放課後、三番線ホームにご注意ください

理玖がようやく、少しだけはっきり笑った。
ほんの一瞬だけど、その表情が思っていたより年相応で、胸の奥が妙にざわついた。

「……今、笑った?」

「気のせいです」

「いや、絶対笑っただろ」

「気のせいです」

二回言うなよ、と返すと、理玖はもういつもの無表情に戻っていた。
でも、さっきたしかに口元がゆるんだのを見た気がして、なんだかそれだけで妙に得した気分になる。

俺たちはそのまま本校舎の中央廊下へ出た。
壁には明日の案内用に作った看板が何枚も立てかけてある。
『体育館→』『模擬店はこちら』『ステージ発表は一階』。段ボールに色紙を貼っただけの手作り感の強いやつばかりだ。

「これ、まだ貼ってなかったんだな」

案内板の端には、銀のガムテープが雑に貼られている。
たぶん陽斗たちがさっきまでここでやってたやつだ。
俺は一枚、斜めに傾いた案内板を見つけて足を止めた。
反射で手を伸ばしかけると、理玖がすぐ横で低く言う。

「先輩」

「分かってる。急に一人でどっか行かない」

「そこじゃなくて、今は立ち止まらないでください」

「厳しいなあ」

「さっきまでのこと、もう忘れましたか」

忘れてはいない。
体育館の真ん中に向かって歩きかけた足も、背中から抱きとめられた時の熱も、まだちゃんと残っている。
そのくせ、こうして普通に話していると、さっきまでの怪異が全部遠いことみたいに思えてくるから困る。

「忘れてないって。……でも、こういうの見るとさ、やっぱ明日って感じするな」

何気なく言ったつもりだった。
けれど理玖は、案内板ではなく俺の顔を見た。

「先輩は、明日が来るの嫌なんですか」

「嫌っていうか」

そこで言葉が止まる。
嫌だと言い切るには、文化祭そのものはちゃんと楽しみだった。
でも、始まった瞬間に終わりが近づく感じがするのも本当だった。

言いかけたところで、天井のスピーカーが、ぶつ、と鳴った。

俺も理玖も同時に顔を上げる。
ひどく小さなノイズだったのに、それだけで背中がひやりとした。

次の瞬間、廊下の空気が少し変わる。
さっきまで見えていた手作りの案内板が、全部、急に整いすぎた形に見えた。

段ボールの端のゆがみが消える。
丸文字で書いたはずの文字が、白地に黒いきっちりした書体へ変わっていく。
矢印の先には、教室でも体育館でもなく、知らない行き先が並んでいた。

――一番線ホーム 体育館方面
――二番線ホーム 校庭方面
――三番線ホーム この先

喉の奥が、ひゅっと鳴る。

「霧島」

答えるより先に、放送が流れた。

『――まもなく、三番線ホームに特別列車がまいります』

前にも似た声を聞いた。
それなのに、今度のほうがずっと近くて、ずっと丁寧で、逃げ道がない。
駅で聞くアナウンスにそっくりなのに、言っていることだけが少しずつおかしい。

『文化祭前夜を、もう少し長くお楽しみになりたいお客様は、そのまま黄色い線の内側でお待ちください。放課後、三番線ホームにご注意ください。三番線ホームは、この先です』

廊下の床に貼られた養生テープが、やけに明るく見えた。
一本、まっすぐ前へ伸びて、ホームの黄色い線みたいに浮き上がる。

『これからまいります列車にお乗りいただければ、明日が終わらないところへご案内いたします』

どくん、と心臓が跳ねた。

『高校最後の役目を、まだ降ろしたくないお客様。みなさまに必要とされるお客様。お帰りになる必要のないお客様。どうぞ、ご乗車ください』

最後だけ、ひどくやさしく聞こえた。

廊下の先が、少し長くなる。
いや、長く見えただけかもしれない。
でも本当に、向こうの突き当たりが遠ざかった気がした。
案内板は一定の間隔で並んでいて、蛍光灯の光は白く冷たい。どこかで電車のブレーキみたいな、金属のこすれる音まで混じる。

三番線ホーム。
明日が終わらないところ行き。

その言葉が、頭の中でゆっくり広がっていく。

終わらないなら、いい。
文化祭が始まっても、その先で終わりに向かわないなら。
今日みたいに、誰かに呼ばれて、手伝って、助かったって言われる時間が、もう少し続くなら。

明日が来たら、本番が始まる。
本番が始まったら、片づけが来る。
片づけが終わったら、高校最後の文化祭も、俺が学校で忙しくしていられる理由も、きっと一気に終わる。

家に帰れば、洗濯物とか、弟のこととか、やることは待ってる。
別に嫌いじゃない。
嫌いじゃないけど、そこには「助かった」はあんまり返ってこない。
やって当たり前のこととして、するだけだ。

でも学校は違う。
ここにいれば、俺がいたことがちゃんと返ってくる。

――必要とされるお客様。

その言葉に、足が前へ出た。

「……先輩」

理玖の声がする。
でも、遠い。

『三番線ホームへお急ぎのお客様は、案内表示に従ってお進みください』

もう一歩。
黄色い線が近づく。
その向こうへ行けば、まだ終わらない気がした。

その瞬間、右手に強い熱が落ちた。

「っ」

手首じゃない。
袖でも肩でもない。

手そのものを、取られた。

理玖の手が、俺の右手をまっすぐ包み込む。
指の付け根から手のひらまで、ぴたりと合わさって、そのままぎゅっと握られる。

息が止まる。

「湊先輩」

すぐ近くで、理玖の声がした。
低くて、落ち着いていて、それなのに今は少しだけ必死だった。

「その電車、乗らないでください」

握られた手に、もう一度力がこもる。

「こっち見て」

言われた通りに顔を上げると、理玖が真正面に立っていた。
俺より少し低い位置から見上げてくる目が、ひどくまっすぐだ。

「手、離さないでください」

どくん、とまた心臓が鳴った。
今度は怪異のせいじゃない。

理玖は俺の手を握ったまま、一歩だけ後ろへ下がる。
引っ張るというより、こっちへ連れ戻すみたいな動きだった。

「学校は駅じゃないです。ここ、ホームじゃない。だから、戻ってきてください」

最後の一言だけ、やわらかかった。

その声に、何かが切れる。

見えていた案内板の白さが剥がれて、ただの段ボールに戻る。
『三番線ホーム』の文字は消えて、『模擬店はこちら』の丸文字が浮かび上がる。
ブレーキ音みたいに聞こえていたのは、どこかの窓が風で鳴っただけの音だった。

廊下はいつもの廊下だ。
床の黄色い線は、延長コードを止めるためのテープでしかない。

息を吸う。
喉が痛いくらい冷えた空気が入ってきて、ようやく自分がまた持っていかれかけていたと分かった。

「……また、行ってた」

「行ってました」

「そこは否定してほしかった」

「無理です」

真顔で返される。
それなのに、理玖は手を離さない。

俺の右手は、まだずっと理玖の手の中にある。
掴まれているのと違う。
逃がさないためだけじゃなくて、隣に連れていくみたいに握られている。

「霧島」

「はい」

「これ……」

言葉が続かない。

理玖は一瞬だけ目を伏せて、それからいつもの調子で言った。

「今は、これが一番早いので」

「早いって」

「先輩、また歩いて行くので」

「信用ないな」

「ないです」

間髪入れずに返されて、こんな状況なのに少しだけ笑いそうになる。
でも笑ったら笑ったで、今つながってる手を余計に意識しそうで、結局できなかった。

理玖は俺の手を握ったまま、廊下の端まで連れていく。
窓際の、使っていない長机とパイプ椅子が寄せられているあたりまで来て、ようやく足を止めた。

「少し、座りましょうか」

そう言ってから、理玖はようやく少しだけ力をゆるめた。
でも、完全には離さない。

それがむしろ落ち着かなくて、俺はつながった手を見下ろした。
理玖の手は、思っていたより大きかった。
放送機材を触るせいか、指先が少しだけ硬い。
でも温度はちゃんとあって、その熱が手のひらから腕のほうへじわじわ上がってくる。

「……そんなに、終わるの嫌ですか」

理玖が聞いた。

声は静かだった。
責める感じはない。ただ、ちゃんと知りたいみたいな聞き方だった。

俺は少し黙った。
こういうの、うまく説明できる気がしなかったからだ。
でも、さっきあの放送に引っ張られたのは、そのあたりを全部見透かされたせいだと思うと、ごまかせる感じもしなかった。

「嫌、なんだと思う」

ぽつりとそう言うと、理玖は何も急かさなかった。

「文化祭が終わったらさ。たぶん、高校で俺がやることも、だいたい終わるだろ。実行委員も、文化祭も、もう最後だし」

声にすると、思ったよりしんとした言葉だった。

「明日が来たら始まるけど、同時に終わりにも向かうじゃん。それが、ちょっと怖い」

理玖の指が、わずかに動いた。
励ますみたいでも、急かすみたいでもない、ほんの少しの力だった。

「学校だと、返ってくるんだよ。助かったとか、ありがとうとか。ちゃんと見てもらえてる感じがしてさ」

そこまで言ってから、少しだけ笑った。
笑ってごまかしたかったのに、うまくいかなかった。

「家に帰ると、洗濯物とか弟のこととか、やることは普通にあるんだけど。別に嫌じゃないし、やればいいだけなんだけど、向こうはそういうの、できて当たり前みたいな感じだから。なんていうか、俺が頑張った分だけ、役割がそのまま増えていく感じでさ」

母さんが悪いわけじゃない。
忙しいのも知ってる。
弟がまだ手のかかる年なのも分かってる。
でも、それとこれとは少し違う。

「学校だけなんだよな。俺がいてもいいって、分かりやすいの」

言い切ったあとで、ひどく情けないことをしゃべった気がして、視線を落とす。
けれど理玖は笑わなかった。

「情けなくないです」

「まだ何も言ってないけど」

「そういう顔してるので」

また即答だ。
俺は小さく息を吐いた。

理玖は少しだけ考えるみたいに黙って、それから低く言った。

「だから、ああいう風に先輩を呼ぶんですね」

「……たぶん」

「でも」

短い言葉のあと、理玖が俺の手を握る力が、ほんの少しだけ強くなる。

「役目が終わっても、先輩がいなくなっていい理由にはならないです」

胸の奥が、どくんと鳴った。

理玖はこっちを見ていない。
廊下の先を警戒したまま、ただ事実を言うみたいに続ける。

「実行委員じゃなくなっても、文化祭が終わっても。先輩が、もういなくていいことにはならないので」

その言い方は、あんまりまっすぐで、困る。

「……霧島」

「はい」

「そういうの、簡単に言うなよ」

「簡単じゃないです」

間を空けずに返された。
そこでやっと、理玖も少しだけ緊張しているのが分かった。

俺は返事に困って、つながった手のほうを見た。
さっきからずっと握られたままだ。

このままでいるのは変だ。
でも、離されるのもなんだか違う気がした。

「手」

俺が小さく言うと、理玖の肩がぴくっと揺れた。

「……すみません。離します」

そう言って理玖が指をゆるめる。
その瞬間、なぜか急に心細くなって、俺は反射みたいに言っていた。

「いや、待って」

理玖が止まる。
視線だけが、こっちに向いた。

自分で言っておいて、何を言ってるんだと思う。
耳が熱い。
でも、ここで言い直したら余計に変だ。

「その……今、離すと、また変なの来そうだし。だから、もうちょっとだけ、そのままでいい」

最後のほうはほとんど言い訳だった。
それでも理玖は、茶化しもしなかった。

「分かりました」

ただそれだけ言って、もう一度、ちゃんと握り直す。

今度はさっきより少しだけやさしい力だった。
それなのに、さっきより余計に意識してしまう。

「先輩」

「ん?」

「次にまた呼ばれても、行かないでください」

「努力する」

「努力じゃ困ります」

「厳しいなあ」

「手をつないでるのに、また行かれたら困るので」

さらっと言われて、また言葉が詰まった。
手をつないでる、って、自分で言うのか。
いや事実だけど。
事実なんだけど、改めて口にされると破壊力がある。

「……お前、それ自分で言うんだ」

「だめでしたか」

「だめじゃないけど……」

理玖は数秒きょとんとした顔をして、それから少しだけ目を細めた。
笑った、のかもしれない。
さっきより分かりにくかったけど。

その時、またスピーカーがぶつりと鳴った。