本校舎一階の端、昇降口の横にある自販機の前まで来たところで、俺はようやく足を止めた。
廊下の先は暗く、さっきまで何度もぶつりと鳴ったスピーカーも、今は黙ったままだった。
つないだままの手に少し力を入れて、俺は理玖を振り返る。
「待って。ちょっとそこ、座って」
理玖が一瞬だけ目を瞬く。
古い長椅子を見て、それから俺を見た。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
「歩けます」
「歩けるかどうかの話してない」
言い返してから、自分でも少し驚いた。
たぶん、今夜いちばん強い声だった。
理玖はほんの少しだけ眉を上げたけれど、すぐにいつもの顔へ戻る。
「……先輩」
「今は俺の番。座って」
短く言うと、理玖は数秒だけ黙って、それから観念したみたいに長椅子へ腰を下ろした。
素直に言うことを聞くのが珍しくて、余計に胸の奥が落ち着かない。
ようやく手を離して、自販機に小銭を入れる。
落ちる音が、静かな廊下にやけに大きく響いた。
自分の分と、理玖の分。
ペットボトルが二本、かたん、と取り出し口へ落ちてくる。
一本を理玖に押しつける。
「ほら。さっきのお返し」
「……ありがとうございます」
受け取った理玖の指先が、思ったより冷たかった。
「飲めよ」
「先輩も」
「飲む」
キャップを開けながら、理玖の顔を見る。
自販機の白い光の下だと、いつもより少しだけ顔色が悪い。
理玖は一口だけ飲んで、ボトルを膝の上に置いた。
そのまま沈黙が落ちる。
でも、今さら何も聞かないふりなんて無理だった。
「教えて」
理玖がゆっくり顔を上げる。
「……何をですか」
「とぼけるなよ」
自分のペットボトルを持ったまま、俺は長椅子の前に立った。
座っている理玖を見下ろす形になる。
そんなの、こいつと話す時にはあんまりない構図で、少しだけ変な感じがした。
「何でお前まで呼ばれるんだよ」
理玖はすぐには答えなかった。
視線が一度だけ廊下の先へ流れる。
それだけで、またごまかす気だと分かった。
「先輩、今は――」
「今じゃなきゃだめ」
途中で遮ると、理玖が口を閉じる。
「俺だけ危ないみたいに言うなよ。さっき、お前もだったじゃん」
言ってから、喉の奥が少し熱くなる。
怒ってるわけじゃない。
たぶん、怖かったんだと思う。
いつも止める側だった理玖が、俺の隣でふっと持っていかれかけたあの瞬間を、思い出すだけでまだ嫌な感じが残る。
「……霧島」
名前を呼ぶと、理玖の目がこっちへ戻る。
「俺には話したくないの?」
口にした瞬間、さすがに少しだけ子どもっぽかったかと思った。
でも引っ込めるには遅い。
理玖は、はっきり困った顔をした。
「そういうわけじゃないです」
「じゃあ話して」
「先輩」
「ごまかされるの、嫌だ」
しばらく見つめ合うみたいな沈黙が続いた。
自販機のモーター音だけが、ぶうんと低く鳴っている。
やがて理玖が、小さく息を吐いた。
「……去年から、です」
「去年」
「去年の文化祭前夜から」
理玖はペットボトルを指先で回しながら、言葉を選ぶみたいに続けた。
「その前は、たぶん普通でした。別に、見えるとか、そういうのもないです」
「じゃあ、去年から急に?」
「急に、というか……」
少しだけ言いよどむ。
でも今度は逃げなかった。
「去年の文化祭前夜から、今夜みたいな怪異が起きると、分かるようになりました」
「分かるって、どういう感じ?」
「変だって分かるだけです。放送とか、案内板とか。普通に見えてるのに、たぶん普通じゃない、って」
「理由は?」
「分かりません」
「そんなあっさり」
「本当に分からないので」
即答だった。
でも投げやりじゃなく、分からないものを分からないまま持っている声だった。
理玖はもう一口だけ水を飲んで、それから低く言った。
「ただ」
「ただ?」
「心が弱ってる時に、来る気はします」
その言葉に、思わず黙る。
「弱ってるって、疲れてるとか、腹減ってるとか?」
さっきの自分を思い出して聞くと、理玖は小さく首を振った。
「それも、たぶんあります。でも、それだけじゃないです」
理玖は俺を見なかった。
ボトルのラベルを親指でなぞりながら、淡々と続ける。
「帰りたくないとか」
短く区切る。
「一人になりたくないとか」
また一つ。
「ここに残りたいとか、手放したくないものがある時に」
さらに少しだけ間が空く。
「そういうところに、つけこむ感じです」
俺の喉の奥が、少しだけ詰まった。
今日、三番線ホームが俺に見せてきたものが、頭の中で勝手につながっていく。
家庭科室の夕飯も、教室の声も、体育館の拍手も。
全部、俺がちょうど弱ることばかりだった。
「……じゃあ」
気づいたら、声が少しかすれていた。
「お前もってことだろ」
理玖の指が止まる。
「心が弱ってる時に来るなら」
そこまで言ってから、少し迷う。
でも、聞かないままのほうが嫌だった。
「お前も帰りたくないのか?」
理玖は顔を上げた。
まっすぐこっちを見るわけじゃない。けれど、目が少しだけ揺れる。
返事はすぐには来なかった。
だから、つい続けてしまう。
「孤独とか、そういうの、あるのかよ」
言いながら、自分で変なことを聞いてると思う。
でも、さっきまでこいつにされてきたことを、そのまま返してるだけでもあった。
顔色を見て、大丈夫かって聞いて、ごまかすなって言う。
それを今まで全部、理玖がやってきた。
理玖は長いまつげを一度伏せて、それからようやく口を開く。
「……でも今は、先輩のほうが危ないです」
それは答えになっていない。
なっていないのに、その声が思ったよりやわらかくて、俺は少しだけ言葉に詰まった。
「今は、ってつけたな」
「つけました」
「そこ認めるんだ」
「嘘ではないので」
相変わらず短い。
でも、その短さの奥に、隠してきたものが少しだけ見える。
俺は自分のボトルを握り直した。
「お前さ」
「はい」
「さっきから、俺のほうが危ないってばっかり言うけど」
理玖がこっちを見る。
「お前がああなったの、見たあとで、それで済むわけないだろ」
言いながら、また胸の奥が変なふうに鳴る。
怒っているわけじゃないのに、言葉だけ少し強くなる。
「俺、あれ見て、普通に嫌だった」
理玖がわずかに目を見開く。
「……嫌?」
「嫌」
短く返す。
「お前が持ってかれそうになるの」
言い切った途端、自分で言ったことの直球さに、少しだけ耳が熱くなった。
でも今さら取り消せない。
理玖は何も言わない。
ただ、膝の上のペットボトルを見ている。
その横顔を見ていると、俺を止めてくれるから、俺より落ち着いて見えるだけで。
たぶん、こいつにもちゃんと引っかかるところがあると分かる。
しかも、それを隠したまま、今夜ずっと俺のほうを優先していた。
「……先輩」
ぽつりと、理玖が呼ぶ。
「何」
「ありがとうございます」
「だから、それ礼言うとこじゃないだろ」
思わず返すと、理玖はほんの少しだけ口元をゆるめた。
笑った、というほどでもない。
でも、困ってるくせに少しうれしそうにも見えて、余計に調子が狂う。
「……うれしいので」
ぼそっと足された一言に、今度は本気で言葉が止まった。
言った本人も自覚したのか、理玖はすぐに視線を伏せる。
たぶん、今のは考えて出した台詞じゃない。
たぶん、俺に心配されるのに慣れていないだけだ。
そんなふうに分かってしまうくらい、今夜の理玖は少しだけ気持ちを隠しきれていなかった。
自販機の光が白い。
それなのに、顔だけ妙に熱い。
さっきまで怪異の話をしていたのに、そこだけ別の意味で落ち着かなかった。
「……当たり前だろ」
やっとそれだけ返すと、理玖は目を伏せたまま水を飲んだ。
耳のあたりが、わずかに赤い気がしたけれど、見間違いかもしれない。
それにしても、こいつがこんな顔をするのをあまり見たことがなかった。
困っているのに、少しだけ力が抜けたみたいな顔。
たぶん、俺に心配されるのに慣れていない。
ずっと俺のことを見て、止めて、引っ張り戻していたくせに。
自分が同じように見られるのは、あんまり得意じゃないらしい。
そう思うと、理玖の見え方が、さっきまでと少しだけ変わる。
頼もしい後輩、だけじゃない。
ちゃんと無理をして、ちゃんと隠して、でも俺のほうを優先するやつだ。
俺も長椅子の端に腰を下ろす。
少し距離を空けたつもりなのに、思っていたより近い。
理玖の制服の袖が、たまにわずかに触れそうになる。
「去年から、ってさ」
「はい」
「じゃあ、今夜みたいなの、何回かあったんだ」
「毎回じゃないです」
「でも、あるんだ」
「あります」
短く返される。
その返事の軽さに、逆にぞっとした。
「一人で対処してたのかよ」
「対処というほどでも」
「してたんだ」
「……まあ」
それで俺は息を吐いた。
こいつはたぶん、言わなくていいことをあまり言わない。
必要になった時だけ出す。
そういうやつだ。
だから今ここで口を割らせてるのも、たぶんかなり無理やりだ。
でも、それでも聞きたかった。
「なんで黙ってたんだよ」
「……信じられますか?学校から駅のアナウンスみたいなのが聞こえるとか?」
「……たしかに、体験しないと信じられないかも」
「俺、変な奴だと思われたくなかったので」
俺は頷いて、それからまっすぐ前を見たまま聞く。
「三番線ホームってさ」
「はい」
「弱ってるやつに寄るんだろ」
「たぶん」
「じゃあ、お前も弱ってる時があるってことだよな」
理玖は今度こそ黙った。
長い沈黙だった。
自販機の取り出し口の奥で、冷却の音が小さく鳴る。
俺は横目で理玖を見る。
白い光に照らされた横顔は、相変わらずきれいなくらい整っているのに、今日はそれより先に、疲れてるんだなと思った。
目の下が少しだけ暗い。
たぶん、俺のことを追いかけて、何度も無理やり現実に戻して、そのたびに神経を使ってきた顔だ。
「霧島」
「はい」
俺は小さく息を吐いてから、理玖を見る。
「……去年の文化祭前夜からって、さっき言ったよな」
「はい」
「その時、何があったの?」
自販機の白い光が、やけに冷たい。
廊下の向こうは静かで、誰の足音もしない。
理玖はボトルのラベルに落としていた視線を、そのまま上げなかった。
喉が小さく動く。
返事をしようとして、やめたみたいに見えた。
聞こえるのは、自販機の低いモーター音だけだった。
でも、答えは来ない。
「霧島」
もう一度呼んでも、理玖はすぐには顔を上げなかった。
ただ、膝の上のペットボトルが、ぎし、と小さく鳴る。
握る力が少しだけ強くなったのが分かった。
廊下の先は暗く、さっきまで何度もぶつりと鳴ったスピーカーも、今は黙ったままだった。
つないだままの手に少し力を入れて、俺は理玖を振り返る。
「待って。ちょっとそこ、座って」
理玖が一瞬だけ目を瞬く。
古い長椅子を見て、それから俺を見た。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
「歩けます」
「歩けるかどうかの話してない」
言い返してから、自分でも少し驚いた。
たぶん、今夜いちばん強い声だった。
理玖はほんの少しだけ眉を上げたけれど、すぐにいつもの顔へ戻る。
「……先輩」
「今は俺の番。座って」
短く言うと、理玖は数秒だけ黙って、それから観念したみたいに長椅子へ腰を下ろした。
素直に言うことを聞くのが珍しくて、余計に胸の奥が落ち着かない。
ようやく手を離して、自販機に小銭を入れる。
落ちる音が、静かな廊下にやけに大きく響いた。
自分の分と、理玖の分。
ペットボトルが二本、かたん、と取り出し口へ落ちてくる。
一本を理玖に押しつける。
「ほら。さっきのお返し」
「……ありがとうございます」
受け取った理玖の指先が、思ったより冷たかった。
「飲めよ」
「先輩も」
「飲む」
キャップを開けながら、理玖の顔を見る。
自販機の白い光の下だと、いつもより少しだけ顔色が悪い。
理玖は一口だけ飲んで、ボトルを膝の上に置いた。
そのまま沈黙が落ちる。
でも、今さら何も聞かないふりなんて無理だった。
「教えて」
理玖がゆっくり顔を上げる。
「……何をですか」
「とぼけるなよ」
自分のペットボトルを持ったまま、俺は長椅子の前に立った。
座っている理玖を見下ろす形になる。
そんなの、こいつと話す時にはあんまりない構図で、少しだけ変な感じがした。
「何でお前まで呼ばれるんだよ」
理玖はすぐには答えなかった。
視線が一度だけ廊下の先へ流れる。
それだけで、またごまかす気だと分かった。
「先輩、今は――」
「今じゃなきゃだめ」
途中で遮ると、理玖が口を閉じる。
「俺だけ危ないみたいに言うなよ。さっき、お前もだったじゃん」
言ってから、喉の奥が少し熱くなる。
怒ってるわけじゃない。
たぶん、怖かったんだと思う。
いつも止める側だった理玖が、俺の隣でふっと持っていかれかけたあの瞬間を、思い出すだけでまだ嫌な感じが残る。
「……霧島」
名前を呼ぶと、理玖の目がこっちへ戻る。
「俺には話したくないの?」
口にした瞬間、さすがに少しだけ子どもっぽかったかと思った。
でも引っ込めるには遅い。
理玖は、はっきり困った顔をした。
「そういうわけじゃないです」
「じゃあ話して」
「先輩」
「ごまかされるの、嫌だ」
しばらく見つめ合うみたいな沈黙が続いた。
自販機のモーター音だけが、ぶうんと低く鳴っている。
やがて理玖が、小さく息を吐いた。
「……去年から、です」
「去年」
「去年の文化祭前夜から」
理玖はペットボトルを指先で回しながら、言葉を選ぶみたいに続けた。
「その前は、たぶん普通でした。別に、見えるとか、そういうのもないです」
「じゃあ、去年から急に?」
「急に、というか……」
少しだけ言いよどむ。
でも今度は逃げなかった。
「去年の文化祭前夜から、今夜みたいな怪異が起きると、分かるようになりました」
「分かるって、どういう感じ?」
「変だって分かるだけです。放送とか、案内板とか。普通に見えてるのに、たぶん普通じゃない、って」
「理由は?」
「分かりません」
「そんなあっさり」
「本当に分からないので」
即答だった。
でも投げやりじゃなく、分からないものを分からないまま持っている声だった。
理玖はもう一口だけ水を飲んで、それから低く言った。
「ただ」
「ただ?」
「心が弱ってる時に、来る気はします」
その言葉に、思わず黙る。
「弱ってるって、疲れてるとか、腹減ってるとか?」
さっきの自分を思い出して聞くと、理玖は小さく首を振った。
「それも、たぶんあります。でも、それだけじゃないです」
理玖は俺を見なかった。
ボトルのラベルを親指でなぞりながら、淡々と続ける。
「帰りたくないとか」
短く区切る。
「一人になりたくないとか」
また一つ。
「ここに残りたいとか、手放したくないものがある時に」
さらに少しだけ間が空く。
「そういうところに、つけこむ感じです」
俺の喉の奥が、少しだけ詰まった。
今日、三番線ホームが俺に見せてきたものが、頭の中で勝手につながっていく。
家庭科室の夕飯も、教室の声も、体育館の拍手も。
全部、俺がちょうど弱ることばかりだった。
「……じゃあ」
気づいたら、声が少しかすれていた。
「お前もってことだろ」
理玖の指が止まる。
「心が弱ってる時に来るなら」
そこまで言ってから、少し迷う。
でも、聞かないままのほうが嫌だった。
「お前も帰りたくないのか?」
理玖は顔を上げた。
まっすぐこっちを見るわけじゃない。けれど、目が少しだけ揺れる。
返事はすぐには来なかった。
だから、つい続けてしまう。
「孤独とか、そういうの、あるのかよ」
言いながら、自分で変なことを聞いてると思う。
でも、さっきまでこいつにされてきたことを、そのまま返してるだけでもあった。
顔色を見て、大丈夫かって聞いて、ごまかすなって言う。
それを今まで全部、理玖がやってきた。
理玖は長いまつげを一度伏せて、それからようやく口を開く。
「……でも今は、先輩のほうが危ないです」
それは答えになっていない。
なっていないのに、その声が思ったよりやわらかくて、俺は少しだけ言葉に詰まった。
「今は、ってつけたな」
「つけました」
「そこ認めるんだ」
「嘘ではないので」
相変わらず短い。
でも、その短さの奥に、隠してきたものが少しだけ見える。
俺は自分のボトルを握り直した。
「お前さ」
「はい」
「さっきから、俺のほうが危ないってばっかり言うけど」
理玖がこっちを見る。
「お前がああなったの、見たあとで、それで済むわけないだろ」
言いながら、また胸の奥が変なふうに鳴る。
怒っているわけじゃないのに、言葉だけ少し強くなる。
「俺、あれ見て、普通に嫌だった」
理玖がわずかに目を見開く。
「……嫌?」
「嫌」
短く返す。
「お前が持ってかれそうになるの」
言い切った途端、自分で言ったことの直球さに、少しだけ耳が熱くなった。
でも今さら取り消せない。
理玖は何も言わない。
ただ、膝の上のペットボトルを見ている。
その横顔を見ていると、俺を止めてくれるから、俺より落ち着いて見えるだけで。
たぶん、こいつにもちゃんと引っかかるところがあると分かる。
しかも、それを隠したまま、今夜ずっと俺のほうを優先していた。
「……先輩」
ぽつりと、理玖が呼ぶ。
「何」
「ありがとうございます」
「だから、それ礼言うとこじゃないだろ」
思わず返すと、理玖はほんの少しだけ口元をゆるめた。
笑った、というほどでもない。
でも、困ってるくせに少しうれしそうにも見えて、余計に調子が狂う。
「……うれしいので」
ぼそっと足された一言に、今度は本気で言葉が止まった。
言った本人も自覚したのか、理玖はすぐに視線を伏せる。
たぶん、今のは考えて出した台詞じゃない。
たぶん、俺に心配されるのに慣れていないだけだ。
そんなふうに分かってしまうくらい、今夜の理玖は少しだけ気持ちを隠しきれていなかった。
自販機の光が白い。
それなのに、顔だけ妙に熱い。
さっきまで怪異の話をしていたのに、そこだけ別の意味で落ち着かなかった。
「……当たり前だろ」
やっとそれだけ返すと、理玖は目を伏せたまま水を飲んだ。
耳のあたりが、わずかに赤い気がしたけれど、見間違いかもしれない。
それにしても、こいつがこんな顔をするのをあまり見たことがなかった。
困っているのに、少しだけ力が抜けたみたいな顔。
たぶん、俺に心配されるのに慣れていない。
ずっと俺のことを見て、止めて、引っ張り戻していたくせに。
自分が同じように見られるのは、あんまり得意じゃないらしい。
そう思うと、理玖の見え方が、さっきまでと少しだけ変わる。
頼もしい後輩、だけじゃない。
ちゃんと無理をして、ちゃんと隠して、でも俺のほうを優先するやつだ。
俺も長椅子の端に腰を下ろす。
少し距離を空けたつもりなのに、思っていたより近い。
理玖の制服の袖が、たまにわずかに触れそうになる。
「去年から、ってさ」
「はい」
「じゃあ、今夜みたいなの、何回かあったんだ」
「毎回じゃないです」
「でも、あるんだ」
「あります」
短く返される。
その返事の軽さに、逆にぞっとした。
「一人で対処してたのかよ」
「対処というほどでも」
「してたんだ」
「……まあ」
それで俺は息を吐いた。
こいつはたぶん、言わなくていいことをあまり言わない。
必要になった時だけ出す。
そういうやつだ。
だから今ここで口を割らせてるのも、たぶんかなり無理やりだ。
でも、それでも聞きたかった。
「なんで黙ってたんだよ」
「……信じられますか?学校から駅のアナウンスみたいなのが聞こえるとか?」
「……たしかに、体験しないと信じられないかも」
「俺、変な奴だと思われたくなかったので」
俺は頷いて、それからまっすぐ前を見たまま聞く。
「三番線ホームってさ」
「はい」
「弱ってるやつに寄るんだろ」
「たぶん」
「じゃあ、お前も弱ってる時があるってことだよな」
理玖は今度こそ黙った。
長い沈黙だった。
自販機の取り出し口の奥で、冷却の音が小さく鳴る。
俺は横目で理玖を見る。
白い光に照らされた横顔は、相変わらずきれいなくらい整っているのに、今日はそれより先に、疲れてるんだなと思った。
目の下が少しだけ暗い。
たぶん、俺のことを追いかけて、何度も無理やり現実に戻して、そのたびに神経を使ってきた顔だ。
「霧島」
「はい」
俺は小さく息を吐いてから、理玖を見る。
「……去年の文化祭前夜からって、さっき言ったよな」
「はい」
「その時、何があったの?」
自販機の白い光が、やけに冷たい。
廊下の向こうは静かで、誰の足音もしない。
理玖はボトルのラベルに落としていた視線を、そのまま上げなかった。
喉が小さく動く。
返事をしようとして、やめたみたいに見えた。
聞こえるのは、自販機の低いモーター音だけだった。
でも、答えは来ない。
「霧島」
もう一度呼んでも、理玖はすぐには顔を上げなかった。
ただ、膝の上のペットボトルが、ぎし、と小さく鳴る。
握る力が少しだけ強くなったのが分かった。



