「明日にはもう賀之助に嫁ぐとはいえ、これからも、そなたは儂の娘だ。かしこまる必要はない」
「ですが……晃照様のおかげで、つつがなく嫁ぐことができます。このご恩は一生をもってしてもお返しできないほどで」
白猫を抱き上げて姿勢を正し、そのまま頭を下げると、晃照様はやれやれと呟いた。そうして、私の向かいに腰を下ろす。
「お菊、儂は恩を返したかったのだ」
「……え?」
「昔、お前の祖母に世話になってな。いつか、その恩を返したいと思っておった」
突然の告白に驚き、腕の中にあるぬくもりを少し強く抱きしめると、抗議するような鳴き声が聞こえてきた。
とっさに手を離せば、白猫は軽やかに飛び出して晃照様の膝へと移ってゆく。
「儂がまだ血気盛んな頃に、少々ヘマをしてな。傷を負い、生死をさまよったことがある。その時救ってくれたのが、お前の祖母、お園の妙薬だ」
「……おばあ様の妙薬?」
確かに、祖母は薬草にとても詳しかった。店に並ぶ薬は先祖代々受け継がれたものだけでなく、祖母が新たに作ったものも多い。
でも、命を救うような傷薬なんて、聞いたことがない。
お武家様が生死をさまようほどの傷を治してしまう薬があったら、きっと、伯父は銭儲けとして諸大名に売り込むだろう。売り込まなくたって、人々が買い求めそうだ。なにせ、瑞江戸の男は短気で頑固で、日常的に喧嘩だって起こす。武家の喧嘩ともなれば命がけだろう。
「でも、柳屋にそのような薬は……」
「ないだろう。お園は、あまりにも効きすぎるといっておった。戦国の世ならまだしも、太平の世には不要だとも。しかし、その薬のおかげで儂は命を繋げた。でなければ今頃、久世家は滅んでいただろう」
あまりにも規模の大きい話に唖然とし、思わず顔を上げると「ようやくこちらを見たな」と晃照様は満足そうに笑った。
「……まことに、ございますか?」
「ああ。その妙薬を記した秘伝書を預かっておる」
いいながら、晃照様は懐に手を差し込んだ。
差し出されたのは、薬方帳と書かれた帳面だった。その文字は間違いなく祖母の文字だ。
脳裏によぎったのは、祖母が座敷で帳面になにかを書き記す姿。いつからか見なくなって忘れていたけど、あの時、これをまとめていたのかもしれない。
受け取った帳面を捲り、懐かしい文字に胸がじわりと温かくなった。
「お菊が柳屋をでたら渡して欲しいといわれておった」
「……私に? 柳屋をでたら?」
「どうも、お園さんは息子と反りが合わなかったようだ。跡を継がせたくないともいっていた。だが、奉公人のことを思うと、店を畳めぬともな」
白猫の背を撫でながら、晃照様は「お菊の母に継がせたかったともいっておった」といい、穏やかに微笑んだ。
「迎えるのが遅うなり、相すまぬ。今までよう耐えたな」
賀之助さんと同じようなことを口にした晃照様の姿が、次第にぼやけてゆく。
祖母がどんな思いでこれを託したかはわからない。でも、晃照様は今まで大切に守ってくれていた。命を救うような妙薬の薬方なら、いくらでも欲しがる薬問屋があっただろう。それなのに、私が独り立ちできる日を待ち続けていた。
頬を伝う熱い雫が帳面を濡らさぬよう、祖母の薬方帳を胸に抱き締めた。
「なにからなにまで、ありがとうございます。晃照様がいなければ、私は柳屋を出ることすら」
「それは賀之助にいってやれ」
「……え?」
「あいつが、お菊の父になってくれと頭を下げに来てな」
涙を拭いながら晃照様を見ると、なんともお優しい眼差しを私に向けていた。それはまるで、我が子や孫を慈しむようで、祖母や母の顔を彷彿とさせる。
「儂にはすでに子がいるゆえ、奥方に養子を迎えたいというのは難しくての。しかし、賀之助の頼みとあれば別だからの」
なにかいいかけた晃照様が口角を上げると、白猫が会話を邪魔するように「なー」と鳴いた。
大きな手が白猫のしなやかな背を撫で、その小さなお尻をとんとんっと叩いた。
「しかし、蓋を開けたらどうだ。うちは男ばかりだからか、奥方も娘が欲しかったと、存外喜んでおる」
「……そうなのですか?」
「ああ。だから他人行儀にならず、父と呼んではくれまいか?」
少し照れたような笑顔に、気恥ずかしさが込み上げた。
こんなに優しくて美丈夫なお武家様が父だなんて、願ってもないことだ。だけど「お父様」と呼ぶのを躊躇った。
薬方帳を抱きしめたまま、親を呼んだ最後の日はいつだっただろうと、ふと思う。
俯いて声を詰まらせていると「あまり困らせてはなりませんよ」と柔らかな声がした。顔を上げれば、晃照様の奥方、お千代の方が佇んでいた。
「旦那様。たった五日で親と思えだなんて、無理な話でございます」
「昨晩、お前も母と呼ばれたいというてたではないか」
「それはそうでございますが……お菊、嫁いでからもお屋敷に参りなさい」
少し頬を染めたお千代の方は、私の側に膝をつくと、そっと私の手にその柔らかい手を重ねた。
「ですが……晃照様のおかげで、つつがなく嫁ぐことができます。このご恩は一生をもってしてもお返しできないほどで」
白猫を抱き上げて姿勢を正し、そのまま頭を下げると、晃照様はやれやれと呟いた。そうして、私の向かいに腰を下ろす。
「お菊、儂は恩を返したかったのだ」
「……え?」
「昔、お前の祖母に世話になってな。いつか、その恩を返したいと思っておった」
突然の告白に驚き、腕の中にあるぬくもりを少し強く抱きしめると、抗議するような鳴き声が聞こえてきた。
とっさに手を離せば、白猫は軽やかに飛び出して晃照様の膝へと移ってゆく。
「儂がまだ血気盛んな頃に、少々ヘマをしてな。傷を負い、生死をさまよったことがある。その時救ってくれたのが、お前の祖母、お園の妙薬だ」
「……おばあ様の妙薬?」
確かに、祖母は薬草にとても詳しかった。店に並ぶ薬は先祖代々受け継がれたものだけでなく、祖母が新たに作ったものも多い。
でも、命を救うような傷薬なんて、聞いたことがない。
お武家様が生死をさまようほどの傷を治してしまう薬があったら、きっと、伯父は銭儲けとして諸大名に売り込むだろう。売り込まなくたって、人々が買い求めそうだ。なにせ、瑞江戸の男は短気で頑固で、日常的に喧嘩だって起こす。武家の喧嘩ともなれば命がけだろう。
「でも、柳屋にそのような薬は……」
「ないだろう。お園は、あまりにも効きすぎるといっておった。戦国の世ならまだしも、太平の世には不要だとも。しかし、その薬のおかげで儂は命を繋げた。でなければ今頃、久世家は滅んでいただろう」
あまりにも規模の大きい話に唖然とし、思わず顔を上げると「ようやくこちらを見たな」と晃照様は満足そうに笑った。
「……まことに、ございますか?」
「ああ。その妙薬を記した秘伝書を預かっておる」
いいながら、晃照様は懐に手を差し込んだ。
差し出されたのは、薬方帳と書かれた帳面だった。その文字は間違いなく祖母の文字だ。
脳裏によぎったのは、祖母が座敷で帳面になにかを書き記す姿。いつからか見なくなって忘れていたけど、あの時、これをまとめていたのかもしれない。
受け取った帳面を捲り、懐かしい文字に胸がじわりと温かくなった。
「お菊が柳屋をでたら渡して欲しいといわれておった」
「……私に? 柳屋をでたら?」
「どうも、お園さんは息子と反りが合わなかったようだ。跡を継がせたくないともいっていた。だが、奉公人のことを思うと、店を畳めぬともな」
白猫の背を撫でながら、晃照様は「お菊の母に継がせたかったともいっておった」といい、穏やかに微笑んだ。
「迎えるのが遅うなり、相すまぬ。今までよう耐えたな」
賀之助さんと同じようなことを口にした晃照様の姿が、次第にぼやけてゆく。
祖母がどんな思いでこれを託したかはわからない。でも、晃照様は今まで大切に守ってくれていた。命を救うような妙薬の薬方なら、いくらでも欲しがる薬問屋があっただろう。それなのに、私が独り立ちできる日を待ち続けていた。
頬を伝う熱い雫が帳面を濡らさぬよう、祖母の薬方帳を胸に抱き締めた。
「なにからなにまで、ありがとうございます。晃照様がいなければ、私は柳屋を出ることすら」
「それは賀之助にいってやれ」
「……え?」
「あいつが、お菊の父になってくれと頭を下げに来てな」
涙を拭いながら晃照様を見ると、なんともお優しい眼差しを私に向けていた。それはまるで、我が子や孫を慈しむようで、祖母や母の顔を彷彿とさせる。
「儂にはすでに子がいるゆえ、奥方に養子を迎えたいというのは難しくての。しかし、賀之助の頼みとあれば別だからの」
なにかいいかけた晃照様が口角を上げると、白猫が会話を邪魔するように「なー」と鳴いた。
大きな手が白猫のしなやかな背を撫で、その小さなお尻をとんとんっと叩いた。
「しかし、蓋を開けたらどうだ。うちは男ばかりだからか、奥方も娘が欲しかったと、存外喜んでおる」
「……そうなのですか?」
「ああ。だから他人行儀にならず、父と呼んではくれまいか?」
少し照れたような笑顔に、気恥ずかしさが込み上げた。
こんなに優しくて美丈夫なお武家様が父だなんて、願ってもないことだ。だけど「お父様」と呼ぶのを躊躇った。
薬方帳を抱きしめたまま、親を呼んだ最後の日はいつだっただろうと、ふと思う。
俯いて声を詰まらせていると「あまり困らせてはなりませんよ」と柔らかな声がした。顔を上げれば、晃照様の奥方、お千代の方が佇んでいた。
「旦那様。たった五日で親と思えだなんて、無理な話でございます」
「昨晩、お前も母と呼ばれたいというてたではないか」
「それはそうでございますが……お菊、嫁いでからもお屋敷に参りなさい」
少し頬を染めたお千代の方は、私の側に膝をつくと、そっと私の手にその柔らかい手を重ねた。


