つられて俺も振り返る。
渡り廊下のガラス越し、本校舎の二階にあるうちの教室だけが、まだ明るかった。
窓際に吊った紙花が揺れて、その向こうで誰かが手を振っている。
「湊!」
聞き慣れた声に目を凝らすと、教室の後ろ扉から早瀬陽斗が半身を乗り出していた。
腕にはまだ作りかけの輪っか飾りを抱えていて、相変わらず頬に赤い絵の具がついたままだ。
「いた、よかった。ちょっとだけ来て。看板の位置、最後に見てほしい」
「まだやってたのか」
「お前がいろんなとこに呼ばれてる間にな。文化祭実行委員様」
からかうみたいに言ってから、陽斗の視線が俺の隣に滑る。
「……って、霧島くんまでいるの?」
「たまたま一緒にいたんだよ」
「へえ。放送委員って、実行委員の護衛もやるんだ」
「やりません」
理玖が真顔で返す。
陽斗は一拍置いてから吹き出した。
「すごい、ちゃんと返してくれた」
「陽斗、それ失礼だからな」
「いやでも、無口なやつって何考えてるか分かんないじゃん」
「何も考えてません」
「それはそれで怖いわ」
相変わらず適当なやり取りに、少しだけ肩の力が抜けた。
さっきまで家庭科室の前で感じていた気味の悪さが、教室の灯りを見るだけで薄れていく。
うちのクラスの空気は、やっぱり落ち着く。
「先輩」
理玖が低く呼ぶ。
「行くなら、俺も行きます」
「え、そこまで警戒する?」
「します」
即答だった。
陽斗がそれを聞いて目を丸くする。
「なにそれ。湊、ほんとに保護者ついてるじゃん」
「違うって」
笑って返しながらも、理玖が一歩も引かないせいで、結局そのまま二人で教室へ向かった。
教室の前まで来ると、中は思ったよりまだにぎやかだった。
黒板の上には『文化祭、楽しもう!』と太い字が残っていて、窓には切り絵の飾りが半分だけ貼られている。
机は後ろに寄せられて、真ん中に看板やペンキ缶やガムテープが雑然と置かれていた。
「あ、朝比奈くん来た」
「助かった、これ見て。文字ちょっと曲がってない?」
「湊、段ボール切るハサミどこやったっけ」
扉を開けた瞬間、いつもの調子で声が飛んでくる。
その感じが妙にうれしい。
「一気に言うなって。ハサミは窓側の机の上。文字は……ちょい右上かな」
「やっぱそう?朝比奈に見てもらって正解だった」
「朝比奈いると早いわ」
言いながら、クラスの女子が看板を持ち上げる。
陽斗も輪っか飾りを机に置いて、俺にマジックを渡してきた。
「ほら、最後だけ直して」
「自分でやれよ」
「お前の方がきれいだから」
「しょうがないな」
文句を言いつつ受け取ると、向こうから「お願いしまーす」と気の抜けた返事が来る。
理玖は教室の中までは入らず、扉のすぐそばに立ったまま周囲を見ていた。
どう見ても警戒しすぎだろと思うのに、その視線があるだけで少し安心してしまうから、変な話だ。
俺は看板の文字を少しだけ書き直し、ずれたテープを貼り直して、黒板の横の飾りも直した。
本当にちょっとしたことばかりだ。
でも、それだけでみんなの顔がぱっと明るくなる。
「うわ、見やす」
「やっぱ朝比奈だわ」
「いてくれてよかったー」
その一言が、胸の奥にすとんと落ちた。
いてくれてよかった。
さっきまで怪異に引っぱられていたのに、そんなことが急に遠くなる。
今ここにあるのは、明日の文化祭がちゃんと楽しみで、最後まで少しでもいい形にしたいっていう、いつもの教室の空気だ。
「はい、これでいいだろ」
マジックを返すと、陽斗が受け取りながら笑った。
「助かる。ほんと、お前いないと締まんないんだよな」
「大げさ」
「大げさじゃないって。文化祭前日って、朝比奈が一番朝比奈してるし」
「何その意味分からない日本語」
「でも分かるだろ」
分かる気がしてしまって、俺は小さく笑った。
ちょうどその時、廊下の向こうから誰かに呼ばれる声がした。
たぶん隣のクラスだ。陽斗が「やば」と顔を上げる。
「三年の看板、体育館に先に運べってさ。悪い、ちょっと行ってくる」
「俺も行くー」
「朝比奈、戸締まりだけ頼める?」
「いいよ」
「助かる!」
また軽くそう言って、クラスメイトたちは看板や飾りを抱え、ばたばたと廊下へ出ていった。
最後に陽斗が扉のところで振り返る。
「湊、すぐ戻るから、勝手に帰るなよ」
「帰らないよ」
「だよな。お前はそういうやつ」
笑い声と足音が遠ざかっていく。
教室の中に残ったのは、俺と理玖だけだった。
急に静かになると、さっきまでのにぎやかさが嘘みたいだった。
窓の外はもう真っ暗で、教室の明かりだけが床を白く照らしている。
「……なんか、落差すごいな」
俺がそう言うと、理玖はまだ扉の近くから動かないまま答えた。
「先輩、終わったなら出ます」
「待って。戸締まりする」
「俺がします」
「俺の教室なんだけど」
「知ってます」
知ってるなら任せろよ、と言いかけて、理玖の真面目な顔を見てやめた。
たぶん本気で、俺を一秒でも一人にしたくないんだろう。
その時だった。
誰もいないはずの廊下から、さっきの続きみたいな笑い声が聞こえた。
「あれ、もう戻ってきた?」
反射的に扉の方を見る。
でも、廊下には誰の姿もない。
代わりに、教室の後ろの方で椅子がひとつ、ぎ、と鳴った。
振り返る。
机を後ろに寄せたはずの空間に、いつの間にか何人か立っていた。
陽斗がいる。
さっき看板を持って出ていったはずの女子もいる。
窓際にいた男子も、黒板の前にいたやつも、みんな普通の顔でこっちを見ていた。
「朝比奈、それも見て」
「ここの飾り、まだ足りないかも」
「悪い、こっちも手伝って」
声はいつも通りだった。
明るくて、気楽で、俺が今日何度も聞いた声だ。
でも、変だった。
さっきまで教室にいた人数より、少し多い。
出ていったはずのやつと、今ここにいるやつの区別がつかない。
しかも、みんな同時に俺を見ている。
理玖が何か言った気がした。
けれど、うまく耳に入ってこない。
「朝比奈、助かる」
一人が言う。
すぐ次に、別の声が重なる。
「ほんと、お前いてくれてよかった」
また別の声。
「朝比奈がいると安心する」
「助かった」
「いてくれてよかった」
「まだ帰らなくていいよな」
言葉が、やわらかく重なっていく。
耳に心地いい。
じんわりと、胸の真ん中があたたかくなる。
さっきまで自分でも分かるくらい疲れていたのに、その声を聞いていると、全部報われる気がした。
今日一日、走り回って、何度も名前を呼ばれて、細かいことを片づけてきたのは、この一言のためだったのかもしれないと思うくらいに。
教室の中は明るい。
黒板の文字も、窓の飾りも、自分の机の場所も、全部ちゃんとそこにある。
この場所なら、まだ終わらない気がした。
文化祭前夜のまま。
みんなに呼ばれるまま。
必要とされるまま。
「朝比奈」
陽斗が笑う。
「まだ帰るなよ」
その笑い方が、あまりにも自然で。
俺は思わず、一歩だけ前に出た。
「先輩!」
理玖の声。
でも、止まらなかった。
「これ、見て」
「朝比奈、これも頼む」
「やっぱりお前がいないとだめだわ」
そんなの、気持ちいいに決まってる。
だって、学校にいる時だけだ。
こうやって、ちゃんといていい理由を、言葉にしてもらえるから。
足が、もう一歩前に出る。
その瞬間、肩にぐっと重みがかかった。
「っ」
右肩を引かれて、身体ごと横に寄せられる。
ぶつかるみたいに理玖の胸元へ引き戻されて、視界が大きく揺れた。
理玖の腕だった。
肩を抱くみたいに回された腕が、そのまま俺を教室の外へ向けて押し出す。
耳のすぐ近くで、低い声が落ちた。
「先輩、そっちじゃない」
はっと息をのむ。
近い。
近すぎる。
肩越しに感じる腕の力も、制服越しの体温も、全部がやけに現実で、それだけでさっきまでの甘い声が少し遠のいた。
「でも、今――」
「見なくていいです」
短く言って、理玖は俺の肩を抱いたまま半歩下がる。
俺を教室の外へ出すように、逃がさないように。
「助かるとか、いてくれてよかったとか、明日いくらでも言われます」
声は低いのに、妙にはっきりしていた。
「だから、今のに立ち止まらないで」
その一言で、何かが切れた。
教室の中をもう一度見る。
さっきまで立っていたはずのクラスメイトたちが消えている。
後ろに寄せた机と、放り出されたマジックと、半端に残った紙花しかない。
明るかったはずの教室も、よく見れば少し暗い。
蛍光灯が一本切れかけて、細く点滅しているだけだった。
遅れて、ぞわっと鳥肌が立つ。
「……うそだろ」
声がかすれる。
理玖はまだ肩を抱いたままだった。
離れていないことに気づいて、今さら別の意味で心臓が騒ぐ。
「先輩」
「……ごめん」
「謝らなくていいです」
「いや、でも」
「また、止まっただけです」
言いながら、理玖は教室の中ではなく、俺の顔を見た。
まっすぐすぎる視線に、うまく目を合わせられない。
肩に回った腕が少し強い。
逃がさないようにしていた名残なんだろうけど、そのせいで俺は理玖の体温を嫌でも意識してしまう。
近い。
本当に近い。
「霧島、もう大丈夫」
そう言うと、理玖は一拍遅れてから腕を離した。
でも完全に距離を取るわけじゃなく、今度は肩に手を置いたまま、低く聞く。
「ちゃんと戻ってきましたか」
戻ってきた、って言い方に、また胸が変に鳴る。
「……たぶん」
「たぶんは禁止です」
「厳しいな」
「厳しくしないと、先輩すぐ行くので」
真顔で言われて、反論できない。
俺は空になった教室を見た。
ほんの数分前まで、ここには本当にクラスメイトがいた。
その名残もちゃんとある。
だから余計に、さっきの幻は気持ち悪いはずなのに。
一番先に出てきた感情は、怖いより先に、恥ずかしい、だった。
「……今の、だいぶ最悪じゃない?」
理玖が少し首をかしげる。
「何がですか?」
「いや、空腹に釣られるのもどうかと思ったけど、今のもっとだめだろ。褒められて気持ちよくなってたってことじゃん」
言いながら、自分で言っててへこむ。
でも、理玖は笑わなかった。
「だめじゃないです」
「いや、だめだろ」
「先輩が、そう言われるだけのことをしてきたってことです」
思ってもいなかった返事に、俺は口をつぐむ。
理玖はいつもの落ち着いた顔のまま続けた。
「利用されたのが嫌なだけで、言葉そのものまで嘘じゃないです」
「……」
「みんな、助かってるのは本当だと思います」
その言い方が、慰めというより、ただ事実を言っているみたいで。
変に優しくされるより、ずっと胸にきた。
「先輩が、必要とされたいこと、笑いません」
低い声で、そう言われる。
喉の奥が、少しだけ詰まる。
教室のドアの窓には、俺と理玖が並んで映っていた。
肩に置かれた手が、そのまま視界の端に入る。
「……学校だとさ」
気づいたら、ぽつりとこぼしていた。
「こうやって返ってくるんだよ。助かったとか、ありがとうとか。ちゃんと見てもらえてる感じ、するから」
言ってから、しゃべりすぎたと思う。
でも理玖は遮らなかった。
「家だと、そうじゃないんですか?」
問い方が、妙に静かだった。
「そういうわけじゃないけど……まあ、家は家で、やることあるし」
洗濯物とか、弟のこととか、細かい用事とか。
いちいち口にするほど重い話じゃない。
でも、言われなくてもやる前提のことが多すぎると、たまに自分が何役なのか分からなくなる。
「学校だと、俺がいてもいいって分かりやすいんだよ」
自分で言って、自分で少しだけ情けなくなる。
そんな顔をしたのか、理玖の指先が肩の上でほんの少しだけ動いた。
「分かりやすくなくても、先輩はいてほしいです」
息が止まりかけた。
顔を上げると、理玖はごく普通の顔で俺を見ている。
たぶん本人は、今のがどれだけ反則っぽいか分かっていない。
「……霧島、それ」
「はい」
「そういうの、さらっと言うなよ」
「変なこと言いましたか」
「言った」
「でも、本当です」
間を空けずに返されて、言葉が続かなくなる。
さっきまで肩を抱かれていたせいか、そこだけまだ熱い。
しかも今の台詞のせいで、別の熱まで足された気がした。
教室の蛍光灯が、じ、と小さく鳴る。
それでようやく我に返った。
「とりあえず、鍵かけよう」
「はい」
今度は理玖が戸締まりをして、俺はその横で見ていた。
俺の教室なのに、結局ほとんど理玖にやらせている。
廊下に出ると、教室の中の空気が少しだけ背中にまとわりついた気がした。
でも、理玖がすぐ隣にいるだけで、さっきより足元はしっかりしている。
「先輩」
「ん?」
「気をつけてくださいよ。匂いとか、声とか……」
「……気をつける」
「絶対ですよ」
そんなやり取りをしながら、俺たちは廊下を歩き出した。
三年の教室が並ぶ階は、さっきまでのにぎやかさが引いたあとみたいに静かだった。
扉の小窓の向こうに、途中までの飾りや、積まれた段ボールや、書きかけの黒板が見える。
どの教室も、明日の朝を待っている。
その静けさの中で、ふいに。
わっ、と遠くから拍手が湧いた。
反射的に足が止まる。
体育館の方角だった。
最初は文化祭準備の音かと思った。でも違う。
何十人ぶんもの手が、ぴたりと揃って同じタイミングで鳴っている。
一度。
二度。
それから、誰かを迎えるみたいに、規則正しく続く。
理玖の表情がすっと変わった。
「……今度は、そっちですか」
「え」
聞き返した瞬間、天井のスピーカーが、ぶつりと鳴る。
『――まもなく、拍手でお迎えいたします』
ひやりとした声が、人気のない廊下いっぱいに広がった。
『今夜の主役はこの人しかいません!文化祭前夜を引っ張ってくれてる、朝比奈湊さんです!』
理玖の手が、俺の手首を掴む前に、俺は体育館に向かって走っていた。
渡り廊下のガラス越し、本校舎の二階にあるうちの教室だけが、まだ明るかった。
窓際に吊った紙花が揺れて、その向こうで誰かが手を振っている。
「湊!」
聞き慣れた声に目を凝らすと、教室の後ろ扉から早瀬陽斗が半身を乗り出していた。
腕にはまだ作りかけの輪っか飾りを抱えていて、相変わらず頬に赤い絵の具がついたままだ。
「いた、よかった。ちょっとだけ来て。看板の位置、最後に見てほしい」
「まだやってたのか」
「お前がいろんなとこに呼ばれてる間にな。文化祭実行委員様」
からかうみたいに言ってから、陽斗の視線が俺の隣に滑る。
「……って、霧島くんまでいるの?」
「たまたま一緒にいたんだよ」
「へえ。放送委員って、実行委員の護衛もやるんだ」
「やりません」
理玖が真顔で返す。
陽斗は一拍置いてから吹き出した。
「すごい、ちゃんと返してくれた」
「陽斗、それ失礼だからな」
「いやでも、無口なやつって何考えてるか分かんないじゃん」
「何も考えてません」
「それはそれで怖いわ」
相変わらず適当なやり取りに、少しだけ肩の力が抜けた。
さっきまで家庭科室の前で感じていた気味の悪さが、教室の灯りを見るだけで薄れていく。
うちのクラスの空気は、やっぱり落ち着く。
「先輩」
理玖が低く呼ぶ。
「行くなら、俺も行きます」
「え、そこまで警戒する?」
「します」
即答だった。
陽斗がそれを聞いて目を丸くする。
「なにそれ。湊、ほんとに保護者ついてるじゃん」
「違うって」
笑って返しながらも、理玖が一歩も引かないせいで、結局そのまま二人で教室へ向かった。
教室の前まで来ると、中は思ったよりまだにぎやかだった。
黒板の上には『文化祭、楽しもう!』と太い字が残っていて、窓には切り絵の飾りが半分だけ貼られている。
机は後ろに寄せられて、真ん中に看板やペンキ缶やガムテープが雑然と置かれていた。
「あ、朝比奈くん来た」
「助かった、これ見て。文字ちょっと曲がってない?」
「湊、段ボール切るハサミどこやったっけ」
扉を開けた瞬間、いつもの調子で声が飛んでくる。
その感じが妙にうれしい。
「一気に言うなって。ハサミは窓側の机の上。文字は……ちょい右上かな」
「やっぱそう?朝比奈に見てもらって正解だった」
「朝比奈いると早いわ」
言いながら、クラスの女子が看板を持ち上げる。
陽斗も輪っか飾りを机に置いて、俺にマジックを渡してきた。
「ほら、最後だけ直して」
「自分でやれよ」
「お前の方がきれいだから」
「しょうがないな」
文句を言いつつ受け取ると、向こうから「お願いしまーす」と気の抜けた返事が来る。
理玖は教室の中までは入らず、扉のすぐそばに立ったまま周囲を見ていた。
どう見ても警戒しすぎだろと思うのに、その視線があるだけで少し安心してしまうから、変な話だ。
俺は看板の文字を少しだけ書き直し、ずれたテープを貼り直して、黒板の横の飾りも直した。
本当にちょっとしたことばかりだ。
でも、それだけでみんなの顔がぱっと明るくなる。
「うわ、見やす」
「やっぱ朝比奈だわ」
「いてくれてよかったー」
その一言が、胸の奥にすとんと落ちた。
いてくれてよかった。
さっきまで怪異に引っぱられていたのに、そんなことが急に遠くなる。
今ここにあるのは、明日の文化祭がちゃんと楽しみで、最後まで少しでもいい形にしたいっていう、いつもの教室の空気だ。
「はい、これでいいだろ」
マジックを返すと、陽斗が受け取りながら笑った。
「助かる。ほんと、お前いないと締まんないんだよな」
「大げさ」
「大げさじゃないって。文化祭前日って、朝比奈が一番朝比奈してるし」
「何その意味分からない日本語」
「でも分かるだろ」
分かる気がしてしまって、俺は小さく笑った。
ちょうどその時、廊下の向こうから誰かに呼ばれる声がした。
たぶん隣のクラスだ。陽斗が「やば」と顔を上げる。
「三年の看板、体育館に先に運べってさ。悪い、ちょっと行ってくる」
「俺も行くー」
「朝比奈、戸締まりだけ頼める?」
「いいよ」
「助かる!」
また軽くそう言って、クラスメイトたちは看板や飾りを抱え、ばたばたと廊下へ出ていった。
最後に陽斗が扉のところで振り返る。
「湊、すぐ戻るから、勝手に帰るなよ」
「帰らないよ」
「だよな。お前はそういうやつ」
笑い声と足音が遠ざかっていく。
教室の中に残ったのは、俺と理玖だけだった。
急に静かになると、さっきまでのにぎやかさが嘘みたいだった。
窓の外はもう真っ暗で、教室の明かりだけが床を白く照らしている。
「……なんか、落差すごいな」
俺がそう言うと、理玖はまだ扉の近くから動かないまま答えた。
「先輩、終わったなら出ます」
「待って。戸締まりする」
「俺がします」
「俺の教室なんだけど」
「知ってます」
知ってるなら任せろよ、と言いかけて、理玖の真面目な顔を見てやめた。
たぶん本気で、俺を一秒でも一人にしたくないんだろう。
その時だった。
誰もいないはずの廊下から、さっきの続きみたいな笑い声が聞こえた。
「あれ、もう戻ってきた?」
反射的に扉の方を見る。
でも、廊下には誰の姿もない。
代わりに、教室の後ろの方で椅子がひとつ、ぎ、と鳴った。
振り返る。
机を後ろに寄せたはずの空間に、いつの間にか何人か立っていた。
陽斗がいる。
さっき看板を持って出ていったはずの女子もいる。
窓際にいた男子も、黒板の前にいたやつも、みんな普通の顔でこっちを見ていた。
「朝比奈、それも見て」
「ここの飾り、まだ足りないかも」
「悪い、こっちも手伝って」
声はいつも通りだった。
明るくて、気楽で、俺が今日何度も聞いた声だ。
でも、変だった。
さっきまで教室にいた人数より、少し多い。
出ていったはずのやつと、今ここにいるやつの区別がつかない。
しかも、みんな同時に俺を見ている。
理玖が何か言った気がした。
けれど、うまく耳に入ってこない。
「朝比奈、助かる」
一人が言う。
すぐ次に、別の声が重なる。
「ほんと、お前いてくれてよかった」
また別の声。
「朝比奈がいると安心する」
「助かった」
「いてくれてよかった」
「まだ帰らなくていいよな」
言葉が、やわらかく重なっていく。
耳に心地いい。
じんわりと、胸の真ん中があたたかくなる。
さっきまで自分でも分かるくらい疲れていたのに、その声を聞いていると、全部報われる気がした。
今日一日、走り回って、何度も名前を呼ばれて、細かいことを片づけてきたのは、この一言のためだったのかもしれないと思うくらいに。
教室の中は明るい。
黒板の文字も、窓の飾りも、自分の机の場所も、全部ちゃんとそこにある。
この場所なら、まだ終わらない気がした。
文化祭前夜のまま。
みんなに呼ばれるまま。
必要とされるまま。
「朝比奈」
陽斗が笑う。
「まだ帰るなよ」
その笑い方が、あまりにも自然で。
俺は思わず、一歩だけ前に出た。
「先輩!」
理玖の声。
でも、止まらなかった。
「これ、見て」
「朝比奈、これも頼む」
「やっぱりお前がいないとだめだわ」
そんなの、気持ちいいに決まってる。
だって、学校にいる時だけだ。
こうやって、ちゃんといていい理由を、言葉にしてもらえるから。
足が、もう一歩前に出る。
その瞬間、肩にぐっと重みがかかった。
「っ」
右肩を引かれて、身体ごと横に寄せられる。
ぶつかるみたいに理玖の胸元へ引き戻されて、視界が大きく揺れた。
理玖の腕だった。
肩を抱くみたいに回された腕が、そのまま俺を教室の外へ向けて押し出す。
耳のすぐ近くで、低い声が落ちた。
「先輩、そっちじゃない」
はっと息をのむ。
近い。
近すぎる。
肩越しに感じる腕の力も、制服越しの体温も、全部がやけに現実で、それだけでさっきまでの甘い声が少し遠のいた。
「でも、今――」
「見なくていいです」
短く言って、理玖は俺の肩を抱いたまま半歩下がる。
俺を教室の外へ出すように、逃がさないように。
「助かるとか、いてくれてよかったとか、明日いくらでも言われます」
声は低いのに、妙にはっきりしていた。
「だから、今のに立ち止まらないで」
その一言で、何かが切れた。
教室の中をもう一度見る。
さっきまで立っていたはずのクラスメイトたちが消えている。
後ろに寄せた机と、放り出されたマジックと、半端に残った紙花しかない。
明るかったはずの教室も、よく見れば少し暗い。
蛍光灯が一本切れかけて、細く点滅しているだけだった。
遅れて、ぞわっと鳥肌が立つ。
「……うそだろ」
声がかすれる。
理玖はまだ肩を抱いたままだった。
離れていないことに気づいて、今さら別の意味で心臓が騒ぐ。
「先輩」
「……ごめん」
「謝らなくていいです」
「いや、でも」
「また、止まっただけです」
言いながら、理玖は教室の中ではなく、俺の顔を見た。
まっすぐすぎる視線に、うまく目を合わせられない。
肩に回った腕が少し強い。
逃がさないようにしていた名残なんだろうけど、そのせいで俺は理玖の体温を嫌でも意識してしまう。
近い。
本当に近い。
「霧島、もう大丈夫」
そう言うと、理玖は一拍遅れてから腕を離した。
でも完全に距離を取るわけじゃなく、今度は肩に手を置いたまま、低く聞く。
「ちゃんと戻ってきましたか」
戻ってきた、って言い方に、また胸が変に鳴る。
「……たぶん」
「たぶんは禁止です」
「厳しいな」
「厳しくしないと、先輩すぐ行くので」
真顔で言われて、反論できない。
俺は空になった教室を見た。
ほんの数分前まで、ここには本当にクラスメイトがいた。
その名残もちゃんとある。
だから余計に、さっきの幻は気持ち悪いはずなのに。
一番先に出てきた感情は、怖いより先に、恥ずかしい、だった。
「……今の、だいぶ最悪じゃない?」
理玖が少し首をかしげる。
「何がですか?」
「いや、空腹に釣られるのもどうかと思ったけど、今のもっとだめだろ。褒められて気持ちよくなってたってことじゃん」
言いながら、自分で言っててへこむ。
でも、理玖は笑わなかった。
「だめじゃないです」
「いや、だめだろ」
「先輩が、そう言われるだけのことをしてきたってことです」
思ってもいなかった返事に、俺は口をつぐむ。
理玖はいつもの落ち着いた顔のまま続けた。
「利用されたのが嫌なだけで、言葉そのものまで嘘じゃないです」
「……」
「みんな、助かってるのは本当だと思います」
その言い方が、慰めというより、ただ事実を言っているみたいで。
変に優しくされるより、ずっと胸にきた。
「先輩が、必要とされたいこと、笑いません」
低い声で、そう言われる。
喉の奥が、少しだけ詰まる。
教室のドアの窓には、俺と理玖が並んで映っていた。
肩に置かれた手が、そのまま視界の端に入る。
「……学校だとさ」
気づいたら、ぽつりとこぼしていた。
「こうやって返ってくるんだよ。助かったとか、ありがとうとか。ちゃんと見てもらえてる感じ、するから」
言ってから、しゃべりすぎたと思う。
でも理玖は遮らなかった。
「家だと、そうじゃないんですか?」
問い方が、妙に静かだった。
「そういうわけじゃないけど……まあ、家は家で、やることあるし」
洗濯物とか、弟のこととか、細かい用事とか。
いちいち口にするほど重い話じゃない。
でも、言われなくてもやる前提のことが多すぎると、たまに自分が何役なのか分からなくなる。
「学校だと、俺がいてもいいって分かりやすいんだよ」
自分で言って、自分で少しだけ情けなくなる。
そんな顔をしたのか、理玖の指先が肩の上でほんの少しだけ動いた。
「分かりやすくなくても、先輩はいてほしいです」
息が止まりかけた。
顔を上げると、理玖はごく普通の顔で俺を見ている。
たぶん本人は、今のがどれだけ反則っぽいか分かっていない。
「……霧島、それ」
「はい」
「そういうの、さらっと言うなよ」
「変なこと言いましたか」
「言った」
「でも、本当です」
間を空けずに返されて、言葉が続かなくなる。
さっきまで肩を抱かれていたせいか、そこだけまだ熱い。
しかも今の台詞のせいで、別の熱まで足された気がした。
教室の蛍光灯が、じ、と小さく鳴る。
それでようやく我に返った。
「とりあえず、鍵かけよう」
「はい」
今度は理玖が戸締まりをして、俺はその横で見ていた。
俺の教室なのに、結局ほとんど理玖にやらせている。
廊下に出ると、教室の中の空気が少しだけ背中にまとわりついた気がした。
でも、理玖がすぐ隣にいるだけで、さっきより足元はしっかりしている。
「先輩」
「ん?」
「気をつけてくださいよ。匂いとか、声とか……」
「……気をつける」
「絶対ですよ」
そんなやり取りをしながら、俺たちは廊下を歩き出した。
三年の教室が並ぶ階は、さっきまでのにぎやかさが引いたあとみたいに静かだった。
扉の小窓の向こうに、途中までの飾りや、積まれた段ボールや、書きかけの黒板が見える。
どの教室も、明日の朝を待っている。
その静けさの中で、ふいに。
わっ、と遠くから拍手が湧いた。
反射的に足が止まる。
体育館の方角だった。
最初は文化祭準備の音かと思った。でも違う。
何十人ぶんもの手が、ぴたりと揃って同じタイミングで鳴っている。
一度。
二度。
それから、誰かを迎えるみたいに、規則正しく続く。
理玖の表情がすっと変わった。
「……今度は、そっちですか」
「え」
聞き返した瞬間、天井のスピーカーが、ぶつりと鳴る。
『――まもなく、拍手でお迎えいたします』
ひやりとした声が、人気のない廊下いっぱいに広がった。
『今夜の主役はこの人しかいません!文化祭前夜を引っ張ってくれてる、朝比奈湊さんです!』
理玖の手が、俺の手首を掴む前に、俺は体育館に向かって走っていた。



