桜の花が散る時までに


 春休みを祖母の家で過ごした後、僕は新しい季節を迎えるために自宅へと戻った。
 今日から新学期。僕は二年生になる。
 舞桜がいつも隣にいる生活には慣れたけれど、正直なところ学校までついてきてほしくない。だからと言って、舞桜は僕から離れることができないのだ。
 仕方なく舞桜を学校へと連れて行くことにした。
「舞桜、僕は今日から学校に行くから、静かにしててね」
『学校? 一颯、学校ってなにするところなの?』
「んー、昔でいう、寺子屋みたいなものかな?」
『へぇ、そうなんだ……勉強をする場所なら静かにしてるよ』
「間違っても、僕の体に勝手に憑依しないようにね」
『大丈夫。それくらいわかってるから』
 一応舞桜に注意しておいたけれど、当の本人は目をキラキラさせながら楽しそうにしている。
(何事もなければいいけど……)
 僕の心は不安でいっぱいだった。


 学校に着くと、校庭に植えられた桜は蕾が膨らみ、もうすぐ開花といったところだ。
 それでも、今年の冬が寒かったおかげで例年より桜の開花が遅い、ということが僕たちの救いだった。
 そんな桜を見ると、僕は少しだけ焦りを感じてしまう。
 あの桜が散る時までに、禅さんと禅さんの生まれ変わりを見つけて……。
(これ以上考えるのはやめよう……。見つけた後のことを考えると憂鬱になってくる)
 僕はその場で思考をシャットアウトした。


 新学年になって、一番最初のイベントが、新しいクラスの発表だ。
 僕はクラスなんてどうでもいいと思っている。自分と同じ大人しそうな子を探して、その子たちと一緒に過ごせばいいだけだ。
 僕みたいな大人しい性格の奴は、クラスの中で空気のように生息していればいい。そう思っている。
 だから今日も、みんなが新しいクラスに散り散りになった頃に、昇降口に張り出された新しいクラスの名簿を見ればいい。そう思って普段より遅めに登校した。
 その甲斐あってか、昇降口にいる生徒は予想通り少ない。
(どうか、素行の悪い生徒が同じクラスにいませんように……)
 そう願いながら昇降口に向かおうとした瞬間、逆方向から一人の生徒が歩いてくるのが見える。


「あ、八神先輩だ……」
 八神先輩は僕より一つ上の三年生。
 眉目秀麗、文武両道というすべてにおいて完璧な人だ。
 学校にファンクラブがあるくらいだし、僕のような地味な人間がお近づきになれるような人ではない。まさに高嶺の花。
 そして、僕の憧れの人だ。
 しかし八神先輩を見た瞬間、舞桜が突然叫び声を上げた。
『一颯、あの人が禅さんの生まれ変わりだ!』
「え?」
『間違いないよ! だってあの人は禅さんにそっくりだし、あの人から禅さんの匂いがする』
「でも、舞桜……。あの人はほんとに凄い人なんだよ。僕みたいな奴が近づけるような人じゃない」
『じゃあ、どうしたらいいの? 禅さんが目の前にいるっていうのに……』
「ここは落ち着いて作戦をたててから……」
『嫌だ、そんな時間なんてないよ!』
「あ、舞桜! ちょっと待って!」


 次の瞬間視界がぐにゃりと歪み、全身から力が抜けていく。
 意識がだんだんと遠のいていき、僕の体なのに、自分の体ではないような錯覚に襲われる。
「舞桜、一体何をしたんだ⁉」と叫びたいのに、それは言葉になってくれない。
 そればかりか、自分で自分の体を動かすこともできなくなってしまった。
(やられた! 舞桜に憑依されたんだ!)
 僕の体は完全に舞桜に乗っ取られてしまう。
 舞桜は僕と違って意外と積極的な性格をしている。だから、一体何をしでかすのだろうと不安になってしまった。
 そんな僕の不安なんて関係なく、舞桜は八神先輩に向かって走り出した。


 目の前にいる八神先輩は、端正な顔つきをしている。身長は僕よりずっと高くて、何かスポーツをしていたのだろうか? 制服の上からでも逞しい体つきをしていることがわかる。
 綺麗な一重の瞳は静かに僕の姿をとらえて、黒々とした髪が春の日差しを受けて絹糸のように輝いていた。
「なんだ、お前? 俺になんか用?」
 この耳障りのいい低い声。何回か夢の中で聞いたことがある。着ているものこそ違えど、見た目だって禅さんと瓜二つだ。
 そのひどく懐かしい感覚に、僕の心に動揺が走る。


『見つけた』
「舞桜、お願いだから落ち着いて」
『無理だよ。だって私の目の前には禅さんがいるんだもん』
「舞桜、お願いだから!」
『一颯は少し黙ってて!』


 舞桜を通じて、僕の鼓動がトクントクンと速くなっていく。僕は、髪が逆立っていくような強烈な興奮を感じた。
『ようやく会えたんだ……』
 鼻の奥がツンとなって、目の前が涙で滲んだ。
 舞桜が歓喜に打ち震えているのを感じる。
 それはそうだろう。長年探していた最愛の人に会うことができたんだ。
 でも舞桜、待って。
 冷静にならなくちゃ駄目だ! 八神先輩が、本当に禅さんの生まれ変わりかわからないんだ。
 もし禅さんの生まれ変わりだとしても、前世の記憶がないことだって考えられる。僕がそうであったように。
「だから冷静になってくれ、頼む舞桜!」
 しかし、舞桜には僕の言葉なんて届かなかった。


『禅……さん……?』
「は?」
『貴方は禅さんでしょう? 会いたかった、禅さん!』
 舞桜は無我夢中で目の前にいる八神先輩に飛びついた。
「やめてくれ、舞桜!」
 でも僕の叫び声なんて、今の舞桜には届いていない。
 舞桜が禅さんのことを忘れることなんてない。もう何度も彼の夢を見たのだから。
 毎日会いたいと思っていたし、絶対に探し出してみせると心に誓っていた。
 でもまさか、こんなにも早く再会できるとは、僕も予想していなかったのだ。
『禅さん、会いたかった……!』
 舞桜の記憶や今まで我慢していた想いが、濁流のように僕の心の中に流れ込んでくる。
 全てが懐かしくて仕方がない。この逞しい胸板も、温もりも、匂いも……。
 舞桜は嬉しくて思わず頬ずりをした。
 その瞬間、彼の体がビクンッと強張り、物凄い力で体を引き離されてしまった。


「あのさ、お前誰? 誰かと人違いしているんじゃねぇの?」
『……人、違い……?』
「そう。俺の名前は禅さんじゃなくて朔。八神朔(やがみさく)だ」
『八神、朔……』
「そう。この高校の三年。だからお前が探してた奴とは人違いだよ。だから、悪いけど離れてくれない?」
『え? あ、ごめんなさい』
 舞桜はそう言いながら、八神先輩から体を離す。
「お前、名前は?」
『名前? 舞桜……じゃなくて、雪村一颯です』
「雪村ね。多分もう接点はないと思うけど、一応名前くらい覚えておくわ」
『……はい』
 目の前でニッコリ微笑むその姿は、どこをどう見ても禅さんそのものだ。
 それに抱きついた時に感じた温もりや匂いだって変わっていない。八神先輩は、何から何まで禅さんにそっくりだ。
 僕は舞桜を通して、それを感じることができた。


『こんなにも禅さんにそっくりなのに、禅さんじゃないなんて……』
 舞桜の呟く声が聞こえてくる。
 あまりにもガッカリしているから、可哀そうになってしまった。


 呆然としている舞桜の耳に、遠くの方で始業を知らせる鐘の音が聞こえてくる。
 先程までちらほらといた生徒たちの姿はそこにはなく、すでに教室に行ってしまったのだろう。
「あ、ヤバイ! チャイムが鳴っちゃった。教室に急がないと」
 そう呟いたとき、再び目の前の視界は歪み、意識が遠のいていく気がする。
 次の瞬間、体が自由に動かせるようになり、声も出すことができるようになった。
 舞桜が僕の体から抜け出したのだろう。


『ごめんね、一颯。約束を破って勝手なことをして』
「別にいいよ」
 八神先輩は「じゃあな」と手を振りながら、三年生の教室の方へと向かって行く。
 僕と舞桜は、それを呆然と見つめた。
『禅さんだと思ったのに……』
 舞桜の呟いた言葉に、僕の心がキュッと締め付けられる。
 彼はきっと、禅さんの声で『舞桜』と呼んでもらえないことが悲しかったのだろう。
『あの人は禅さんの生まれ変わり……? それとも、ただ似ているだけなの……?』
「どうなんだろう。禅さんの生まれ変わりでも、僕みたいに記憶がない場合もあるしね」
『そうだね。でも少なくとも、彼は私のことを知らなかった……』
「舞桜……」
 着物の裾で涙を拭いながら静かに泣く舞桜の背中をそっと撫でてやる。
(八神先輩は、禅さんの生まれ変わりなのだろうか?)
 答えの出ない疑問が、僕の心を締め付ける。
 桜の蕾が今にも咲かんばかりに、膨らんでいた。

◇◆◇◆

 今日は始業式だから早く学校が終わった。
 僕の新しいクラスは、一年生の時に仲が良かった友達が数人いて、一先ずホッと胸を撫で下ろす。
 それにしても、舞桜は僕以外の人間には見えていないらしい。僕の隣を、常にフワフワ浮いているのに……。
 僕は誰かに舞桜の存在がバレるのではないかと、気が気ではなかった。けれど、誰にも見つからずに一日を過ごすことができたことに心の底から安堵する。
 しかし当の舞桜は、八神先輩に会って以来元気がない。
 学校にいるときもずっと俯いたまま、一言も言葉を発さなかった。
 普通だったら『あれは何?』『これは何?』と質問攻めされるはずなのに。
 余程八神先輩とのやりとりが、ショックだったのだろう。


「舞桜」
 僕はそっと舞桜の着物の袖を引く。
 普段はうるさいと感じるくらい元気なのに、こんなにも静かだと心配になってしまう。
「八神先輩のこと、まだ気にしてるの?」
『…………』
 僕がそっと問いかけると、舞桜は無言のまま首を縦に振る。
 それはそうだ。何百年もの恋焦がれた人に再会できたと思ったら、自分のことを覚えていなかったなんて、どれほどガッカリしただろうか──。
 舞桜の気持ちを考えれば気持ちが張り裂けそうになる。


 でも八神先輩は、僕が通う高校の高嶺の花だ。内気な僕は、彼に近づくことさえできない。
 いつも遠くから「八神先輩、かっこいいなぁ」と見つめていたのだから。
「ごめんね、舞桜。僕が八神先輩と仲が良ければ、もっと近くに行けるのに……」
『その八神先輩という人は、高嶺の花なんでしょう? それなら、なかなか近づけないよね。私が生きていた時代も、身分の高い人には近づけなかったから……。仕方がないなんて、わかってる』
「……うん。ほんとごめんね、舞桜……」
 僕は自分の無力さを痛感し、情けなくなってしまう。
『でも、もう一度禅さんに会えただけでも感謝しなくちゃだね』
「そう思ってもらえたなら嬉しいけど……」
 舞桜はようやく笑顔を見せてくれたけど、僕の心の中はまだザワザワしている。


「でもね、僕一度だけ八神先輩と話をしたことがあるんだ」
『え、そうなの。どんな話したの?』
「忘れもしないよ……去年の球技大会の日、熱中症になっちゃってさ。体育館の近くにある水道に、ひとりで行ったんだ」
 どんどん体が熱をもっていき頬が熱くて仕方がない。
 フラフラになりながらも、頭から水を被ろうと蛇口に手を伸ばした瞬間、突然強い力で手首を掴まれてしまい、蛇口に触ることができなかった。
 びっくりした僕が顔を上げると、鬼のような形相をした八神先輩が立っていた。
「え? な、なんですか?」
 驚いた八神先輩に声をかけると、彼は真っ青な顔をしていた。額からは汗が流れ、唇が小刻みに震えている。「はぁはぁ」と肩で呼吸をしており、切れ長の目が大きく見開かれていた。その鬼気迫る形相に、僕は思わず息を呑んだ。
「八神、先輩……?」
「駄目だ、駄目だ……」
「え? 急になんですか? なっ……⁉」
「水は駄目だ! お前は水に触ったらいけない!」
 そのまま強く抱き締められると、あまりの力強さに一瞬息が止まる。
 物凄い力で僕を抱き締める腕とは反して、その体はガタガタと震えていた。
「水は、水は、駄目だ……」
 八神先輩は、繰り返しそう呟いていた。


『へぇ、水か……』
「でもその後すぐに元の先輩に戻って『ごめん』って言いながら立ち去ってしまったけれど。八神先輩は僕が水に触ることが、なんで嫌だったのかな?」
『うーん、なんでなんだろうね』
「それ以来、八神先輩との接点なんて全くないけどね」
『そっか……』


 舞桜がこの世界にいられるのは桜の花が散る時まで──。
 八神先輩のことを高嶺の花なんて言わずに、どんどんアタックしていった方がいいのだろうか? そう、舞桜のように……。
 でも、内気な僕にはそんなことができるはずなんてない。
(ごめんね、舞桜。僕に勇気がなくて)
 舞桜に心の中で謝罪する。
 いつもは桜の開花が楽しみだったけれど、今年はそうではない。
(どうか桜の花よ、咲かないで)
 僕はそう祈り続けた。

◇◆◇◆

 始業式の日以来、舞桜は元気がなかった。
 学校に行くと八神先輩の周りにはいつも人だかりができている。
 八神先輩は元々クールな性格なのか、みんなでワイワイと楽しむタイプではないので、勝手に周りに人が集まるというイメージだ。
 彼が廊下を歩けば、女子生徒たちの瞳が輝き「八神先輩だ」というヒソヒソ声が聞こえてくる。
 それから八神先輩はバスケ部に所属していて、放課後は一目八神先輩を見ようと女子生徒が押しかける。
 八神先輩はみんなの憧れで、まさに高嶺の花。
 僕みたいな地味な生徒が近づける人ではない、ということに舞桜も気付いたのだろう。
 だからと言って、いきなり僕が八神先輩の所に行って「僕と仲良くしてください!」と言ったところで、不審者扱いされることは間違いない。
 そんなことをしているうちに、桜の花が一つ一つと咲き始めた。
 桜は開花してから一週間から二週間程度で散ってしまう。
(それまでには八神先輩と仲良くならなくちゃ)
 気持ちばかりが焦ってしまう。


 舞桜の落ち込む姿を見る度に、八神先輩に声をかけてみようか?と僕の心が揺れる。
 でも僕が声をかけたところで、彼が僕の相手をしてくれるとは限らない。
(一体どうしたらいいんだ……)
 何かいい策はないかと必死に考えてみるけれど、ろくなアイディアが思い浮かばない。
 それでも舞桜は遠くからでもいいから八神先輩を見ていたい、と言うから、僕も放課後八神先輩ファンクラブの女子たちと八神先輩がバスケをしている姿を遠目に眺めた。
 八神先輩がボールを抱えた瞬間、相手チームの選手たちが壁のように立ちはだかる。
 しかし、八神先輩は迷うことなく、その隙間を縫うように加速した。まるで世界には彼とゴールリングしかないみたいに。
 一歩、また一歩と距離を詰めていく背中が、あまりにも力強くて目が離せない。
 目の前の守備を鮮やかに抜き去り、ふわりと宙を舞う。その滞空時間は、まるで時間の流れから自由になったみたいだった。
 ボールがリングを通過する『シュッ』という乾いた音。その瞬間、張り詰めていた空気が一気に弾けた。
 圧倒的な速さ。誰にも邪魔させない強さ。 
 僕は、八神先輩に目を奪われてしまっていた。
『服装は違っても、禅さんは禅さんだね』
「ねぇ、舞桜。もしかしたら八神先輩は舞桜の言う通り、禅さんの生まれ変わりかもしれない。でも禅さんとしての過去の記憶はないような気がするんだ」
『…………』
 舞桜にしてみたら厳しい言葉かもしれないけれど、僕は感じたことを率直に伝えてみる。すると、舞桜はやっぱり傷ついたような顔をした。でもそれから、いつものように笑う。
『そうだよね。うすうす、そんな気はしてた』
「……そっか」
『私は壺から出られた時、もう一度禅さんと愛し合いたいって思った。でも今は、こうやって彼を遠くから眺めているだけで十分だよ』
「でも、それじゃ舞桜が……」
『そうだね、私は怨霊になってしまって、そして地獄へと引きずり込まれる……それでも構わない。こうやって禅さんにまた会えたんだから』
「舞桜、そんなの嫌だよ。僕は君に消えて欲しくない」
『ふふっ。ありがとう。でも私は幸せだよ。またこうやって禅さんを見ることができて』
 そう話す舞桜の大きな瞳が、涙でユラユラと揺れている。
(どうにかしてあげたい)
 体育館から外を見ると、桜は三分咲きと言ったところだ──。
(もう時間がない)
 何もできないくせに心ばかりが焦ってしまう。


 舞桜は優しいし明るくて、本当にいい奴だ。
 僕は、そんな舞桜に怨霊なんかになってほしくない。
 できることならば、禅さんと一緒に成仏してほしい。例え僕が多少の苦痛を味わったとしても……。
『あ、一颯、禅さんがまた籠に球を入れたよ! やっぱりいつの時代も禅さんは凄いなぁ』
 そう、無邪気に笑う舞桜。
 本当は桜が散っていくことに、焦りや恐怖心を感じているくせに。そんな強がる舞桜の姿が痛々しい。
 どうにかしてあげたい。でも、僕にできることってなんだろう。
 僕はずっと葛藤を繰り返している。
 上手い答えなんて出ないけれど、それでも明るく振る舞う舞桜を見ていることが辛かった。
「あ、舞桜。バスケ部の部活が終わったみたいだから、僕たちも帰ろう」
『うん』
 舞桜は名残惜しそうに、体育館に背を向ける。
(あと何回、こうやって八神先輩を一緒に見ることができるのかな……)
 そう考えずにはいられなかった。


 体育館を出た僕たちは、今日見るテレビ番組の話で盛り上がる。
 テレビを見たことのない舞桜からしてみたら、テレビが面白くて仕方がないらしい。
『この人たちは、この箱の中にいるんじゃないの?』と興味津々だ。
 そんな少しのことでもいい。舞桜が笑ってくれるのならば。
 舞桜はこの世界でものに触れることもできないし、食べることもできない。
 ただ、見ることができる。
 今晩も舞桜の『あれは何?』『じゃあこれは?』という質問攻めにあうのかと思うと、疲れるけれど、可笑しくもなってくる。
『あ、禅さんだ』
「本当だ」
『今帰るところなんだね』
 ちょうど僕たちの目の前に、偶然にも信号待ちをしている八神先輩がいた。
 そんな八神先輩を、舞桜が愛おしそうに見つめている。


 そして、それは突然の出来事だった。
 僕たちの前を歩いている八神先輩が、信号が青になると横断歩道を渡り出す。
 その時──。
 信号を無視した車が、猛スピードで横断歩道へ突っ込んできたのだ。
(危ない‼)
 僕がそう思った瞬間、『一颯、体を借りるね』と舞桜の声が聞こえる。
 間一髪のところで舞桜が僕の体に憑依し、僕は先輩を突き飛ばすことができた。
 僕に憑依する前に一瞬だけ見えた舞桜の顔が、目は血のように真っ赤に燃え上がり、怨霊のような恐ろしい形相に変わっていた。
 先輩を突き飛ばした後すぐに鈍い衝突音が響き渡り、車は無残な姿に大破してしまう。フロントガラスは粉々に砕け、車のバンパーはひしゃげてしまっている。
 舞桜が僕の体からスッと出て行く。僕は、急いで道路上に倒れている八神先輩の元に夢中で駆け寄った。
「八神先輩。大丈夫ですか⁉」
「だ、大丈夫だ……」
「よかった……」
 衝撃と安堵がないまぜになった感情の中で、僕はそのまま道路に座り込み、八神先輩を強く抱き締めた。
 今になって恐怖心に襲われて、腰が抜けてしまったのだ。
 八神先輩の温かい体が僕の腕の中にあり、その鼓動が生きている証のように感じられた。
 

(よかった、八神先輩が生きてる……)
 ようやく心の底から安堵することができた僕の体から、一気に力が抜けていった。
 僕と先輩は奇跡的に大きな怪我もしていない。
 それと同時に湧き上がる疑問。
(あの真っ赤な目をした舞桜は、一体何だったんだろう)
 今舞桜を見ると、いつも通りの顔をしており『一颯大丈夫?』と慌てふためいている。
 でも僕は確信している。
 舞桜が僕の体に憑依して、僕と八神先輩を守ってくれたんだって──。


「君たち大丈夫かい?」
「おい、救急車を呼んでくれ!」
 僕たちの周りに大人が一斉に駆け寄ってきて、辺りが急に騒々しくなる。
「あの、八神先輩、本当に大丈夫ですか?」
「あぁ、俺は大丈夫だ。君のおかげで助かったよ。ありがとう」
「いえ、そんな……」
 一先ず八神先輩に怪我がなかったことに胸を撫で下ろす。
 車は原型を留めていないほど大破しているのに、僕たちは無傷だなんて……。
 僕は、その時舞桜が持つ力を知った。
 その後到着した救急車に乗り、僕たちは病院へと搬送されたのだった。

◇◆◇◆

 病院で手当てと、軽い検査を受けた僕と八神先輩は、外来の待合室で母親の迎えを待つこととなる。
 幸い僕はかすり傷程度だし、八神先輩は無傷だった。
 どの検査も特に異常はなく、僕たちはこのまま帰宅となった。
 でも特に八神先輩と仲がいいわけでもないから、会話もなく、待合室では気まずい沈黙が続く。
 隣にいる舞桜も、先ほどからそわそわしっぱなしだ。
「頼むから、今は絶対僕に憑依しないでね。話が拗れるから」
『わかってるよぉ』
 舞桜が大きくうなずいた瞬間。
「あのさ」
 僕は心臓が止まりそうになってしまう。八神先輩が、僕に向けて声をかけてくれたから。
 八神先輩はみんなに人気があるけれど、にこにこと愛想を振りまくわけではないし、お世辞を言うタイプでもない。
 だからこそ、緊張してしまうのだ。


「何回も言うけどさ、助けてくれてありがとう。あの時君がいなかったら、俺は本当に死んでいたと思う」
「い、いえ、そんな。ただの偶然ですから」
 本当なら舞桜が助けてくれたんです、と伝えたいところだけれど、そんなことを言っても信じてはくれないだろう。
 病院の待合室から外を見れば、辺りはすっかり真っ暗だ。
 今頃母親たちが真っ青になりながら、病院に向かっていることだろう。


「あ、君、そっちの手もすりむいてるじゃん? ここも処置してもらえばよかったのに」
「本当だ。どうも痛いと思ったら……。でも、これくらい大丈夫ですから」
「大丈夫じゃないって。よく見せてみろよ」
 八神先輩が心配そうに僕の手を掴んだ瞬間。彼の瞳が驚きで見開かれる。
「……え? なんだ、あれは……」
「はい?」
 八神先輩の手が、僕の手の上で微かに震えた。
 彼の視線は明らかに、舞桜の方を向いている。八神先輩は僕の背後に寄りそう舞桜の気配をはっきりと捉えてしまったようだ。
(なんで突然……?)
 僕は自分自身の痛みよりも、八神先輩が僕の内側に潜む『舞桜の存在』に気付いてしまった恐怖で、全身の血の気が引いていくのを感じる。
 八神先輩が掴んだ僕の手は温かいはずなのに、どうしても冷たく感じられた。


「雪村の隣に、君にそっくりな人がフワフワ浮いているんだけど?」
「え? 八神先輩には、舞桜の姿が見えるんですか?」
「見えるも何も、この子……最近の子じゃないよな? 一体、いつの時代を生きていたんだ? 着物を着てるじゃないか?」
「えっと、舞桜は江戸時代に生きていた子で……」
「江戸時代⁉」
 八神先輩の大声にびっくりしたのか、舞桜が僕の後ろに慌てて隠れてしまう。
 もしかしたら、照れ隠しもあるのかもしれない。頬がうっすらと桃色に染まっている。
 僕は舞桜とどうやって出会ったのか、舞桜が今も成仏ができないでいることを八神先輩に話した。
 八神先輩はこんな非現実的な話を、真剣に聞いてくれている。


「そんな話信じられない。でも実際に、雪村の後ろには幽霊がいる……。これが現実なんだ」
「はい。僕もはじめは信じられませんでした」
「そうだよな。簡単に『はい、そうですか』なんて納得できる問題じゃない。でも、じゃあどうすれば舞桜は成仏することができるんだ? あれ? 舞桜が見えなくなった」
 僕の手を離した八神先輩が目を見開く。
「さっきまではあんなにもはっきり見えたのに」とびっくりしている。
 そんな八神先輩の姿を見て、僕はもしかして……と、八神先輩の手を握った。
 僕が八神先輩の手を握るなんて、こんなこと、絶対にありえないのに……。そう思うと、八神先輩の手を握る僕の手が微かに震える。
 次の瞬間。
「あ、また舞桜が見えた」
「やっぱり」
 僕の疑問が確信に変わった瞬間だ。
 八神先輩は僕と手を握り合っている間だけ、舞桜を見ることができるらしい。
「もしかしたら、姿を見るだけではなくて、話もできるかも……」
 そう思い、僕の後ろに隠れている舞桜にそっと声をかけた。


「舞桜、八神先輩と話ができるか試してみてよ」
『でも……』
「大丈夫だよ。八神先輩はいい人だから」
『本当に?』
「うん」
 僕に背中を押されて、ようやく八神先輩の前に姿を現した舞桜。
 好きな人の前で緊張するなんて、どの時代も変わらないなって思う。
『あの……、私が言っている言葉が聞こえますか?』
「うん、聞こえるよ。君が舞桜っていうのかい?」
『はい』
 舞桜は顔を真っ赤にしながらも、八神先輩に向かって微笑んだ。 


「さっきの交通事故は、僕じゃなくて、舞桜が僕たちを助けてくれたんだと思います。違う? 舞桜」
『うん、そうだよ。私が霊力を使って二人を助けたんだ』
 だから、車があんなにも大破していたのに、僕と八神先輩はほとんど無傷で済んだんだ。そう思えば納得もいく。
「やっぱり。ありがとう舞桜」
「俺からもお礼を言わせてほしい。君がいなければ俺は死んでいたよ。本当にありがとう」
『そんな……』
 顔の前で両手を振りながら照れ隠しにはにかむ舞桜。
 その姿がとても幸せそうで、見ている僕も温かい気持ちになった。
 ただ──。
 僕たちを助けてくれる時、舞桜の目が一瞬炎のように赤くなり、まるで怨霊のような形相になった。
(あれは一体なんだったんだろう)
 僕の心の中で燻り続ける疑問。
 僕はあの瞬間、舞桜があのまま怨霊になってしまうのかもしれない、という恐怖に襲われた。
 しかし、今こうやって八神先輩と嬉しそうに話す舞桜を見ているうちに、そんな心配も消え去ってしまう。
(よかった。いつもの舞桜だ)
 僕はホッと胸を撫で下ろす。


 それに八神先輩が舞桜と話す時には、僕と手を繋いでいなければならない。
 つまり、僕はまたこうやって八神先輩と手を繋ぐことができる。
 そんなことを考えていると、僕まで舞桜のように頬が熱くなってきてしまう。
 『高嶺の花』の八神先輩と、こんな風に手を繋げる日が来るなんて。本当に夢のようだ。


「そういえば、舞桜はずっと成仏できないのかい?」
 八神先輩が心配そうに舞桜の顔を覗き込む。
 彼に見つめられて恥ずかしいのか、舞桜がまた僕の後ろに隠れてしまう。そんな舞桜はとても可愛らしい。
「舞桜は桜の花が散る頃までに、彼がこの世に残した未練を晴らすことができれば、成仏できるようです。でも、成仏できなかった場合は怨霊となって、地獄に引きずり込まれてしまうとか……」
「桜の花が散るまで? マジか。じゃあゆっくりしている時間はないな」
「そうなんです」
 八神先輩が舌打ちをしてから、大きく息を吐いた。
「それで、舞桜の未練ってなんなんだ?」
「それが……」
「なんだよ、言えって。俺が協力できることがあるかもしれないし。そしたら舞桜に恩返しもできるだろう?」


 協力できるも何も、八神先輩が、舞桜が成仏するための重要なキーパーソンなんです。
 なんて恥ずかしくて言い出すことができない。
 僕が言い渋っていると、突然舞桜が僕の後ろから飛び出してきた。


『私の未練は、結ばれなかった恋人と再会すること。そして、もう一度契りを結ぶことです』
 舞桜はぽつぽつと、身の上話を八神先輩にした。僕が成り行きを見守っていると、陰間、という単語が出た瞬間に八神先輩の目が真ん丸くなる。
「なるほど、そうだったのか……陰間だったっていうし……その、君の恋人って男、なのか?」
 舞桜はしっかりと頷く。
『はい。私の恋人の名前は禅さんっていう人です』
「禅さん? じゃあ、始業式に俺に飛びついてきたのは、もしかして君かい?」
『あ、はい……あれは、私です』
そう言いながら、舞桜は申し訳なさそうに俯く。でもすぐに顔を上げた。
『あなたは私の恋人である禅さんにそっくりなんです。だから、私はあなたが禅さんの生まれ変わりだと思っています』
「そうなんだ。俺には全く自覚はないけれど」
『ちなみになんですが、一颯は私の生まれ変わりです。その一颯を通して私とこうやって話ができるんだから、あなたは絶対に禅さんの生まれ変わりです。ねぇ、私のことを覚えていないですか?』
 舞桜がまくしたてるように話すと、八神先輩は悲しそうな顔をした。
「ごめん。俺は全然舞桜のことを覚えていないよ」
『そうですか……』
 舞桜がクスンと鼻を鳴らしながら、もう一度僕の背中の後ろに隠れてしまう。
 もしかしたら、八神先輩が自分のことを覚えているかもしれないという、期待があったのかもしれない。
「ごめんな。悲しい思いをさせて」
 泣き出す舞桜の頭を、八神先輩がそっと撫でてやっている。八神先輩は僕と手を繋ぐと舞桜が見えるだけでなく、触れることもできるようだ。
 突然頭を撫でられた舞桜は、泣き止んで、いつものような笑顔を見せる。
 八神先輩に頭を撫でられたことが嬉しかったのだろう。


「それで、舞桜が成仏するには、具体的にはどうしたら……?」
「あ、はい。まずは禅さんが舞桜のように成仏していないと仮定して、禅さんを探すことです」
「でも、禅さんっていう人を見つけたとしても、体のない霊同士が契りを結べるのかい?」
「いえ、霊同士では触れ合うことはできないようです」
「じゃあ、どうするんだ?」
「だから……」
 僕は恥ずかしさのあまり、真実を八神先輩に伝えることができずに視線を逸らす。
 まさか軽々しく「僕の体に舞桜を憑依させて、八神先輩の体に禅さんを憑依させる。それで契りを結べばいいんです」……なんて言えるはずがない。
 心臓がドキドキと鳴り響き、口から飛び出してきそうだ。
 八神先輩と繋いでいる手が、汗でしっとりと濡れている。
 言えない、僕には。どうしても、言えない……。
 僕が唇を噛み俯くと、舞桜が僕の隣にスッと現れる。
 それから、静かに話し始めた。


『一颯の体に私が憑依して、八神様の体に禅さんを憑依させて契りを結びます』
「俺の体を借りて? じゃあ、つまり……」
『はい。あなた方の体を借りて、私と禅さんが契りを結べば、私は成仏できるはずです』
「そんな……」
 八神先輩が激しく動揺していることが、傍にいる僕にまで伝わってくる。
 それはそうだ。相手が女の子ならまだしも、突然「男と契れ」と言われても、そんなことは無理だろう。
 いたたまれなくなった僕は、顔を上げることさえできない。
「つまり、俺と雪村でエッチするってこと?」
「…………」
 僕は言葉を発することもできないまま黙って頷く。
 恥ずかしくて顔から火が出そうな僕は、このまま八神先輩の手を振りほどき、この場から逃げ去りたい気分だ。
 だいたいこんな『高嶺の花』である八神先輩に、平々凡々である僕が抱かれていいはずがない。
 

「そっか。雪村とエッチか……」
 冗談めかした先輩の言葉の中に、隠しきれない照れが混じっている。
 僕も思わず頬が熱くなるのを感じて、もう一度俯く。
 大体先輩の歴代の彼女と言われている女の子たちは、みんな美人か可愛いかのどちらかだ。先輩が抱いた人物のリストの中に僕が入るなんて、そんな申し訳のないことはできない。
 ただ、先輩の少しだけ耳が赤くなっているのを見つけて、僕の中に、言いようのない興奮と、甘い高揚感が広がっていく。
「雪村とエッチか。雪村とね……」
 八神先輩が、そう何度か繰り返し呟く。
(絶対、八神先輩は僕とエッチなんてしたくないんだ)
 そう考えると、心の中を隙間風が吹き抜けていくような虚しさを感じた。
 それと同時に、僕は八神先輩になら抱かれてもいい……、と思っていたことに気付かされる。
 確かに僕は八神先輩に憧れてはいたけれど……。
 まるで舞桜が禅さんに感じる「好き」という想いが、僕に乗り移ってしまったかのようだ。


 僕と八神先輩の手はまだ繋がれたまま。
 このままじゃ、手を離すタイミングを見失ってしまいそうだ。
 ただ二人の間に気まずい沈黙と、壊れてしまいそうな危うい『ギクシャク』した空気が流れていた。