桜の花が散る時までに


 ザブザブッと水を掻き分けながら、舞桜(まお)は男に手を引かれ池の深みへと向かっていく。
 空には真ん丸な満月が浮かび、水面にユラユラと揺れていた。「あぁ、今日は満月だったんだ」と頭の片隅で思う。
 今の季節はもう春だというのに、池の水は凍てつくような冷たさで、舞桜の細い体からどんどん熱を奪っていく。手足の感覚はとうの昔になくなり、体がガタガタと震えた。
 それでも繋いだ手だけは異常に熱い。あまりにも強く握られているものだから、手が痛くて舞桜は何度も顔を歪めた。
(ぜん)さん、やっぱり引き返しましょう」
 舞桜は何度かこの言葉を口に出そうとしたものの、禅さんの背中がそれを許してはくれなかった。


 ──もう自分達は引き返すことができないんだ。
 舞桜の瞳に涙が滲む。
 何度も何度も二人で話し合ったはずなのに、舞桜の決心は池の水に触れた後でもなお、どうしても鈍ってしまうのだ。
 禅さんには、もっと違う未来があったに違いない。だってあんなにも立派な家に生まれた長男なのだから。素敵な許嫁と結婚して子宝に恵まれる。きっと良い父親になることだろう。
 そう思えば、今、自分達がしようとしていることが正しいのかわからなくなってしまった。


 禅さんの逞しい背中を眺めているうちに、涙がポロポロと頬を伝う。二人で過ごした楽しかった日々が走馬灯のように駆け巡った。
 ──あぁ、私はやっぱりこの人が大好きだ。
 水を吸った着物がどんどん重みを増して体にまとわりついてくる。池の底に何度も足をすくわれそうになったのを、必死の思いで堪えた。
 池の水が口内に侵入してきて、呼吸がまともにできない。今ならまだ引き返せるかもしれない……。そんな思いが舞桜の頭を過るのに、全く躊躇う様子のない禅さん。
 自分の荒い呼吸がやけに鼓膜に響く。強い恐怖に駆られて、禅さんの腕に舞桜は無我夢中でしがみついた。


「舞桜、月が綺麗だな」
「え?」
 禅さんが突然立ち止まり、まるで舞桜の心を見透かしたように微笑んだ。それは舞桜が愛してやまない笑顔だ。
 きっと彼も、冷たい池の水に包まれて震えんばかりのはずなのに。その笑顔は舞桜が愛するもののまま、何も変わらない。胸が苦しくなるような、そんな感覚に、舞桜は喉奥をグッと硬くさせた。
 その瞬間、たくさんの蛍が淡い光を放ちながら一斉に空に向かって飛び立っていく。二人の頭上を埋め尽くすような光。さながら、闇の行く末を照らす灯火のようであった。
 その光景があまりにも綺麗で、舞桜は思わず目を細める。
 そして、禅さんの手を改めてきつく握り締めた。


「……禅さん、私は死んでもかまいません。あなたと一緒なら、怖くない」
「俺もだ、舞桜……。俺がもし生まれ変わることができたならば、必ず君を探しにいく。そして、もう一度君を愛する」
「私も、絶対に貴方を探します。だから、生まれ変わって、もう一度会いましょう……。今度は誰にも邪魔されることのないように……」
「あぁ、そうだな。でも、最期に君を抱きたかった」
「ふふっ。生まれ変わって出会うことができたならば、また愛し合うことができるでしょう?」
「それもそうだな」
 二人で見つめ合って微笑む。それから、きっと最期になるであろう口づけを交わした。
 舞桜の髪に刺さっているトンボ玉の簪がシャラ……と、音を立てて揺れる。それは、桜の模様が施された美しいトンボ玉であった。
「本当に月が綺麗だな」
 禅さんが呟いた言葉は、池が囂々と渦巻く音に搔き消されて、舞桜には聞き取ることができなかった。


 翌朝、冷たくなった二人の亡骸が見つかった。
 岸に打ち上げられた二人は、桜の花弁に包まれてまるで眠っているかのようで——。その姿を見た人々は、報われることのなかった恋に涙を流したという。
 握られた手と手は、死んでも尚離れたくないと言わんばかりに強く握り合っていた。