返事ができないまま、俺は理玖の隣を歩いた。
体育館を出たあとの廊下は、いつの間にか生徒が全員帰っていて、嘘みたいに静かだった。
――みんなに呼ばれなくても、俺が呼ぶので。
あんなこと、平然と言うなよ。
しかも理玖はたぶん、本気で変な台詞だと思っていない。
さっき背中から抱きとめられた感覚まで、まだ妙に残っている。
腹の前も、背中も、耳の下も、変に熱いままだ。
理玖は俺の半歩前を歩いていた。
さっきまであれだけ近かったのに、今はきっちり距離を取っている。
その距離の取り方まで律儀で、余計に意識してしまう。
「……霧島」
「はい」
「お前さ」
呼びかけたのに、その先がうまく続かない。
助かった、とか。
名前呼んだだろ、とか。
さっきのは近すぎる、とか。
どれも言いにくくて、結局いちばん無難なところに逃げた。
「過保護すぎない?」
理玖がほんの少しだけ振り返る。
「今夜の先輩には、それくらいでちょうどいいです」
「即答」
「四回ありましたから」
「数えるなよ」
「数えたほうが危機感持つかと思って」
淡々と返されて、思わず笑う。
さっきまであんなにぞっとしていたのに、理玖とこうして話しているだけで、少しずつ現実に戻ってくるから不思議だった。
廊下の窓の外は、もうほとんど夜だ。
校庭に立てたテントの骨組みだけが、外灯に白く浮いて見える。
「でも、ほんとに」
口にした瞬間、理玖の肩が少しだけ止まった。
「拍手とか、家庭科室とか、教室とか。毎回、何なんだよ、あれ」
理玖はすぐには答えなかった。
廊下の先と、曲がり角と、俺を順番に見てから、短く息を吐く。
「……歩きながらでいいですか」
「いいけど」
「立ち止まって話すの、あんまり好きじゃないので」
「今の状況だと説得力あるな」
そう返すと、理玖は小さくうなずいた。
それから、いつもより少し低い声で言う。
「俺、こういうのが分かるようになったの、一年前からです」
「一年前?」
「はい。去年の、文化祭前夜から」
「一年前からこの学校がおかしかったってこと?霊感とか強いの?」
「霊感なんてないと思いますよ。たまに学校で、今夜みたいな怪異現象が起きたら気づくようになっただけです。一年前から……」
「この現象って原因とかあるの?」
「分かりません」
「じゃあ、霧島はなんで一年前から気づけるようになったんだ?」
「……やっぱり、覚えていませんか?」
「何を?」
そこで理玖は一度、こっちを見た。
「何でもないです。とにかく、危ないので、先輩は俺から離れないでください」
またそれだ。
そんな顔で、そんなふうに言われると、こっちばっかり変に意識してるみたいじゃないか。
「お前、保護者か何か?」
「違います」
「じゃあ何」
「……見張りです」
「言い方」
思わず笑うと、理玖は少しだけ口元をゆるめた。
たぶん笑った、で合っていると思う。かなり分かりにくいけど。
俺たちは体育館横の廊下を抜けて、本校舎へ続く連絡通路に入った。
壁には明日のタイムテーブルや、出し物の案内が何枚も貼ってある。
その中に、文化祭実行委員の最終確認表も混じっていた。
自分で作ったやつだから、つい目が止まる。
「こういうのもさ、見てると帰りたくなくなるんだよな」
「まだ言いますか」
「だって、明日になったら終わりが始めるじゃん」
「始まる日なのに」
「始まるけど、終わりにも向かうだろ」
言いながら、自分でも面倒くさい理屈だと思った。
でも理玖は、呆れたような顔はしなかった。
たぶん、一年前からだ。
俺と理玖が普通に話すようになったのは。
最初に顔を合わせたのは、去年の文化祭の合同打ち合わせだった。
実行委員と放送部は、ステージ進行の関係で何度か同じ教室に集められる。
その時の理玖は、今よりもっと愛想がなかった。
無駄なことをしゃべらないくせに、資料の誤字も進行表の変更も誰より早く見つける。
俺が「助かる」と言うと、こいつは今と同じ顔で「どういたしまして」と返した。
そこからだった気がする。
学年も委員会も部活も違うのに、連絡事項のついでに話して、気づいたら放送室の前で理玖に声をかけるのが普通になっていた。
「……そういえばさ」
「はい」
「俺ら、去年の文化祭の実行委員会からだよな。普通に話すようになったの」
「たぶん」
「お前もそこはたぶんなんだ」
「細かいきっかけは覚えてないので」
理玖は少し考えるみたいに視線を上げて、それから言った。
「でも、先輩がよく放送室に来てたのは覚えてます」
「仕事だよ」
「『もう少し口角上げたほうがいいぞ』って言って、先輩が俺の口の端を指で軽く持ち上げてきたので」
「え、そんなことした?」
「しました」
「まじか。ごめん」
「今さらです」
淡々と言うくせに、その声は少しだけ楽しそうだった。
それで思い出す。
去年の文化祭前夜も、俺はあちこち走り回っていた。
それで、放送室にいた理玖に修正原稿を渡した時に、そんなことした気がする。
「……うわ、最悪な先輩じゃん」
「そうでもないです」
理玖がようやく、少しだけはっきり笑った。
ほんの一瞬だけど、その表情が思っていたより年相応で、胸の奥が妙にざわついた。
体育館を出たあとの廊下は、いつの間にか生徒が全員帰っていて、嘘みたいに静かだった。
――みんなに呼ばれなくても、俺が呼ぶので。
あんなこと、平然と言うなよ。
しかも理玖はたぶん、本気で変な台詞だと思っていない。
さっき背中から抱きとめられた感覚まで、まだ妙に残っている。
腹の前も、背中も、耳の下も、変に熱いままだ。
理玖は俺の半歩前を歩いていた。
さっきまであれだけ近かったのに、今はきっちり距離を取っている。
その距離の取り方まで律儀で、余計に意識してしまう。
「……霧島」
「はい」
「お前さ」
呼びかけたのに、その先がうまく続かない。
助かった、とか。
名前呼んだだろ、とか。
さっきのは近すぎる、とか。
どれも言いにくくて、結局いちばん無難なところに逃げた。
「過保護すぎない?」
理玖がほんの少しだけ振り返る。
「今夜の先輩には、それくらいでちょうどいいです」
「即答」
「四回ありましたから」
「数えるなよ」
「数えたほうが危機感持つかと思って」
淡々と返されて、思わず笑う。
さっきまであんなにぞっとしていたのに、理玖とこうして話しているだけで、少しずつ現実に戻ってくるから不思議だった。
廊下の窓の外は、もうほとんど夜だ。
校庭に立てたテントの骨組みだけが、外灯に白く浮いて見える。
「でも、ほんとに」
口にした瞬間、理玖の肩が少しだけ止まった。
「拍手とか、家庭科室とか、教室とか。毎回、何なんだよ、あれ」
理玖はすぐには答えなかった。
廊下の先と、曲がり角と、俺を順番に見てから、短く息を吐く。
「……歩きながらでいいですか」
「いいけど」
「立ち止まって話すの、あんまり好きじゃないので」
「今の状況だと説得力あるな」
そう返すと、理玖は小さくうなずいた。
それから、いつもより少し低い声で言う。
「俺、こういうのが分かるようになったの、一年前からです」
「一年前?」
「はい。去年の、文化祭前夜から」
「一年前からこの学校がおかしかったってこと?霊感とか強いの?」
「霊感なんてないと思いますよ。たまに学校で、今夜みたいな怪異現象が起きたら気づくようになっただけです。一年前から……」
「この現象って原因とかあるの?」
「分かりません」
「じゃあ、霧島はなんで一年前から気づけるようになったんだ?」
「……やっぱり、覚えていませんか?」
「何を?」
そこで理玖は一度、こっちを見た。
「何でもないです。とにかく、危ないので、先輩は俺から離れないでください」
またそれだ。
そんな顔で、そんなふうに言われると、こっちばっかり変に意識してるみたいじゃないか。
「お前、保護者か何か?」
「違います」
「じゃあ何」
「……見張りです」
「言い方」
思わず笑うと、理玖は少しだけ口元をゆるめた。
たぶん笑った、で合っていると思う。かなり分かりにくいけど。
俺たちは体育館横の廊下を抜けて、本校舎へ続く連絡通路に入った。
壁には明日のタイムテーブルや、出し物の案内が何枚も貼ってある。
その中に、文化祭実行委員の最終確認表も混じっていた。
自分で作ったやつだから、つい目が止まる。
「こういうのもさ、見てると帰りたくなくなるんだよな」
「まだ言いますか」
「だって、明日になったら終わりが始めるじゃん」
「始まる日なのに」
「始まるけど、終わりにも向かうだろ」
言いながら、自分でも面倒くさい理屈だと思った。
でも理玖は、呆れたような顔はしなかった。
たぶん、一年前からだ。
俺と理玖が普通に話すようになったのは。
最初に顔を合わせたのは、去年の文化祭の合同打ち合わせだった。
実行委員と放送部は、ステージ進行の関係で何度か同じ教室に集められる。
その時の理玖は、今よりもっと愛想がなかった。
無駄なことをしゃべらないくせに、資料の誤字も進行表の変更も誰より早く見つける。
俺が「助かる」と言うと、こいつは今と同じ顔で「どういたしまして」と返した。
そこからだった気がする。
学年も委員会も部活も違うのに、連絡事項のついでに話して、気づいたら放送室の前で理玖に声をかけるのが普通になっていた。
「……そういえばさ」
「はい」
「俺ら、去年の文化祭の実行委員会からだよな。普通に話すようになったの」
「たぶん」
「お前もそこはたぶんなんだ」
「細かいきっかけは覚えてないので」
理玖は少し考えるみたいに視線を上げて、それから言った。
「でも、先輩がよく放送室に来てたのは覚えてます」
「仕事だよ」
「『もう少し口角上げたほうがいいぞ』って言って、先輩が俺の口の端を指で軽く持ち上げてきたので」
「え、そんなことした?」
「しました」
「まじか。ごめん」
「今さらです」
淡々と言うくせに、その声は少しだけ楽しそうだった。
それで思い出す。
去年の文化祭前夜も、俺はあちこち走り回っていた。
それで、放送室にいた理玖に修正原稿を渡した時に、そんなことした気がする。
「……うわ、最悪な先輩じゃん」
「そうでもないです」
理玖がようやく、少しだけはっきり笑った。
ほんの一瞬だけど、その表情が思っていたより年相応で、胸の奥が妙にざわついた。



