放課後、三番線ホームにご注意ください

放送室に戻るまで、ほとんど何もしゃべれなかった。

昇降口から特別棟へ向かう廊下は、もうただの夜明け前の校舎に戻っていた。
壁に立てかけた案内板は手書きのままで、床の黄色い線も、延長コードを押さえるだけの養生テープでしかない。

それなのに、足だけが少し頼りない。
つないだ手だけが、やけに熱かった。

理玖が放送室の扉を開ける。
中はしんとしていて、赤いON AIRランプも消えたままだった。

さっきまで、あんなに気味が悪かったはずの部屋だ。
なのに今は、その普通さに少しだけほっとする。

入った途端、張っていたものが切れたみたいに、俺は壁際へしゃがみこんだ。

「先輩」

「……無理。ちょっと、今、足が」

情けない言い方になったけど、理玖は何も言わなかった。
扉を閉めて、機材の電源だけざっと確かめると、すぐこっちへ来る。

それから、俺の前に同じように腰を落とした。

近い。
さっきまで散々近かったくせに、静かな放送室で向かい合うと、別の意味で心臓が落ち着かない。

しばらく、どっちも息を整えるだけだった。

「……なあ」

やっと声を出すと、理玖が顔を上げた。

「はい」

その返事が、いつも通りすぎて、逆に変に緊張する。

俺は一度だけ唇を舐めた。
まだ少し乾いていて、そこに、自分からした短いキスの感触まで薄く残っている気がした。

「さっきの」

言いかけて、喉がつまる。
でもここで飲みこむのも違う気がして、どうにか続けた。

「……告白でいいんだよな」

言った瞬間、耳が熱くなる。
確認しないと進めないくせに、確認するのはめちゃくちゃ恥ずかしい。

理玖は一秒も迷わなかった。

「そうです」

真顔だった。
あまりに真顔で、逆に逃げ場がない。

「勘違いじゃないです」

「そこまで言ってない」

「言いそうだったので」

「言うかもだったけど」

すぐ返されて、余計に顔が熱くなる。
理玖は相変わらず落ち着いた顔のまま、でもほんの少しだけ声をやわらげた。

「先輩からの返事も、ちゃんともらいました」

どく、と心臓が鳴る。

返事。
俺はただ、理玖の方へ戻って、「隣がいい」と言って、勢いみたいに唇を重ねただけだ。
それを返事と言い切られると、もう知らないふりはできない。

「……あれ、返事って言うのかよ」

「言います」

「お前の基準、だいぶ都合いいな」

「都合よくないです。かなり嬉しかったので」

最後だけ、少しだけ低かった。

それで完全に言葉に詰まる。
俺が黙ると、理玖は当たり前みたいに続けた。

「嬉しいです」

まっすぐだった。

飾らない。
大げさでもない。
なのに、その短い一言がいちばんずるい。

「……今さら恥ずかしい」

気づいたら、そんな情けないことをこぼしていた。

理玖が、ほんの少しだけ目を細める。

「先輩、これからもっと恥ずかしくなるから。覚悟してくださいね」

「やめろ、その予告」

返しながら、まったく余裕がない。
たぶん今、顔は相当ひどいことになっている。

理玖は俺の顔をじっと見て、それからふいに眉を寄せた。

「先輩、喉渇いてますよね」

「……え」

「さっきから、呼吸浅いです」

そう言って、理玖は自販機で買ったペットボトルを俺から取り上げて、キャップを開けた。

手が離れた瞬間、そこだけ急に寒い。
自分でもびっくりするくらい、分かりやすかった。

「どうぞ」

差し出されて、今度はほとんど反射で受け取る。

前だったら、子ども扱いするなとか、そんなに顔に出てるかとか、ひとこと返した気がする。
でも今は、それを言う余裕がなかった。

「……ありがと」

「どういたしまして」

やっぱり、そこはいつも通りなんだよなと思う。

冷たい水を飲むと、ようやく喉の奥が少し落ち着いた。
落ち着いたはずなのに、今度は別のことが気になる。

「お前も飲めよ」

理玖がわずかに目を上げる。

「先輩が先です」

「飲んだから。次、お前。顔、まだ白い」

「……はい」

素直に頷いて、理玖がひと口だけ飲む。
その横顔を見ながら、俺はなんとなく息をついた。

理玖がボトルを膝の上に置いたところで、ふと視線が下がる。
俺たちの手元だ。

気づけば、また指先が触れていた。
完全に離れたわけじゃなくて、床の上で、隣り合った手の小指側だけがかすかに触れている。

その距離が、中途半端で、妙に落ち着かなかった。

「……その」

俺が口ごもると、理玖も手元を見た。

「はい」

「もう、危なくはないから」

そこまで言ってから、自分で何を言いたいのか分からなくなる。
離せと言いたいわけじゃない。
かといって、そのままで当然みたいにしてるのも落ち着かない。

理玖は少しだけ黙って、それから静かに言った。

「今は危ないからじゃないです」

呼吸が止まりかけた。

理玖は手元ではなく、ちゃんと俺の顔を見ていた。
その目でそんなことを言われると、もうごまかせない。

「……お前、そういうの、ほんと平気な顔で言うな」

「平気ではないです」

「見えない」

「見えないようにしてるので」

その返しが妙に年下っぽくなくて、でも少しだけ無理しているのが分かって、胸の奥が変にやわらぐ。

理玖は小さく息を吐いて、それから、今度ははっきり手を差し出した。

「つなぎますか」

「聞くなよ、そういうの」

「勝手にすると怒られそうなので」

「怒んないけど」

「じゃあ」

それ以上何も言わずに待たれて、結局、俺の方が先にその手を取った。

触れた瞬間、理玖の指がすぐ絡む。
今度の手つなぎは、さっきまでの、引き戻すための強さじゃなかった。
ちゃんと確かめるみたいに、やわらかいのに、離す気がない。

もう危ないからつなぐための手じゃない。
そう思った途端、また耳が熱くなる。

「……後悔するなよ」

ぽつりとそう言うと、理玖が目を瞬いた。

「何をですか」

「何をって、いろいろだよ。俺、さっきだいぶ勢いだったし。返事も、ちゃんと格好よくした覚えないし」

言いながら、どんどん情けなくなる。
でも理玖は笑わなかった。

「後悔なんてするわけないじゃないですか」

間を空けずに返される。

「むしろ、先輩が後からなしにする方が困ります」

「しないけど」

反射でそう返してから、今度は自分で固まる。
理玖も、ほんの少しだけ目を見開いた。

「……しないですか」

「言質取るな」

「大事なので」

その言い方があまりに真面目で、思わず笑いそうになる。
でも笑うより先に、胸の奥がじわっと熱くなった。

理玖は指先を少しだけ握り直して、それから小さく言う。

「よかったです」

こんなの、俺の方が恥ずかしくなるに決まってる。

ごまかすみたいに視線をそらすと、ミキサー卓の上に散らばった台本が目に入る。
文化祭当日の進行表。赤字だらけの修正原稿。ヘッドホン。マイク。
ほんの少し前まで、ここには怪異の気配があったのに、今はただの放送室でしかない。

普通の部屋だ。
普通の機材だ。
それなのに、その普通さの中で理玖と向かい合ってるのが、ものすごく落ち着かない。

「……お前、よくそんな平然としてられるな」

「してないです」

「見えないって」

「先輩の前で取り乱したら、恥ずかしいので」

「今さらだろ。今夜、だいぶ見たぞ」

理玖が少しだけ黙る。

「それは、先輩のせいもあります」

「何で俺」

「好きな人が、何回もいなくなりかけたので」

また心臓がうるさくなる。
さっき告白を確認したばかりなのに、こうやってさらっと重ねてくるのが、本当にずるい。

「……そういうの、息するみたいに言うな」

「息はしてます」

「そういう揚げ足じゃなくて」

「でも、本当です」

俺が返事に困って黙りこむと、理玖もそれ以上は追わなかった。
追わないくせに、手だけは離さない。

放送室の小さな窓の向こうで、空が少しだけ薄くなっている。
まだ朝とは言いきれない色なのに、夜の終わりだけはちゃんと近づいていた。

理玖が時計を見る。
その動きで、俺もようやく時間のことを思い出した。

「……やば。もう朝じゃん」

「はい」

「文化祭当日じゃん」

「はい」

「全然心の準備できてないんだけど」

「俺もです」

それがちょっと意外で、思わず理玖を見る。

「お前も?」

「緊張してますよ」

「見えない」

「見せてないので」

またそれだ。
でも今度は、ほんの少しだけ口元がやわらいで見えた。

それを見つけた瞬間、妙に得した気分になる。
同時に、その顔を自分ばっかり見ていたいみたいな、変な欲まで出てきて、慌てて視線を逸らした。

その時だった。

「先輩」

理玖が、少しだけ真面目な声で呼ぶ。

「ん?」

「ひとつ、お願いしてもいいですか」

嫌な予感しかしない前置きだった。

「……何」

「今夜のご褒美、ほしいです」

言われた瞬間、意味が分からなくて、一拍遅れてから分かった。

「ご褒美?」

「はい」

「何の」

「今夜、先輩を助けた分です」

「自分で請求するんだ」

「だいぶ頑張ったので」

真顔だった。
そこが余計におかしい。

「いや、お前のおかげで助かったのは、認めるけど」

「ありがとうございます」

「でも、俺もお前のこと引き止めたりしたよ?」

「俺の方が、引き止めた回数が多いです」

「そうだけど……」

言い返したのに、声が少し裏返る。
理玖はそれを指摘しない。
しないまま、ただ静かに続けた。

「さっきの、もう一回ほしいです」

今度こそ、まともに息が止まった。

さっきの。
つまり、俺がした、あの確認みたいな短いやつだ。

理玖は俺の顔を見ている。
口元じゃない。ちゃんと目を見ているのに、それがかえってだめだった。

「……お前、それ、今言う?」

「今がいいので」

「心の準備って言葉、知ってるか?」

「知ってます」

「じゃあ何で待たないんだよ」

「待ってるうちに、先輩がまたごまかしそうなので」

図星すぎて言葉に詰まる。
理玖はそこで少しだけ声を落とした。

「だめですか?」

その聞き方が、ずるい。
ずるいのに、断られない前提のところが、もっとずるい。

俺はつないだ手に少しだけ力を入れた。
理玖の指が、わずかに応える。

「……だめじゃ、ないけど」

そこまで言うのが限界だった。
たぶん顔は真っ赤だし、まともに見れてない。

でも理玖にはそれで十分だったらしい。

「じゃあ、遠慮しません」

その一言の直後、肩を引かれた。

「っ」

さっきまで向かい合っていた距離が、一瞬でなくなる。
理玖の手が俺の頬の横へ回って、逃がさないみたいに軽く支えた。

次の瞬間、唇がふさがれる。

今度のは、確認じゃなかった。

触れて、すぐ離れるようなやつじゃない。
角度を変えて重なって、息をつく隙もなく、また来る。
浅く食んで、少しだけ離れて、でもすぐ追いかけてくる。

むさぼる、って言葉が頭に浮かんだ。
乱暴じゃない。ただ、理玖の方もまったく余裕がないのが分かる。

肩を掴む手に力が入る。
いつもの平熱の顔なんて、もうどこにもない。

「……ん、」

変な声が漏れて、自分でびっくりする。
その瞬間、理玖の指先がぴくりと揺れた。
でも、止まらなかった。

呼吸を奪うみたいに、もう一度深く重なって、それからようやく少しだけ離れる。

近い。
近すぎる。
額が触れそうな距離で、理玖の息も少し乱れていた。

俺の方はもっとひどい。
心臓が本気でうるさいし、頭も全然働かない。

「……今の」

どうにか声を出すと、理玖がほんの少しだけ目を伏せた。

「すみません」

「謝るなら最初からやるな」

「無理でした」

「即答するな」

「我慢してたので」

その一言で、全部許してしまう。

理玖は頬に触れていた手を離したのに、俺の方が動けない。
足に力が入らない。

「……割に合ってないだろ、今の」

「少し多めでした」

「少し?」

「……だいぶ、かもしれません」

珍しく訂正が入る。
それがなんだかおかしくて、恥ずかしいのに少しだけ笑ってしまった。

笑ったら、理玖の目元がほんの少しやわらいだ。
たったそれだけの変化なのに、また胸が鳴る。

理玖は少しだけ視線を落として、それから、ぼそりと言った。

「……嬉しいです」

さっきも聞いた言葉なのに、今の方がだめだった。
低くて、近くて、しかも少しだけ掠れていて、まともに聞けない。

「その顔で言うな」

「どんな顔ですか」

「知らない。見る余裕ない」

そう返すのがやっとだ。
理玖は何か言い返しかけて、でも結局やめた。
代わりに、つないだ手をほんの少しだけ強くする。

窓の外が、ゆっくり白みはじめる。
夜の青さの上から、朝の色が薄く重なっていく。

どこか遠くで、扉の開く音がした。
たぶん先生か、朝早く来た実行委員だ。
校舎の一番外側から、少しずつ文化祭当日の気配が入ってくる。

理玖もその音を聞いたらしく、窓の方を見た。

「朝です」

「うん」

短く返した声が、自分でも少し掠れているのが分かった。

文化祭当日の朝。
さっきまで、終わりに向かう感じばかりが怖かった朝だ。

でも今は、その朝の中に理玖がいる。
それだけで、見え方が少し違う。

「……行くか」

そう言うと、理玖がこっちを見る。

「はい」

立ち上がろうとして、つないだ手のままだったことに気づく。
また顔が熱くなる。
でも、今度はもう、無理にほどこうとは思わなかった。

理玖も何も言わない。
言わないまま、立ち上がるのに合わせて、自然に手を支えてくれる。

その普通の動きが、やけにやさしい。

放送室の小さな窓の向こうで、空がもう一段、白くなる。

文化祭当日の朝が来る。