れて蔵の奥へと進んでいった。


 蔵の一番奥。日差しも差し込まないような場所に、ひっそりとその壺はあった。
 その壺は舞桜が封印されていた時のように、お札がたくさん貼られているいる小さな壺だ。
「八神先輩! 多分この壺だと思います」
 僕は別の場所にいる八神先輩に声をかける。
「でかした! 今行く」
「はい」
 僕はその壺を見て緊張してしまう。
 果たして禅さんはまだこの壺の中に封印されているのだろうか? それとも成仏してしまっているのだろうか? 最悪の場合、悪霊になってしまったという可能性も……。
 禅さんがまだ成仏していなければ、僕と八神先輩には試練が待ち構えている。でも、今はそんなことを考える余裕なんてない。
(どうにか舞桜と禅さんを再会させてあげたい)
 その一心だった。


「じゃあ、壺を取るぞ」
「はい」
 壺は少しだけ高い場所に置いてあったから、身長が高い八神先輩が棚から下ろしてくれた。
(どうか、禅さんがいますように)
 僕は心の中でそう祈る。
『禅さん……』
 舞桜が彼の名を呼ぶ声が静かな蔵に響き渡った。
 八神先輩が壺を手にした瞬間。みんながこの中に禅さんが眠っていることを期待して、壺の中を覗き込んだ。
「……え……?」
『そんな……』
 八神先輩が手にした壺のお札はビリビリに破れ、中は空っぽだった。
『禅さん……』 
 舞桜が力なく呟く。
 僕がこんなにがっかりしているのだから、舞桜はきっとこの現実に失望してしまったことだろう。
「空っぽだな」
「えぇ。禅さんは、成仏してしまったのでしょうか?」
「それはわからない」
 八神先輩も力なく呟く。
 僕たちの期待は大きく裏切られてしまう。
 壺に触れようと舞桜が手を伸ばしたけれど、やはり舞桜は壺に触れることさえできない。
 静かに涙を流す彼に、僕はそっと声をかけた。


「舞桜。少しだけ僕の体を貸してあげるよ」
『本当に? ありがとう、一颯』
 そう呟くと、舞桜の姿がフッと消える。
 その瞬間視界が歪み、意識が遠のいていく。体の自由が効かなくなり、言葉を発することができなくなる。
 体が氷のように冷たくなったから、舞桜が自分の体に憑依したことがわかった。 
 僕の雰囲気が変わったことに気が付いたのだろう。八神先輩が声をかけてくる。
「君は舞桜かい?」
『はい。私は舞桜です。私たち霊は自分の生まれ変わりにだけ憑依することができます。だから、今は一颯の体を借りているのです』
「そうか……」
『八神様。私にその壺を貸していただけますか?』
「あぁ。中は空っぽだけどな」
『別に構いません。あの方の匂いだけでも感じたいのです』
 舞桜は八神先輩から壺を受け取ると、愛しそうにそれを抱き締める。
 その瞬間、舞桜を通じて悲しみが大波のように襲ってくるのを感じた。


『あの人は、私だけを残して成仏してしまったんだ……』
 舞桜は今にも消え入りそうな声で呟く。
 いつもの元気な彼からは想像もつかないような、消え入りそうな声だった。
「舞桜」と僕が声をかけようとした時、八神先輩が舞桜の背中に手を伸ばしてきた。
「大丈夫だ。俺がいる」
『八神様……』
「俺が何とかするから。だから泣くな」
『禅さん』
 八神先輩の優しい声が、舞桜の心に届いていることを感じる。
 舞桜は八神先輩の背中に腕を回し、強く彼を抱き寄せた。
「俺の体で勝手なことをするな!」と言いたいところだけれど、僕はそっと見守ることにした。今だけは舞桜の自由にさせてあげたい。
 舞桜が僕の体を支配しているのに、八神先輩の腕が僕を抱き締める。その温もりに僕の瞳から思わず涙が零れた。
 それは、舞桜の涙……。
 僕の心は張り裂けんばかりに痛む。
 だからこのまま少しだけ、僕の体を舞桜に貸してあげようと思った。
『あの人は私だけを残して逝ってしまったんだ……』
 まるで子どものように泣きじゃくる舞桜の頭を、八神先輩がそっと撫でてくれる。
 八神先輩の温もりが、舞桜の凍り付いた心を少しでも溶かしてくれますように……。
 僕はそう願った。

◇◆◇◆ 

『あ、ここ……』
「え?」 
 八神先輩のおばあちゃんのお宅から帰る時、舞桜は近くの池で立ち止まる。
 彼のおばあちゃんのお宅の近くには、かなり大きな池がある。見た感じ、かなり深そうだ。今は立ち入り禁止と書かれたフェンスで囲われており、池に近寄ることはできない。
 池の近くには祠が祭られている。
『あの池に行ってみたいんだけど……』
「池?」
『うん。少しだけだから』
「わかった」
 舞桜にいわれるがまま、大きな池のほとりに立つ。
 ふと視線を落とすと、そこには水面に桜の木を映した静かな世界が広がっている。
 黒々とした水面をキャンパスにして、立派な桜が五分咲きの花を咲かせていた。
「綺麗」
『うん。あの頃と全然変わってないよ』
「あの頃?」
『うん』
 風が吹けば水面の桜はゆらりと揺れ、輪郭をぼかすけれど、それが返って僕の心を落ち着かせる。
 桜の花が満開になり、全てを露わにして散ってしまう前の、この危うくて美しい五分咲きの状態。
 この桜の花が散ってしまえば舞桜は……。
 そう思うと、胸が張り裂けそうになった。


「なぁ、今舞桜と話をしてるのか?」
「あ、はい。ぶつぶつと独り言を言ってしまい、すみません」
 僕は慌てて先輩に謝罪する。
 舞桜と話す時、周りの人には彼が見えないから、独り言をいっているように見えてしまうのだ。
 それを不思議に思ったのだろう。八神先輩が僕の顔を覗き込んでくる。突然のイケメンのドアップに僕はびっくりしてしまった。
「舞桜が、あの池に行きたいって言いだして……」
「あぁ、あの池か。あの池、結構大きくて深いんだよな。なんでだろう? あの池に思い出でもあるのかな? ちょっといいか?」
「はい?」
 そう言うと、八神先輩は僕の手をそっと握る。
 八神先輩の大きくて筋張った手に、まるで包みこまれるように手を握られた僕は、ドキドキしてしまう。緊張からか、体が小さく震えた。
 僕と手を繋いだことで舞桜が見えるようになったらしく、八神先輩が舞桜のいる方を見上げる。
「あ、舞桜。舞桜はこの池に何か思い出があるのか?」
 八神先輩の問いかけに、舞桜が寂しそうに目を伏せる。
 もしかしたら彼が生きていた頃、この池で何かがあったのだろうか? 僕は不安になってしまう。 
『実は……。私と禅さんはこの池で心中をしたのです』
「え?」
『八神様は、記憶にないですか?』
「いや、ごめん。全然なくて……」
『そうですか……。私はつい昨日のように覚えています。あれは桜が散り始めた頃のことでした』


 舞桜が思い出している映像が僕の中に流れ込んでくる。
 それは今目の前にある桜の花が満開に咲き乱れ、風が吹くと花弁が一斉に空に舞い上がる、そんな頃。彼は大好きな桜の花に、思わず目を細めた。
 舞桜は陰間茶屋に売られた後、再び、茶屋から外に出ることが叶った。
 でもそれは、禅さんと花見をするわけではない。
 そう、禅さんと心中をするためだった。


 躊躇いを隠し切れない舞桜の手を引き、禅さんはどんどんと深みへと歩いて行ってしまう。
 これで自分は死んでしまうんだ……。そう思えば怖くて仕方がないのに、禅さんの手を振り解くことなんてできるはずもない。
 ギュッと大きくて温かな手を握り返して、必死に禅さんの後を追いかけた。
『月が綺麗だね』
 突然立ち止まり、そう笑う禅さんの顔を忘れることなんてできない。
 何度も思い出しては、会いたいと願った。
 禅さんの生まれ変わりと再会することで願いは叶ったはずなのに。幸せになれると思ったのに……。
 現実はそんなに甘くなかったのかもしれない。
『八神様、覚えていますか?』
「ごめん、舞桜。全然覚えていない」
『そうですか……』
 二人とも悲しそうな顔して俯いてしまう。


 でも、この池に二人で足を踏み入れた時、どんなに怖かったことだろう。
 どんなにも「生きていたい」と思っただろう。
 その時の舞桜と禅さんの思いを考えるだけで、胸が張り裂けそうになる。
 もし二人が令和(この時代)に生まれてくることができていたとしたら、こんな悲しい結末にはならなかったことだろう。
 禅さんは壺の封印を解き、一体どこへ行ってしまったのだろうか?
 せめて、禅さんに会わせてあげたい。僕はそう願ってやまなかった。


 その瞬間、視界がグニャリと歪む。少しずつ意識が遠のいて、自分の意思で体が動かせなくなってしまった。
(ヤバイ、舞桜に乗っ取られる!)
 僕は必死に自分を保とうとしたけれど、舞桜の強い力に押し出されてしまう。
 どんなに抵抗しても、簡単に舞桜に体を乗っ取られてしまった。
 体が凍り付くように冷たい。
 僕の体を乗っ取って、舞桜は一体何をしようというのだろうか?
 その時、舞桜が池の周りに張り巡らされたフェンスを上り始めた。
『駄目だ、舞桜! 止まれ!』
 僕がどんなに叫んでも、舞桜は止まらない。 
 古いフェンスを思い切り掴んだ指に錆びた鉄が刺さり、血が滲み出している。それでも舞桜はフェンスから降りようとはしなかった。
 僕の背中に冷たいものが走る。
 もしかして、舞桜はこの池に飛び込もうとしているのではないだろうか?
『頼む、舞桜。やめてくれ!』
 僕は力いっぱい叫んだけれど、それでも、舞桜は何かに憑かれたかのように無言でフェンスを上り続けた。


 一段、まだ一段とフェンスを上る舞桜を止めることなど、僕にはできない。
 その時、背後から予期せぬ衝撃が僕を包んだ。
 それは拒絶ではなく、祈るような強さで僕を締めつける、誰かの熱だった。
 僕は抱き締められるようにして、でも少しだけ強引に、壊れ物を扱うような優しさでフェンスから引き離される。
 足が地面に着いた瞬間、視界で涙が歪んだ。
(怖かった……) 
 あまりの恐怖に体が自然に震える。
 次の瞬間『一颯、ごめんね』と言う舞桜の声が聞こえたと同時に、体が自由に動くようになった。
「よかった」と声を出すこともできたから、きっと僕の体から舞桜が出ていったのだろう。
「お前は雪村だよな?」
「あ、はい」
「大丈夫か?」
「はい、なんとか……」
「それならよかった。さっきのは、舞桜が君の体に勝手に憑依したんだろう?」
「そうです」
「そっか。ならばもう一度舞桜と話がしたい。雪村、手を貸してくれないか?」
「はい」
 僕がそっと手を差し出すと、八神先輩が僕の手を握る。
 それから、もう一度舞桜と向かい合った。 


「舞桜、なんであんな危ないことをしたんだい? 雪村にまで危害が及ぶところだったんだぞ?」
『ご、ごめんなさい……もう一度この池に身を投げてしまいたい……例え成仏できずに怨霊になっても構わないから……。そう思ったら体が勝手に動いてしまって……』
「駄目だよ、舞桜。そんなことは考えてはいけない」
『でも……』
「それに悪いのは俺だ。舞桜がこんなにも苦しい思いをしているというのに、俺は過去の記憶すら取り戻せずにいる。本当にごめん」
 八神先輩は拳を握り締め唇を噛む。その表情は、今にも泣き出しそうにも見えた。
 それから八神先輩は舞桜の方を見上げて、優しい笑みを浮かべる。
 普段ブスッとしている八神先輩が初めて見せた笑顔だった。
「大丈夫だ。必ずまた禅さんに会わせてあげるから。だから『もう一度池に身を投げる』なんて悲しいことを言うなよ?」
『八神様……』
「壺は空っぽだったけれど、禅さんが成仏したかなんてわからないし。やれるだけのことをやってみよう」
 八神先輩は舞桜に向かってそう言うと、僕の手を握り締める手にグッと力を込める。
 僕はその力に眉を顰めたけれど、それは八神先輩の強い思いの表れにも感じられた。
「みんなで頑張って禅さんを探そう。だから、そんなシケた面するなよな」
『ありがとうございます。八神様』
 今日一日、舞桜はずっと悲しそうな顔をしていた。
 そんな舞桜が久しぶりに見せた笑顔に、僕の胸が熱くなる。
(よかった。舞桜が笑ってくれて)
「舞桜、禅さんが見つかるといいね」
『うん。ありがとう。一颯』
 僕は八神先輩と手を繋いだまま、しばらくの間、池を見つめた。


「あの八神先輩。僕、明日月影先生の所に行ってきます」
「月影先生?」
「はい。僕の祖母の家の近くに住んでいる小説家なんですが、今まで舞桜のことで、色々と相談に乗って頂いてたんです。それに月影先生には霊感があって、舞桜の姿が見えるらしくて」
「へぇ、凄いな」
「だから、明日この壺を持って月影先生にこれからどうしようか聞いてみようと思ってます」
「じゃあ、明日部活も休みだし、俺も行くよ」
「本当ですか? 八神先輩がいてくれたら心強いです」
「みんなで禅さんを探してみよう」
「はい!」
 禅さんが入っていただろう壺を見つけた時、僕たちはみんな絶望した。だから、ほんの少しでも前進できたことが、僕は嬉しくて堪らない。
 それに……。僕は八神先輩と繋いだ手を離すタイミングが見つからずに、ずっと手を繋いだままだ。
 ぎごちなく、けれど強く握り合う手と手。
 八神先輩の手のひらは、僕のものよりかなり大きくて、不思議なほど心地よい温もりを宿している。
(八神先輩って見た目は少し怖いけれど、凄く優しいんだなぁ)
 八神先輩の笑顔、彼の声、彼の手のひらの温もり。それらの全てが僕を揺さぶるけれど、僕はまだ確信できない。
 この感情は単なる一時の興奮なのか、それとも、より深く、より長続きするものなのか。 
 でも、僕の心は八神先輩の傍にいると、温かくなっていくのを感じる。
(この感情はなんだろう? 僕はもしかして……)
 一瞬過った考えを、僕は頭を振って否定する。
 いいや、そんなことはない。
 平々凡々な僕が『高嶺の花』に、そんな感情を抱いてはいけない。
 きっと、舞桜の感情に流されているだけだと、僕はそう自分に言い聞かせた。

◇◆◇◆ 

 翌日僕は八神先輩と待ち合わせをして、月影先生のお宅へとむかった。
(月影先生、起きてるといいんだけど……)
 僕はドキドキしながら、月影先生のインターホンを押す。
 舞桜はあの件以来、大人しくなってしまった。話しかけても笑いもしないし、言葉もあまり発しない。
 その時突然僕の手を八神先輩が掴んだ。
 普段は制服の八神先輩しか見たことのない俺は、黒いパーカーに白いパンツを履いた私服の八神先輩の姿にドキドキしっぱなしだ。
(八神先輩、かっこいい……!)
 僕は、先ほどからチラチラと八神先輩を盗み見している。
(何度見てもかっこいい……)
 繋がれた手が、どんどん熱を帯びていった。
 そんな八神先輩が、心配そうに舞桜に話しかけている。


「どうした、舞桜? 元気ないじゃん。もしかして昨日のことをまだ気にしているのか?」
『…………』
「舞桜ってば」
 だんまりを決め込んでいる舞桜の頬を八神先輩が指先でつつく。すると、舞桜の頬がほんのり赤く色づいた。
『……昨日は取り乱してしまい、本当に申し訳ありませんでした』
「ん? 何が?」
『一颯だけではなく、八神様にまでご迷惑をおかけしてしまって……』
「だから俺らはそんなことはもう気にしてないって!」
『でも……』
「だから気にするなって!」
 三人で話をしていると、月影先生のお宅の扉が開く。今まで寝ていたのだろうか? まだ眠そうな顔をしている。
「あ、もしかして月影先生寝てらっしゃいましたか?」
「寝てたけど大丈夫だよ?」
 それから僕の顔を見てにっこりと笑う。
「それより手なんか繋いじゃって、仲がいいね? 隣の彼は恋人かい?」
「え⁉」
 僕と八神先輩は手を繋いでいたことをすっかり忘れ、玄関先でワイワイ騒いでいたことに気付かされる。
 月影先生に言われてそれに気付いた僕と八神先輩は、慌てて手を離した。


「なるほど、君が禅さんの生まれ変わりの八神君だね。はじめまして、小説家の月影です」
「こちらこそ、はじめまして。月影先生の本は拝読させていただいたことがあります」
「それは嬉しいことを言ってくれる」
 月影先生は僕たちにお茶を出してくれながら、八神先輩と談笑している。
「それにしても、一颯君と手を繋げば舞桜君の姿が八神君にも見えるなんて……。ボクはすっかりそういう仲の二人なんだと思っていました」
「そ、そんな! 八神先輩はみんなの憧れの人なんです! 僕なんかとお付き合いするわけがないじゃないですか⁉」
「あははは! 一颯君、冗談だよ。そんなにムキにならないで」
 僕が咄嗟に大声で否定すると、月影先生が笑っている。それを見て、僕は恥ずかしくなってしまった。
「それよりも、ボクと一颯君が手を繋いだら、ボクにも舞桜君がはっきり見えるか試してみたいんだけどいいかな?」
「あ、はい」
「できたらボクも舞桜君の顔をしっかりと見てみたいし、話もしてみたいからね」
 僕が月影先生に手を差し出すと、「失礼するよ」と手を握られる。僕の手を握った瞬間、月影先生は眉を潜めた。
「やっぱりボクが一颯君と手を繋いでも、舞桜君の姿をはっきりと見ることはできなかったよ」
「そうですか……」
 月影先生が残念そうに大きく息をつく。


「でも、ボクが見る限り、舞桜君の影が前見た時より黒くなっている気がする」
「え?」
「何かあったのかな?」
「そういえば……」
 八神先輩を車から庇った時、そして昨日舞桜がフェンスをよじ登った時。どの時も、いつもの舞桜ではなかった。
 特に八神先輩を車から守ろうとした時の舞桜の表情は、まるで怨霊のように見えた。
(桜が開花に近づくにつれて、舞桜が怨霊に近づいているのかな……)
 僕の心の中がざわめき出す。
(もし舞桜が怨霊になって、地獄に引きずり込まれたら……)
 そんなことを考え出すと、不安で心が壊れてしまいそうだ。
 舞桜には禅さんと再会して、幸せになってほしい。それが僕の願いだから。
「なんにせよ、時間がないことは確かだね」
 月影先生のその言葉に、舞桜がひどく悲しそうな顔をする。


「それで、禅さんが入っていた壺はどうしたんだい?」
「あ、はい。実はこれで……」
 僕は風呂敷の包みを取り、壺を月影先生の目の前に差し出した。
 月影先生は、興味深そうに壺に視線を落としている。
「お札が貼られていたみたいだね」
「はい。お札も、もうバラバラに引き裂かれていて、中は空っぽでした」
「なるほど……」
 月影先生は顎に手を当てて何か考え事をしているようだ。
「舞桜君の封印が解けた時は、壺が割れたんだったよね?」
「そうです」
 僕はそう頷く。
「でも禅さんが入っていたと思われる壺の札はバラバラに引き裂かれていた。つまり、内側から何か力がかかったんじゃないのかな?」
「内側から?」
「そう。つまり、禅さんは自分の意思で壺から外に出たっていうことさ」
「…………」
 僕は月影先生の話を聞いて、言葉を失ってしまう。
 つまり、禅さんは自分の意思で封印を解いた。
 じゃあその後、禅さんはどうなったのだろうか? 僕はその答えが知りたくて、思わず体を乗り出す。


「それで、今禅さんはどうしているんでしょうか?」
 僕の質問に月影先生が眉を顰める。
 その表情に、僕は不安を覚えた。
「確かなことはわからないけれど、考えられることは三つ」
「三つ、ですか?」
「うん。一つ目は無事に成仏したということ。二つ目は怨霊となり、地獄に引きずり込まれた、という可能性だ」
『禅さん……』
 地獄に引きずり込まれた、と言う言葉に舞桜が反応する。僕はそんな彼を落ち着かせるために、優しく背中を擦ってやった。
「そして、三つ目が、まだ成仏せずに舞桜君を探している可能性」
『私を探している……?』
 舞桜はそう呟いたあと、まるで祈りをささげるかのように両手を胸の前で組んだ。
「でも、もし禅さんが舞桜君を探していたとしても、君たちが禅さんを探している時間はない。だって、彼はどこにいるかわからないのだから」
「……そうですよね」
 この広い世界の中、禅さんを見つけるということは不可能に近いような気がしてしまう。
 しかも、桜の花が散る前に……。
 心の中の凍てつくような孤独が、舞桜を通して、じんわりと僕の心を蝕んでいく。それはまるで、目に見えない毒のように広がり、やがて僕の顔に影を落とした。


「そこでボクからの提案なんだけど……」
「はい、なんでしょうか?」
 僕は、例えどんな小さな望みでも縋り付きたい思いだった。
「ここはとりあえず禅さんのことは置いておいて、舞桜君だけでも成仏させてあげることを考えないか?」
「でも、そんな方法あるんですか?」
 そう力なく呟くと、心配そうに僕をみる八神先輩と視線が合った。
「これは試してみなければわからないけれど、舞桜君が一颯君に憑依した状態で八神君と契りを結ぶんだ」
「え?」
 僕と八神先輩の声が重なる。
 月影先輩は一体何を言っているのだろうか?


「つまり、舞桜君と八神君が契りを結ぶということだ」
「お、俺とですか?」
「そうだ。舞桜君が成仏できるかはわからないが、現状では一番これが可能性があるとボクは思っているよ」
「でも、そうしたら俺は意識のある状態で雪村と言うか、舞桜を抱くっていうことですよね?」
「その通りだ」
「それは、ちょっと抵抗が……。大体俺は男とそういうことしたことないし」
「その点は大丈夫だよ。相手は陰間さんだ、そういったことはプロだからね」
「だからと言って……」
 月影先生の言葉に、八神先輩は何も言い返せず黙り込んでしまう。
 その表情には「どうしたらいいのだ」という戸惑いと、予期せぬ驚きが滲んでいた。
 それはそうだろう。禅さんに憑依されて舞桜を抱くのと、自分の意思で舞桜を抱くのでは大分覚悟が違う。
 もし八神先輩が僕のことを少しでも好きだったら、きっとこんなに困惑しなかったはずだ……。そう思うと少しだけ悲しくなってきてしまう。
 所詮僕は凡人で、彼は高嶺の花なのだ。
「ちょっと考えさせてください」
「考えるのもいいけど、時間はないからね?」
「はい、わかっています」
 八神先輩は小さく呟いてから俯いた。

◇◆◇◆

 月影先生の家からの帰り道、橋の上から夕陽を眺める。
 桜の花はもう五分咲き。数日後には満開になるだろう。
 桜の花が散ったら舞桜は……。
「八神先輩、すみません。大変なことになってしまって……」
「いや別に。勝手に首を突っ込んだのは俺だし」
「でも、僕相手じゃその……欲情しませんよね?」
「うーん……。そんなことはないと思う。雪村は男だけど、可愛い顔をしてるから。何とかなる気はする」
「ほ、本当ですか?」
「うん」
 僕の顔も、八神先輩の顔も夕陽に照らされて真っ赤になっている。
 トクン、トクン。心臓がいつもより早く鼓動を打つ。それが耳障りで思わず、叫びだしたくなる気分だ。
『可愛い』なんて言われて、喜んでいる僕はおかしい。
 でも、「君とできるわけがないだろう?」と拒絶されなくてよかった、とホッと胸を撫で下ろす。


 その時、舞桜が僕にそっと話しかけてきた。
『ねぇ、一颯。八神様と話がしたいから手を繋いでもらえるかな?』
「話を?」
『うん。少しだけ』
「わかった」
 僕は勇気を振り絞り、八神先輩に声をかける。
 これは舞桜が八神先輩と話したがっているだけで、僕が彼と手を繋ぎたがっているわけではないから──と自分に言い聞かせながら。
「八神先輩。舞桜が八神先輩に話があるみたいです。ちょっと手を繋いでもらえますか?
「あ、うん。別に構わないけど」
「じゃあ失礼します」
 僕は目の前に差し出された八神先輩の手に、そっと自分の手を重ねる。
 その瞬間、八神先輩の視線が僕の肩の上に移動したのを感じた。


「舞桜、俺に用事ってなに?」
『あの、私、どうしても八神様に言っておきたいことがあって……』
「言っておきたいこと?」
『はい!』
 舞桜が顔を真っ赤にさせながら着物をギュッと握り締める。それから、心を決めたように八神先輩を見つめた。
『私は、できれば禅さんと一緒に成仏したいです。しかしそれが叶わない場合、一人で成仏するしか方法は残されていません』
 舞桜の目にうっすらと涙が溜まる。それを見ていると、胸が締め付けられる思いだ。
『契りを交わすということは、想い合っている者同士がすること。しかし私は、陰間ですから、好きでもない男たちに抱かれてきました。好きでもない男に抱かれる辛さや、虚しさは私が一番わかっています。だから最期くらい好きな人に抱かれたい』
「舞桜……」
 肩を震わせ泣く舞桜を見つめる。
 『最期』という言葉が僕には、重く、冷たい言葉に感じる。僕は、舞桜に幸せになってほしいのに……。
『だから、絶対にあなた様を、私の虜にしてみせますから!』
「……え?」
『この言葉はただの願いじゃありません。私の残りの時間をかけた揺るぎない決意です! あなたの中に私の存在が深く刻まれるまで、私は決して諦めない。この世界で、私があなた様と出会った意味を、私が証明してみせますから』
「舞桜……」
『だから、もしもあなた様が私を抱くとき、愛しいと思って抱いてください。それだけで私は成仏できますから』
「わかった、わかったよ、舞桜」
『八神様……!』
 舞桜は静かに泣いた。
 いつもだったら「そんな風に馴れ馴れしくしたら駄目だよ!」と注意するところだけれど、今日は黙って見守ることにした。
 舞桜のすすり泣く声が、川の流れる音にそっと掻き消されていく。
 桜はもうすぐ満開だ。
(神様。少しだけでいいから時間を止めてください)
 僕は八神先輩の腕の中で泣き続ける舞桜を見て、そう願わずにはいられなかった。