放課後、三番線ホームにご注意ください

理玖は、目をそらさなかった。
一秒も迷わず、まっすぐこっちを見たまま言う。

「はい」

短すぎて、逆に息が止まりそうになる。

理玖はつないだ手を離さないまま、もう一度、今度ははっきり言った。

「俺は先輩を必要としてる」

どく、と胸の奥が鳴る。

開いた扉の向こうでは、まだ家庭科室の湯気が揺れている。
教室では陽斗が手を振っていて、体育館では拍手が鳴っている。
なのに、その一言だけが、全部より近く聞こえた。

理玖の声は、少しだけかすれていた。
たぶん、俺のせいだけじゃない。
さっき理玖だって呼ばれたばかりで、たぶん今も、きっと不安がある。

それでも、理玖は止まらなかった。

「だからここにいて。俺の隣に」

今度こそ、本当に息が詰まった。

助かる、とか。
いてくれてよかった、とか。
そういう言葉は今夜いくつも聞いた。

でも、これは違う。

役に立つからじゃない。
呼ばれたら動くからでもない。
ただ、隣にいてほしいと、そう言われている。

理玖は俺の手を握ったまま、ほんの少しだけ眉を寄せた。

「消えないで」

最後の一言だけ、ひどく低かった。

その声を聞いた瞬間、胸の奥のどこかが、痛いくらいにはっきり動いた。

同時に、一番奥の車窓の中で、理玖に似た影がまた口を開く。

『ここなら、先輩はずっと必要とされます』

さっきと同じ低い声なのに、今はすぐ分かった。
違う。

そんなふうに、都合のいいことだけをきれいに言わない。
今隣にいる理玖は、もっと困ることを言う。
終わるものは終わると知っている顔で、それでもこっちを選べと言う。

理玖の指先が、わずかに強くなる。
たぶん、あいつにも聞こえている。

それでも、離さない。

みんなに呼ばれなくても、俺が呼ぶので。
役目が終わっても、先輩がいなくなっていい理由にはならないです。
先輩にいてほしいです。

理玖は、ずっと言っていたんだ。

俺が聞こえないふりをしていただけで。
聞こえても、そこまで深く考えないようにしていただけで。

扉の向こうから、また声がする。

『朝比奈くん、食べていきなよ』

『湊、まだ帰らなくていいよ』

『助かったよ』

『必要だよ』

やさしい声だ。
全部、俺がほしかった声だ。

でも今は、そのやさしさの薄さが分かる。

家庭科室は、疲れた俺を座らせてくれる。
教室は、役に立つ俺を呼んでくれる。
体育館は、働いた俺に拍手をくれる。

どれも、うれしかった。
本当にうれしかったはずなのに、その全部の真ん中に、今は妙な空洞がある。

そこに、理玖がいないからだ。

あっちは、便利な俺がほしいだけだ。

でも、理玖は違う。

腹が減ってるのも、疲れてるのも、かっこ悪い本音も、全部見たうえで、それでも隣にいてほしいと言う。
実行委員じゃなくなっても、学校が終わっても、消えないでと言う。

俺が本当にほしかったのは、たぶんこっちだ。

誰にでも分かりやすく必要とされることじゃない。

役目がなくなっても。
学校が終わっても。
たった一人に、それでもいてほしいと選ばれることだ。

気づいた瞬間、目の前の光景が少しだけ色を失った。

家庭科室の灯りは、さっきより少し作り物みたいな橙色に見える。
教室の笑い声も、体育館の拍手も、どこか薄い膜を隔てたみたいに遠い。

俺は一度、ゆっくり息を吸った。

鉄と埃の匂いの奥に、わずかに、理玖の制服の洗剤みたいな匂いがした。
手のひらにある体温も、今はこっちの方がずっと現実だ。

「……霧島」

呼ぶと、理玖のまつげがわずかに動く。

「はい」

俺は開いた扉の向こうをもう一度見た。
家庭科室。
教室。
体育館。

どこにも、本物の理玖はいない。

いたとしても、たぶん俺の都合のいいことしか言わない。
今隣にいる理玖みたいに、困ることを言わない。
終わることを終わるまま受け止めろなんて、絶対に言わない。

そんなの、もういらないと思った。

俺は、自分から一歩、前へ出る。

前、というより、列車の方じゃなく、理玖の方へ。

握られた手に引かれたんじゃない。
自分で、そっちへ戻る。

その瞬間、足元の冷たさが少しだけ変わった。
ホームの床みたいに見えていたものが、ただの校舎のタイルに戻りかける。

理玖の目が、わずかに見開かれる。

俺はその顔を見たまま、喉の奥の熱いものをどうにか言葉にした。

「……お前が必要って言ってくれるなら」

理玖の指先が、ぴたりと止まる。

俺はさらにもう半歩、理玖に近づく。

「俺も、お前の隣がいい」

今度は、ちゃんと理玖の目を見て言えた。

口にした瞬間、胸の奥にあった変な重さが、少しだけ位置を変えた。
消えたわけじゃない。
怖さも、明日が来る感じも、全部そのままだ。

でも、その真ん中に、ちゃんと理玖がいる。

学校が終わることの恐怖より先に、こいつの隣にいたいと思った。
そう思った自分の方が、今は本当だった。

ここまで理玖がしてきたのは、大げさな口説き文句じゃなかった。
疲れた顔を見て、水を押しつけてきて。
腹が減ってるのを見抜いて、ビスケットとチョコバーを出して。
危ない時だけ手首を掴んで、肩を抱いて、最後は手をつないで。
その全部で、ここにいる俺をちゃんと見ていた。

ほしかったのは、こういうことだったのかもしれない。
便利だから呼ばれることじゃなくて。
しんどい顔も、みっともない弱さも込みで、見たまま選ばれること。

列車の奥で、何かがきしむ音がした。
開いた扉の向こうの灯りが、びり、と揺れる。
体育館の拍手が一瞬だけ乱れて、教室の笑い声が遠のく。

でも、もうそっちを見なかった。

理玖の顔が近い。
今夜ずっと落ち着いていた目が、今は初めて、明らかに揺れていた。
たぶん俺と同じくらい、いや、それ以上に息が上がっている。

「先輩」

小さく呼ばれる。
その一言だけで、耳の奥が熱くなる。

たぶん、これ以上見ていたらだめだった。

俺は理玖のつないでいない方のブレザーを、軽く掴んだ。

「……その顔、ずるい」

言い訳みたいにそう言って、俺は自分から理玖へ顔を寄せる。

理玖が息を止めるのが分かった。

そのまま、短く唇を重ねた。

触れるだけの、ほんの一瞬だ。

確認みたいな、キスだった。

すぐに離れたのに、時間だけ変に伸びた気がした。

理玖は本当に固まっていた。
目だけが見開かれて、呼吸まで一拍遅れている。

俺の方が先に限界で、ほとんど逃げるみたいに顔を離す。

耳が熱い。
たぶん、首まで赤い。

「……今のは」

自分でも何を言いたいのか分からないまま言いかけた、その瞬間だった。

列車の方から、金属がひしゃげるみたいな音がした。

振り向く。

銀色の車体が、輪郭から崩れはじめていた。

最初に消えたのは、体育館の拍手だった。
わっと広がっていた音が、急に、机を引く時みたいな耳障りな擦れ音に変わる。

次に、教室の笑い声がほどける。
陽斗の口の動きがずれて、窓の向こうの景色ごと水面みたいに歪む。

家庭科室の湯気は、一瞬だけ濃くなって、それから急にただの冷たい空気になった。
味噌汁の匂いだと思っていたものが、養生テープと埃の匂いに変わる。

一番奥の車窓にいた、理玖に似た影も崩れた。
口元だけが遅れて笑って、それから白く潰れる。

『――お待ちください』

放送が、どこかでひび割れたみたいに鳴った。

『――まもなく』

『――必要と』

『――ご注意』

言葉にならない断片が、スピーカーの奥でざらざら擦れる。

ぞっとした次の瞬間、床の黄色い線が、端からがさ、と音を立ててめくれた。

ホームの線じゃない。

ただの、床に貼った養生テープだった。

それが分かった瞬間、列車全体が大きく揺れる。

「先輩!」

今度は理玖が声を上げた。

強い風が吹く。
いや、風というより、吸いこむみたいな力だった。
列車の扉の奥の灯りも、案内板の白さも、全部まとめて遠くへ引かれていく。

俺は反射で、理玖のブレザーを掴んだまま、つないだ手にも力をこめた。

理玖も握り返す。

銀色の車体が、音もなく奥へ沈む。
家庭科室も、教室も、体育館も、全部いっぺんに薄くなって、紙みたいに剥がれた。

『――放課後、三番線ホームに』

最後の放送が、妙に近くで鳴る。

『ご注意く』

そこで、ぶつりと切れた。

一気に静かになる。

強すぎた光が消えたあとみたいに、目の前が少しだけ暗い。

しばらく、何も見えなかった。

見えないまま、俺はただ、手の中の熱だけを確かめる。

離れていない。

それだけで、ようやく息ができた。

数秒遅れて、視界が戻る。

最初に見えたのは、昇降口のガラスだった。
ちゃんと、学校のガラスだ。
向こうには下駄箱前の薄暗い土間があって、自転車置き場の外灯が頼りなく点いている。

列車なんて、どこにもいなかった。

壁には、文化祭用の手書きの案内板が斜めのまま立てかけてある。
白地に黒い駅の表示なんて、どこにもない。
足元にある黄色い線も、よれた養生テープでしかなかった。

それから少し遅れて、自販機の低いモーター音が戻ってくる。

「……戻った」

かすれた声でそう言うと、理玖が浅く息を吐いた。

「はい」

短い返事も、少しだけ息が乱れていた。

そこで初めて、理玖もかなりぎりぎりだったんだと分かる。

俺も息が上がっている。
膝が少しだけ笑っていて、手のひらは汗ばんでいた。

気が抜けたせいか、今さら足元も少し危ない。
壁に肩を預けると、理玖がすぐに半歩近づいた。
その動きがあまりに自然で、さっきまで列車の前にいたことが嘘みたいだった。

なのに、つないだ手だけはまだやたらと熱い。

理玖が顔を上げて、俺を見る。

「先輩、大丈夫ですか」

「それ、今聞く?」

「聞きます」

「……たぶん」

「たぶんは禁止です」

こんな時なのに、反射みたいに返されて、俺は思わず息を漏らした。
笑ったのか、ただ力が抜けただけなのか、自分でもよく分からない。

理玖はまだ俺の手を握っていた。

たぶん本人も、まだ離すタイミングが分かっていない。

俺だって、分からなかった。

さっき自分から言ったことも。
自分からしたことも。
どれもまだ現実に追いついていない。

唇に残った熱まで、妙に生々しい。
ほんの一瞬しか触れていないはずなのに、そこだけ別に心臓があるみたいにうるさかった。

ただ、電車に乗らなかったことだけは、はっきり分かる。

そして、乗らなかった理由も。

学校が好きなのは本当だ。
文化祭前夜のこの空気が終わるのが惜しいのも、本当だ。

でも、最後に俺をこっちへ戻したのは、学校じゃなかった。

隣にいて。
消えないで。

そう言った、たった一人の声だった。

窓の外が、ほんの少しだけ明るくなっているのに気づく。

まだ夜だ。
でも、真っ黒ではない。
校舎の向こう側から、薄い青がじわじわ上がってきていた。

夜明け前だ、と思う。

本番の朝が、もう来る。

さっきまでなら、それが少し怖かった。
でも今は、その怖さの隣に、別の熱がある。

理玖がようやく、つないだ手を少しだけゆるめる。

その動きに、反射で心臓が縮んだ。

気づいた時には、俺の方が先に握り返していた。

理玖が目を瞬く。

「……先輩?」

耳が熱い。
でも、今さら知らないふりもできない。

俺は視線をそらしたまま、小さく言う。

「まだ離すな」

言った瞬間、また顔が熱くなる。
さすがに今のは、だいぶ恥ずかしい。

でも理玖は笑わなかった。

ただ、ほんの少しだけ目元をやわらげて、握っていた手をもう一度ちゃんと握り直す。

「はい」

その一言が、今夜いちばんやさしく聞こえた。

昇降口の上のスピーカーは、もう鳴らない。
黄色い線はただのテープのままで、案内板は手書きの段ボールに戻っている。
学校はちゃんと、いつもの学校だった。

俺たちはしばらくその場で息を整えた。

言いたいことはいくらでもあるはずなのに、どっちもすぐには言えない。
さっきの告白も、返事も、キスも、全部まだ熱いままで、うまく触れられない。

それでも、不思議と焦らなかった。

隣にいる。
手を離していない。
それだけで、今は十分だった。

無理に何か言おうとすると、たぶんまた心臓がうるさくなる。
だから今は、どっちも黙ったままでいいと思えた。
気まずい沈黙じゃない。
ただ、同じ夜を越えたあとの静けさだった。もう逃げなくていい。

自販機の白い光の向こうで、窓が少しずつ青くなる。

文化祭当日の朝が、もうすぐ来る。

でも今は、終わりに向かっている感じより先に、ちゃんと戻ってきたんだと思えた。

学校じゃなくて。
三番線ホームでもなくて。

俺は、理玖の隣に。