自分でも何で走ってるのか分からないまま、俺は廊下を曲がった。
体育館に近づくほど、拍手は大きくなる。
わあっと広がる歓声まで混ざって、胸の奥が落ち着かなくなる。
『――朝比奈先輩!』
スピーカーの声じゃない。
今度は、ちゃんと人の声に聞こえた。
『こっちです!』
『湊、早く!』
『主役が来ないと始まんないだろ!』
意味が分からない。
分からないのに、足は止まらなかった。
体育館の大きな扉は半分だけ開いていて、そこから白すぎる光が漏れていた。
中から拍手が波みたいに押し寄せてくる。
――おかしい。
どこかでは思っていた。
でも、思っただけで終わった。
扉を押して、中に入る。
息をのんだ。
体育館の中が、明るかった。
さっきまで準備途中だったはずのステージには幕がきれいに開いていて、照明がまっすぐ床を照らしている。
綺麗に並べられた椅子。色とりどりの飾り。明日のために貼った案内板まで、全部が整っていた。
その真ん中に、人がいる。
うちのクラスのやつら。
一、二年の実行委員。
さっき体育館で作業していたステージ係。
先生まで混じっていて、みんなが俺のほうを見て、笑って、拍手していた。
『朝比奈!』
陽斗までいた。
さっきと同じ、頬に絵の具をつけたまま、ステージの下から大きく手を振っている。
『お前、来るの遅いって!』
その声に、胸の奥が熱くなる。
「え、なに……」
乾いた声でそう言ったのに、誰も変だとは思わないみたいだった。
むしろ、待っていた、という顔で笑っている。
ステージの上では、マイクを持った女子が明るい声を張った。
『文化祭前夜、今日いちばん学校の中を走ってくれた人!いちばん呼ばれて、いちばん助けてくれた人!朝比奈湊くんです!』
どっと歓声が上がる。
『助かった!』
『朝比奈がいなかったら間に合わなかった!』
『ほんと助かったよ!』
『いてくれてよかった!』
言葉が、まっすぐこっちに飛んでくる。
知っている顔ばかりだった。
今日、実際に俺を呼んだ顔。ありがとう、と言ってくれた顔。
でも今はその全員が、さっきよりずっとやさしくて、ずっとはっきり俺を見ていた。
『湊、こっち来いよ!』
陽斗が笑う。
ステージの中央には、丸く白い照明が落ちていた。
そこだけ空いている。
まるで最初から、俺のために空けてあったみたいに。
『一言、もらわないと』
誰かが言う。
『今日は朝比奈がいたから回ったんだよ』
別の誰かが言う。
『高校最後の文化祭前夜、一番必要だったの、朝比奈だから』
その一言に、心臓がどくっと鳴った。
一番必要だった。
そんな言い方、ずるいに決まってる。
たぶん俺は、そういうのに弱い。
名前を呼ばれて、助かったって言われて、ちゃんと見てもらえると、それだけで少し報われた気になってしまう。
家でやることは、できて当たり前みたいに流れていくのに、学校だと違う。
ここでは、返ってくる。
ありがとう。
助かった。
いてくれてよかった。
だから、好きなんだ。
この場所が。
文化祭前夜の、まだ終わらない感じが。
『朝比奈先輩!』
今度は一年の男子が声を上げる。
『こっちです!真ん中、空いてます!』
拍手がまた強くなる。
体育館の床に引かれた白線が、照明のせいか、やけにきれいに見えた。
その先を歩けば、中心まで迷わず行ける気がする。
そこへ行けば、まだ終わらない。
明日になっても、きっとまた呼ばれる。
高校最後の役目が、ちゃんと続く。
学校の中にいる限り、俺は必要とされる。
そう思った瞬間、足が前に出た。
一歩。
また一歩。
拍手が近くなる。
歓声があたたかい。
陽斗が、クラスのやつらが、先生が、みんな笑って手を伸ばしている。
『朝比奈!』
『湊!』
『こっち!』
呼ばれるたび、胸の奥が満ちていく。
もう少しで、あの光の中に入る。
その瞬間、背中に何かがぶつかった。
「っ」
次の瞬間、腹の前に腕が回る。
ぐっと強い力で後ろへ引かれて、身体ごと熱いものにぶつかった。
息が止まる。
背中に、誰かの胸元。
肩の後ろに、制服越しの体温。
逃がさないみたいに腕がきつく回って、そのまま耳たぶのすぐ下に、低い声が落ちた。
「湊先輩」
頭の中が、真っ白になる。
今まで、一度も聞いたことのない呼び方だった。
先輩じゃなくて。
朝比奈先輩でもなくて。
こんな近くで、名前。
「そっち行くな」
かすれた声だった。
命令みたいで、でも少しだけ必死で。
「俺を見て」
その一言で、何かが切れた。
わっと鳴っていた拍手が、急に遠ざかる。
照明がにじむ。
ステージの上で笑っていたはずの顔が、色の薄い紙みたいにほどけていく。
「……え」
目の前の景色が、音を立てずに剥がれた。
さっきまで人で埋まっていた体育館の床には、誰もいない。
ステージの照明なんて点いていなくて、薄暗い非常灯の明かりが床をぼんやり照らしているだけだった。
拍手していた生徒も、陽斗も、先生も、一人もいない。
あるのは、並べられたパイプ椅子と、明日のために設置された看板と、半分だけ開いた暗い幕。
床には養生テープが伸びていて、白く見えていた線は、ただの立ち位置の印だった。
体育館は、がらんとしていた。
遅れて鳥肌が立つ。
いま自分がどこへ向かっていたのか、ぞっとするくらい分からなくなる。
「うそ……」
声がかすれた。
背中にはまだ理玖がいた。
俺を後ろから抱きとめるみたいな格好のまま、腕をゆるめない。
近い。
近すぎる。
怪異が消えたあとに残ったのが、理玖の腕の重さと、耳の横に残る息の熱って、どういうことだ。
心臓がうるさい。
さっきの拍手より、今のほうがよっぽどうるさい。
「先輩」
理玖の声が、今度は少しだけ落ち着いていた。
でも、まだ近い。
「戻ってきてください」
それでようやく、自分がまだ半分くらいぼんやりしていると分かった。
息を吸って、吐く。
体育館特有の、木の床とほこりの匂いがする。
あの熱っぽい歓声は、もうどこにもない。
「……霧島」
「はい」
「お前、ちょっと……」
言いかけて、言葉が詰まる。
近い、をそのまま言うのも違う気がした。
理玖は数秒遅れて、自分の格好に気づいたらしい。
腕の力がわずかに揺れて、それからようやく離れた。
「……すみません」
離れた瞬間、腹の前と背中だけ妙に熱い。
触れていたところが、そこだけはっきり分かるみたいで、余計に落ち着かない。
「いや、その……助かった」
言いながら、耳が熱いのが自分でも分かった。
理玖は俺の斜め前に回って、真正面から顔を見た。
「ちゃんと、戻りましたか」
「たぶん」
「たぶんは禁止です」
反射みたいに返されて、こんな時なのに少しだけ笑いそうになる。
「厳しいな」
「厳しくしないと、先輩すぐ呼ばれたほうへ行くので」
真顔で言われて、さすがに苦笑する。
「そこまで言う?」
「言います」
間髪入れずに返されて、俺は視線をそらした。
暗い体育館の中央に、さっきまで俺を呼んでいた光の名残なんてもうどこにもない。
なのに、胸の奥だけまだ少しあたたかいままで、それがまた情けない。
「……今の、だいぶ重症だよな」
小さく言うと、理玖が眉を寄せる。
「どれのことですか」
「腹が減ってるのも危なかったけど、拍手で行きかけたの、もっとだめだろ。俺、ああいうのに弱すぎる」
自分で言ってへこむ。
でも理玖は笑わなかった。
「弱いんじゃなくて、先輩がそれだけ頑張ってたってことです」
「慰めになってるようで、なってない」
「慰めてません」
「余計きついわ」
思わずそう返すと、理玖はほんの少しだけ視線を落とした。
「今日、先輩ずっと呼ばれてたじゃないですか」
「……まあ」
「呼ばれるたびに、ちゃんと行って、ちゃんと助けてた」
言われて、何も返せなくなる。
理玖は今日の大半を放送室にいたはずなのに、思っていたよりずっと見ていたらしい。
「だから、助かったって言われたいの、変じゃないです」
低い声で、静かに言われる。
「褒めてほしいのも、普通です」
心臓が、また妙に鳴った。
さっきの拍手の残響とは違う。
もっと近くて、逃げ場がない感じの音だった。
「……お前、そういうとこあるよな」
「どういうとこですか」
「変にまっすぐ」
「変じゃないです」
「自覚ないんだ」
自覚がなさそうな顔で言い返されて、困る。
こういう時、理玖のほうが一枚上手に見えるから腹立つ。
それをごまかすみたいに、俺はわざと軽く息を吐いた。
「ていうか、お前」
「はい」
「今、俺のこと」
そこまで言っただけで、理玖の目がわずかに揺れた。
それで確信する。
「名前で呼んだ?」
数秒、沈黙が落ちた。
体育館のどこかで、ロープがきしむような小さな音がする。
理玖は逃げずに、まっすぐこっちを見た。
「……呼びました」
「聞き間違いじゃなかったんだ」
「危なかったので」
「危なかったら、そうなるの?」
「たぶん」
「お前がたぶん使うなよ」
さっき自分が怒られた言葉をそのまま返すと、理玖はほんの少しだけ目を伏せた。
その反応が珍しくて、胸の奥が変にくすぐったくなる。
「じゃあ、ちゃんと呼びました」
ぼそっと言われたその一言のほうが、さっきより余計に恥ずかしい。
耳の熱がまた戻る。
体育館の怪異が終わったあとに、一番困ってる理由がそこなの、どう考えてもおかしい。
「先輩、ここ出ましょう」
「うん」
「今の、また来るかもしれないので」
来る、という言い方が嫌に具体的で、背筋が冷えた。
俺はうなずいて、理玖の横に並ぶ。
歩き出してから、ぽつりと口を開いた。
「さっきさ」
「はい」
「一番必要だったって、言われたんだよ」
自分でも、何を言っているんだろうと思う。
でも、あれが効いた理由を、少し整理したかった。
「……うれしかった」
理玖は何も言わない。
遮られないから、続けてしまう。
「主役になりたいとか、そういうんじゃないんだけど。今日ずっと裏で走ってたからさ。ああいうふうに、ちゃんと見てるって言われたら、たぶん、簡単に行く」
情けない告白だと思った。
でも理玖は、やっぱり笑わなかった。
「ちゃんと見てます」
短い声が返る。
「先輩がいたから、今日ずっと回ってたの、俺は知ってます」
その一言が、まっすぐ胸に入った。
大勢の拍手より、たったそれだけのほうが、ずっと痛い。
痛いのに、嫌じゃない。
「……そういうの、もっと早く言えよ」
やっとそれだけ返すと、理玖は少しだけ目を見開いた。
「必要でしたか」
「必要だったかも」
「じゃあ、言います」
即答で返されて、思わず足が止まりそうになる。
理玖は歩きながら、いつもの落ち着いた顔のまま続けた。
「みんなに呼ばれなくても、俺が呼ぶので」
静かな声だった。
でも、体育館の拍手よりずっとはっきり聞こえた。
「だから、勝手に行かないでください」
喉が詰まる。
そんな言い方、反則だろと思う。
けれど、その反則みたいな一言のせいで、さっきまで体育館の真ん中に残っていた甘い引力が、きれいに消えた。
体育館に近づくほど、拍手は大きくなる。
わあっと広がる歓声まで混ざって、胸の奥が落ち着かなくなる。
『――朝比奈先輩!』
スピーカーの声じゃない。
今度は、ちゃんと人の声に聞こえた。
『こっちです!』
『湊、早く!』
『主役が来ないと始まんないだろ!』
意味が分からない。
分からないのに、足は止まらなかった。
体育館の大きな扉は半分だけ開いていて、そこから白すぎる光が漏れていた。
中から拍手が波みたいに押し寄せてくる。
――おかしい。
どこかでは思っていた。
でも、思っただけで終わった。
扉を押して、中に入る。
息をのんだ。
体育館の中が、明るかった。
さっきまで準備途中だったはずのステージには幕がきれいに開いていて、照明がまっすぐ床を照らしている。
綺麗に並べられた椅子。色とりどりの飾り。明日のために貼った案内板まで、全部が整っていた。
その真ん中に、人がいる。
うちのクラスのやつら。
一、二年の実行委員。
さっき体育館で作業していたステージ係。
先生まで混じっていて、みんなが俺のほうを見て、笑って、拍手していた。
『朝比奈!』
陽斗までいた。
さっきと同じ、頬に絵の具をつけたまま、ステージの下から大きく手を振っている。
『お前、来るの遅いって!』
その声に、胸の奥が熱くなる。
「え、なに……」
乾いた声でそう言ったのに、誰も変だとは思わないみたいだった。
むしろ、待っていた、という顔で笑っている。
ステージの上では、マイクを持った女子が明るい声を張った。
『文化祭前夜、今日いちばん学校の中を走ってくれた人!いちばん呼ばれて、いちばん助けてくれた人!朝比奈湊くんです!』
どっと歓声が上がる。
『助かった!』
『朝比奈がいなかったら間に合わなかった!』
『ほんと助かったよ!』
『いてくれてよかった!』
言葉が、まっすぐこっちに飛んでくる。
知っている顔ばかりだった。
今日、実際に俺を呼んだ顔。ありがとう、と言ってくれた顔。
でも今はその全員が、さっきよりずっとやさしくて、ずっとはっきり俺を見ていた。
『湊、こっち来いよ!』
陽斗が笑う。
ステージの中央には、丸く白い照明が落ちていた。
そこだけ空いている。
まるで最初から、俺のために空けてあったみたいに。
『一言、もらわないと』
誰かが言う。
『今日は朝比奈がいたから回ったんだよ』
別の誰かが言う。
『高校最後の文化祭前夜、一番必要だったの、朝比奈だから』
その一言に、心臓がどくっと鳴った。
一番必要だった。
そんな言い方、ずるいに決まってる。
たぶん俺は、そういうのに弱い。
名前を呼ばれて、助かったって言われて、ちゃんと見てもらえると、それだけで少し報われた気になってしまう。
家でやることは、できて当たり前みたいに流れていくのに、学校だと違う。
ここでは、返ってくる。
ありがとう。
助かった。
いてくれてよかった。
だから、好きなんだ。
この場所が。
文化祭前夜の、まだ終わらない感じが。
『朝比奈先輩!』
今度は一年の男子が声を上げる。
『こっちです!真ん中、空いてます!』
拍手がまた強くなる。
体育館の床に引かれた白線が、照明のせいか、やけにきれいに見えた。
その先を歩けば、中心まで迷わず行ける気がする。
そこへ行けば、まだ終わらない。
明日になっても、きっとまた呼ばれる。
高校最後の役目が、ちゃんと続く。
学校の中にいる限り、俺は必要とされる。
そう思った瞬間、足が前に出た。
一歩。
また一歩。
拍手が近くなる。
歓声があたたかい。
陽斗が、クラスのやつらが、先生が、みんな笑って手を伸ばしている。
『朝比奈!』
『湊!』
『こっち!』
呼ばれるたび、胸の奥が満ちていく。
もう少しで、あの光の中に入る。
その瞬間、背中に何かがぶつかった。
「っ」
次の瞬間、腹の前に腕が回る。
ぐっと強い力で後ろへ引かれて、身体ごと熱いものにぶつかった。
息が止まる。
背中に、誰かの胸元。
肩の後ろに、制服越しの体温。
逃がさないみたいに腕がきつく回って、そのまま耳たぶのすぐ下に、低い声が落ちた。
「湊先輩」
頭の中が、真っ白になる。
今まで、一度も聞いたことのない呼び方だった。
先輩じゃなくて。
朝比奈先輩でもなくて。
こんな近くで、名前。
「そっち行くな」
かすれた声だった。
命令みたいで、でも少しだけ必死で。
「俺を見て」
その一言で、何かが切れた。
わっと鳴っていた拍手が、急に遠ざかる。
照明がにじむ。
ステージの上で笑っていたはずの顔が、色の薄い紙みたいにほどけていく。
「……え」
目の前の景色が、音を立てずに剥がれた。
さっきまで人で埋まっていた体育館の床には、誰もいない。
ステージの照明なんて点いていなくて、薄暗い非常灯の明かりが床をぼんやり照らしているだけだった。
拍手していた生徒も、陽斗も、先生も、一人もいない。
あるのは、並べられたパイプ椅子と、明日のために設置された看板と、半分だけ開いた暗い幕。
床には養生テープが伸びていて、白く見えていた線は、ただの立ち位置の印だった。
体育館は、がらんとしていた。
遅れて鳥肌が立つ。
いま自分がどこへ向かっていたのか、ぞっとするくらい分からなくなる。
「うそ……」
声がかすれた。
背中にはまだ理玖がいた。
俺を後ろから抱きとめるみたいな格好のまま、腕をゆるめない。
近い。
近すぎる。
怪異が消えたあとに残ったのが、理玖の腕の重さと、耳の横に残る息の熱って、どういうことだ。
心臓がうるさい。
さっきの拍手より、今のほうがよっぽどうるさい。
「先輩」
理玖の声が、今度は少しだけ落ち着いていた。
でも、まだ近い。
「戻ってきてください」
それでようやく、自分がまだ半分くらいぼんやりしていると分かった。
息を吸って、吐く。
体育館特有の、木の床とほこりの匂いがする。
あの熱っぽい歓声は、もうどこにもない。
「……霧島」
「はい」
「お前、ちょっと……」
言いかけて、言葉が詰まる。
近い、をそのまま言うのも違う気がした。
理玖は数秒遅れて、自分の格好に気づいたらしい。
腕の力がわずかに揺れて、それからようやく離れた。
「……すみません」
離れた瞬間、腹の前と背中だけ妙に熱い。
触れていたところが、そこだけはっきり分かるみたいで、余計に落ち着かない。
「いや、その……助かった」
言いながら、耳が熱いのが自分でも分かった。
理玖は俺の斜め前に回って、真正面から顔を見た。
「ちゃんと、戻りましたか」
「たぶん」
「たぶんは禁止です」
反射みたいに返されて、こんな時なのに少しだけ笑いそうになる。
「厳しいな」
「厳しくしないと、先輩すぐ呼ばれたほうへ行くので」
真顔で言われて、さすがに苦笑する。
「そこまで言う?」
「言います」
間髪入れずに返されて、俺は視線をそらした。
暗い体育館の中央に、さっきまで俺を呼んでいた光の名残なんてもうどこにもない。
なのに、胸の奥だけまだ少しあたたかいままで、それがまた情けない。
「……今の、だいぶ重症だよな」
小さく言うと、理玖が眉を寄せる。
「どれのことですか」
「腹が減ってるのも危なかったけど、拍手で行きかけたの、もっとだめだろ。俺、ああいうのに弱すぎる」
自分で言ってへこむ。
でも理玖は笑わなかった。
「弱いんじゃなくて、先輩がそれだけ頑張ってたってことです」
「慰めになってるようで、なってない」
「慰めてません」
「余計きついわ」
思わずそう返すと、理玖はほんの少しだけ視線を落とした。
「今日、先輩ずっと呼ばれてたじゃないですか」
「……まあ」
「呼ばれるたびに、ちゃんと行って、ちゃんと助けてた」
言われて、何も返せなくなる。
理玖は今日の大半を放送室にいたはずなのに、思っていたよりずっと見ていたらしい。
「だから、助かったって言われたいの、変じゃないです」
低い声で、静かに言われる。
「褒めてほしいのも、普通です」
心臓が、また妙に鳴った。
さっきの拍手の残響とは違う。
もっと近くて、逃げ場がない感じの音だった。
「……お前、そういうとこあるよな」
「どういうとこですか」
「変にまっすぐ」
「変じゃないです」
「自覚ないんだ」
自覚がなさそうな顔で言い返されて、困る。
こういう時、理玖のほうが一枚上手に見えるから腹立つ。
それをごまかすみたいに、俺はわざと軽く息を吐いた。
「ていうか、お前」
「はい」
「今、俺のこと」
そこまで言っただけで、理玖の目がわずかに揺れた。
それで確信する。
「名前で呼んだ?」
数秒、沈黙が落ちた。
体育館のどこかで、ロープがきしむような小さな音がする。
理玖は逃げずに、まっすぐこっちを見た。
「……呼びました」
「聞き間違いじゃなかったんだ」
「危なかったので」
「危なかったら、そうなるの?」
「たぶん」
「お前がたぶん使うなよ」
さっき自分が怒られた言葉をそのまま返すと、理玖はほんの少しだけ目を伏せた。
その反応が珍しくて、胸の奥が変にくすぐったくなる。
「じゃあ、ちゃんと呼びました」
ぼそっと言われたその一言のほうが、さっきより余計に恥ずかしい。
耳の熱がまた戻る。
体育館の怪異が終わったあとに、一番困ってる理由がそこなの、どう考えてもおかしい。
「先輩、ここ出ましょう」
「うん」
「今の、また来るかもしれないので」
来る、という言い方が嫌に具体的で、背筋が冷えた。
俺はうなずいて、理玖の横に並ぶ。
歩き出してから、ぽつりと口を開いた。
「さっきさ」
「はい」
「一番必要だったって、言われたんだよ」
自分でも、何を言っているんだろうと思う。
でも、あれが効いた理由を、少し整理したかった。
「……うれしかった」
理玖は何も言わない。
遮られないから、続けてしまう。
「主役になりたいとか、そういうんじゃないんだけど。今日ずっと裏で走ってたからさ。ああいうふうに、ちゃんと見てるって言われたら、たぶん、簡単に行く」
情けない告白だと思った。
でも理玖は、やっぱり笑わなかった。
「ちゃんと見てます」
短い声が返る。
「先輩がいたから、今日ずっと回ってたの、俺は知ってます」
その一言が、まっすぐ胸に入った。
大勢の拍手より、たったそれだけのほうが、ずっと痛い。
痛いのに、嫌じゃない。
「……そういうの、もっと早く言えよ」
やっとそれだけ返すと、理玖は少しだけ目を見開いた。
「必要でしたか」
「必要だったかも」
「じゃあ、言います」
即答で返されて、思わず足が止まりそうになる。
理玖は歩きながら、いつもの落ち着いた顔のまま続けた。
「みんなに呼ばれなくても、俺が呼ぶので」
静かな声だった。
でも、体育館の拍手よりずっとはっきり聞こえた。
「だから、勝手に行かないでください」
喉が詰まる。
そんな言い方、反則だろと思う。
けれど、その反則みたいな一言のせいで、さっきまで体育館の真ん中に残っていた甘い引力が、きれいに消えた。



