理玖は、目をそらさなかった。
一秒も迷わず、まっすぐこっちを見たまま言う。
「はい」
短すぎて、逆に息が止まりそうになる。
理玖はつないだ手を離さないまま、もう一度、今度ははっきり言った。
「俺は先輩を必要としてる」
どく、と胸の奥が鳴る。
開いた扉の向こうでは、まだ家庭科室の湯気が揺れている。
教室では陽斗が手を振っていて、体育館では拍手が鳴っている。
なのに、その一言だけが、全部より近く聞こえた。
理玖の声は、少しだけかすれていた。
たぶん、俺のせいだけじゃない。
さっき理玖だって呼ばれたばかりで、たぶん今も、きっと不安がある。
それでも、理玖は止まらなかった。
「だからここにいて。俺の隣に」
今度こそ、本当に息が詰まった。
助かる、とか。
いてくれてよかった、とか。
そういう言葉は今夜いくつも聞いた。
でも、これは違う。
役に立つからじゃない。
呼ばれたら動くからでもない。
ただ、隣にいてほしいと、そう言われている。
理玖は俺の手を握ったまま、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「消えないで」
最後の一言だけ、ひどく低かった。
その声を聞いた瞬間、胸の奥のどこかが、痛いくらいにはっきり動いた。
同時に、一番奥の車窓の中で、理玖に似た影がまた口を開く。
『ここなら、先輩はずっと必要とされます』
さっきと同じ低い声なのに、今はすぐ分かった。
違う。
そんなふうに、都合のいいことだけをきれいに言わない。
今隣にいる理玖は、もっと困ることを言う。
終わるものは終わると知っている顔で、それでもこっちを選べと言う。
理玖の指先が、わずかに強くなる。
たぶん、あいつにも聞こえている。
それでも、離さない。
みんなに呼ばれなくても、俺が呼ぶので。
役目が終わっても、先輩がいなくなっていい理由にはならないです。
先輩にいてほしいです。
理玖は、ずっと言っていたんだ。
俺が聞こえないふりをしていただけで。
聞こえても、そこまで深く考えないようにしていただけで。
扉の向こうから、また声がする。
『朝比奈くん、食べていきなよ』
『湊、まだ帰らなくていいよ』
『助かったよ』
『必要だよ』
やさしい声だ。
全部、俺がほしかった声だ。
でも今は、そのやさしさの薄さが分かる。
家庭科室は、疲れた俺を座らせてくれる。
教室は、役に立つ俺を呼んでくれる。
体育館は、働いた俺に拍手をくれる。
どれも、うれしかった。
本当にうれしかったはずなのに、その全部の真ん中に、今は妙な空洞がある。
そこに、理玖がいないからだ。
あっちは、便利な俺がほしいだけだ。
でも、理玖は違う。
腹が減ってるのも、疲れてるのも、かっこ悪い本音も、全部見たうえで、それでも隣にいてほしいと言う。
実行委員じゃなくなっても、学校が終わっても、消えないでと言う。
俺が本当にほしかったのは、たぶんこっちだ。
誰にでも分かりやすく必要とされることじゃない。
役目がなくなっても。
学校が終わっても。
たった一人に、それでもいてほしいと選ばれることだ。
気づいた瞬間、目の前の光景が少しだけ色を失った。
家庭科室の灯りは、さっきより少し作り物みたいな橙色に見える。
教室の笑い声も、体育館の拍手も、どこか薄い膜を隔てたみたいに遠い。
俺は一度、ゆっくり息を吸った。
鉄と埃の匂いの奥に、わずかに、理玖の制服の洗剤みたいな匂いがした。
手のひらにある体温も、今はこっちの方がずっと現実だ。
「……霧島」
呼ぶと、理玖のまつげがわずかに動く。
「はい」
俺は開いた扉の向こうをもう一度見た。
家庭科室。
教室。
体育館。
どこにも、本物の理玖はいない。
いたとしても、たぶん俺の都合のいいことしか言わない。
今隣にいる理玖みたいに、困ることを言わない。
終わることを終わるまま受け止めろなんて、絶対に言わない。
そんなの、もういらないと思った。
俺は、自分から一歩、前へ出る。
前、というより、列車の方じゃなく、理玖の方へ。
握られた手に引かれたんじゃない。
自分で、そっちへ戻る。
その瞬間、足元の冷たさが少しだけ変わった。
ホームの床みたいに見えていたものが、ただの校舎のタイルに戻りかける。
理玖の目が、わずかに見開かれる。
俺はその顔を見たまま、喉の奥の熱いものをどうにか言葉にした。
「……お前が必要って言ってくれるなら」
理玖の指先が、ぴたりと止まる。
俺はさらにもう半歩、理玖に近づく。
「俺も、お前の隣がいい」
今度は、ちゃんと理玖の目を見て言えた。
口にした瞬間、胸の奥にあった変な重さが、少しだけ位置を変えた。
消えたわけじゃない。
怖さも、明日が来る感じも、全部そのままだ。
でも、その真ん中に、ちゃんと理玖がいる。
学校が終わることの恐怖より先に、こいつの隣にいたいと思った。
そう思った自分の方が、今は本当だった。
ここまで理玖がしてきたのは、大げさな口説き文句じゃなかった。
疲れた顔を見て、水を押しつけてきて。
腹が減ってるのを見抜いて、ビスケットとチョコバーを出して。
危ない時だけ手首を掴んで、肩を抱いて、最後は手をつないで。
その全部で、ここにいる俺をちゃんと見ていた。
ほしかったのは、こういうことだったのかもしれない。
便利だから呼ばれることじゃなくて。
しんどい顔も、みっともない弱さも込みで、見たまま選ばれること。
列車の奥で、何かがきしむ音がした。
開いた扉の向こうの灯りが、びり、と揺れる。
体育館の拍手が一瞬だけ乱れて、教室の笑い声が遠のく。
でも、もうそっちを見なかった。
理玖の顔が近い。
今夜ずっと落ち着いていた目が、今は初めて、明らかに揺れていた。
たぶん俺と同じくらい、いや、それ以上に息が上がっている。
「先輩」
小さく呼ばれる。
その一言だけで、耳の奥が熱くなる。
たぶん、これ以上見ていたらだめだった。
俺は理玖のつないでいない方のブレザーを、軽く掴んだ。
「……その顔、ずるい」
言い訳みたいにそう言って、俺は自分から理玖へ顔を寄せる。
理玖が息を止めるのが分かった。
そのまま、短く唇を重ねた。
触れるだけの、ほんの一瞬だ。
確認みたいな、キスだった。
すぐに離れたのに、時間だけ変に伸びた気がした。
理玖は本当に固まっていた。
目だけが見開かれて、呼吸まで一拍遅れている。
俺の方が先に限界で、ほとんど逃げるみたいに顔を離す。
耳が熱い。
たぶん、首まで赤い。
「……今のは」
自分でも何を言いたいのか分からないまま言いかけた、その瞬間だった。
列車の方から、金属がひしゃげるみたいな音がした。
振り向く。
銀色の車体が、輪郭から崩れはじめていた。
最初に消えたのは、体育館の拍手だった。
わっと広がっていた音が、急に、机を引く時みたいな耳障りな擦れ音に変わる。
次に、教室の笑い声がほどける。
陽斗の口の動きがずれて、窓の向こうの景色ごと水面みたいに歪む。
家庭科室の湯気は、一瞬だけ濃くなって、それから急にただの冷たい空気になった。
味噌汁の匂いだと思っていたものが、養生テープと埃の匂いに変わる。
一番奥の車窓にいた、理玖に似た影も崩れた。
口元だけが遅れて笑って、それから白く潰れる。
『――お待ちください』
放送が、どこかでひび割れたみたいに鳴った。
『――まもなく』
『――必要と』
『――ご注意』
言葉にならない断片が、スピーカーの奥でざらざら擦れる。
ぞっとした次の瞬間、床の黄色い線が、端からがさ、と音を立ててめくれた。
ホームの線じゃない。
ただの、床に貼った養生テープだった。
それが分かった瞬間、列車全体が大きく揺れる。
「先輩!」
今度は理玖が声を上げた。
強い風が吹く。
いや、風というより、吸いこむみたいな力だった。
列車の扉の奥の灯りも、案内板の白さも、全部まとめて遠くへ引かれていく。
俺は反射で、理玖のブレザーを掴んだまま、つないだ手にも力をこめた。
理玖も握り返す。
銀色の車体が、音もなく奥へ沈む。
家庭科室も、教室も、体育館も、全部いっぺんに薄くなって、紙みたいに剥がれた。
『――放課後、三番線ホームに』
最後の放送が、妙に近くで鳴る。
『ご注意く』
そこで、ぶつりと切れた。
一気に静かになる。
強すぎた光が消えたあとみたいに、目の前が少しだけ暗い。
しばらく、何も見えなかった。
見えないまま、俺はただ、手の中の熱だけを確かめる。
離れていない。
それだけで、ようやく息ができた。
数秒遅れて、視界が戻る。
最初に見えたのは、昇降口のガラスだった。
ちゃんと、学校のガラスだ。
向こうには下駄箱前の薄暗い土間があって、自転車置き場の外灯が頼りなく点いている。
列車なんて、どこにもいなかった。
壁には、文化祭用の手書きの案内板が斜めのまま立てかけてある。
白地に黒い駅の表示なんて、どこにもない。
足元にある黄色い線も、よれた養生テープでしかなかった。
それから少し遅れて、自販機の低いモーター音が戻ってくる。
「……戻った」
かすれた声でそう言うと、理玖が浅く息を吐いた。
「はい」
短い返事も、少しだけ息が乱れていた。
そこで初めて、理玖もかなりぎりぎりだったんだと分かる。
俺も息が上がっている。
膝が少しだけ笑っていて、手のひらは汗ばんでいた。
気が抜けたせいか、今さら足元も少し危ない。
壁に肩を預けると、理玖がすぐに半歩近づいた。
その動きがあまりに自然で、さっきまで列車の前にいたことが嘘みたいだった。
なのに、つないだ手だけはまだやたらと熱い。
理玖が顔を上げて、俺を見る。
「先輩、大丈夫ですか」
「それ、今聞く?」
「聞きます」
「……たぶん」
「たぶんは禁止です」
こんな時なのに、反射みたいに返されて、俺は思わず息を漏らした。
笑ったのか、ただ力が抜けただけなのか、自分でもよく分からない。
理玖はまだ俺の手を握っていた。
たぶん本人も、まだ離すタイミングが分かっていない。
俺だって、分からなかった。
さっき自分から言ったことも。
自分からしたことも。
どれもまだ現実に追いついていない。
唇に残った熱まで、妙に生々しい。
ほんの一瞬しか触れていないはずなのに、そこだけ別に心臓があるみたいにうるさかった。
ただ、電車に乗らなかったことだけは、はっきり分かる。
そして、乗らなかった理由も。
学校が好きなのは本当だ。
文化祭前夜のこの空気が終わるのが惜しいのも、本当だ。
でも、最後に俺をこっちへ戻したのは、学校じゃなかった。
隣にいて。
消えないで。
そう言った、たった一人の声だった。
窓の外が、ほんの少しだけ明るくなっているのに気づく。
まだ夜だ。
でも、真っ黒ではない。
校舎の向こう側から、薄い青がじわじわ上がってきていた。
夜明け前だ、と思う。
本番の朝が、もう来る。
さっきまでなら、それが少し怖かった。
でも今は、その怖さの隣に、別の熱がある。
理玖がようやく、つないだ手を少しだけゆるめる。
その動きに、反射で心臓が縮んだ。
気づいた時には、俺の方が先に握り返していた。
理玖が目を瞬く。
「……先輩?」
耳が熱い。
でも、今さら知らないふりもできない。
俺は視線をそらしたまま、小さく言う。
「まだ離すな」
言った瞬間、また顔が熱くなる。
さすがに今のは、だいぶ恥ずかしい。
でも理玖は笑わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目元をやわらげて、握っていた手をもう一度ちゃんと握り直す。
「はい」
その一言が、今夜いちばんやさしく聞こえた。
昇降口の上のスピーカーは、もう鳴らない。
黄色い線はただのテープのままで、案内板は手書きの段ボールに戻っている。
学校はちゃんと、いつもの学校だった。
俺たちはしばらくその場で息を整えた。
言いたいことはいくらでもあるはずなのに、どっちもすぐには言えない。
さっきの告白も、返事も、キスも、全部まだ熱いままで、うまく触れられない。
それでも、不思議と焦らなかった。
隣にいる。
手を離していない。
それだけで、今は十分だった。
無理に何か言おうとすると、たぶんまた心臓がうるさくなる。
だから今は、どっちも黙ったままでいいと思えた。
気まずい沈黙じゃない。
ただ、同じ夜を越えたあとの静けさだった。もう逃げなくていい。
自販機の白い光の向こうで、窓が少しずつ青くなる。
文化祭当日の朝が、もうすぐ来る。
でも今は、終わりに向かっている感じより先に、ちゃんと戻ってきたんだと思えた。
学校じゃなくて。
三番線ホームでもなくて。
俺は、理玖の隣に。
一秒も迷わず、まっすぐこっちを見たまま言う。
「はい」
短すぎて、逆に息が止まりそうになる。
理玖はつないだ手を離さないまま、もう一度、今度ははっきり言った。
「俺は先輩を必要としてる」
どく、と胸の奥が鳴る。
開いた扉の向こうでは、まだ家庭科室の湯気が揺れている。
教室では陽斗が手を振っていて、体育館では拍手が鳴っている。
なのに、その一言だけが、全部より近く聞こえた。
理玖の声は、少しだけかすれていた。
たぶん、俺のせいだけじゃない。
さっき理玖だって呼ばれたばかりで、たぶん今も、きっと不安がある。
それでも、理玖は止まらなかった。
「だからここにいて。俺の隣に」
今度こそ、本当に息が詰まった。
助かる、とか。
いてくれてよかった、とか。
そういう言葉は今夜いくつも聞いた。
でも、これは違う。
役に立つからじゃない。
呼ばれたら動くからでもない。
ただ、隣にいてほしいと、そう言われている。
理玖は俺の手を握ったまま、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「消えないで」
最後の一言だけ、ひどく低かった。
その声を聞いた瞬間、胸の奥のどこかが、痛いくらいにはっきり動いた。
同時に、一番奥の車窓の中で、理玖に似た影がまた口を開く。
『ここなら、先輩はずっと必要とされます』
さっきと同じ低い声なのに、今はすぐ分かった。
違う。
そんなふうに、都合のいいことだけをきれいに言わない。
今隣にいる理玖は、もっと困ることを言う。
終わるものは終わると知っている顔で、それでもこっちを選べと言う。
理玖の指先が、わずかに強くなる。
たぶん、あいつにも聞こえている。
それでも、離さない。
みんなに呼ばれなくても、俺が呼ぶので。
役目が終わっても、先輩がいなくなっていい理由にはならないです。
先輩にいてほしいです。
理玖は、ずっと言っていたんだ。
俺が聞こえないふりをしていただけで。
聞こえても、そこまで深く考えないようにしていただけで。
扉の向こうから、また声がする。
『朝比奈くん、食べていきなよ』
『湊、まだ帰らなくていいよ』
『助かったよ』
『必要だよ』
やさしい声だ。
全部、俺がほしかった声だ。
でも今は、そのやさしさの薄さが分かる。
家庭科室は、疲れた俺を座らせてくれる。
教室は、役に立つ俺を呼んでくれる。
体育館は、働いた俺に拍手をくれる。
どれも、うれしかった。
本当にうれしかったはずなのに、その全部の真ん中に、今は妙な空洞がある。
そこに、理玖がいないからだ。
あっちは、便利な俺がほしいだけだ。
でも、理玖は違う。
腹が減ってるのも、疲れてるのも、かっこ悪い本音も、全部見たうえで、それでも隣にいてほしいと言う。
実行委員じゃなくなっても、学校が終わっても、消えないでと言う。
俺が本当にほしかったのは、たぶんこっちだ。
誰にでも分かりやすく必要とされることじゃない。
役目がなくなっても。
学校が終わっても。
たった一人に、それでもいてほしいと選ばれることだ。
気づいた瞬間、目の前の光景が少しだけ色を失った。
家庭科室の灯りは、さっきより少し作り物みたいな橙色に見える。
教室の笑い声も、体育館の拍手も、どこか薄い膜を隔てたみたいに遠い。
俺は一度、ゆっくり息を吸った。
鉄と埃の匂いの奥に、わずかに、理玖の制服の洗剤みたいな匂いがした。
手のひらにある体温も、今はこっちの方がずっと現実だ。
「……霧島」
呼ぶと、理玖のまつげがわずかに動く。
「はい」
俺は開いた扉の向こうをもう一度見た。
家庭科室。
教室。
体育館。
どこにも、本物の理玖はいない。
いたとしても、たぶん俺の都合のいいことしか言わない。
今隣にいる理玖みたいに、困ることを言わない。
終わることを終わるまま受け止めろなんて、絶対に言わない。
そんなの、もういらないと思った。
俺は、自分から一歩、前へ出る。
前、というより、列車の方じゃなく、理玖の方へ。
握られた手に引かれたんじゃない。
自分で、そっちへ戻る。
その瞬間、足元の冷たさが少しだけ変わった。
ホームの床みたいに見えていたものが、ただの校舎のタイルに戻りかける。
理玖の目が、わずかに見開かれる。
俺はその顔を見たまま、喉の奥の熱いものをどうにか言葉にした。
「……お前が必要って言ってくれるなら」
理玖の指先が、ぴたりと止まる。
俺はさらにもう半歩、理玖に近づく。
「俺も、お前の隣がいい」
今度は、ちゃんと理玖の目を見て言えた。
口にした瞬間、胸の奥にあった変な重さが、少しだけ位置を変えた。
消えたわけじゃない。
怖さも、明日が来る感じも、全部そのままだ。
でも、その真ん中に、ちゃんと理玖がいる。
学校が終わることの恐怖より先に、こいつの隣にいたいと思った。
そう思った自分の方が、今は本当だった。
ここまで理玖がしてきたのは、大げさな口説き文句じゃなかった。
疲れた顔を見て、水を押しつけてきて。
腹が減ってるのを見抜いて、ビスケットとチョコバーを出して。
危ない時だけ手首を掴んで、肩を抱いて、最後は手をつないで。
その全部で、ここにいる俺をちゃんと見ていた。
ほしかったのは、こういうことだったのかもしれない。
便利だから呼ばれることじゃなくて。
しんどい顔も、みっともない弱さも込みで、見たまま選ばれること。
列車の奥で、何かがきしむ音がした。
開いた扉の向こうの灯りが、びり、と揺れる。
体育館の拍手が一瞬だけ乱れて、教室の笑い声が遠のく。
でも、もうそっちを見なかった。
理玖の顔が近い。
今夜ずっと落ち着いていた目が、今は初めて、明らかに揺れていた。
たぶん俺と同じくらい、いや、それ以上に息が上がっている。
「先輩」
小さく呼ばれる。
その一言だけで、耳の奥が熱くなる。
たぶん、これ以上見ていたらだめだった。
俺は理玖のつないでいない方のブレザーを、軽く掴んだ。
「……その顔、ずるい」
言い訳みたいにそう言って、俺は自分から理玖へ顔を寄せる。
理玖が息を止めるのが分かった。
そのまま、短く唇を重ねた。
触れるだけの、ほんの一瞬だ。
確認みたいな、キスだった。
すぐに離れたのに、時間だけ変に伸びた気がした。
理玖は本当に固まっていた。
目だけが見開かれて、呼吸まで一拍遅れている。
俺の方が先に限界で、ほとんど逃げるみたいに顔を離す。
耳が熱い。
たぶん、首まで赤い。
「……今のは」
自分でも何を言いたいのか分からないまま言いかけた、その瞬間だった。
列車の方から、金属がひしゃげるみたいな音がした。
振り向く。
銀色の車体が、輪郭から崩れはじめていた。
最初に消えたのは、体育館の拍手だった。
わっと広がっていた音が、急に、机を引く時みたいな耳障りな擦れ音に変わる。
次に、教室の笑い声がほどける。
陽斗の口の動きがずれて、窓の向こうの景色ごと水面みたいに歪む。
家庭科室の湯気は、一瞬だけ濃くなって、それから急にただの冷たい空気になった。
味噌汁の匂いだと思っていたものが、養生テープと埃の匂いに変わる。
一番奥の車窓にいた、理玖に似た影も崩れた。
口元だけが遅れて笑って、それから白く潰れる。
『――お待ちください』
放送が、どこかでひび割れたみたいに鳴った。
『――まもなく』
『――必要と』
『――ご注意』
言葉にならない断片が、スピーカーの奥でざらざら擦れる。
ぞっとした次の瞬間、床の黄色い線が、端からがさ、と音を立ててめくれた。
ホームの線じゃない。
ただの、床に貼った養生テープだった。
それが分かった瞬間、列車全体が大きく揺れる。
「先輩!」
今度は理玖が声を上げた。
強い風が吹く。
いや、風というより、吸いこむみたいな力だった。
列車の扉の奥の灯りも、案内板の白さも、全部まとめて遠くへ引かれていく。
俺は反射で、理玖のブレザーを掴んだまま、つないだ手にも力をこめた。
理玖も握り返す。
銀色の車体が、音もなく奥へ沈む。
家庭科室も、教室も、体育館も、全部いっぺんに薄くなって、紙みたいに剥がれた。
『――放課後、三番線ホームに』
最後の放送が、妙に近くで鳴る。
『ご注意く』
そこで、ぶつりと切れた。
一気に静かになる。
強すぎた光が消えたあとみたいに、目の前が少しだけ暗い。
しばらく、何も見えなかった。
見えないまま、俺はただ、手の中の熱だけを確かめる。
離れていない。
それだけで、ようやく息ができた。
数秒遅れて、視界が戻る。
最初に見えたのは、昇降口のガラスだった。
ちゃんと、学校のガラスだ。
向こうには下駄箱前の薄暗い土間があって、自転車置き場の外灯が頼りなく点いている。
列車なんて、どこにもいなかった。
壁には、文化祭用の手書きの案内板が斜めのまま立てかけてある。
白地に黒い駅の表示なんて、どこにもない。
足元にある黄色い線も、よれた養生テープでしかなかった。
それから少し遅れて、自販機の低いモーター音が戻ってくる。
「……戻った」
かすれた声でそう言うと、理玖が浅く息を吐いた。
「はい」
短い返事も、少しだけ息が乱れていた。
そこで初めて、理玖もかなりぎりぎりだったんだと分かる。
俺も息が上がっている。
膝が少しだけ笑っていて、手のひらは汗ばんでいた。
気が抜けたせいか、今さら足元も少し危ない。
壁に肩を預けると、理玖がすぐに半歩近づいた。
その動きがあまりに自然で、さっきまで列車の前にいたことが嘘みたいだった。
なのに、つないだ手だけはまだやたらと熱い。
理玖が顔を上げて、俺を見る。
「先輩、大丈夫ですか」
「それ、今聞く?」
「聞きます」
「……たぶん」
「たぶんは禁止です」
こんな時なのに、反射みたいに返されて、俺は思わず息を漏らした。
笑ったのか、ただ力が抜けただけなのか、自分でもよく分からない。
理玖はまだ俺の手を握っていた。
たぶん本人も、まだ離すタイミングが分かっていない。
俺だって、分からなかった。
さっき自分から言ったことも。
自分からしたことも。
どれもまだ現実に追いついていない。
唇に残った熱まで、妙に生々しい。
ほんの一瞬しか触れていないはずなのに、そこだけ別に心臓があるみたいにうるさかった。
ただ、電車に乗らなかったことだけは、はっきり分かる。
そして、乗らなかった理由も。
学校が好きなのは本当だ。
文化祭前夜のこの空気が終わるのが惜しいのも、本当だ。
でも、最後に俺をこっちへ戻したのは、学校じゃなかった。
隣にいて。
消えないで。
そう言った、たった一人の声だった。
窓の外が、ほんの少しだけ明るくなっているのに気づく。
まだ夜だ。
でも、真っ黒ではない。
校舎の向こう側から、薄い青がじわじわ上がってきていた。
夜明け前だ、と思う。
本番の朝が、もう来る。
さっきまでなら、それが少し怖かった。
でも今は、その怖さの隣に、別の熱がある。
理玖がようやく、つないだ手を少しだけゆるめる。
その動きに、反射で心臓が縮んだ。
気づいた時には、俺の方が先に握り返していた。
理玖が目を瞬く。
「……先輩?」
耳が熱い。
でも、今さら知らないふりもできない。
俺は視線をそらしたまま、小さく言う。
「まだ離すな」
言った瞬間、また顔が熱くなる。
さすがに今のは、だいぶ恥ずかしい。
でも理玖は笑わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目元をやわらげて、握っていた手をもう一度ちゃんと握り直す。
「はい」
その一言が、今夜いちばんやさしく聞こえた。
昇降口の上のスピーカーは、もう鳴らない。
黄色い線はただのテープのままで、案内板は手書きの段ボールに戻っている。
学校はちゃんと、いつもの学校だった。
俺たちはしばらくその場で息を整えた。
言いたいことはいくらでもあるはずなのに、どっちもすぐには言えない。
さっきの告白も、返事も、キスも、全部まだ熱いままで、うまく触れられない。
それでも、不思議と焦らなかった。
隣にいる。
手を離していない。
それだけで、今は十分だった。
無理に何か言おうとすると、たぶんまた心臓がうるさくなる。
だから今は、どっちも黙ったままでいいと思えた。
気まずい沈黙じゃない。
ただ、同じ夜を越えたあとの静けさだった。もう逃げなくていい。
自販機の白い光の向こうで、窓が少しずつ青くなる。
文化祭当日の朝が、もうすぐ来る。
でも今は、終わりに向かっている感じより先に、ちゃんと戻ってきたんだと思えた。
学校じゃなくて。
三番線ホームでもなくて。
俺は、理玖の隣に。



