放課後、三番線ホームにご注意ください

つられて俺も振り返る。

渡り廊下のガラス越し、本校舎の二階にあるうちの教室だけが、まだ明るかった。
窓際に吊った紙花が揺れて、その向こうで誰かが手を振っている。

「湊!」

聞き慣れた声に目を凝らすと、教室の後ろ扉から早瀬陽斗が半身を乗り出していた。
腕にはまだ作りかけの輪っか飾りを抱えていて、相変わらず頬に赤い絵の具がついたままだ。

「いた、よかった。ちょっとだけ来て。看板の位置、最後に見てほしい」

「まだやってたのか」

「お前がいろんなとこに呼ばれてる間にな。文化祭実行委員様」

からかうみたいに言ってから、陽斗の視線が俺の隣に滑る。

「……って、霧島くんまでいるの?」

「たまたま一緒にいたんだよ」

「へえ。放送委員って、実行委員の護衛もやるんだ」

「やりません」

理玖が真顔で返す。
陽斗は一拍置いてから吹き出した。

「すごい、ちゃんと返してくれた」

「陽斗、それ失礼だからな」

「いやでも、無口なやつって何考えてるか分かんないじゃん」

「何も考えてません」

「それはそれで怖いわ」

相変わらず適当なやり取りに、少しだけ肩の力が抜けた。
さっきまで家庭科室の前で感じていた気味の悪さが、教室の灯りを見るだけで薄れていく。
うちのクラスの空気は、やっぱり落ち着く。

「先輩」

理玖が低く呼ぶ。

「行くなら、俺も行きます」

「え、そこまで警戒する?」

「します」

即答だった。
陽斗がそれを聞いて目を丸くする。

「なにそれ。湊、ほんとに保護者ついてるじゃん」

「違うって」

笑って返しながらも、理玖が一歩も引かないせいで、結局そのまま二人で教室へ向かった。

教室の前まで来ると、中は思ったよりまだにぎやかだった。
黒板の上には『文化祭、楽しもう!』と太い字が残っていて、窓には切り絵の飾りが半分だけ貼られている。
机は後ろに寄せられて、真ん中に看板やペンキ缶やガムテープが雑然と置かれていた。

「あ、朝比奈くん来た」

「助かった、これ見て。文字ちょっと曲がってない?」

「湊、段ボール切るハサミどこやったっけ」

扉を開けた瞬間、いつもの調子で声が飛んでくる。
その感じが妙にうれしい。

「一気に言うなって。ハサミは窓側の机の上。文字は……ちょい右上かな」

「やっぱそう?朝比奈に見てもらって正解だった」

「朝比奈いると早いわ」

言いながら、クラスの女子が看板を持ち上げる。
陽斗も輪っか飾りを机に置いて、俺にマジックを渡してきた。

「ほら、最後だけ直して」

「自分でやれよ」

「お前の方がきれいだから」

「しょうがないな」

文句を言いつつ受け取ると、向こうから「お願いしまーす」と気の抜けた返事が来る。
理玖は教室の中までは入らず、扉のすぐそばに立ったまま周囲を見ていた。
どう見ても警戒しすぎだろと思うのに、その視線があるだけで少し安心してしまうから、変な話だ。

俺は看板の文字を少しだけ書き直し、ずれたテープを貼り直して、黒板の横の飾りも直した。
本当にちょっとしたことばかりだ。
でも、それだけでみんなの顔がぱっと明るくなる。

「うわ、見やす」

「やっぱ朝比奈だわ」

「いてくれてよかったー」

その一言が、胸の奥にすとんと落ちた。

いてくれてよかった。

さっきまで怪異に引っぱられていたのに、そんなことが急に遠くなる。
今ここにあるのは、明日の文化祭がちゃんと楽しみで、最後まで少しでもいい形にしたいっていう、いつもの教室の空気だ。

「はい、これでいいだろ」

マジックを返すと、陽斗が受け取りながら笑った。

「助かる。ほんと、お前いないと締まんないんだよな」

「大げさ」

「大げさじゃないって。文化祭前日って、朝比奈が一番朝比奈してるし」

「何その意味分からない日本語」

「でも分かるだろ」

分かる気がしてしまって、俺は小さく笑った。

ちょうどその時、廊下の向こうから誰かに呼ばれる声がした。
たぶん隣のクラスだ。陽斗が「やば」と顔を上げる。

「三年の看板、体育館に先に運べってさ。悪い、ちょっと行ってくる」

「俺も行くー」

「朝比奈、戸締まりだけ頼める?」

「いいよ」

「助かる!」

また軽くそう言って、クラスメイトたちは看板や飾りを抱え、ばたばたと廊下へ出ていった。
最後に陽斗が扉のところで振り返る。

「湊、すぐ戻るから、勝手に帰るなよ」

「帰らないよ」

「だよな。お前はそういうやつ」

笑い声と足音が遠ざかっていく。
教室の中に残ったのは、俺と理玖だけだった。

急に静かになると、さっきまでのにぎやかさが嘘みたいだった。
窓の外はもう真っ暗で、教室の明かりだけが床を白く照らしている。

「……なんか、落差すごいな」

俺がそう言うと、理玖はまだ扉の近くから動かないまま答えた。

「先輩、終わったなら出ます」

「待って。戸締まりする」

「俺がします」

「俺の教室なんだけど」

「知ってます」

知ってるなら任せろよ、と言いかけて、理玖の真面目な顔を見てやめた。
たぶん本気で、俺を一秒でも一人にしたくないんだろう。

その時だった。

誰もいないはずの廊下から、さっきの続きみたいな笑い声が聞こえた。

「あれ、もう戻ってきた?」

反射的に扉の方を見る。
でも、廊下には誰の姿もない。

代わりに、教室の後ろの方で椅子がひとつ、ぎ、と鳴った。

振り返る。

机を後ろに寄せたはずの空間に、いつの間にか何人か立っていた。

陽斗がいる。
さっき看板を持って出ていったはずの女子もいる。
窓際にいた男子も、黒板の前にいたやつも、みんな普通の顔でこっちを見ていた。

「朝比奈、それも見て」

「ここの飾り、まだ足りないかも」

「悪い、こっちも手伝って」

声はいつも通りだった。
明るくて、気楽で、俺が今日何度も聞いた声だ。

でも、変だった。

さっきまで教室にいた人数より、少し多い。
出ていったはずのやつと、今ここにいるやつの区別がつかない。
しかも、みんな同時に俺を見ている。

理玖が何か言った気がした。
けれど、うまく耳に入ってこない。

「朝比奈、助かる」

一人が言う。
すぐ次に、別の声が重なる。

「ほんと、お前いてくれてよかった」

また別の声。

「朝比奈がいると安心する」

「助かった」

「いてくれてよかった」

「まだ帰らなくていいよな」

言葉が、やわらかく重なっていく。

耳に心地いい。
じんわりと、胸の真ん中があたたかくなる。

さっきまで自分でも分かるくらい疲れていたのに、その声を聞いていると、全部報われる気がした。
今日一日、走り回って、何度も名前を呼ばれて、細かいことを片づけてきたのは、この一言のためだったのかもしれないと思うくらいに。

教室の中は明るい。
黒板の文字も、窓の飾りも、自分の机の場所も、全部ちゃんとそこにある。
この場所なら、まだ終わらない気がした。

文化祭前夜のまま。
みんなに呼ばれるまま。
必要とされるまま。

「朝比奈」

陽斗が笑う。

「まだ帰るなよ」

その笑い方が、あまりにも自然で。
俺は思わず、一歩だけ前に出た。

「先輩!」

理玖の声。

でも、止まらなかった。

「これ、見て」

「朝比奈、これも頼む」

「やっぱりお前がいないとだめだわ」

そんなの、気持ちいいに決まってる。

だって、学校にいる時だけだ。
こうやって、ちゃんといていい理由を、言葉にしてもらえるから。

足が、もう一歩前に出る。

その瞬間、肩にぐっと重みがかかった。

「っ」

右肩を引かれて、身体ごと横に寄せられる。
ぶつかるみたいに理玖の胸元へ引き戻されて、視界が大きく揺れた。

理玖の腕だった。
肩を抱くみたいに回された腕が、そのまま俺を教室の外へ向けて押し出す。

耳のすぐ近くで、低い声が落ちた。

「先輩、そっちじゃない」

はっと息をのむ。

近い。
近すぎる。

肩越しに感じる腕の力も、制服越しの体温も、全部がやけに現実で、それだけでさっきまでの甘い声が少し遠のいた。

「でも、今――」

「見なくていいです」

短く言って、理玖は俺の肩を抱いたまま半歩下がる。
俺を教室の外へ出すように、逃がさないように。

「助かるとか、いてくれてよかったとか、明日いくらでも言われます」

声は低いのに、妙にはっきりしていた。

「だから、今のに立ち止まらないで」

その一言で、何かが切れた。

教室の中をもう一度見る。
さっきまで立っていたはずのクラスメイトたちが消えている。
後ろに寄せた机と、放り出されたマジックと、半端に残った紙花しかない。

明るかったはずの教室も、よく見れば少し暗い。
蛍光灯が一本切れかけて、細く点滅しているだけだった。

遅れて、ぞわっと鳥肌が立つ。

「……うそだろ」

声がかすれる。

理玖はまだ肩を抱いたままだった。
離れていないことに気づいて、今さら別の意味で心臓が騒ぐ。

「先輩」

「……ごめん」

「謝らなくていいです」

「いや、でも」

「また、止まっただけです」

言いながら、理玖は教室の中ではなく、俺の顔を見た。
まっすぐすぎる視線に、うまく目を合わせられない。

肩に回った腕が少し強い。
逃がさないようにしていた名残なんだろうけど、そのせいで俺は理玖の体温を嫌でも意識してしまう。

近い。
本当に近い。

「霧島、もう大丈夫」

そう言うと、理玖は一拍遅れてから腕を離した。
でも完全に距離を取るわけじゃなく、今度は肩に手を置いたまま、低く聞く。

「ちゃんと戻ってきましたか」

戻ってきた、って言い方に、また胸が変に鳴る。

「……たぶん」

「たぶんは禁止です」

「厳しいな」

「厳しくしないと、先輩すぐ行くので」

真顔で言われて、反論できない。

俺は空になった教室を見た。
ほんの数分前まで、ここには本当にクラスメイトがいた。
その名残もちゃんとある。
だから余計に、さっきの幻は気持ち悪いはずなのに。

一番先に出てきた感情は、怖いより先に、恥ずかしい、だった。

「……今の、だいぶ最悪じゃない?」

理玖が少し首をかしげる。

「何がですか?」

「いや、空腹に釣られるのもどうかと思ったけど、今のもっとだめだろ。褒められて気持ちよくなってたってことじゃん」

言いながら、自分で言っててへこむ。
でも、理玖は笑わなかった。

「だめじゃないです」

「いや、だめだろ」

「先輩が、そう言われるだけのことをしてきたってことです」

思ってもいなかった返事に、俺は口をつぐむ。

理玖はいつもの落ち着いた顔のまま続けた。

「利用されたのが嫌なだけで、言葉そのものまで嘘じゃないです」

「……」

「みんな、助かってるのは本当だと思います」

その言い方が、慰めというより、ただ事実を言っているみたいで。
変に優しくされるより、ずっと胸にきた。

「先輩が、必要とされたいこと、笑いません」

低い声で、そう言われる。

喉の奥が、少しだけ詰まる。

教室のドアの窓には、俺と理玖が並んで映っていた。
肩に置かれた手が、そのまま視界の端に入る。

「……学校だとさ」

気づいたら、ぽつりとこぼしていた。

「こうやって返ってくるんだよ。助かったとか、ありがとうとか。ちゃんと見てもらえてる感じ、するから」

言ってから、しゃべりすぎたと思う。
でも理玖は遮らなかった。

「家だと、そうじゃないんですか?」

問い方が、妙に静かだった。

「そういうわけじゃないけど……まあ、家は家で、やることあるし」

洗濯物とか、弟のこととか、細かい用事とか。
いちいち口にするほど重い話じゃない。
でも、言われなくてもやる前提のことが多すぎると、たまに自分が何役なのか分からなくなる。

「学校だと、俺がいてもいいって分かりやすいんだよ」

自分で言って、自分で少しだけ情けなくなる。
そんな顔をしたのか、理玖の指先が肩の上でほんの少しだけ動いた。

「分かりやすくなくても、先輩はいてほしいです」

息が止まりかけた。

顔を上げると、理玖はごく普通の顔で俺を見ている。
たぶん本人は、今のがどれだけ反則っぽいか分かっていない。

「……霧島、それ」

「はい」

「そういうの、さらっと言うなよ」

「変なこと言いましたか」

「言った」

「でも、本当です」

間を空けずに返されて、言葉が続かなくなる。

さっきまで肩を抱かれていたせいか、そこだけまだ熱い。
しかも今の台詞のせいで、別の熱まで足された気がした。

教室の蛍光灯が、じ、と小さく鳴る。
それでようやく我に返った。

「とりあえず、鍵かけよう」

「はい」

今度は理玖が戸締まりをして、俺はその横で見ていた。
俺の教室なのに、結局ほとんど理玖にやらせている。

廊下に出ると、教室の中の空気が少しだけ背中にまとわりついた気がした。
でも、理玖がすぐ隣にいるだけで、さっきより足元はしっかりしている。

「先輩」

「ん?」

「気をつけてくださいよ。匂いとか、声とか……」

「……気をつける」

「絶対ですよ」

そんなやり取りをしながら、俺たちは廊下を歩き出した。

三年の教室が並ぶ階は、さっきまでのにぎやかさが引いたあとみたいに静かだった。
扉の小窓の向こうに、途中までの飾りや、積まれた段ボールや、書きかけの黒板が見える。
どの教室も、明日の朝を待っている。

その静けさの中で、ふいに。

わっ、と遠くから拍手が湧いた。

反射的に足が止まる。

体育館の方角だった。
最初は文化祭準備の音かと思った。でも違う。
何十人ぶんもの手が、ぴたりと揃って同じタイミングで鳴っている。

一度。
二度。
それから、誰かを迎えるみたいに、規則正しく続く。

理玖の表情がすっと変わった。

「……今度は、そっちですか」

「え」

聞き返した瞬間、天井のスピーカーが、ぶつりと鳴る。

『――まもなく、拍手でお迎えいたします』

ひやりとした声が、人気のない廊下いっぱいに広がった。

『今夜の主役はこの人しかいません!文化祭前夜を引っ張ってくれてる、朝比奈湊さんです!』

理玖の手が、俺の手首を掴む前に、俺は体育館に向かって走っていた。