放課後の学校は、うるさいくらいがちょうどいい。
文化祭前夜ともなれば、なおさらだった。
「朝比奈、ガムテ切れた!」
「先輩、これ貼る位置どこですか」
「湊、ステージ袖の机、ひとつ足りない!」
廊下の向こう、階段の下、教室の中。あちこちから名前を呼ばれて、俺は返事をしながら走り回っていた。
文化祭実行委員なんて、要するに雑務係だ。ポスターの確認、備品の移動、進行表の修正、トラブルの火消し。しかも今日は前日だから、普段なら見過ごせるようなことまで全部気になる。
でも、こういう忙しさは嫌いじゃない。
「はいはい、ガムテ今持ってく!貼る位置は黒板の横!机は今、視聴覚室から借りるから待ってて!」
返した瞬間、向こうから「助かる!」「ありがとう!」が飛んでくる。
そういう一言が、今日はいつもよりやたらと胸に残った。
忙しい。うるさい。全員、明日に向かって浮き足立ってる。
その真ん中にいられるのが、少しだけうれしい。
「おーい、便利屋実行委員長」
体育館前で振り向くと、同級生の早瀬陽斗が、腕に模造紙の筒を抱えたまま笑っていた。頬に赤い絵の具がついている。
「委員長じゃないし、便利屋でもない」
「いや十分便利屋。お前、今日だけで何回呼ばれてると思ってんの」
「数えてない」
「数える気もないだろ」
陽斗は呆れたように笑って、それから腕の中のクリアファイルを俺に差し出した。
「これ、放送室に持ってって。開会式の進行、修正版。さっき先生が変えた」
「また?もう三回目じゃん」
「先生、直前になると不安になるタイプだからな」
受け取ったファイルには、赤字がびっしり入っていた。どう見ても四回目がありそうな修正量だ。
「了解。ついでに放送の確認もしてくる」
「ついでに帰れよ。顔、ちょっと死んでる」
「え、まじ?」
「まじ。クマうっすらある」
「それは照明のせい」
「文化祭前夜の照明に謝れ」
言いながら、陽斗はふと少しだけ真面目な顔をした。
「……無理すんなよ、湊」
「してないって」
「してるやつほどそう言う」
はいはい、と軽く流しかけたところで、スマホが震えた。
ポケットから取り出すと、母さんから短いメッセージが来ている。
『今日遅い?帰れるなら洗濯物だけ取り込んでおいて。翔は先に食べさせてるね』
いつもの文面だった。
責める感じはない。ただ、やることがそこに並んでいるだけだ。
俺は画面を見たまま、親指を止めた。
返事を打とうとして、結局やめて、スマホをポケットに戻す。
陽斗がそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのかは分からなかった。ただ、さっきより少しだけやわらかい声で言った。
「ほんと、学校好きだよな、お前。特にイベント前」
「好き」
「即答かよ」
「だって、いいじゃん。みんな残ってて、どこ行っても準備してて、明日のことしか考えてない感じ」
「まあ、分からなくはない」
「この空気、終わるのもったいないんだよな」
口にしてから、少しだけ笑ってごまかした。
陽斗はそれ以上は何も言わず、模造紙の筒で俺の肩を軽く叩いた。
「放送室行ってこい。放送部の二年、待たせると怖そうだし。俺たちの方が、先輩なんだけどなぁ」
「霧島は怖くないだろ」
「無口で顔がいいやつは、だいたい怖く見える」
「偏見」
「じゃ、よろしく。終わったらちゃんと休めよ」
ひらひら手を振って、陽斗は体育館の中へ戻っていった。
入れ替わりに、金槌の音と誰かの笑い声が聞こえてくる。
その音を背中で聞きながら、俺は放送室のある特別棟へ向かった。
窓の外は、もう夕方の色を越えかけていた。
廊下には切った色紙の端が落ちていて、壁にはまだ貼り終えていない装飾が寄りかかっている。延長コードを固定するための黄色いテープが、床をまっすぐ走っていた。
足元に何本も伸びたその線が、妙に目につく。
校舎全体が、少しずつ夜に向かっている。
それでも完全に静かにはならないところが、今夜の学校らしい。
放送室の前まで来ると、半開きの扉の向こうから声が聞こえた。
「――開会式は午前九時より行います。ご来場の皆さまは、案内に従って……」
低くて、落ち着いた声。
無駄に響きがよくて、耳に残る声だ。
俺は扉に手をかける前に、少しだけその声を聞いていた。
機械越しなのに、不思議と近く感じる声だった。
扉を開ける。
「お疲れ、霧島」
「……お疲れさまです」
ミキサー卓の前に座っていた霧島理玖が、ヘッドホンを片耳だけずらしてこっちを見た。
二年。放送委員。
無口で、落ち着いていて、やたら声がいい。あと、顔が整っている。たぶん本人はそのへんを一切自覚していない。
机の上には明日の台本が何枚も並んでいて、赤いON AIRランプが小さく点いていた。
「これ、開会式の進行、修正版。先生から」
「ありがとうございます」
理玖は立ち上がってファイルを受け取った。指先が一瞬だけ触れそうになって、でも触れない。
受け取る動きまで無駄がなくて、見ていてちょっと面白い。
「また修正ですか?」
「また修正。たぶんまだ増える」
「……でしょうね」
そう言ってファイルを開く横顔が、妙に真面目だ。
俺はつい笑ってしまう。
「霧島、相変わらず声いいな」
「褒めても何も出ません」
「別に出してほしくて言ったわけじゃないけど」
「なら、ありがとうございます」
口調は淡々としているのに、ほんの少しだけ視線が泳いだ。
その瞬間だけ、急に年相応に見えて、なんだか少しだけ調子が狂う。
理玖は台本をざっと見てから、俺の顔を見た。
「先輩、今日ずっと走ってます?」
「え」
「顔、疲れてる」
「陽斗にも同じこと言われた」
「たぶん、本当に疲れた顔しているからです」
きっぱり言い切られて、思わず笑う。
すると理玖は、放送機材の脇に置いてあったペットボトルを俺の前に差し出した。
「座ってください。あと、これ飲んでください」
「え、いいの?」
「倒れられると困るので」
「困るんだ」
「困ります」
あまりに即答だったから、今度は笑うより先に少しだけ胸が変に鳴った。
なんだそれ、と茶化したいのに、理玖の顔が真面目すぎて言えない。
結局、俺は素直にパイプ椅子を引いて座った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
キャップを開けて一口飲む。冷えた水が喉を通って、ようやく自分が思ってたより疲れていたことに気づく。
理玖はまた卓の前に戻って、修正版の台本に赤ペンで印をつけ始めた。
「霧島は、まだしばらくここ?」
「全部の確認が終わるまで」
「そっか。じゃあ、お互い帰れない組だ」
「俺は帰れます」
「冷たいなあ」
「先輩が帰らないだけです」
さらっと返されて、ペットボトルを持ったまま笑う。
こういうところが、この後輩は妙に遠慮がない。でも嫌な感じがしないのは、言い方がまっすぐだからだと思う。
「まあ、今日はね。高校最後の文化祭前夜だし」
「……だから、帰りたくないんですか?」
「うん、ちょっと」
言い切ったあとで、なんとなく言い訳みたいに続けた。
「明日が始まったら、あとはもう本番で、一気に終わりに向かうじゃん。準備してる今が、一番文化祭って感じするし」
「…………」
「あとさ、今日の学校、好きなんだよ。どこ行っても誰かいて、手伝ってって呼ばれて、終わったら助かったって言われて。ちゃんとここにいられてる感じがするから」
少ししゃべりすぎたかな、と思って理玖を見る。
けれど笑われることはなくて、理玖は赤ペンを止めたまま、静かにこっちを見ていた。
「変かな」
「変じゃないです」
短い返事だった。
でも、それが思ったよりやさしく聞こえて、変に照れる。
ちょうどその時だった。
放送室のスピーカーが、ぶつ、と小さく鳴った。
理玖が手を止める。
俺も反射的に天井のスピーカーを見上げた。
次の瞬間、聞いたことのない発車メロディみたいな音が流れた。
「……え?」
文化祭用の音源でも、校内チャイムでもない。
どこかで聞いたことはある。でも、ここで流れるはずのない音だった。
メロディが途切れ、女とも男ともつかない平板な声が、やけに澄んだ音で告げる。
『――まもなく、三番線ホームに列車がまいります。危ないですから、黄色い線の内側までお下がりください』
背筋が、ひやりとした。
理玖は無言のまま立ち上がって、機材のスイッチをいくつか確認した。
でもスピーカーの声は止まらない。
『本日もご利用ありがとうございました。放課後、三番線ホームにご注意ください。お帰りでないお客様は、そのままお待ちください――』
ぶつ、と切れる。
放送室が急に静かになった。
さっきまで普通に聞こえていたはずの外の物音まで、ひどく遠い。
「……何、今の?」
「触らないでください」
俺の問いに答える前に、理玖が低く言った。
その声が妙に硬い。
「いや、触らないけど。誰かのいたずら?」
「違います」
即答だった。
しかも、さっきまでの落ち着いた声じゃない。ほんのわずかに、張りつめている。
理玖は扉のほうを見たまま、もう一度言った。
「先輩、そこから動かないでください」
その言い方に、冗談の空気はまったくなかった。
意味が分からないまま、俺は椅子から半分腰を浮かせる。
その時、廊下の向こうから、誰かの声が聞こえた。
「朝比奈先輩ー」
はっとして振り向く。
今の、たしかに聞き覚えがあった。
さっき体育館の前で俺を呼んでいた、一年の女子の声に似ていた気がする。
「え、呼ばれてる」
「違う」
理玖の返事より先に、また声がする。
「手伝ってください」
「湊、こっち」
「ありがとう、助かった」
重なる。
いくつもの声が、廊下の先から順番に近づいてくるみたいに聞こえる。
知っている声ばかりだ。
今日、何度も聞いた声。何度も返事をした声。
扉の向こうの廊下が、妙に明るく見えた。
さっき来た時は、ただの夕方の廊下だったはずなのに。
今は蛍光灯の白い光が床に長く落ちて、まっすぐ伸びた黄色いテープが、やけにくっきり見えている。
黄色い線。
頭の奥で、さっきのアナウンスがもう一度鳴った。
――危ないですから、黄色い線の内側まで。
「先輩!」
理玖が呼ぶ。
でも、その声が少し遠い。
廊下の先に、案内板みたいなものが見えた。
いつもは校内のお知らせが貼ってある場所だ。なのに今は、白地に黒い文字で、はっきりとこう見える。
――三番線ホーム。
心臓が、どくんと鳴る。
おかしい、と頭のどこかでは分かっていた。
学校にホームなんてあるわけがない。電車も来るはずがない。
それなのに、足が前に出た。
ホームに行けば、まだ終わらない気がした。
このざわざわした前夜も、誰かに呼ばれる感じも、「ありがとう」と言われる感じも、全部そのままでいてくれる気がした。
――帰らなくていい。
誰かが、すぐ耳元でそう言った気がした。
帰ったら、洗濯物を取り込んで、弟の食器を片づけて、明日の朝も早い。
それが嫌なわけじゃない。ただ、ドアを開けた瞬間に、この学校の空気は終わってしまう。
それが、少しだけ惜しかった。
――まだ、ここにいたい。
黄色い線の手前で、俺は立ち止まる。
廊下の先から、風みたいな音が近づいてくる。拍手にも似ていた。遠くで誰かが俺を待っているみたいに、規則正しく鳴っている。
「朝比奈先輩」
今度は、すぐ後ろで呼ばれた。
振り向く前に、手首を強く掴まれた。
「っ」
一気に身体が引かれる。
バランスを崩しかけた俺を支えるみたいに、理玖が腕を引いた。
そのまま、耳のすぐ近くで、低い声が落ちる。
「学校にホームなんてないでしょ」
その一言で、何かが弾けた。
見えていた案内板が、ただの掲示板に戻る。
黄色い線は、床に貼られた延長コード用のテープだ。
拍手みたいに聞こえていた音は、たぶんどこかの教室で机を動かしただけの音だった。
息が詰まる。
自分がどこまで歩きかけていたのか、遅れて理解して、背中がぞわっとした。
「……な、に……」
声がうまく出ない。
理玖は俺の手首を掴んだまま、真正面から顔をのぞきこんだ。
普段は静かな目が、今はまっすぐで、少し怖いくらい真剣だった。
「先輩、聞こえても返事しないで」
「霧島……」
「呼ばれても行かないでください」
手首を掴む指先が熱い。
痛いわけじゃないのに、その熱だけが妙に意識に残る。
理玖はたぶん、息を切らしていた。
走ったのか、それとも焦っていたのか。近い距離で見ると、いつもより年下に見えるはずなのに、今は逆に、どうしてか頼もしく見えた。
「俺が呼んだ時だけ、振り向いて」
どく、と心臓が跳ねた。
怖かったはずなのに、別の意味で一瞬息が止まる。
こんな状況で何を考えてるんだ、と自分で自分に呆れる。でも、耳の奥に残ったその言葉が、妙に離れない。
理玖のほうが先に我に返ったみたいに、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……すみません。強く掴みすぎました」
そう言って、やっと手が離れる。
離れた瞬間、手首のあたりだけが変に熱かった。
「いや、助かった。……たぶん」
「たぶんじゃ困ります」
「だって、何が起きたのか全然分かってない」
「分からなくていいです。とにかく、ついて行かなければ」
言い切ってから、理玖は一度だけ廊下の先を見る。
その横顔が、さっきまでよりずっと硬い。
「今の、何?」
「……夜の学校、たまに変な放送が混ざることがあるんです」
「たまに、で済ませるには怖くない?」
「怖いです」
真顔で返されて、変なところで笑いそうになる。
でも、さっきの感覚を思い出すと、本当に笑えなかった。
「霧島、知ってるみたいな言い方だな」
「少しだけ」
「少し、ね」
「今は説明してる時間ないです」
その言葉に、また背筋が冷える。
時間がないって、どういう意味だ。
理玖は俺を、放送室の中に入るよう促した。
赤いON AIRランプが、消えたままガラスに映っている。
「先輩」
「ん?」
「今夜は、一人で動かないでください」
「……そんなにやばい?」
「やばいです」
「即答だなあ」
「できれば、俺の近くにいてください」
最後の一言だけ、少し声が低くなった。
たぶん、意味は分かりやすい。危ないから一緒に行動しろ、ということだ。
それだけのはずなのに、さっき掴まれた手首がまた熱くなる。
「分かった。じゃあ、霧島の言うこと聞く」
「ちゃんと聞いてください」
「はいはい」
軽く返したつもりなのに、声が少し上ずった。
理玖はそんな俺をじっと見て、嘘をついていないか確かめるみたいに目を細める。
その時だった。
消えたはずのスピーカーが、また、ぶつ、と鳴った。
俺も理玖も同時に天井を見上げる。
赤いON AIRランプが、誰も触っていないのに、じわっと点いた。
放送室の空気が、ひやりと冷える。
次に流れた声を聞いた瞬間、俺は言葉を失った。
『――次は、家庭科室前。お出口は右側です。お忘れ物のないよう、ご注意ください』
文化祭前夜ともなれば、なおさらだった。
「朝比奈、ガムテ切れた!」
「先輩、これ貼る位置どこですか」
「湊、ステージ袖の机、ひとつ足りない!」
廊下の向こう、階段の下、教室の中。あちこちから名前を呼ばれて、俺は返事をしながら走り回っていた。
文化祭実行委員なんて、要するに雑務係だ。ポスターの確認、備品の移動、進行表の修正、トラブルの火消し。しかも今日は前日だから、普段なら見過ごせるようなことまで全部気になる。
でも、こういう忙しさは嫌いじゃない。
「はいはい、ガムテ今持ってく!貼る位置は黒板の横!机は今、視聴覚室から借りるから待ってて!」
返した瞬間、向こうから「助かる!」「ありがとう!」が飛んでくる。
そういう一言が、今日はいつもよりやたらと胸に残った。
忙しい。うるさい。全員、明日に向かって浮き足立ってる。
その真ん中にいられるのが、少しだけうれしい。
「おーい、便利屋実行委員長」
体育館前で振り向くと、同級生の早瀬陽斗が、腕に模造紙の筒を抱えたまま笑っていた。頬に赤い絵の具がついている。
「委員長じゃないし、便利屋でもない」
「いや十分便利屋。お前、今日だけで何回呼ばれてると思ってんの」
「数えてない」
「数える気もないだろ」
陽斗は呆れたように笑って、それから腕の中のクリアファイルを俺に差し出した。
「これ、放送室に持ってって。開会式の進行、修正版。さっき先生が変えた」
「また?もう三回目じゃん」
「先生、直前になると不安になるタイプだからな」
受け取ったファイルには、赤字がびっしり入っていた。どう見ても四回目がありそうな修正量だ。
「了解。ついでに放送の確認もしてくる」
「ついでに帰れよ。顔、ちょっと死んでる」
「え、まじ?」
「まじ。クマうっすらある」
「それは照明のせい」
「文化祭前夜の照明に謝れ」
言いながら、陽斗はふと少しだけ真面目な顔をした。
「……無理すんなよ、湊」
「してないって」
「してるやつほどそう言う」
はいはい、と軽く流しかけたところで、スマホが震えた。
ポケットから取り出すと、母さんから短いメッセージが来ている。
『今日遅い?帰れるなら洗濯物だけ取り込んでおいて。翔は先に食べさせてるね』
いつもの文面だった。
責める感じはない。ただ、やることがそこに並んでいるだけだ。
俺は画面を見たまま、親指を止めた。
返事を打とうとして、結局やめて、スマホをポケットに戻す。
陽斗がそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのかは分からなかった。ただ、さっきより少しだけやわらかい声で言った。
「ほんと、学校好きだよな、お前。特にイベント前」
「好き」
「即答かよ」
「だって、いいじゃん。みんな残ってて、どこ行っても準備してて、明日のことしか考えてない感じ」
「まあ、分からなくはない」
「この空気、終わるのもったいないんだよな」
口にしてから、少しだけ笑ってごまかした。
陽斗はそれ以上は何も言わず、模造紙の筒で俺の肩を軽く叩いた。
「放送室行ってこい。放送部の二年、待たせると怖そうだし。俺たちの方が、先輩なんだけどなぁ」
「霧島は怖くないだろ」
「無口で顔がいいやつは、だいたい怖く見える」
「偏見」
「じゃ、よろしく。終わったらちゃんと休めよ」
ひらひら手を振って、陽斗は体育館の中へ戻っていった。
入れ替わりに、金槌の音と誰かの笑い声が聞こえてくる。
その音を背中で聞きながら、俺は放送室のある特別棟へ向かった。
窓の外は、もう夕方の色を越えかけていた。
廊下には切った色紙の端が落ちていて、壁にはまだ貼り終えていない装飾が寄りかかっている。延長コードを固定するための黄色いテープが、床をまっすぐ走っていた。
足元に何本も伸びたその線が、妙に目につく。
校舎全体が、少しずつ夜に向かっている。
それでも完全に静かにはならないところが、今夜の学校らしい。
放送室の前まで来ると、半開きの扉の向こうから声が聞こえた。
「――開会式は午前九時より行います。ご来場の皆さまは、案内に従って……」
低くて、落ち着いた声。
無駄に響きがよくて、耳に残る声だ。
俺は扉に手をかける前に、少しだけその声を聞いていた。
機械越しなのに、不思議と近く感じる声だった。
扉を開ける。
「お疲れ、霧島」
「……お疲れさまです」
ミキサー卓の前に座っていた霧島理玖が、ヘッドホンを片耳だけずらしてこっちを見た。
二年。放送委員。
無口で、落ち着いていて、やたら声がいい。あと、顔が整っている。たぶん本人はそのへんを一切自覚していない。
机の上には明日の台本が何枚も並んでいて、赤いON AIRランプが小さく点いていた。
「これ、開会式の進行、修正版。先生から」
「ありがとうございます」
理玖は立ち上がってファイルを受け取った。指先が一瞬だけ触れそうになって、でも触れない。
受け取る動きまで無駄がなくて、見ていてちょっと面白い。
「また修正ですか?」
「また修正。たぶんまだ増える」
「……でしょうね」
そう言ってファイルを開く横顔が、妙に真面目だ。
俺はつい笑ってしまう。
「霧島、相変わらず声いいな」
「褒めても何も出ません」
「別に出してほしくて言ったわけじゃないけど」
「なら、ありがとうございます」
口調は淡々としているのに、ほんの少しだけ視線が泳いだ。
その瞬間だけ、急に年相応に見えて、なんだか少しだけ調子が狂う。
理玖は台本をざっと見てから、俺の顔を見た。
「先輩、今日ずっと走ってます?」
「え」
「顔、疲れてる」
「陽斗にも同じこと言われた」
「たぶん、本当に疲れた顔しているからです」
きっぱり言い切られて、思わず笑う。
すると理玖は、放送機材の脇に置いてあったペットボトルを俺の前に差し出した。
「座ってください。あと、これ飲んでください」
「え、いいの?」
「倒れられると困るので」
「困るんだ」
「困ります」
あまりに即答だったから、今度は笑うより先に少しだけ胸が変に鳴った。
なんだそれ、と茶化したいのに、理玖の顔が真面目すぎて言えない。
結局、俺は素直にパイプ椅子を引いて座った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
キャップを開けて一口飲む。冷えた水が喉を通って、ようやく自分が思ってたより疲れていたことに気づく。
理玖はまた卓の前に戻って、修正版の台本に赤ペンで印をつけ始めた。
「霧島は、まだしばらくここ?」
「全部の確認が終わるまで」
「そっか。じゃあ、お互い帰れない組だ」
「俺は帰れます」
「冷たいなあ」
「先輩が帰らないだけです」
さらっと返されて、ペットボトルを持ったまま笑う。
こういうところが、この後輩は妙に遠慮がない。でも嫌な感じがしないのは、言い方がまっすぐだからだと思う。
「まあ、今日はね。高校最後の文化祭前夜だし」
「……だから、帰りたくないんですか?」
「うん、ちょっと」
言い切ったあとで、なんとなく言い訳みたいに続けた。
「明日が始まったら、あとはもう本番で、一気に終わりに向かうじゃん。準備してる今が、一番文化祭って感じするし」
「…………」
「あとさ、今日の学校、好きなんだよ。どこ行っても誰かいて、手伝ってって呼ばれて、終わったら助かったって言われて。ちゃんとここにいられてる感じがするから」
少ししゃべりすぎたかな、と思って理玖を見る。
けれど笑われることはなくて、理玖は赤ペンを止めたまま、静かにこっちを見ていた。
「変かな」
「変じゃないです」
短い返事だった。
でも、それが思ったよりやさしく聞こえて、変に照れる。
ちょうどその時だった。
放送室のスピーカーが、ぶつ、と小さく鳴った。
理玖が手を止める。
俺も反射的に天井のスピーカーを見上げた。
次の瞬間、聞いたことのない発車メロディみたいな音が流れた。
「……え?」
文化祭用の音源でも、校内チャイムでもない。
どこかで聞いたことはある。でも、ここで流れるはずのない音だった。
メロディが途切れ、女とも男ともつかない平板な声が、やけに澄んだ音で告げる。
『――まもなく、三番線ホームに列車がまいります。危ないですから、黄色い線の内側までお下がりください』
背筋が、ひやりとした。
理玖は無言のまま立ち上がって、機材のスイッチをいくつか確認した。
でもスピーカーの声は止まらない。
『本日もご利用ありがとうございました。放課後、三番線ホームにご注意ください。お帰りでないお客様は、そのままお待ちください――』
ぶつ、と切れる。
放送室が急に静かになった。
さっきまで普通に聞こえていたはずの外の物音まで、ひどく遠い。
「……何、今の?」
「触らないでください」
俺の問いに答える前に、理玖が低く言った。
その声が妙に硬い。
「いや、触らないけど。誰かのいたずら?」
「違います」
即答だった。
しかも、さっきまでの落ち着いた声じゃない。ほんのわずかに、張りつめている。
理玖は扉のほうを見たまま、もう一度言った。
「先輩、そこから動かないでください」
その言い方に、冗談の空気はまったくなかった。
意味が分からないまま、俺は椅子から半分腰を浮かせる。
その時、廊下の向こうから、誰かの声が聞こえた。
「朝比奈先輩ー」
はっとして振り向く。
今の、たしかに聞き覚えがあった。
さっき体育館の前で俺を呼んでいた、一年の女子の声に似ていた気がする。
「え、呼ばれてる」
「違う」
理玖の返事より先に、また声がする。
「手伝ってください」
「湊、こっち」
「ありがとう、助かった」
重なる。
いくつもの声が、廊下の先から順番に近づいてくるみたいに聞こえる。
知っている声ばかりだ。
今日、何度も聞いた声。何度も返事をした声。
扉の向こうの廊下が、妙に明るく見えた。
さっき来た時は、ただの夕方の廊下だったはずなのに。
今は蛍光灯の白い光が床に長く落ちて、まっすぐ伸びた黄色いテープが、やけにくっきり見えている。
黄色い線。
頭の奥で、さっきのアナウンスがもう一度鳴った。
――危ないですから、黄色い線の内側まで。
「先輩!」
理玖が呼ぶ。
でも、その声が少し遠い。
廊下の先に、案内板みたいなものが見えた。
いつもは校内のお知らせが貼ってある場所だ。なのに今は、白地に黒い文字で、はっきりとこう見える。
――三番線ホーム。
心臓が、どくんと鳴る。
おかしい、と頭のどこかでは分かっていた。
学校にホームなんてあるわけがない。電車も来るはずがない。
それなのに、足が前に出た。
ホームに行けば、まだ終わらない気がした。
このざわざわした前夜も、誰かに呼ばれる感じも、「ありがとう」と言われる感じも、全部そのままでいてくれる気がした。
――帰らなくていい。
誰かが、すぐ耳元でそう言った気がした。
帰ったら、洗濯物を取り込んで、弟の食器を片づけて、明日の朝も早い。
それが嫌なわけじゃない。ただ、ドアを開けた瞬間に、この学校の空気は終わってしまう。
それが、少しだけ惜しかった。
――まだ、ここにいたい。
黄色い線の手前で、俺は立ち止まる。
廊下の先から、風みたいな音が近づいてくる。拍手にも似ていた。遠くで誰かが俺を待っているみたいに、規則正しく鳴っている。
「朝比奈先輩」
今度は、すぐ後ろで呼ばれた。
振り向く前に、手首を強く掴まれた。
「っ」
一気に身体が引かれる。
バランスを崩しかけた俺を支えるみたいに、理玖が腕を引いた。
そのまま、耳のすぐ近くで、低い声が落ちる。
「学校にホームなんてないでしょ」
その一言で、何かが弾けた。
見えていた案内板が、ただの掲示板に戻る。
黄色い線は、床に貼られた延長コード用のテープだ。
拍手みたいに聞こえていた音は、たぶんどこかの教室で机を動かしただけの音だった。
息が詰まる。
自分がどこまで歩きかけていたのか、遅れて理解して、背中がぞわっとした。
「……な、に……」
声がうまく出ない。
理玖は俺の手首を掴んだまま、真正面から顔をのぞきこんだ。
普段は静かな目が、今はまっすぐで、少し怖いくらい真剣だった。
「先輩、聞こえても返事しないで」
「霧島……」
「呼ばれても行かないでください」
手首を掴む指先が熱い。
痛いわけじゃないのに、その熱だけが妙に意識に残る。
理玖はたぶん、息を切らしていた。
走ったのか、それとも焦っていたのか。近い距離で見ると、いつもより年下に見えるはずなのに、今は逆に、どうしてか頼もしく見えた。
「俺が呼んだ時だけ、振り向いて」
どく、と心臓が跳ねた。
怖かったはずなのに、別の意味で一瞬息が止まる。
こんな状況で何を考えてるんだ、と自分で自分に呆れる。でも、耳の奥に残ったその言葉が、妙に離れない。
理玖のほうが先に我に返ったみたいに、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……すみません。強く掴みすぎました」
そう言って、やっと手が離れる。
離れた瞬間、手首のあたりだけが変に熱かった。
「いや、助かった。……たぶん」
「たぶんじゃ困ります」
「だって、何が起きたのか全然分かってない」
「分からなくていいです。とにかく、ついて行かなければ」
言い切ってから、理玖は一度だけ廊下の先を見る。
その横顔が、さっきまでよりずっと硬い。
「今の、何?」
「……夜の学校、たまに変な放送が混ざることがあるんです」
「たまに、で済ませるには怖くない?」
「怖いです」
真顔で返されて、変なところで笑いそうになる。
でも、さっきの感覚を思い出すと、本当に笑えなかった。
「霧島、知ってるみたいな言い方だな」
「少しだけ」
「少し、ね」
「今は説明してる時間ないです」
その言葉に、また背筋が冷える。
時間がないって、どういう意味だ。
理玖は俺を、放送室の中に入るよう促した。
赤いON AIRランプが、消えたままガラスに映っている。
「先輩」
「ん?」
「今夜は、一人で動かないでください」
「……そんなにやばい?」
「やばいです」
「即答だなあ」
「できれば、俺の近くにいてください」
最後の一言だけ、少し声が低くなった。
たぶん、意味は分かりやすい。危ないから一緒に行動しろ、ということだ。
それだけのはずなのに、さっき掴まれた手首がまた熱くなる。
「分かった。じゃあ、霧島の言うこと聞く」
「ちゃんと聞いてください」
「はいはい」
軽く返したつもりなのに、声が少し上ずった。
理玖はそんな俺をじっと見て、嘘をついていないか確かめるみたいに目を細める。
その時だった。
消えたはずのスピーカーが、また、ぶつ、と鳴った。
俺も理玖も同時に天井を見上げる。
赤いON AIRランプが、誰も触っていないのに、じわっと点いた。
放送室の空気が、ひやりと冷える。
次に流れた声を聞いた瞬間、俺は言葉を失った。
『――次は、家庭科室前。お出口は右側です。お忘れ物のないよう、ご注意ください』



