意味は分かる。
分かるのに、頭のほうが遅かった。
離したくなかった。
それはたぶん、怪異に連れていかれそうだったから、だけじゃない。
でも、その先を自分で拾ったら危ない気がして、俺は無理やり別の言葉を選んだ。
「……それで、今夜ずっと俺を守ってたの?」
理玖はすぐには答えなかった。
膝の上のペットボトルを一度だけ持ち直して、それから静かに口を開く。
「守ってた、というか」
「見張ってた?」
「それもあります」
こんな時なのに、妙に素直だ。
俺は少しだけ息を吐いて、それでも目はそらせなかった。
理玖は白い自販機の光の中で、まっすぐこっちを見たまま言う。
「助けてもらったからです」
去年の文化祭前夜。
放送室の前。
帰る理由がないまま立ち尽くしていた理玖を、俺が何でもない顔で引き戻した話が、さっき聞いたばかりだ。
「……去年の、恩返し?」
「はい」
短く頷いて、理玖は続けた。
「あと」
一拍置く。
「去年からずっと見てました」
「見てました、って」
思わずそのまま聞き返すと、理玖はほんの少しだけ目を伏せた。
「放送室から、先輩のこと、よく見えたので。文化祭が終わったあとも、先輩、だいたいどこかで誰かに呼ばれてたじゃないですか」
「結構人気者だからな」
「はい」
「そこは否定しろよ」
「否定できないです」
間髪入れずに返されて、変なところで少しだけ力が抜ける。
でも、次に落ちた理玖の声で、またすぐに胸の奥が落ち着かなくなった。
「呼ばれたら、先輩、ちゃんと行くので」
「……まあ」
「助かったって言われると、ちょっとだけうれしそうなのも」
どく、と心臓が鳴る。
「それ、見てたんだ」
「見てました」
あっさりだ。
あっさりなのに、逃げ場がない。
自販機の前の白い光がやけに明るい。
その中で、俺はペットボトルを握ったまま、どうにか軽い口調を探した。
「ずっと見られてたとか、恥ずかしすぎるだろ」
理玖の目が、ほんの少しだけ揺れる。
でも、今度は逃げなかった。
「助けるのは、恩返しだけじゃないです」
その一言で、空気が変わる。
たったそれだけなのに、自販機の低いモーター音まで遠くなった気がした。
俺は何か言わなきゃと思ったのに、喉がうまく動かない。
「……じゃあ、何」
ようやく出た声は、思ったより小さかった。
理玖は、ひどく落ち着いた顔をしていた。
落ち着いているのに、視線だけが妙にまっすぐで、逃がす気がない。
「……ずっと好きでした」
時間が、一瞬だけ止まる。
怪異に呼ばれた時みたいに足元が揺れるわけじゃない。
ただ、その短い言葉だけが、音もなく胸の真ん中に落ちた。
飾り気はなかった。
口説くみたいな甘さも、勢いもない。
ただ、事実を報告するみたいな声だった。
だから、余計に響いた。
「先輩が好きです」
二度目は、もっとはっきり聞こえた。
頭が追いつかない。
去年の文化祭前夜から。
あの何でもない一言から。
理玖はずっと覚えていて、ずっと見ていて、今夜ずっと俺を引き戻してきて。
その全部の理由の下に、今の「好き」がある。
理解した瞬間、さっきまでの家庭科室の灯りも、教室の声も、体育館の拍手も、全部まとめてかすんだ。
今夜いちばん危ないの、怪異じゃなくてこっちだろ。
「……そういうの、今言うかよ」
やっと絞り出した声は、まったく格好よくなかった。
でも理玖は笑わなかった。
「もう、ごまかせないので」
「ごまかしてくれたほうが、こっちは助かるんだけど」
「すみません」
謝るくせに、引っ込めない。
その潔さが、余計にずるい。
「でも、ごまかしたくないです」
低い声だった。
その一言で、また胸が鳴る。
俺はたまらず視線をそらして、手の中のペットボトルを見た。
ラベルの端が少し浮いている。
そんなどうでもいいところばかりが、変にはっきり見える。
「……ずっと、って」
「はい」
「去年の文化祭前夜から?」
「はい」
間がない。
一秒も迷わない。
「俺、覚えてなかったのに」
「知ってます」
「知ってて、好きとか言う?」
「言います」
「お前、三番線ホームより怖いよ?」
「今さらです」
いつもの調子みたいで、でも全然いつも通りじゃない。
理玖の声は落ち着いているのに、その下に隠しきれていない熱がある。
それが分かるくらいには、今の俺もだいぶ余裕がなかった。
「……なんで」
自分でも何を聞きたいのか、うまくまとまらないまま言葉が出る。
「なんで、俺なんだよ」
理玖は少しだけ目を細めた。
考えるみたいに、でも言葉を飾る気はない顔だった。
「先輩だからです」
「答えになってない」
「なってます」
「なってないだろ」
「最初は、助けてもらったからです」
理玖が静かに言う。
「でも、それだけなら、ここまで気にしません」
そこで一度、視線が俺の手元に落ちる。
さっきまでつないでいた手の熱が、思い出したみたいに蘇った。
「去年から、ずっと見てました。先輩が学校でどうしてるか。誰かに呼ばれてる時の顔とか、助かったって言われた時の顔とか、疲れてるのにちゃんと動くところとか」
「やめろ」
「何でですか」
「何か、普通に恥ずかしい」
「本当のことです」
また、それだ。
理玖は大げさな褒め方をしない。
きれいなことも言わない。
ただ見てきたことを、そのまま話す。
それに、ひどく動揺してしまう。
「それで気づいたら、あの時の恩返しをしたいとか、そういうのだけじゃなくなってました」
俺は顔を上げる。
理玖の喉が、小さく動く。
「助けるのは、恩返しだけじゃないです」
さっきと同じ言葉。
でも今度は、その意味がもう分かってしまう。
「先輩がいなくなるの、嫌なので」
心臓が、また鳴った。
家に帰れば終わる文化祭前夜。
役目が終われば、いなくなってもいいみたいに感じてしまう自分。
そういう弱さに寄ってくる怪異の話を、さっきまでしていたはずなのに。
今、俺を一番ぐらつかせてるのは、理玖のその一言だった。
「……待って」
情けないくらい、それしか出ない。
理玖は急かさなかった。
「返事は、今じゃなくていいです」
「え」
「今、無理だと思うので」
「分かってんじゃん」
「はい」
真顔で頷かれて、困る。
本当に困る。
「でも」
理玖がほんの少しだけ身を乗り出す。
距離が近くなるわけじゃないのに、その「でも」だけで息が詰まりそうになる。
「先輩を、連れていかせたくないんです」
まっすぐだった。
好きだから。
いなくなるのが嫌だから。
だから、怪異に渡したくない。
そう言ってるのと同じなのに、理玖はそこまで大げさな言い方をしない。
平熱のまま、事実だけを置く。
そのせいで、こっちは逃げられない。
「霧島」
名前を呼ぶ。
それだけで精一杯だった。
理玖は返事をしない。
ただ、目だけで続きを待っている。
何か言わなきゃと思う。
ありがとう、でも違う。
困る、でも違う。
嬉しい、も違う気がする。
そんなきれいに整理できるわけがない。
だって俺は今、さっきまでの全部を抱えたまま、いきなり「好き」を渡されたところなんだから。
「俺、今……」
そこまで言った瞬間だった。
ぶつ、と天井のスピーカーが鳴る。
一つじゃない。
昇降口の上も、廊下の先も、階段の踊り場も。
校舎中のスピーカーが、示し合わせたみたいに同時に震えた。
理玖がすっと立ち上がる。
俺も反射で顔を上げた。
次の瞬間、発車メロディみたいな音が、今までで一番大きく流れた。
『――まもなく、三番線ホームに最終列車がまいります』
ひやりとした声が、校舎全体に広がる。
『本日最後のご案内です。お帰りになりたくないお客様。手放したくないお客様。黄色い線の内側でお待ちください』
背筋が冷える。
お帰りになりたくないお客様。
手放したくないお客様。
今度の放送は、俺だけじゃなかった。
理玖も、ちゃんとそこに含まれていた。
『家庭科室方面、三年教室方面、体育館方面よりお越しのお客様は、そのまま案内表示に従ってお進みください』
その一言と同時に、ぞわ、と空気が変わる。
廊下の向こうから、だしの匂いがした。
味噌汁の湯気みたいな、あの家庭科室の匂いだ。
階上のほうからは、クラスの笑い声が降りてくる。
『朝比奈、来てくれよ』
『いてくれてよかった』
今日何度も聞いた声が、今度は校舎全体からにじみ出す。
遠く、体育館のほうからは拍手が聞こえた。
一度。
二度。
それから規則正しく、誰かを迎えるみたいに広がっていく。
全部だ。
家庭科室も、教室も、体育館も。
今夜、俺を引っぱったものが、全部いっぺんに来る。
「先輩」
理玖の声が、低く落ちた。
その声に反応するより先に、廊下の案内板がぶれた。
文化祭用に作った手書きの案内板も、教室のプレートも、壁に貼った矢印も。
文字がにじんで、白地に黒い、駅の表示みたいな書体へ変わっていく。
一枚。
また一枚。
そして、どれも同じ行き先を示した。
――三番線ホーム
喉の奥が、ひゅっと鳴る。
床を走っていた黄色い養生テープが、急に明るく見えた。
一本だけじゃない。
階段の上からも、特別棟の方からも、教室の並ぶ廊下からも、黄色い線が昇降口へ向かって集まってくる。
まるで、学校中の通路が、全部ひとつのホームにつながっていくみたいだった。
『文化祭前夜を、もう少し長くお楽しみになりたいお客様』
放送が続く。
『必要とされるままお残りになりたいお客様』
どく、と心臓が鳴る。
理玖の「好き」が、まだ胸の真ん中に刺さったままだ。
そこへ、今度は怪異が、俺の一番弱いところをなぞってくる。
『どうぞ、三番線ホームへ』
昇降口のガラスの向こうが、音もなく暗くなった。
さっきまで見えていたはずの下駄箱前の外灯も、自転車置き場もない。
代わりに、黒い夜の底みたいな空間が広がっている。
その奥で、遠く光が動いた。
列車の前照灯みたいに、白く。
金属が擦れる音がする。
レールのきしみみたいな、冷たい音だ。
風まで変わる。
夜の校庭の匂いじゃない。
鉄と埃が混じった、駅のホームの匂いがした。
「来ます」
理玖が短く言う。
その声でようやく身体が動く。
でも、俺の足はさっきまでみたいに勝手には前に出なかった。
出られなかった、の方が近い。
頭の半分は放送の方を聞いている。
でも、もう半分はまだ理玖の言葉のところに置き去りのままだ。
ずっと好きでした。
先輩が好きです。
だから、連れていかせたくないんです。
さっきまでなら、三番線ホームの声だけで動けたかもしれない。
でも今は、その前に理玖の声がある。
そのせいで、余計に混乱する。
「霧島、お前、今の」
返事。
その先を言わなきゃいけない気がするのに、うまく続かない。
理玖はもう一度、俺を見た。
怪異を警戒している時の顔なのに、さっきと同じ熱がまだ消えていない目だった。
「先輩、あとででいいです」
「でも」
「今は、こっちです」
短く言って、理玖が手を伸ばす。
その指先が、俺の手首じゃなく、手のひらを取る。
今夜何度も触れられてきたのに、少し違う。
今度のは、引き止めるだけじゃない。
離すな、と言っている手だった。
同時に、昇降口の上の蛍光灯が一斉に白く点く。
いや、白いんじゃない。
ホームの照明みたいに、冷たく、やけに整った光だった。
校舎の奥から、また拍手が鳴る。
家庭科室の匂いが濃くなる。
教室の笑い声が、廊下の角を曲がって近づいてくる。
その全部の上から、放送が落ちた。
『――まもなく、三番線ホームに列車がまいります。危ないですから、黄色い線の内側までお下がりください』
分かるのに、頭のほうが遅かった。
離したくなかった。
それはたぶん、怪異に連れていかれそうだったから、だけじゃない。
でも、その先を自分で拾ったら危ない気がして、俺は無理やり別の言葉を選んだ。
「……それで、今夜ずっと俺を守ってたの?」
理玖はすぐには答えなかった。
膝の上のペットボトルを一度だけ持ち直して、それから静かに口を開く。
「守ってた、というか」
「見張ってた?」
「それもあります」
こんな時なのに、妙に素直だ。
俺は少しだけ息を吐いて、それでも目はそらせなかった。
理玖は白い自販機の光の中で、まっすぐこっちを見たまま言う。
「助けてもらったからです」
去年の文化祭前夜。
放送室の前。
帰る理由がないまま立ち尽くしていた理玖を、俺が何でもない顔で引き戻した話が、さっき聞いたばかりだ。
「……去年の、恩返し?」
「はい」
短く頷いて、理玖は続けた。
「あと」
一拍置く。
「去年からずっと見てました」
「見てました、って」
思わずそのまま聞き返すと、理玖はほんの少しだけ目を伏せた。
「放送室から、先輩のこと、よく見えたので。文化祭が終わったあとも、先輩、だいたいどこかで誰かに呼ばれてたじゃないですか」
「結構人気者だからな」
「はい」
「そこは否定しろよ」
「否定できないです」
間髪入れずに返されて、変なところで少しだけ力が抜ける。
でも、次に落ちた理玖の声で、またすぐに胸の奥が落ち着かなくなった。
「呼ばれたら、先輩、ちゃんと行くので」
「……まあ」
「助かったって言われると、ちょっとだけうれしそうなのも」
どく、と心臓が鳴る。
「それ、見てたんだ」
「見てました」
あっさりだ。
あっさりなのに、逃げ場がない。
自販機の前の白い光がやけに明るい。
その中で、俺はペットボトルを握ったまま、どうにか軽い口調を探した。
「ずっと見られてたとか、恥ずかしすぎるだろ」
理玖の目が、ほんの少しだけ揺れる。
でも、今度は逃げなかった。
「助けるのは、恩返しだけじゃないです」
その一言で、空気が変わる。
たったそれだけなのに、自販機の低いモーター音まで遠くなった気がした。
俺は何か言わなきゃと思ったのに、喉がうまく動かない。
「……じゃあ、何」
ようやく出た声は、思ったより小さかった。
理玖は、ひどく落ち着いた顔をしていた。
落ち着いているのに、視線だけが妙にまっすぐで、逃がす気がない。
「……ずっと好きでした」
時間が、一瞬だけ止まる。
怪異に呼ばれた時みたいに足元が揺れるわけじゃない。
ただ、その短い言葉だけが、音もなく胸の真ん中に落ちた。
飾り気はなかった。
口説くみたいな甘さも、勢いもない。
ただ、事実を報告するみたいな声だった。
だから、余計に響いた。
「先輩が好きです」
二度目は、もっとはっきり聞こえた。
頭が追いつかない。
去年の文化祭前夜から。
あの何でもない一言から。
理玖はずっと覚えていて、ずっと見ていて、今夜ずっと俺を引き戻してきて。
その全部の理由の下に、今の「好き」がある。
理解した瞬間、さっきまでの家庭科室の灯りも、教室の声も、体育館の拍手も、全部まとめてかすんだ。
今夜いちばん危ないの、怪異じゃなくてこっちだろ。
「……そういうの、今言うかよ」
やっと絞り出した声は、まったく格好よくなかった。
でも理玖は笑わなかった。
「もう、ごまかせないので」
「ごまかしてくれたほうが、こっちは助かるんだけど」
「すみません」
謝るくせに、引っ込めない。
その潔さが、余計にずるい。
「でも、ごまかしたくないです」
低い声だった。
その一言で、また胸が鳴る。
俺はたまらず視線をそらして、手の中のペットボトルを見た。
ラベルの端が少し浮いている。
そんなどうでもいいところばかりが、変にはっきり見える。
「……ずっと、って」
「はい」
「去年の文化祭前夜から?」
「はい」
間がない。
一秒も迷わない。
「俺、覚えてなかったのに」
「知ってます」
「知ってて、好きとか言う?」
「言います」
「お前、三番線ホームより怖いよ?」
「今さらです」
いつもの調子みたいで、でも全然いつも通りじゃない。
理玖の声は落ち着いているのに、その下に隠しきれていない熱がある。
それが分かるくらいには、今の俺もだいぶ余裕がなかった。
「……なんで」
自分でも何を聞きたいのか、うまくまとまらないまま言葉が出る。
「なんで、俺なんだよ」
理玖は少しだけ目を細めた。
考えるみたいに、でも言葉を飾る気はない顔だった。
「先輩だからです」
「答えになってない」
「なってます」
「なってないだろ」
「最初は、助けてもらったからです」
理玖が静かに言う。
「でも、それだけなら、ここまで気にしません」
そこで一度、視線が俺の手元に落ちる。
さっきまでつないでいた手の熱が、思い出したみたいに蘇った。
「去年から、ずっと見てました。先輩が学校でどうしてるか。誰かに呼ばれてる時の顔とか、助かったって言われた時の顔とか、疲れてるのにちゃんと動くところとか」
「やめろ」
「何でですか」
「何か、普通に恥ずかしい」
「本当のことです」
また、それだ。
理玖は大げさな褒め方をしない。
きれいなことも言わない。
ただ見てきたことを、そのまま話す。
それに、ひどく動揺してしまう。
「それで気づいたら、あの時の恩返しをしたいとか、そういうのだけじゃなくなってました」
俺は顔を上げる。
理玖の喉が、小さく動く。
「助けるのは、恩返しだけじゃないです」
さっきと同じ言葉。
でも今度は、その意味がもう分かってしまう。
「先輩がいなくなるの、嫌なので」
心臓が、また鳴った。
家に帰れば終わる文化祭前夜。
役目が終われば、いなくなってもいいみたいに感じてしまう自分。
そういう弱さに寄ってくる怪異の話を、さっきまでしていたはずなのに。
今、俺を一番ぐらつかせてるのは、理玖のその一言だった。
「……待って」
情けないくらい、それしか出ない。
理玖は急かさなかった。
「返事は、今じゃなくていいです」
「え」
「今、無理だと思うので」
「分かってんじゃん」
「はい」
真顔で頷かれて、困る。
本当に困る。
「でも」
理玖がほんの少しだけ身を乗り出す。
距離が近くなるわけじゃないのに、その「でも」だけで息が詰まりそうになる。
「先輩を、連れていかせたくないんです」
まっすぐだった。
好きだから。
いなくなるのが嫌だから。
だから、怪異に渡したくない。
そう言ってるのと同じなのに、理玖はそこまで大げさな言い方をしない。
平熱のまま、事実だけを置く。
そのせいで、こっちは逃げられない。
「霧島」
名前を呼ぶ。
それだけで精一杯だった。
理玖は返事をしない。
ただ、目だけで続きを待っている。
何か言わなきゃと思う。
ありがとう、でも違う。
困る、でも違う。
嬉しい、も違う気がする。
そんなきれいに整理できるわけがない。
だって俺は今、さっきまでの全部を抱えたまま、いきなり「好き」を渡されたところなんだから。
「俺、今……」
そこまで言った瞬間だった。
ぶつ、と天井のスピーカーが鳴る。
一つじゃない。
昇降口の上も、廊下の先も、階段の踊り場も。
校舎中のスピーカーが、示し合わせたみたいに同時に震えた。
理玖がすっと立ち上がる。
俺も反射で顔を上げた。
次の瞬間、発車メロディみたいな音が、今までで一番大きく流れた。
『――まもなく、三番線ホームに最終列車がまいります』
ひやりとした声が、校舎全体に広がる。
『本日最後のご案内です。お帰りになりたくないお客様。手放したくないお客様。黄色い線の内側でお待ちください』
背筋が冷える。
お帰りになりたくないお客様。
手放したくないお客様。
今度の放送は、俺だけじゃなかった。
理玖も、ちゃんとそこに含まれていた。
『家庭科室方面、三年教室方面、体育館方面よりお越しのお客様は、そのまま案内表示に従ってお進みください』
その一言と同時に、ぞわ、と空気が変わる。
廊下の向こうから、だしの匂いがした。
味噌汁の湯気みたいな、あの家庭科室の匂いだ。
階上のほうからは、クラスの笑い声が降りてくる。
『朝比奈、来てくれよ』
『いてくれてよかった』
今日何度も聞いた声が、今度は校舎全体からにじみ出す。
遠く、体育館のほうからは拍手が聞こえた。
一度。
二度。
それから規則正しく、誰かを迎えるみたいに広がっていく。
全部だ。
家庭科室も、教室も、体育館も。
今夜、俺を引っぱったものが、全部いっぺんに来る。
「先輩」
理玖の声が、低く落ちた。
その声に反応するより先に、廊下の案内板がぶれた。
文化祭用に作った手書きの案内板も、教室のプレートも、壁に貼った矢印も。
文字がにじんで、白地に黒い、駅の表示みたいな書体へ変わっていく。
一枚。
また一枚。
そして、どれも同じ行き先を示した。
――三番線ホーム
喉の奥が、ひゅっと鳴る。
床を走っていた黄色い養生テープが、急に明るく見えた。
一本だけじゃない。
階段の上からも、特別棟の方からも、教室の並ぶ廊下からも、黄色い線が昇降口へ向かって集まってくる。
まるで、学校中の通路が、全部ひとつのホームにつながっていくみたいだった。
『文化祭前夜を、もう少し長くお楽しみになりたいお客様』
放送が続く。
『必要とされるままお残りになりたいお客様』
どく、と心臓が鳴る。
理玖の「好き」が、まだ胸の真ん中に刺さったままだ。
そこへ、今度は怪異が、俺の一番弱いところをなぞってくる。
『どうぞ、三番線ホームへ』
昇降口のガラスの向こうが、音もなく暗くなった。
さっきまで見えていたはずの下駄箱前の外灯も、自転車置き場もない。
代わりに、黒い夜の底みたいな空間が広がっている。
その奥で、遠く光が動いた。
列車の前照灯みたいに、白く。
金属が擦れる音がする。
レールのきしみみたいな、冷たい音だ。
風まで変わる。
夜の校庭の匂いじゃない。
鉄と埃が混じった、駅のホームの匂いがした。
「来ます」
理玖が短く言う。
その声でようやく身体が動く。
でも、俺の足はさっきまでみたいに勝手には前に出なかった。
出られなかった、の方が近い。
頭の半分は放送の方を聞いている。
でも、もう半分はまだ理玖の言葉のところに置き去りのままだ。
ずっと好きでした。
先輩が好きです。
だから、連れていかせたくないんです。
さっきまでなら、三番線ホームの声だけで動けたかもしれない。
でも今は、その前に理玖の声がある。
そのせいで、余計に混乱する。
「霧島、お前、今の」
返事。
その先を言わなきゃいけない気がするのに、うまく続かない。
理玖はもう一度、俺を見た。
怪異を警戒している時の顔なのに、さっきと同じ熱がまだ消えていない目だった。
「先輩、あとででいいです」
「でも」
「今は、こっちです」
短く言って、理玖が手を伸ばす。
その指先が、俺の手首じゃなく、手のひらを取る。
今夜何度も触れられてきたのに、少し違う。
今度のは、引き止めるだけじゃない。
離すな、と言っている手だった。
同時に、昇降口の上の蛍光灯が一斉に白く点く。
いや、白いんじゃない。
ホームの照明みたいに、冷たく、やけに整った光だった。
校舎の奥から、また拍手が鳴る。
家庭科室の匂いが濃くなる。
教室の笑い声が、廊下の角を曲がって近づいてくる。
その全部の上から、放送が落ちた。
『――まもなく、三番線ホームに列車がまいります。危ないですから、黄色い線の内側までお下がりください』



