放課後、三番線ホームにご注意ください

『――次は、家庭科室前。お出口は右側です。お忘れ物のないよう、ご注意ください』

放送が切れたあともしばらく、俺は天井のスピーカーを見上げたまま動けなかった。

「……お出口って、どこ?」

乾いた声でそう言うと、理玖が機材の電源を確認しながら短く息を吐いた。

「分からないから、行かないほうがいいです」

「いや、そもそも行く気は」

言いかけて、止まる。
さっきだって、行く気なんかないと思っていたのに、気づいたら廊下に出ていた。

理玖は卓の上の台本をまとめ、ペンをポケットに差し込んだ。

「先輩、ここ出ます」

「え、今?」

「スピーカーの近く、あまりよくないので」

「よくない、で済ませるんだ」

「今はそれで」

俺が頷くと、理玖は放送室の扉を開ける前にこっちを見る。

「先に言っておきます。呼ばれても返事しないでください。開いてる扉があっても、中を見に行かないでください」

「……了解」

「あと、俺から離れないで」

最後だけ、少しだけ低く聞こえた。

俺が曖昧に頷くと、理玖はもう一度だけ念を押した。

「俺から離れないでくださいね?」

「分かったって」

それでようやく、理玖は扉を開けた。

廊下は、さっきより静かだった。
特別棟の蛍光灯は半分ほど落ちていて、白い床がやけに広く見える。
壁に立てかけられた展示パネルの影が長い。

理玖は俺の半歩前を歩きながら、何度も振り返った。
確認されるたび、なんとなく俺もついていく足が速くなる。

「霧島」

「はい」

「お前さ、こういうの……前にもあったの?」

理玖は少しだけ黙った。
でも、歩く速さは落とさない。

「あります」

「やっぱり」

「ただ、毎回同じじゃないです」

「それ、一番怖い情報なんだけど」

「すみません」

謝ってるのに声色がいつも通りすぎて、逆に少しだけ落ち着く。

「さっきの家庭科室前って、何なんだろうな」

「先輩が、つい行ってしまいそうな場所なんだと思います」

言われて、首をかしげる。
家庭科室なんて、普段はそんなに用がある場所じゃない。
そう思ったところで、理玖がふいに振り返った。

「先輩、夕飯まだですよね」

図星で、思わず足が止まりかける。

「……何で分かったの?」

「今日の先輩、ずっと何か運んでたので」

実際、まだ何も食べていなかった。
昼休みも途中で呼ばれて、パンを半分かじっただけだ。終わったらコンビニで何か買えばいいか、くらいに考えていた。

理玖はポケットを探って、小さな包みをひとつ差し出してきた。
四角い個包装のビスケットだった。

「これ、食べますか」

「え、くれるの?」

「今日は遅くまで残ると思っていたので、持ってただけです」

「ありがと。助かる」

「ちゃんと噛んでください」

「子どもじゃないんだけど……」

「今の先輩、ちょっと危ないので」

その言い方が、冗談に聞こえなかった。

包みを開けて口に入れると、甘さより先に乾いた感じが広がった。
でも、それだけで少しだけ現実に戻る。
こういう普通の味は、さっきまでの変な放送と違って、ちゃんとここにある感じがした。

特別棟を抜けて本校舎へつながる渡り廊下が見えてきた時だった。

じわ、と鼻の奥に、だしの匂いが入りこんできた。

足が止まる。

味噌汁の湯気みたいな匂い。
炊きたての米と、醤油の焦げる匂い。
それに、出汁巻き卵みたいな甘い香りまで混じっている。

あまりにちゃんとした夕飯の匂いで、一瞬、ここが学校だということを忘れそうになった。

「……うそだろ」

腹の奥がきゅっと鳴る。

理玖が、すぐ横で顔をしかめた。

「来た」

答えを聞く前に分かった。

匂いは、渡り廊下の先じゃない。
右手の角を曲がった先、家庭科室のある廊下から流れてきていた。

そこだけ、灯りの色が違って見えた。
蛍光灯の白さじゃない。もっとやわらかくて、温かい色。
夕方の家の台所みたいな、オレンジに近い光だった。

聞こえてくる音まである。
鍋の蓋が軽く鳴る音。お玉が器に当たる音。誰かが笑いながら小さく話す声。

「先輩、行かなくていいです」

理玖の声が、少しだけ硬い。

でも、俺の足はもう、そっちを見ていた。

「いや、でも……誰かいるなら」

「いません」

「でも灯りついてる」

「ついて見えてるだけです」

言い切られても、実際に見えているものを無視するのは難しかった。

しかも匂いがずるい。
今日はもう帰ったら遅いし、母さんはたぶん俺の分のご飯を用意していない。
弟は先に食べてるって連絡が来ていた。
家に帰れば、洗濯物と、洗われていない食器が待っているだろう。

ただ、今この廊下の先から漂ってくる匂いは、そういう「いつものこと」を全部ふわっと遠ざけた。

こっちに来れば、座っていいと言われる気がした。
お疲れ、と言われて、温かいものを食べさせてもらえる気がした。
それも、学校で。

帰らなくていいまま、まだここにいられるみたいに。

「朝比奈くん」

不意に、誰かが俺を呼んだ。

理玖じゃない声だった。
たぶん女の先生の声。でも、誰の声だったかはすぐには思い出せない。
それなのに、懐かしいみたいに耳に馴染む。

「ちょうどよかった。まだ残ってる子の分、作ってあるの」

もう一人、今度は同級生みたいな声が続く。

「湊、食べていきなよ。今日ずっと走ってたじゃん」

「まだ仕事あるんでしょ。ここで食べて、また戻ればいいよ」

「今日は帰らなくていいから」

最後の一言だけ、やけに近く聞こえた。

角を曲がる。
家庭科室の前の廊下だけ、なぜか明るかった。
扉の細いガラスの向こうに、長机がいくつか並んでいるのが見える。
湯気の立つ鍋。白い茶碗。人数分に盛られたおかず。
エプロン姿の誰かの背中が動いて、そのたびにやさしい橙色の光が揺れた。

「先輩!」

理玖が後ろから呼ぶ。
でも、うまく届かなかった。

家庭科室の扉の横に、紙が貼ってあるのが見える。
マジックで書いたみたいな丸い字で、

『遅くまで残る人へ 夕飯どうぞ』

とあった。

そんなもの、今日ここに貼ってあった記憶なんてない。
それでも、あればいいのにと、一瞬思ってしまった。

家じゃなくて、学校で。
「助かった」って言われたあとに、そのまま「食べていきなよ」って言われる。
まだ必要とされてるまま、ここにいられる。

家庭科室の戸に手をかけようとした、その瞬間。

制服の袖口が、後ろにきゅっと引かれた。

「っ」

大きく引かれたわけじゃない。
でも、迷いかけていた足を止めるには、それで十分だった。

振り向くと、理玖がすぐ後ろにいた。
俺のブレザーの袖を掴んだまま、まっすぐこっちを見ている。

「入らないでください」

低い声だった。
怒っているわけじゃない。
ただ、必死だった。

「でも、あれ……」

「見なくていいです」

「匂いする」

「しません」

「誰かいる」

「いません」

短い返事が続く。
そのたびに、理玖の指先が袖を離さない。

家庭科室の中から、また声がする。

「朝比奈くん、座って」

「温かいうちに」

「大丈夫、まだ終わらないから」

その「まだ終わらない」が、あまりにもやさしくて、危なかった。
もう少しで、うなずきそうになる。

そのとき、理玖が一歩だけ近づいた。

袖を掴んだままの手に、少し力が入る。
もう片方の手が、俺と扉の間にそっと入った。

「先輩。こっち見てください」

反射みたいに、理玖のほうを見る。

暗い廊下の中で、理玖の顔だけがやけにくっきり見えた。
落ち着いた目。固く結ばれた口元。たぶん俺を引き止めるために、かなり無理やり平静を保っている。

その顔を見た瞬間、家庭科室の中の灯りが、少し遠くなった気がした。

「夕飯なら、あとで何か探します。だから今は、入らないで」

「……でも」

「それ、先輩に都合のいいことしか言わないです」

胸の奥が、どくんと鳴った。

たしかに、そうだった。
あの声たちは、一言も俺を困らせることを言わない。
ただ、座っていい、食べていい、帰らなくていいとだけ言う。

甘い。
甘すぎる。

理玖は袖を掴んだまま、少しだけ声を落とした。

「俺の声、聞いてください」

それは命令みたいでも、お願いみたいでもあった。

「こっちに戻ってきてください」

その言い方が、びっくりするくらい真っ直ぐで。
しかも、さっきの変な放送よりずっと現実で、ずっと近かった。

戻ってきて。

言われた途端、自分が少しだけ遠くまで行きかけていたことに気づく。
家庭科室の匂いに頭の中があたためられて、ふわふわしていた感覚が、理玖の声で一気に冷めていく。

俺は一度、ゆっくり息を吸った。

味噌汁の匂いの向こうから、今度は「おかえり」みたいな声まで聞こえた。
でも、もうさっきほど甘く聞こえない。
ただ、何かが俺のほしい言葉を並べているだけだと、少しだけ分かった。

「……霧島」

名前を呼ぶと、理玖のまつげがわずかに動く。

「はい」

「俺、ちょっと……」

「大丈夫です」

言葉になる前に、理玖が先に返した。

「引っ張られただけです。先輩が悪いわけじゃない」

その一言で、肩の力が抜けた。

理玖は俺が完全に戸口から離れたのを確かめてから、やっと袖を掴んでいた手を少しゆるめた。
それでも、すぐには放さなかった。

家庭科室の灯りが消えている。
さっきまであんなに温かかったガラスの向こうは、いつもの暗い調理台と流し台に戻っていた。
鍋も、茶碗も、人影もない。

匂いだけが、少し遅れて消える。

ぞくっとした。

「……助かった」

小さく言うと、理玖は俺の顔を見た。
その目が、ほんの少しだけやわらぐ。

「今日、二回目です」

「なんか霧島の方が、先輩みたいだな」

「先輩が後輩みたいだからです」

何その返し、と思って笑いかけた瞬間、腹が鳴った。

最悪だ。

俺が固まると、理玖も一拍置いてから視線を落とした。

「……まだありますよ」

「今のは忘れて」

「無理です」

理玖はそう言って、さっきのより少し大きい包みを差し出してきた。
チョコバーだった。

「こっちは本物です」

その言い方がおかしくて、俺は吹き出した。

受け取ると、指先が少しだけ触れた。
たったそれだけなのに、さっき掴まれていた袖の感覚がまた蘇る。

包みを開けながら、俺はなんとなく理玖を見た。
理玖は家庭科室のほうを警戒していて、こっちを見ていない。
その横顔は相変わらず落ち着いているのに、近くで見るとほんの少しだけ呼吸が速かった。

「あのさ」

「はい」

「もしかして、お前焦ってた?」

聞いた瞬間、理玖の肩がほんのわずかに止まった。

「……少し」

「少し、ねえ」

「かなり、です」

予想外に素直で、今度は俺のほうが言葉に詰まる。

理玖は視線を外したまま続けた。

「先輩、すぐ行くので」

「それは、悪かった」

「悪いというか……」

そこで一度言葉が切れる。
理玖は何かを飲み込むみたいに黙って、それから低く言った。

「目を離すといなくなりそうで、怖いです」

どくん、と胸が鳴った。

俺が返事を探しているうちに、理玖はいつもの顔に戻ってしまった。

「行きましょう。ここ、長くいたくないです」

「……うん」

家庭科室から離れるために歩き出しても、しばらくは足元が変だった。
チョコバーの甘さはちゃんと現実なのに、耳の奥にはまだ「帰らなくていい」が残っている。
けれど、それよりもはっきり残っているものがあった。

俺の袖を掴んだ手の感触と、
「俺の声、聞いてください」と言った時の、理玖の低い声だ。

おかしい。
さっきまであんなに家庭科室の灯りが魅力的だったのに、今は理玖の声のほうがずっと思い出しやすい。

しかも思い出すと、少しだけ落ち着く。

渡り廊下に出ると、ガラスの向こうの空はもうほとんど夜だった。
校庭は暗く、外灯の下に白いテントの骨組みだけがぼんやり浮いている。

理玖が歩きながら言う。

「先輩、今夜は空腹とか、疲れとか、そういうのがあると引っ張られやすいかもしれません」

「それって、今の俺にとって、最悪のコンディションじゃん」

「知ってます」

「そこは励ましてほしい」

「励ましてます」

「どこが」

「だから、一緒にいるじゃないですか」

さらっと言われて、また言葉に困る。

「……霧島、そういう言い方……。勘違いされるぞ?」

「何をですか?」

「別に」

渡り廊下の真ん中あたりまで来たとき、ふいに理玖が立ち止まった。

「どうした」

返事はない。
その代わり、理玖は振り返って、視線を俺たちの後ろに向けていた。