放課後、三番線ホームにご注意ください

「……去年の文化祭前夜も、同じでした」

ようやく落ちた声は、ひどく静かだった。
自販機のモーター音に消えそうなくらい小さいのに、その一言だけはやけにはっきり聞こえる。

俺は手の中のペットボトルを持ち直した。
急かしたくなかった。今やっと理玖が、自分のことを話そうとしているのが分かったからだ。

「同じって……今日みたいに、ってこと?」

「はい」

理玖は膝の上のボトルを見たまま、少し間を置いた。

「俺は今より、もう少し一人でいることが多かったです」

その言い方が、妙に淡々としている。
大げさにしたくないのが分かるぶん、逆に胸の奥がざわついた。

「友達も、ほとんどいなかったですし。今より、たぶん愛想もなかったので」

「それは知ってる」

反射でそう返すと、理玖がわずかに顔を上げた。

「知ってるんですか」

「去年のお前、今より近寄りがたかった。放送室の前で話しかけるたび、ちょっとだけ警戒されてる感じしたし」

「してました」

「してたんだ」

「してました」

即答されて、思わず少し笑う。
けれど理玖は笑わなかった。

「家に帰る理由が、あまりなかったんです」

その一言で、笑いかけた空気がきれいに止まる。

理玖は相変わらず視線を落としていた。
でも、その声はさっきより少しだけ乾いていた。

「毎日大喧嘩してるとか、そういうのじゃないです。ただ、ずっと空気が悪かったです。父親と母親、どっちかが機嫌悪いことが多くて。帰っても、誰も俺のこと見てないみたいな日が、たまにじゃなくて、普通にありました」

淡々としている。
なのに、ひとつひとつの言葉が妙に残る。

たぶん、それはすごく大きな不幸じゃない。
でも、帰っても自分の席がきれいに空いていない感じとか、ただそこにいるだけで息が詰まる空気とか、そういうのが毎日続いたら、学校に残ってる方がましだと思っても変じゃない。

「だから、去年の前夜も、放送の仕事が終わってもすぐ帰る気になれなくて」

理玖がそこでやっと少しだけ目を上げる。
自販機の白い光のせいで、まつげの影が濃い。

「先生も先に帰って、確認も終わって。もう残る理由はなかったのに、しばらく放送室の前にいました」

理玖が話す声を聞きながら、去年の特別棟が頭に浮かんだ。
今夜と同じように、半分だけ落ちた蛍光灯。
静かな廊下。
床を走る黄色いテープ。
赤いランプの消えた放送室の前で、今より少しだけ細く見える理玖が、一人で立っている。

今のこいつより、もう少し無愛想で、もう少し誰も寄せつけない顔をして。
でも、その実、帰る場所のことを考えるだけで、足が重くなっていたんだろうと思う。

「その時、呼ばれました」

短い言葉に、喉の奥がひやりとした。

「放送か?」

「たぶん。今夜みたいに、駅のアナウンスみたいな声でした。ただ」

理玖が少しだけ息を吐く。

「先輩の時みたいに、派手じゃなかったです」

「派手」

「拍手とか、みんなの声とか、そういうのはなくて」

そこで理玖は、ほんの少しだけ目を細めた。
思い出したくないものを、無理に言葉にしている顔だった。

「もっと静かでした。ここにいれば、誰の目も気にしなくていい、とか。ずっとここにいていい、とか。しゃべらなくても、誰にも合わせなくても、みんな君を受け入れてくれる、とか」

ぞくっとする。

家庭科室の匂いも、教室の声も、体育館の拍手も、俺にはどれも分かりやすく甘かった。
でも理玖に向いたそれは、もっと静かで、もっと逃げ場がない。

誰の目も気にしなくていい。
ずっとここにいていい。
みんな君を受け入れてくれる。

それは、たしかに去年の理玖にちょうど刺さる。

「……それ、きついな」

小さくこぼすと、理玖は否定しなかった。

「はい。あの時の俺には、ちょうどよかったです」

その「ちょうどよかった」が、怖い。
甘かった、よりずっと怖かった。

理玖は膝の上のボトルをゆっくり回した。

「案内板も、変に見えました。廊下の先が、今より少しきれいで、ちゃんとして見えて。黄色いテープも、ホームの線みたいで。そこに行けば、楽になれる気がしました」

俺は何も言えなかった。

たぶん去年の理玖は、拍手されたいわけじゃなかった。
褒められたいわけでもない。
ただ、もう何も気にしなくていい場所へ、静かに消えてしまえたらと思っただけだ。

それは俺が今夜見せられたものより、ずっと温度が低いのに、ずっと危ない気がした。

「それで、廊下に出たんです」

理玖が言う。

「たぶん、案内板の前で立ち止まってました。どこまで行くつもりだったのか、自分でも分かりません。ただ、そのまま誰にも見つからないまま消えそうでした」

そこで、理玖はようやくこっちを見た。

まっすぐ、逃げずに。

「誰にも見つからないまま消えそうな時に、先輩だけが見つけてくれました」

どく、と心臓が鳴った。

「俺?」

情けないくらい間抜けな声が出た。
理玖は静かにうなずく。

「先輩が、何でもない顔で戻しました。俺を元の世界に」

その言い方に、喉の奥が少し詰まる。

何でもない顔で。
そんなの、俺は絶対覚えてない。
でも理玖は、たぶんその「何でもない」をずっと覚えていた。

「……何て言ったの?」

理玖の目が、ほんの少しだけやわらいだ。

「霧島?何してんの、帰るぞ、って」

その一言で、去年の自分の声が妙に生々しく頭に浮かぶ。
忙しさのついでみたいな調子で、でもたぶん本気で不思議そうに言ったんだろう。

「俺、たぶん、『え、でも』って返しました」

「うん」

「そしたら先輩、近づいてきて」

理玖がそこで少しだけ間を置く。
俺はなんとなく嫌な予感がした。

「俺の顔見て、『イケメンが台無しだぞ』って言いました」

「待って」

反射で止めると、理玖が小さく首をかしげた。

「はい」

「それ、ほんとに俺?」

「はい」

「去年の俺、だいぶ軽くない?」

「軽くはなかったです」

「いや、十分軽いだろ」

「でも、先輩らしかったです」

さらっと言われて、余計に困る。

理玖は困った様子もなく続けた。

「それで、口の端を指でこう、軽く持ち上げて」

実演するみたいに、自分の口元に指を当てる。

「もう少し口角上げたほうがいいぞ、って」

「うわ……」

自分で言った覚えのない自分の台詞に、変な声が出た。
いや、覚えがないわけじゃない。前に理玖が言っていたから、たしかにそんなことをしたらしいとは思っていた。
でも、こうして前後の流れまで聞くと、羞恥が違う。

「最悪な先輩だったな……」

思わず額を押さえると、理玖が初めて、ほんの少しだけ口元をゆるめた。

「最悪ではなかったです」

「いや、後輩の顔いきなり触るの、普通にどうかと思うけど」

「俺は、助かりました」

短く返されて、言葉が止まる。

笑えなくなる。
というか、笑ったらだめな気がした。

理玖は視線を落としたまま、静かに続けた。

「帰る理由がない日に、帰るぞって言われたの、あれが初めてだったので」

「……覚えて、ない」

理玖は小さくうなずく。

「だと思ってました」

「ごめん」

「謝らないでください」

即答だった。
その返事がやさしすぎて、余計に苦しい。

「先輩にとっては、本当に何でもない一言だったと思うので。でも、あの時の俺には、それで十分でした」

理玖の声は、どこまでも静かだ。

「変な放送も、案内板も、全部一回そこで切れました。あまりに普通の顔で、普通の声で話しかけられたので、逆に戻れたんだと思います」

そこで少しだけ、理玖は俺を見た。

「ここにいればいい、って言われた直後に、先輩が普通に帰るぞって言うので」

理玖を怪異から引き戻したのが、ただ通りかかっただけの俺だったなんて。

「それから、こういうのが分かるようになりました」

理玖は低く言った。

「理由は、分かりません。一回ああいうのに足を入れかけたからかもしれないし、先輩に引き戻されたからかもしれないです。ただ、去年から、今夜みたいな怪異が起きると、変だって分かるようになりました」

「……だから、今夜すぐ分かったんだ」

「はい」

「俺だけ何回も引っかかってたのに」

「先輩は、ちゃんと引っかかりそうなコンディションだったので」

「言い方」

思わず返すと、理玖はほんの少しだけ目を伏せた。

「でも、たぶんそういうことです。弱ってる人間に寄るんだと思います。帰りたくないとか、ここに残りたいとか、一人になりたくないとか。そういうところに、うまく入ってくる」

「断言はしないんだな」

「分からないので」

理玖らしい返事だった。
知ってることだけ言って、分からないところは分からないままにしておく。
その言い方が、今は逆に信じられた。

しばらく、二人とも黙った。

廊下の向こうは静かで、自販機の白い光だけが妙に明るい。
さっきまで怪異の真ん中にいたはずなのに、今はここだけ切り取られたみたいに静かだった。

俺はボトルの表面についた水滴を指でなぞる。
冷たいはずなのに、手のひらの方がずっと熱い。

理玖は、去年からずっと覚えていた。
俺がもう忘れていた何でもない一言を、ずっと。
しかもそれを、自分が怪異に気づけるようになったきっかけとして持ち続けていた。

学校は、俺に言葉が返ってくる場所だと思っていた。
助かった、とか、ありがとう、とか。
ここにいていいって、分かりやすく返してくれる場所だと。

でも、知らないうちに、俺から返っていたものもあったのかもしれない。
しかも、俺が覚えていないところで。
そう思っただけで、胸の奥が変に熱くなった。

そんなの、思っていたよりずっと重い。

「……なんで、今まで言わなかったんだよ」

小さく聞くと、理玖は少しだけ肩を動かした。

「言う必要がないと思ってました」

「必要あっただろ」

「先輩、覚えてないので」

「そうだけど」

「それに」

そこで理玖は一度だけ言葉を切る。

「それでよかったと思ってました。何でもないままで」

その一言に、また胸の奥がざわついた。

何でもないままで。
たぶん理玖は、俺に恩人みたいな顔をさせたかったわけじゃない。
自分だけが覚えていればいいと思っていたんだろう。

「……俺、ほんとに覚えてなかった」

「はい」

「それなのに、お前は一年ずっと覚えてたの?」

「覚えてました」

短い返事だった。

でも、その短さのほうがきつい。
一瞬でも迷えば冗談にできたのに、理玖はまったく迷わなかった。

「変ですよね」

「変じゃない」

思ったより強い声が出て、自分でも少し驚く。

理玖が目を上げる。
俺はそこでようやく、自分が少しむきになってることに気づいた。

「……いや、変じゃない。だって、お前にとっては大事だったんだろ」

理玖は何も言わない。

でも視線だけが少し揺れた。
たぶん、こういう返しをされるのに慣れていない。

「それに、今の話聞いたら、俺でも忘れない」

「先輩、今聞いたからです」

「そうだけど」

「去年の先輩は、もっと軽くて適当でした」

「ひどいな」

少しだけ空気がゆるむ。
でも、すぐにまた戻る。

理玖はボトルを持ち直して、静かに言った。

「今夜、先輩が何回も呼ばれたの見て、去年の自分と少し似てると思いました」

その言葉に、俺は息を止める。

「家庭科室も、教室も、体育館も、全部、先輩が欲しい言葉ばっかりだったので」

「……うん」

「だから、放っておけなかったです」

放っておけなかった。

それだけなら、先輩として後輩に心配されただけの話だ。
でも、今はその一言の下に、去年の文化祭前夜がまるごと敷かれている。

誰にも見つからないまま消えそうだった時に、俺が見つけた。
理玖はそれをずっと覚えていた。
だから今夜、同じように俺を引き戻した。

そう考えると、さっきまでの手首も、肩も、抱きとめられた腕も、手をつないだ熱も、全部急に意味が変わる。

「……それで」

喉が少し乾く。

理玖がこっちを見る。
逃げる感じは、もうなかった。

「……それで、今夜ずっと俺を」

言いかけたところで、理玖の目が、ほんの少しだけやわらぐ。
それから、こいつは今までみたいにごまかさなかった。

「離したくなかったです」

自販機の白い光が、急にまぶしくなった。