文化祭当日の朝は、寝ていないくせに妙に空が明るかった。
放送室の小窓から差す白い光が、ミキサー卓の端を細く照らしている。
俺と理玖は、ほとんど喋れなかった。
喋れない理由が、夜通し怪異に振り回されたせいだけじゃないのは、お互い分かっていたと思う。
告白された。
返事をした。
ついでに、自分からキスまでした。
思い返しただけで、今さら耳が熱くなる。
「……先輩」
先に口を開いたのは理玖だった。
相変わらず、声は落ち着いている。
「これ、食べてください」
差し出されたのは、個包装されたビスケットだった。
俺は思わず笑う。
「また?」
「またです」
真顔で言われて、結局受け取る。
指先が少し触れて、それだけでまた心臓が変に鳴った。
その時、廊下の向こうから先生の声が飛んできた。
「霧島ー、最終確認いいかー!」
「はい、行きます」
理玖はいつもの顔に戻っていて、でも立ち去る前に一度だけ、俺の方を見た。
「先輩、開会式までに食べてください」
「命令?」
「お願いです」
最後だけ少し低くて、余計に逆らえない。
俺は個包装されたビスケットを持ったまま、小さく頷いた。
文化祭当日の学校は、前夜とは違う意味でうるさかった。
開場前から廊下には走る足音があって、装飾の最終確認をする声があって、スピーカーからは普通の校内放送が流れている。
『まもなく開会式を行います。体育館へ移動してください』
低くて、落ち着いた声。
昨日までなら、スピーカーが鳴るだけで少し身構えていたかもしれない。
でも今は、ただその声に耳がいく。
怖くない。
むしろ、少し落ち着く。
だって、声の主を知っている。
「朝比奈!体育館袖の備品確認まだ!」
「今行く!」
返事をしながら走り出すと、隣を通った陽斗がじろっとこっちを見た。
「お前、寝てない顔してんのに、なんか妙に機嫌よくない?」
「そう?」
「そう。文化祭テンションだけじゃない感じ」
「気のせいだろ」
「ふーん」
絶対納得していない顔だったけど、陽斗はそれ以上は言わなかった。
開会式が始まれば、もう考えている暇なんてなかった。
実行委員の仕事は相変わらず雑務だらけで、案内板を直し、落ちた飾りを貼り直し、模擬店の列を整え、先生に呼ばれ、生徒に呼ばれ、また走る。
それでも昨夜までと違うのは、呼ばれる声がいくつもある中で、いちばん先に耳が拾う声があったことだった。
「先輩」
昼前、体育館裏の通路でそう呼ばれて振り向く。
理玖が立っていた。
「三分ください」
「何」
「水分と糖分です」
そう言って押しつけられたのは、紙コップのジュースと、クラスの模擬店で売っていたらしい小さなワッフルだった。
「……俺の世話焼くの好きだな」
「倒れられると困るので」
「それ、便利な言葉だな」
俺は紙コップを受け取る。
体育館の向こうでは拍手が上がっていて、校庭からは客のざわめきが流れてくる。
祭の真ん中だ。
でも、理玖の前だけ少し静かだった。
「お前もちゃんと食べてる?」
「食べてます」
「嘘っぽい」
理玖はワッフルの袋を開ける俺の手元を見て、それから小さく息をついた。
「ちゃんと食べると、安心します」
その言い方があまりにも自然で、俺はワッフルを口に入れたまま止まる。
こういうことを、こいつは大したことじゃない顔で言う。
たぶん本人に自覚はない。
「……あのさ」
「はい」
「お前、昨日から俺の心配し過ぎじゃない?」
理玖が少しだけ首をかしげる。
「心当たりが多すぎて分かりません」
「それ言うんだ」
「でも、先輩がちゃんと食べたので、今はいいです」
そこでようやく、ほんの少しだけ口元がやわらいだ。
ほんの一瞬だけ年相応に見えるその顔に、俺の方が何も言えなくなる。
「朝比奈ー!」
また呼ばれた。
今度はクラスの方角だ。
「行く!」
返事をして走り出しかけたところで、理玖が後ろから低く呼ぶ。
「先輩」
振り向くと、理玖は紙コップを持ったまま、静かに言った。
「終わったら、ちゃんと俺の方にも戻ってきてください」
その一言だけで、胸の奥がじわっと熱くなる。
「……分かった」
それだけ返して、俺は廊下を走った。
文化祭は、始まってしまえば本当にあっという間だった。
忙しさは最後まで途切れなくて、気づけばステージ発表も模擬店の終了時間も過ぎて、校舎のあちこちで片づけの音がしはじめていた。
夕方の教室で、最後のゴミ袋を結んだところで、ようやく俺は大きく息を吐いた。
「終わったなあ……」
誰に言うでもなくこぼすと、教室の後ろで段ボールを持ち上げていた陽斗が笑った。
「お疲れ、便利屋実行委員」
「だから便利屋じゃないって」
「今日も十分便利屋だったろ。あちこちで名前呼ばれてたし」
言い返そうとして、やめる。
たしかにそうだった。
そして、その呼ばれる感じが好きだったのも本当だ。
窓の外は、昨日とは違う夜の色をしていた。
もう準備のざわつきじゃない。
文化祭がひとつ終わったあとの、少しだけ力の抜けた静けさだ。
その静けさを見た瞬間、胸の奥が少しだけ空く。
――終わった。
そう思ったところで、教室の前から低い声がした。
「朝比奈先輩」
振り向くと、理玖が扉のところに立っていた。
手にはまたペットボトルを持っている。
陽斗がそれを見て、いかにもおかしそうな顔をする。
「お?珍しいな」
陽斗は肩をすくめて、段ボールを抱え直した。
「まあ何でもいいけど、朝比奈はこれ以上使うと壊れそうだし。少し休みに行け」
言うだけ言って、教室の外へ出ていく。
すれ違いざまに俺の肩を軽く叩いて、何も聞かないまま去っていくところが、陽斗らしかった。
教室に俺と理玖だけが残る。
「……お前も休憩か?」
「はい」
笑いながらペットボトルを受け取る。
冷えた水が喉に落ちて、ようやく一日が終わった実感がきた。
理玖は教室の中を見回して、それから静かに言った。
「お疲れさまです」
たったそれだけだった。
なのに、今日いろんなところで聞いた「助かった」より、ずっと近くに落ちた。
「……お前もな」
返してから、しばらく黙る。
なんとなく、ここで流してしまうのは違う気がした。
「なあ」
「はい」
「確認なんだけど」
理玖が俺を見る。
落ち着いた顔だ。
でも、その目だけ少しだけ真剣で、逃がさない。
俺はペットボトルを持ったまま、どうにか言葉を選んだ。
「昨日のあれと、今朝のあれと、さっきのいろいろで、もうだいたい分かってるけど」
「あれが多いです」
「うるさい」
軽く睨むと、理玖はちゃんと黙る。
そういうところだけ素直だ。
「……俺ら、付き合ってるってことでいいの?」
言った瞬間、自分で顔が熱くなる。
こんな確認のしかたあるか、と思うのに、理玖は一秒も笑わなかった。
「先輩が嫌じゃないなら」
短い返事だった。
「嫌じゃないですか?」
逆に問われて、息が止まりかける。
でも、ここでごまかす方がもっとだめな気がした。
「……嫌じゃない」
理玖のまつげが、わずかに動く。
「じゃあ、そうです」
それだけなのに、変に胸が鳴る。
「簡単だな」
「簡単じゃないです。かなり嬉しいです」
またそういうことを、普通の顔で言う。
もう慣れた気もしていたのに、全然慣れていなかった。
「先輩」
「ん?」
「帰ったら、連絡ください」
「そこは付き合いたてっぽいな」
「付き合いたてなので」
思わず笑う。
理玖は笑わないくせに、言ってることはたまに妙にまっすぐで、ずるい。
その夜、家に帰ってからも、やることはいつも通りあった。
洗濯物をたたんで、流しにたまっていた皿を洗って、翔に「文化祭どうだった?」と聞かれて、「疲れたけど楽しかった」と返す。
母さんは「助かった」と言って、俺の分の茶碗をよそってくれた。
別に、家が急に優しくなったわけじゃない。
でも、文化祭の前夜に感じていたような息苦しさが、その夜は少しだけ薄かった。
食器を片づけたところで、スマホが震える。
『帰れましたか』
理玖からだった。
たったそれだけの短い文なのに、胸の奥が妙にあたたかくなる。
学校の外でも、自分を気にしてくれる声がある。
そのことが、思っていたよりずっと大きかった。
『帰れた。お前は?』
返すと、少ししてまた震える。
『帰れました。ちゃんと食べましたか』
思わず笑ってしまう。
『食べた』
『よかったです』
本当に、それだけだった。
それだけなのに、学校だけが自分の居場所だと思っていた感覚が、少しだけ薄れた。
文化祭の次の週、放課後は拍子抜けするほど静かだった。
実行委員の仕事がなくなると、教室を出る理由も、帰る理由も、急に同じくらいになる。
昇降口の前で少し立ち止まったところで、スマホが震えた。
『放送室います。帰る前に寄れますか』
短い文だった。
それだけなのに、足が勝手に特別棟へ向く。
放送室の扉を開けると、理玖が自販機のホットミルクティーを二本、机の上に並べていた。
「……別に用ないだろ」
「あります」
「何」
理玖は一本を俺に差し出す。
「二本買ったので」
「俺が来る前提じゃん」
「来ると思ったので」
あまりに当然みたいに言うから、言い返せなくなる。
缶を受け取ると、手のひらがじんわり温かかった。
「呼ばれなくなった放課後、変じゃないですか」
理玖がぽつりと言う。
「……まあ、ちょっと」
「俺は、先輩がいた方が普通です」
その一言が、驚くほどするっと胸に入った。
誰にも呼ばれない放課後に、理玖だけは当たり前みたいに俺を呼ぶ。
気づけば学校の静けさは、終わりの気配じゃなくて、理玖と会う時間になっていた。
それから、理玖はほんとうに当たり前みたいに俺を呼ぶようになった。
放送室にいる時。
図書室で勉強している時。
下校時間がたまたま合った時。
理由はいつも大したことがない。
『駅まで一緒でいいですか』
『今日は寒いので、先輩たぶん手が冷えてます』
『喉、大丈夫ですか』
そんなの、自分で何とかできることばかりだ。
でも、そうやって呼ばれるたび、俺は結局そっちへ行った。
冬になるころには、それがもうかなり普通になっていた。
二月の中頃、昇降口前の廊下で呼ばれて振り向く。
理玖が立っていて、手には温かい缶ココアが二本あった。
「おめでとうございます」
そう言って、片方の缶を差し出してくる。
「ありがと」
受け取ると、指先までじんわり温かかった。
「……何が?」
分かってるくせに聞くと、理玖は俺の手元の封筒を見る。
大学の合格通知だった。
「第一志望、合格したんですね」
「まあね」
「東京の大学に行ったからって、フラフラ浮気しないでくださいね」
唐突すぎて、危うくココアを落としかける。
「しないわ!」
「先輩、声をかけられると調子に乗って、いろいろな人のこと助けちゃうから。助けているうちに……なんてことにならないでくださいよ」
「何それ。だいぶ言いがかりだろ」
「心配です」
即答だった。
俺は呆れて笑いながら、缶を持ち直す。
「嫉妬?」
理玖は少しも否定しなかった。
「俺、独占欲強いんで」
やっぱり真顔だった。
でも前より少しだけ、その真顔の意味が分かる。
「知ってる」
そう返すと、理玖の耳がほんの少しだけ赤くなる。
それを見つけた瞬間、なんだか妙に得した気分になった。
「先輩」
「ん?」
「マフラー、ずれてます」
言いながら、理玖が俺の首元に手を伸ばす。
自分で直せるくらいのずれだ。
なのに、その指先が近づくだけで変に息が詰まる。
整え終わったあと、理玖は何でもなかったみたいに手を下ろした。
「これで大丈夫です」
「……ありがと」
「どういたしまして」
そういう小さい世話焼きに、俺はもうかなり弱くなっていた。
卒業式の日、校内放送はちゃんとした案内だけを流した。
『卒業生は体育館へ移動してください』
低くて、落ち着いた声。
何度も聞いてきたはずなのに、今日は少しだけ特別に聞こえる。
去年なら、ただの後輩の声だった。
文化祭前夜には、怪異と混ざってぞくっとした。
でも今は違う。
俺はネクタイを直しながら、その声に少しだけ肩の力を抜いた。
体育館へ向かう廊下に、手書きの案内板が並んでいる。
白地に黒い駅の表示なんて、どこにもない。
それでも、あの夜のことはちゃんと覚えていた。
覚えているけど、もう引っぱられない。
体育館の拍手も、今日はちゃんと本物だった。
卒業証書を受け取って、壇上から降りる。
視界の端に映るのは、クラスメイトの顔と、先生の顔と、保護者席のざわめきだ。
あの夜みたいに、都合よく作られた笑顔じゃない。
ちゃんとそれぞれの温度があって、ちゃんと終わるために鳴る拍手だった。
式が終われば、校舎はまた急にうるさくなる。
写真を撮って、担任に挨拶して、陽斗に肩を組まれて笑われて、寄せ書きの色紙を押しつけられる。
「朝比奈、大学行っても便利屋やってそう」
「やらない」
「絶対やる」
「やらないって」
言い返しながら笑っていたところで、廊下の向こうに理玖を見つけた。
二年の列から少し外れた場所で、紙袋を持ったまま立っている。
目が合う。
それだけで、俺は自然にそっちへ向かっていた。
「陽斗、ちょっと行ってくる」
「はいはい。いってらっしゃい」
なんとなく知っていますよ、という顔で手を振られる。
でも今日は、もうそれを否定する気にもならなかった。
理玖の前まで行くと、紙袋が差し出される。
「何これ」
「お祝いです。そんなに大したものじゃないですけど」
中を見ると、小さめのマフラーと、喉飴の袋が入っていた。
思わず顔を上げる。
「喉飴?」
「先輩、たくさん喉使うので」
「そんなに使ってる?」
「いつも人に囲まれて、たくさん話しているでしょ」
その返しが、なんだか理玖らしくて笑う。
「ありがと。……嬉しい」
ちゃんと口にすると、理玖の視線が少しだけ揺れた。
こういう時だけ、こいつの方が分かりやすい。
校舎の外へ出ると、三月の風はまだ少し冷たかった。
けれど真冬ほどじゃない。
制服の上から差す陽射しが、思っていたより明るい。
振り返ると、学校の建物が静かに立っている。
ここに残りたいと思った夜は、たしかにあった。
呼ばれ続けるために、必要とされ続けるために、ずっとこのままでいたいと思った夜。
でも今は、学校を離れることが、失うことみたいには見えなかった。
ここにいた時間まで消えるわけじゃない。
それに、また来る理由が、校舎じゃなくて理玖になったのだと思う。
最寄り駅までは、理玖が当たり前みたいに一緒に来た。
卒業生の花束や紙袋を抱えたやつらが、改札のあちこちで友達と騒いでいる。
その中を抜けて、俺たちはホームへ上がる。
ホームに出た瞬間、理玖がぽつりと言った。
「本物の駅ですね」
思わず吹き出す。
「ほんとに今さらだな」
「でも、ちゃんと本物です」
電車のいない昼下がりのホームは明るかった。
風が線路の上を抜けて、発車案内の電子音が短く鳴る。
足元の黄色い線を見る。
ごつごつした点字ブロック。
少し擦れていて、端の方は黒く汚れている。
学校で見た養生テープみたいに、妙にきれいに浮いてはいない。
ただ、そこにあるべき目印として、ちゃんと地面にある。
「……あの日みたいに怖くないな」
気づいたら、そう言っていた。
理玖が隣で同じように黄色い線を見る。
「怪異現象はないですから」
短い返事だった。
でも、それで十分だった。
俺はホームの向こうを見る。
線路はまっすぐ遠くへ伸びていて、その先は見えない。
前みたいに、見えないことがそのまま怖さにはならなかった。
「前はさ」
「はい」
「終わるのが怖くて、どこにも行きたくなかったんだよな」
理玖は何も挟まない。
ただ隣で聞いている。
「文化祭が終わるのも、卒業も、その先も。始まったら終わるし、動いたら離れていく感じがして」
「……はい」
「逃げたかったんだと思う。……でも今は、ちょっと違う」
そこまで言って、俺は笑う。
うまく言える自信はなかったけど、言わないまま乗るのも違う気がした。
「終わりが怖くて乗るんじゃなくて、その先に進むために乗るんだなって、分かる」
理玖がこっちを見る。
目が合う。
ほんの少しだけ、やわらいだ顔になる。
「はい」
その「はい」が、すごく好きだと思った。
ホームの反対側で、別の電車が通り過ぎる。
風が一度強く吹いて、理玖の前髪が少しだけ揺れた。
「……離れるの嫌だな」
今度は理玖が、ぼそっと言った。
小さい声だった。
聞き逃してもいいくらいの大きさだったのに、ちゃんと聞こえる。
俺は笑って、でもすぐまじめに返す。
「俺も」
それは嘘じゃなかった。
学校で毎日会えるわけじゃなくなる。
放課後に当たり前みたいに放送室へ寄ることも、帰りの時間が合えば駅まで一緒に歩くことも、今まで通りではいられない。
それでも、前みたいにそれだけで全部失う気はしなかった。
「先に待ってるから、理玖」
理玖の目が少しだけ見開く。
それから、いつもの落ち着いた声で返した。
「すぐ追いつきますから、湊先輩」
危機の時以外に名前で呼ばれるの、やっぱりずるい。
しかもこのタイミングでくるのは反則だろと思う。
思うのに、嫌じゃない。
むしろ胸の真ん中に、まっすぐ落ちる。
俺は少しだけ視線をそらして、それでも言う。
「……お前を好きになってよかった」
理玖は珍しく、すぐには返さなかった。
数秒置いてから、少しだけ困ったみたいに目を伏せる。
「それ、ホームで言いますか」
「今、言いたくなった」
「ずるいです」
「どっちが」
小さく笑うと、理玖もほんの少しだけ口元をゆるめた。
ホームの先で、電車の接近音がする。
今度はちゃんと本物の音だ。
レールを伝ってくる振動も、アナウンスも、全部が現実の駅のものだった。
『まもなく、三番線ホームに電車がまいります。黄色い線の内側でお待ちください』
放送室の小窓から差す白い光が、ミキサー卓の端を細く照らしている。
俺と理玖は、ほとんど喋れなかった。
喋れない理由が、夜通し怪異に振り回されたせいだけじゃないのは、お互い分かっていたと思う。
告白された。
返事をした。
ついでに、自分からキスまでした。
思い返しただけで、今さら耳が熱くなる。
「……先輩」
先に口を開いたのは理玖だった。
相変わらず、声は落ち着いている。
「これ、食べてください」
差し出されたのは、個包装されたビスケットだった。
俺は思わず笑う。
「また?」
「またです」
真顔で言われて、結局受け取る。
指先が少し触れて、それだけでまた心臓が変に鳴った。
その時、廊下の向こうから先生の声が飛んできた。
「霧島ー、最終確認いいかー!」
「はい、行きます」
理玖はいつもの顔に戻っていて、でも立ち去る前に一度だけ、俺の方を見た。
「先輩、開会式までに食べてください」
「命令?」
「お願いです」
最後だけ少し低くて、余計に逆らえない。
俺は個包装されたビスケットを持ったまま、小さく頷いた。
文化祭当日の学校は、前夜とは違う意味でうるさかった。
開場前から廊下には走る足音があって、装飾の最終確認をする声があって、スピーカーからは普通の校内放送が流れている。
『まもなく開会式を行います。体育館へ移動してください』
低くて、落ち着いた声。
昨日までなら、スピーカーが鳴るだけで少し身構えていたかもしれない。
でも今は、ただその声に耳がいく。
怖くない。
むしろ、少し落ち着く。
だって、声の主を知っている。
「朝比奈!体育館袖の備品確認まだ!」
「今行く!」
返事をしながら走り出すと、隣を通った陽斗がじろっとこっちを見た。
「お前、寝てない顔してんのに、なんか妙に機嫌よくない?」
「そう?」
「そう。文化祭テンションだけじゃない感じ」
「気のせいだろ」
「ふーん」
絶対納得していない顔だったけど、陽斗はそれ以上は言わなかった。
開会式が始まれば、もう考えている暇なんてなかった。
実行委員の仕事は相変わらず雑務だらけで、案内板を直し、落ちた飾りを貼り直し、模擬店の列を整え、先生に呼ばれ、生徒に呼ばれ、また走る。
それでも昨夜までと違うのは、呼ばれる声がいくつもある中で、いちばん先に耳が拾う声があったことだった。
「先輩」
昼前、体育館裏の通路でそう呼ばれて振り向く。
理玖が立っていた。
「三分ください」
「何」
「水分と糖分です」
そう言って押しつけられたのは、紙コップのジュースと、クラスの模擬店で売っていたらしい小さなワッフルだった。
「……俺の世話焼くの好きだな」
「倒れられると困るので」
「それ、便利な言葉だな」
俺は紙コップを受け取る。
体育館の向こうでは拍手が上がっていて、校庭からは客のざわめきが流れてくる。
祭の真ん中だ。
でも、理玖の前だけ少し静かだった。
「お前もちゃんと食べてる?」
「食べてます」
「嘘っぽい」
理玖はワッフルの袋を開ける俺の手元を見て、それから小さく息をついた。
「ちゃんと食べると、安心します」
その言い方があまりにも自然で、俺はワッフルを口に入れたまま止まる。
こういうことを、こいつは大したことじゃない顔で言う。
たぶん本人に自覚はない。
「……あのさ」
「はい」
「お前、昨日から俺の心配し過ぎじゃない?」
理玖が少しだけ首をかしげる。
「心当たりが多すぎて分かりません」
「それ言うんだ」
「でも、先輩がちゃんと食べたので、今はいいです」
そこでようやく、ほんの少しだけ口元がやわらいだ。
ほんの一瞬だけ年相応に見えるその顔に、俺の方が何も言えなくなる。
「朝比奈ー!」
また呼ばれた。
今度はクラスの方角だ。
「行く!」
返事をして走り出しかけたところで、理玖が後ろから低く呼ぶ。
「先輩」
振り向くと、理玖は紙コップを持ったまま、静かに言った。
「終わったら、ちゃんと俺の方にも戻ってきてください」
その一言だけで、胸の奥がじわっと熱くなる。
「……分かった」
それだけ返して、俺は廊下を走った。
文化祭は、始まってしまえば本当にあっという間だった。
忙しさは最後まで途切れなくて、気づけばステージ発表も模擬店の終了時間も過ぎて、校舎のあちこちで片づけの音がしはじめていた。
夕方の教室で、最後のゴミ袋を結んだところで、ようやく俺は大きく息を吐いた。
「終わったなあ……」
誰に言うでもなくこぼすと、教室の後ろで段ボールを持ち上げていた陽斗が笑った。
「お疲れ、便利屋実行委員」
「だから便利屋じゃないって」
「今日も十分便利屋だったろ。あちこちで名前呼ばれてたし」
言い返そうとして、やめる。
たしかにそうだった。
そして、その呼ばれる感じが好きだったのも本当だ。
窓の外は、昨日とは違う夜の色をしていた。
もう準備のざわつきじゃない。
文化祭がひとつ終わったあとの、少しだけ力の抜けた静けさだ。
その静けさを見た瞬間、胸の奥が少しだけ空く。
――終わった。
そう思ったところで、教室の前から低い声がした。
「朝比奈先輩」
振り向くと、理玖が扉のところに立っていた。
手にはまたペットボトルを持っている。
陽斗がそれを見て、いかにもおかしそうな顔をする。
「お?珍しいな」
陽斗は肩をすくめて、段ボールを抱え直した。
「まあ何でもいいけど、朝比奈はこれ以上使うと壊れそうだし。少し休みに行け」
言うだけ言って、教室の外へ出ていく。
すれ違いざまに俺の肩を軽く叩いて、何も聞かないまま去っていくところが、陽斗らしかった。
教室に俺と理玖だけが残る。
「……お前も休憩か?」
「はい」
笑いながらペットボトルを受け取る。
冷えた水が喉に落ちて、ようやく一日が終わった実感がきた。
理玖は教室の中を見回して、それから静かに言った。
「お疲れさまです」
たったそれだけだった。
なのに、今日いろんなところで聞いた「助かった」より、ずっと近くに落ちた。
「……お前もな」
返してから、しばらく黙る。
なんとなく、ここで流してしまうのは違う気がした。
「なあ」
「はい」
「確認なんだけど」
理玖が俺を見る。
落ち着いた顔だ。
でも、その目だけ少しだけ真剣で、逃がさない。
俺はペットボトルを持ったまま、どうにか言葉を選んだ。
「昨日のあれと、今朝のあれと、さっきのいろいろで、もうだいたい分かってるけど」
「あれが多いです」
「うるさい」
軽く睨むと、理玖はちゃんと黙る。
そういうところだけ素直だ。
「……俺ら、付き合ってるってことでいいの?」
言った瞬間、自分で顔が熱くなる。
こんな確認のしかたあるか、と思うのに、理玖は一秒も笑わなかった。
「先輩が嫌じゃないなら」
短い返事だった。
「嫌じゃないですか?」
逆に問われて、息が止まりかける。
でも、ここでごまかす方がもっとだめな気がした。
「……嫌じゃない」
理玖のまつげが、わずかに動く。
「じゃあ、そうです」
それだけなのに、変に胸が鳴る。
「簡単だな」
「簡単じゃないです。かなり嬉しいです」
またそういうことを、普通の顔で言う。
もう慣れた気もしていたのに、全然慣れていなかった。
「先輩」
「ん?」
「帰ったら、連絡ください」
「そこは付き合いたてっぽいな」
「付き合いたてなので」
思わず笑う。
理玖は笑わないくせに、言ってることはたまに妙にまっすぐで、ずるい。
その夜、家に帰ってからも、やることはいつも通りあった。
洗濯物をたたんで、流しにたまっていた皿を洗って、翔に「文化祭どうだった?」と聞かれて、「疲れたけど楽しかった」と返す。
母さんは「助かった」と言って、俺の分の茶碗をよそってくれた。
別に、家が急に優しくなったわけじゃない。
でも、文化祭の前夜に感じていたような息苦しさが、その夜は少しだけ薄かった。
食器を片づけたところで、スマホが震える。
『帰れましたか』
理玖からだった。
たったそれだけの短い文なのに、胸の奥が妙にあたたかくなる。
学校の外でも、自分を気にしてくれる声がある。
そのことが、思っていたよりずっと大きかった。
『帰れた。お前は?』
返すと、少ししてまた震える。
『帰れました。ちゃんと食べましたか』
思わず笑ってしまう。
『食べた』
『よかったです』
本当に、それだけだった。
それだけなのに、学校だけが自分の居場所だと思っていた感覚が、少しだけ薄れた。
文化祭の次の週、放課後は拍子抜けするほど静かだった。
実行委員の仕事がなくなると、教室を出る理由も、帰る理由も、急に同じくらいになる。
昇降口の前で少し立ち止まったところで、スマホが震えた。
『放送室います。帰る前に寄れますか』
短い文だった。
それだけなのに、足が勝手に特別棟へ向く。
放送室の扉を開けると、理玖が自販機のホットミルクティーを二本、机の上に並べていた。
「……別に用ないだろ」
「あります」
「何」
理玖は一本を俺に差し出す。
「二本買ったので」
「俺が来る前提じゃん」
「来ると思ったので」
あまりに当然みたいに言うから、言い返せなくなる。
缶を受け取ると、手のひらがじんわり温かかった。
「呼ばれなくなった放課後、変じゃないですか」
理玖がぽつりと言う。
「……まあ、ちょっと」
「俺は、先輩がいた方が普通です」
その一言が、驚くほどするっと胸に入った。
誰にも呼ばれない放課後に、理玖だけは当たり前みたいに俺を呼ぶ。
気づけば学校の静けさは、終わりの気配じゃなくて、理玖と会う時間になっていた。
それから、理玖はほんとうに当たり前みたいに俺を呼ぶようになった。
放送室にいる時。
図書室で勉強している時。
下校時間がたまたま合った時。
理由はいつも大したことがない。
『駅まで一緒でいいですか』
『今日は寒いので、先輩たぶん手が冷えてます』
『喉、大丈夫ですか』
そんなの、自分で何とかできることばかりだ。
でも、そうやって呼ばれるたび、俺は結局そっちへ行った。
冬になるころには、それがもうかなり普通になっていた。
二月の中頃、昇降口前の廊下で呼ばれて振り向く。
理玖が立っていて、手には温かい缶ココアが二本あった。
「おめでとうございます」
そう言って、片方の缶を差し出してくる。
「ありがと」
受け取ると、指先までじんわり温かかった。
「……何が?」
分かってるくせに聞くと、理玖は俺の手元の封筒を見る。
大学の合格通知だった。
「第一志望、合格したんですね」
「まあね」
「東京の大学に行ったからって、フラフラ浮気しないでくださいね」
唐突すぎて、危うくココアを落としかける。
「しないわ!」
「先輩、声をかけられると調子に乗って、いろいろな人のこと助けちゃうから。助けているうちに……なんてことにならないでくださいよ」
「何それ。だいぶ言いがかりだろ」
「心配です」
即答だった。
俺は呆れて笑いながら、缶を持ち直す。
「嫉妬?」
理玖は少しも否定しなかった。
「俺、独占欲強いんで」
やっぱり真顔だった。
でも前より少しだけ、その真顔の意味が分かる。
「知ってる」
そう返すと、理玖の耳がほんの少しだけ赤くなる。
それを見つけた瞬間、なんだか妙に得した気分になった。
「先輩」
「ん?」
「マフラー、ずれてます」
言いながら、理玖が俺の首元に手を伸ばす。
自分で直せるくらいのずれだ。
なのに、その指先が近づくだけで変に息が詰まる。
整え終わったあと、理玖は何でもなかったみたいに手を下ろした。
「これで大丈夫です」
「……ありがと」
「どういたしまして」
そういう小さい世話焼きに、俺はもうかなり弱くなっていた。
卒業式の日、校内放送はちゃんとした案内だけを流した。
『卒業生は体育館へ移動してください』
低くて、落ち着いた声。
何度も聞いてきたはずなのに、今日は少しだけ特別に聞こえる。
去年なら、ただの後輩の声だった。
文化祭前夜には、怪異と混ざってぞくっとした。
でも今は違う。
俺はネクタイを直しながら、その声に少しだけ肩の力を抜いた。
体育館へ向かう廊下に、手書きの案内板が並んでいる。
白地に黒い駅の表示なんて、どこにもない。
それでも、あの夜のことはちゃんと覚えていた。
覚えているけど、もう引っぱられない。
体育館の拍手も、今日はちゃんと本物だった。
卒業証書を受け取って、壇上から降りる。
視界の端に映るのは、クラスメイトの顔と、先生の顔と、保護者席のざわめきだ。
あの夜みたいに、都合よく作られた笑顔じゃない。
ちゃんとそれぞれの温度があって、ちゃんと終わるために鳴る拍手だった。
式が終われば、校舎はまた急にうるさくなる。
写真を撮って、担任に挨拶して、陽斗に肩を組まれて笑われて、寄せ書きの色紙を押しつけられる。
「朝比奈、大学行っても便利屋やってそう」
「やらない」
「絶対やる」
「やらないって」
言い返しながら笑っていたところで、廊下の向こうに理玖を見つけた。
二年の列から少し外れた場所で、紙袋を持ったまま立っている。
目が合う。
それだけで、俺は自然にそっちへ向かっていた。
「陽斗、ちょっと行ってくる」
「はいはい。いってらっしゃい」
なんとなく知っていますよ、という顔で手を振られる。
でも今日は、もうそれを否定する気にもならなかった。
理玖の前まで行くと、紙袋が差し出される。
「何これ」
「お祝いです。そんなに大したものじゃないですけど」
中を見ると、小さめのマフラーと、喉飴の袋が入っていた。
思わず顔を上げる。
「喉飴?」
「先輩、たくさん喉使うので」
「そんなに使ってる?」
「いつも人に囲まれて、たくさん話しているでしょ」
その返しが、なんだか理玖らしくて笑う。
「ありがと。……嬉しい」
ちゃんと口にすると、理玖の視線が少しだけ揺れた。
こういう時だけ、こいつの方が分かりやすい。
校舎の外へ出ると、三月の風はまだ少し冷たかった。
けれど真冬ほどじゃない。
制服の上から差す陽射しが、思っていたより明るい。
振り返ると、学校の建物が静かに立っている。
ここに残りたいと思った夜は、たしかにあった。
呼ばれ続けるために、必要とされ続けるために、ずっとこのままでいたいと思った夜。
でも今は、学校を離れることが、失うことみたいには見えなかった。
ここにいた時間まで消えるわけじゃない。
それに、また来る理由が、校舎じゃなくて理玖になったのだと思う。
最寄り駅までは、理玖が当たり前みたいに一緒に来た。
卒業生の花束や紙袋を抱えたやつらが、改札のあちこちで友達と騒いでいる。
その中を抜けて、俺たちはホームへ上がる。
ホームに出た瞬間、理玖がぽつりと言った。
「本物の駅ですね」
思わず吹き出す。
「ほんとに今さらだな」
「でも、ちゃんと本物です」
電車のいない昼下がりのホームは明るかった。
風が線路の上を抜けて、発車案内の電子音が短く鳴る。
足元の黄色い線を見る。
ごつごつした点字ブロック。
少し擦れていて、端の方は黒く汚れている。
学校で見た養生テープみたいに、妙にきれいに浮いてはいない。
ただ、そこにあるべき目印として、ちゃんと地面にある。
「……あの日みたいに怖くないな」
気づいたら、そう言っていた。
理玖が隣で同じように黄色い線を見る。
「怪異現象はないですから」
短い返事だった。
でも、それで十分だった。
俺はホームの向こうを見る。
線路はまっすぐ遠くへ伸びていて、その先は見えない。
前みたいに、見えないことがそのまま怖さにはならなかった。
「前はさ」
「はい」
「終わるのが怖くて、どこにも行きたくなかったんだよな」
理玖は何も挟まない。
ただ隣で聞いている。
「文化祭が終わるのも、卒業も、その先も。始まったら終わるし、動いたら離れていく感じがして」
「……はい」
「逃げたかったんだと思う。……でも今は、ちょっと違う」
そこまで言って、俺は笑う。
うまく言える自信はなかったけど、言わないまま乗るのも違う気がした。
「終わりが怖くて乗るんじゃなくて、その先に進むために乗るんだなって、分かる」
理玖がこっちを見る。
目が合う。
ほんの少しだけ、やわらいだ顔になる。
「はい」
その「はい」が、すごく好きだと思った。
ホームの反対側で、別の電車が通り過ぎる。
風が一度強く吹いて、理玖の前髪が少しだけ揺れた。
「……離れるの嫌だな」
今度は理玖が、ぼそっと言った。
小さい声だった。
聞き逃してもいいくらいの大きさだったのに、ちゃんと聞こえる。
俺は笑って、でもすぐまじめに返す。
「俺も」
それは嘘じゃなかった。
学校で毎日会えるわけじゃなくなる。
放課後に当たり前みたいに放送室へ寄ることも、帰りの時間が合えば駅まで一緒に歩くことも、今まで通りではいられない。
それでも、前みたいにそれだけで全部失う気はしなかった。
「先に待ってるから、理玖」
理玖の目が少しだけ見開く。
それから、いつもの落ち着いた声で返した。
「すぐ追いつきますから、湊先輩」
危機の時以外に名前で呼ばれるの、やっぱりずるい。
しかもこのタイミングでくるのは反則だろと思う。
思うのに、嫌じゃない。
むしろ胸の真ん中に、まっすぐ落ちる。
俺は少しだけ視線をそらして、それでも言う。
「……お前を好きになってよかった」
理玖は珍しく、すぐには返さなかった。
数秒置いてから、少しだけ困ったみたいに目を伏せる。
「それ、ホームで言いますか」
「今、言いたくなった」
「ずるいです」
「どっちが」
小さく笑うと、理玖もほんの少しだけ口元をゆるめた。
ホームの先で、電車の接近音がする。
今度はちゃんと本物の音だ。
レールを伝ってくる振動も、アナウンスも、全部が現実の駅のものだった。
『まもなく、三番線ホームに電車がまいります。黄色い線の内側でお待ちください』



