放課後、三番線ホームにご注意ください

今度は、俺じゃなかった。

ぶつ、と短いノイズのあと、天井のスピーカーがひとつ息を吸うみたいに震えた。

『――お忘れ物をお受け取りのお客様は、案内表示に従って、駅構内の案内所までお越しください』

さっきまでの、「明日が終わらないところへご案内します」みたいな甘い言い方とは違う。
今度の声は、ひどく事務的だった。
駅で聞く放送みたいに平板で、やけにきれいに響く。

『――去年より、大切なお忘れ物をお預かりしたままです。お心当たりのお客様は、案内所までお越しください』

ぞわっとした。

去年。

その単語に、さっき理玖が言っていた「去年の文化祭前夜から」という言葉が、嫌な形でつながる。

でも、本当におかしいのはその次だった。

放送はたぶん、まだ何か続いていた。
ただ、俺の耳にはざらついたノイズしか入ってこない。
砂嵐みたいな音が、スピーカーの奥で低く擦れるだけだ。

なのに、理玖だけが、そこで息を止めた。

つないだ手の感触が変わる。

理玖の指が、ぴたりと止まった。
次の瞬間、今度は逆に少しだけ力が抜ける。
離そうとしてるわけじゃない。ただ、意識の一部だけ別の場所へ持っていかれて、そのぶん手元が薄くなるみたいな、妙なゆるみ方だった。

俺は理玖を見る。

理玖は、スピーカーじゃなく、廊下の先を見ていた。

「……霧島?」

呼んでも、返事がない。

理玖の横顔が、見たことないくらい静かだった。
無表情なんじゃない。何かを聞いて、何かを堪えて、それでも足を止めきれない顔だった。

廊下の突き当たり、さっきまで文化祭の案内板が立てかけてあった場所に、白い光が妙に溜まって見える。
床を走る黄色い養生テープも、そこへ向かって一本につながっているみたいだった。

誰もいないはずなのに、理玖の目だけが、そこに誰か立っているみたいにやわらぐ。

その変化のほうが、怖かった。

今夜ずっと俺を引き戻してきたやつが、今度は知らない方を見ている。

理玖が、そっちへ半歩動く。

引かれて、俺の身体も少しだけ前へ出た。

その瞬間、心臓がひゅっと冷えた。

今夜ずっと俺を引き戻してきた手が、今度は俺ごとどこかへ行こうとしている。
それだけで、さっきまでとは別の怖さが一気にきた。

「霧島、待てって」

返事はない。

理玖の唇が、ほんの少しだけ動く。

「……まだ」

何の話だよ、と思うより先に、もう一歩、理玖の足が前に出る。

おかしい。
理玖は、こういう時に俺みたいにぼんやり歩いていくやつじゃない。
その理玖が、何も見えていないみたいな顔で、白い方へ引かれていく。

「霧島!」

強く呼んでも、やっぱりこっちを見ない。

俺は反射で、つないだ手とは逆の手を伸ばした。
理玖の制服の袖を掴んで、思いきり引く。

それでも止まりきらなくて、今度は胸元を掴んだ。

「霧島、こっち」

自分でも驚くくらい、強い声が出た。

理玖の身体が、そこで初めて揺れる。
でも視線はまだ、廊下の先に残ったままだ。

焦って、俺はもう一度引いた。

「今はそっちじゃない」

言いながら、自分の手に力が入る。
理玖のブレザーの布が、くしゃっと指の中で鳴った。

それでもまだ、理玖の目の焦点は合わない。

どうしよう、と思った。

さっきまでなら、こういう時にどうにかするのは理玖の役目だった。
俺はただ止められて、呼び戻される側だった。
なのに今は、目の前で理玖の足が持っていかれかけている。

ここで離したら、まずい。

そんなの、考えるより先に分かった。

「戻れって」

喉が詰まって、声が少しかすれる。

「……俺、困るから」

言った瞬間、自分で何を言ってるんだと思った。
でも引っ込める暇なんてなかった。

理玖の身体が、はっとしたみたいに大きく揺れる。

次の瞬間、理玖がこっちへ倒れこんできた。

「っ」

ぶつかるみたいに肩へ重みが乗る。
支えきれないほどじゃないけど、理玖が一瞬だけ、ほんとうに俺にもたれた。

制服越しに体温が近い。
肩口に熱い息がかかる。
こんな時じゃなければ絶対違う意味で無理だったけど、今はそれどころじゃない。

俺は理玖の胸元を掴んだまま、ほとんどしがみつくみたいに支えた。

「霧島」

耳の近くで呼ぶ。
今度は少しだけ、理玖のまつげが動いた。

「俺の声、聞こえてる?」

数秒、返事はない。

その間にも、廊下の先の白さがちらつく。
文化祭の案内板が並んでるはずの場所が、妙に整った駅の表示みたいに見えたり、ただの暗い廊下に戻ったりする。

スピーカーの奥で、ざ、と小さなノイズが鳴った。

そのノイズに混じって、俺には聞き取れないくらい低い声がした気がした。
けれど理玖の眉が、苦しそうに寄る。

「……先輩」

息をのむ。

理玖は俺の肩に額をつける寸前みたいな距離で、ひどく小さく続けた。

「まだ、いなくならない……」

それはたぶん、今ここにいる俺へ向けた言葉じゃなかった。
誰かが理玖にそう囁いて、それを理玖が半分だけなぞっているみたいな声だった。

でも、だからこそ余計にまずい。

俺は理玖の胸元を掴んでいた手を少し持ち上げて、無理やり顔を上げさせる。

「霧島。こっち見ろ」

言ってから、ちょっときつすぎたかと思った。
でも理玖の目が、そこでようやくゆっくりこっちを向く。

黒目が、少し遅れて焦点を結ぶ。

その瞬間、廊下の先の白さが音もなく剥がれた。
きれいすぎた案内板はただの段ボールに戻って、そこに書いてあったのも『模擬店はこちら』の丸文字でしかなくなる。
黄色い線みたいに見えていたテープも、延長コードを止めているだけの、よれた養生だった。

冷たい蛍光灯の下にあるのは、いつもの夜の学校だ。

理玖が、浅く息を吸う。

「……すみません」

かすれた声だった。

そう言われて初めて、俺たちの距離の近さに気づく。
理玖はまだ俺にもたれたままで、俺は理玖の胸元を掴んだままだ。

慌てて手を離そうとして、でも完全には離せなかった。
今離したら、また持っていかれそうで嫌だった。

うまく言葉が出てこない。
大丈夫か、と言いたいのに、心臓がうるさくてまとまらない。

理玖は少しだけ身体を起こした。
それでも、俺からは離れすぎない位置で止まる。

近くで見ると、顔色がほんの少し悪い。
今夜ずっと俺を見張っていた時の理玖じゃなくて、初めてちゃんと年下に見えた。

それが妙に落ち着かない。

「座るか」

気づいたら、そう言っていた。

理玖が一瞬だけ目を瞬く。

「……大丈夫です」

「大丈夫な顔してない」

少し強く返すと、理玖は数秒だけ黙って、それから観念したみたいに、窓際のパイプ椅子へ腰を下ろした。

素直に座るのも珍しくて、余計に胸がざわつく。

俺はその前に立ったまま、まだ理玖の袖を離せずにいた。
自分でも変だと思う。
でも、そのままにした。

つないでいた手を見下ろす。
理玖の指先は、さっきまで俺を止めていた時より少し冷えていた。

それが嫌で、離すどころか、俺は逆に握り直してしまう。

理玖がその動きに気づいて、ほんの少しだけ目を上げた。
でも何も言わない。

「今、何が聞こえた?」

理玖が目を伏せる。

「……放送です」

「それだけでそうなるかよ」

「先輩」

「ごまかすなって」

自分でも少し驚くくらい、すぐ言葉が出た。
理玖に向かってこんなふうに言うの、たぶん初めてだ。

理玖は返事をしない。
その沈黙が、逆に図星みたいで、焦れる。

「さっきの、俺には途中からノイズにしか聞こえなかった」

理玖の肩が、ほんの少しだけ止まる。

「お前だけ、何か聞いてたんだろ?」

また沈黙。

廊下の向こうは静かで、さっきの放送なんて最初からなかったみたいだ。
その静けさの中で、理玖の息だけが少し浅い。

「……今の、俺の声だった?」

そう聞いた瞬間、理玖が初めてはっきりこっちを見た。

図星、なんだと思った。

でも理玖はすぐには頷かない。

「同じじゃないです」

低い声が返る。

「似てただけです」

その言い方で、背中がぞくっとした。

俺に似た声で、理玖を呼ぶものがいた。
しかも、それで理玖の足が止まるんじゃなく、動く。

「何て言われた?」

喉が少し乾く。

理玖は一度だけ唇を結んで、それから、あきらめたみたいに小さく息を吐いた。

「……取りに来ていない忘れ物があるって」

「忘れ物?」

その問いに、理玖はすぐには答えなかった。

答えないまま、つないだままの手を一度だけ見て、それから視線をそらす。

その仕草だけで、胸の奥が変にざわつく。

「……忘れ物を取りに行けば、先輩が」

言葉が落ちた瞬間、頭の中が一拍遅れて止まった。

「は?」

間抜けな声が出る。

理玖は、しまったみたいに目を伏せた。

「まだここにいてくれるって――」

そこまで言って、ぴたりと口を閉じる。
喉の奥で言葉を押し戻したみたいに、横顔が硬くなる。

「霧島」

呼ぶと、理玖はほんの少しだけ眉を寄せた。

「それ、俺のこと?」

理玖は答えない。

「違うなら違うって言えよ」

言った瞬間、自分でびっくりした。
焦ってる。
それが声に丸ごと出ていた。

数秒あって、理玖は目を伏せたまま、小さく言う。

「……聞かなかったことにしてください」

その一言だけは、やけにきれいに聞こえた。

「できるわけないだろ」

ほとんど反射でそう返すと、理玖のまつげがわずかに揺れた。

「今は、それ以上言いません」

「何で」

「先輩まで、また引っ張られると困るので」

こんな時まで実務的な言い方をするのに、声だけ少し低い。
そのせいで余計に、冗談じゃないと分かる。

そう言えば、理玖は前から言っていた。

――みんなに呼ばれなくても、俺が呼ぶので。

――役目が終わっても、先輩がいなくなっていい理由にはならないです。

あの時は、真っ直ぐすぎる後輩だと思っていた。
今もそう思う。
でも、さっき理玖が聞かされたのは、そういう言葉の続きなんだと思った。

必要だからじゃない。
便利だからでも、仕事ができるからでもない。

ただ、いなくなるのが嫌だという気持ち。
その怪異が、理玖を引いた。

そこまで考えてしまって、喉の奥がまた詰まる。

俺が学校を終わらせたくないみたいに。
理玖にも、終わってほしくないものがあるみたいに。

それが何かなんて、はっきり言われなくても半分くらい分かってしまって、余計に困る。

「……ほんとに大丈夫か」

さっきより少しだけ小さい声で聞くと、理玖は一瞬だけ目を細めた。

「大丈夫です」

「信用できない」

「先輩のほうが危ないです」

「今はお前の話してんだよ」

思わずそう返すと、理玖がほんの少しだけ息を止めた。

それから、困ったみたいに目を伏せる。

「……ありがとうございます」

そんなの、礼を言われる場面じゃない。
でも、それ以上うまく返せなかった。

理玖は立ち上がった。
さっきまでの揺れが嘘みたいに、もういつもの姿勢に戻っている。

「行きましょう」

それだけ言って、先に歩き出そうとする。

反射で、俺はつないだままだった手を強く引いた。

理玖が振り返る。

「離れんな」

自分で言ってから、耳が熱くなる。
でも今さら言い直せない。

理玖は数秒だけ目を見開いて、それから、ほんの少しだけやわらいだ顔をした。

「はい」

短い返事だった。

俺たちはまた並んで歩き出す。
今度は理玖が引くんじゃなく、俺の方がつないだ手に少しだけ力を入れた。

――理玖まで持っていかれるのは、嫌だ。

それが思っていたよりずっとはっきりして、胸の奥が落ち着かない。

「……お前も、呼ばれるのかよ」

歩きながら聞くと、理玖は前を向いたまま少しだけ黙った。

「今は、先に進みます」

結局、それだけだった。

ごまかされたままなのに、もう分かってしまったことがある。

理玖も、三番線ホームに呼ばれる。
しかもたぶん、その理由には俺がいる。