「人の身体には生気が満ちている。だが、死期が近づくとそれは徐々に流れでて枯れる。お菊には、その流れ出る様が見えたのだろう」
「で、でも、真黒な影はお母様たちの頭の上で人影のようになりました」
「それはおそらく、菩薩が二人を迎えに参った姿であろう」
「……菩薩様?」
呟いた瞬間、窓から風が吹き込み、階下から聞こえていた喧騒が消える。
祖母の部屋に飾られた掛け軸、後光がさす菩薩様の姿が、脳裏にまざまざ蘇った。
違う。あれはそんなんじゃなかった。
「だって、そんな、光り輝くようなお姿では……」
「死者を迎えるのが菩薩だ。生きる者がそうと知らず感じ取った時、理解が及ばぬものに恐怖を抱き錯覚してもおかしな話ではない」
私の手を握っていた賀之助さんは、そっと手を離したかと思えば、唐突に耳へかけていた眼鏡の紐を外した。
ガラスで歪まない世界が、目の前に広がる。
「お菊の母と祖母は、苦しんで世を去ったか?」
「……いいえ。とても安らかでした」
「であれば、きっと菩薩が迎えに来たのだ」
暖かな指が、私の涙を拭い去っていく。だけど、それでも涙は止まらず、つとつとと落ちて膝に丸い染みを残した。
「俺に気枯れが見えるか。黒い影はあるか?」
優しい声に首を振って応える。
そんなものは欠片もない。ないどころか、窓から差し込んだ陽射しを浴びて、その姿は眩しいくらいに輝いている。
「心配はいらない。俺が、お前を守ろう」
「……どうして」
逞しい腕に引き寄せられ、白檀の香りに包まれる。
「そうしたいと思ったからだ」
揺らがない返答に、心の中で繰り返し「どうして」と呟くも、それ以上は食い下がれなかった。
まるで幼子をあやすように背中を撫でる大きな手が、慈しんでくれた祖母のしわがれた指を思い出させる。全く違うのに、心地よい。
色々なことを、はぐらかされたような気もする。
でも、今は賀之助さんの腕の中で少しだけ甘えてもいいような気がした。
◇
久世様のお屋敷に上がって、養子縁組が成立したのは桜の季節をすぎた頃だった。
本来なら、ここから数か月かけて武家の娘として行儀作法を習い、花嫁修業をするものだろう。だけど、祝言を挙げるのによい日取りがあるようで、それが五日後らしい。それを逃すと一年後になるとか。
なんとも性急な話だけど、一年ここですごすよりは忙しい方が気も楽そうだと思ったけど、意外とそうでもなかった。
挨拶の手ほどきや婚礼衣装合わせをした後はそう難しいこともなかった。堅苦しいのは訪れるお身内の方に挨拶をするくらいで、後は客人よろしくすごしている。
賀之助さんも毎日のように顔を出し、元気にしているかと声をかけてくれるものだから、まったく祝言前という意識がもてずにいるくらいだった。
「……明日、夫婦になるのよね」
なんとも不思議な気分で縁側から大きな藤棚を眺めていると、かすかに「なー」と聞き覚えのある鳴き声が届いた。
茂みに視線を動かすと、青々とした植え込みの陰から白猫が現れた。
瑠璃色と琥珀色の瞳が私を捉えた。その色を忘れられようか。
「もしかして、この前の白猫……?」
脳裏に蘇ったのは、ぼろぼろになって井戸の前で孤独に打ちひしがれていた時、ふらっと現れた二又の猫だ。だけど、植え込みから出てきた白猫のすらりとした尻尾は一本だ。やっぱり、あの時は見間違えだったのか。
そうよね、猫又がいるのは物語の中だけよね。
ほっとしたような、少し残念なような、複雑な気持ちで縁側から手を伸ばして「おいで」と声をかけてみた。すると、白猫は私の言葉がわかるのか、小さな足でとととっと歩いて近づいてきた。
とっと軽やかに跳ね、縁側に上った白猫は、私の膝にすりすりと頭をこすりつけてくる。
「ずいぶん人になれているのね。もしかして、ここの子かしら」
小さな頭にそっと触れると、宝石のような眼が私に向いた。なにか訴えるようにじっと見つめたかと思えば、膝に乗ってきた。そうして、前足を伸ばして立ち上がると、小さな肉球が、ふにふにと胸元に押しつけられる。
あの時、白猫が見せた仕草が重なった。
「ごめんね。今日は酒饅頭もっていないのよ」
白猫の仕草が愛らしくて、ほっこりしながら美しい毛並みを撫でてみた。すると、白猫はころんっと膝でくつろぎ始めるではないか。
どうしたものかと硬直していると、ちらりと視線が送られた。もしかして撫でろといっているのか。
小さな頭や喉をそっと撫でれば、気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らす。
白猫の愛らしさに癒され、ふふっと笑みがこぼれた時だった。
「雪丸を手懐けたか」と声がした。振り返ると、私の養父となった久世晃照様が穏やかな微笑みを浮かべながら近づいてきた。慌てて姿勢を正そうにも、膝には白猫が乗ったままだ。
「このような姿で、申し訳ございません」
おろおろして挨拶もままならない状態を謝ると、晃照様がやれやれといわんばかりの顔で「他人行儀なことだな」と呟いた。
だって他人ですからと胸の内でいいかけたけど、少し寂しそうに笑っているお顔をみたら、なおさら申し訳なさが込み上げてきた。
「で、でも、真黒な影はお母様たちの頭の上で人影のようになりました」
「それはおそらく、菩薩が二人を迎えに参った姿であろう」
「……菩薩様?」
呟いた瞬間、窓から風が吹き込み、階下から聞こえていた喧騒が消える。
祖母の部屋に飾られた掛け軸、後光がさす菩薩様の姿が、脳裏にまざまざ蘇った。
違う。あれはそんなんじゃなかった。
「だって、そんな、光り輝くようなお姿では……」
「死者を迎えるのが菩薩だ。生きる者がそうと知らず感じ取った時、理解が及ばぬものに恐怖を抱き錯覚してもおかしな話ではない」
私の手を握っていた賀之助さんは、そっと手を離したかと思えば、唐突に耳へかけていた眼鏡の紐を外した。
ガラスで歪まない世界が、目の前に広がる。
「お菊の母と祖母は、苦しんで世を去ったか?」
「……いいえ。とても安らかでした」
「であれば、きっと菩薩が迎えに来たのだ」
暖かな指が、私の涙を拭い去っていく。だけど、それでも涙は止まらず、つとつとと落ちて膝に丸い染みを残した。
「俺に気枯れが見えるか。黒い影はあるか?」
優しい声に首を振って応える。
そんなものは欠片もない。ないどころか、窓から差し込んだ陽射しを浴びて、その姿は眩しいくらいに輝いている。
「心配はいらない。俺が、お前を守ろう」
「……どうして」
逞しい腕に引き寄せられ、白檀の香りに包まれる。
「そうしたいと思ったからだ」
揺らがない返答に、心の中で繰り返し「どうして」と呟くも、それ以上は食い下がれなかった。
まるで幼子をあやすように背中を撫でる大きな手が、慈しんでくれた祖母のしわがれた指を思い出させる。全く違うのに、心地よい。
色々なことを、はぐらかされたような気もする。
でも、今は賀之助さんの腕の中で少しだけ甘えてもいいような気がした。
◇
久世様のお屋敷に上がって、養子縁組が成立したのは桜の季節をすぎた頃だった。
本来なら、ここから数か月かけて武家の娘として行儀作法を習い、花嫁修業をするものだろう。だけど、祝言を挙げるのによい日取りがあるようで、それが五日後らしい。それを逃すと一年後になるとか。
なんとも性急な話だけど、一年ここですごすよりは忙しい方が気も楽そうだと思ったけど、意外とそうでもなかった。
挨拶の手ほどきや婚礼衣装合わせをした後はそう難しいこともなかった。堅苦しいのは訪れるお身内の方に挨拶をするくらいで、後は客人よろしくすごしている。
賀之助さんも毎日のように顔を出し、元気にしているかと声をかけてくれるものだから、まったく祝言前という意識がもてずにいるくらいだった。
「……明日、夫婦になるのよね」
なんとも不思議な気分で縁側から大きな藤棚を眺めていると、かすかに「なー」と聞き覚えのある鳴き声が届いた。
茂みに視線を動かすと、青々とした植え込みの陰から白猫が現れた。
瑠璃色と琥珀色の瞳が私を捉えた。その色を忘れられようか。
「もしかして、この前の白猫……?」
脳裏に蘇ったのは、ぼろぼろになって井戸の前で孤独に打ちひしがれていた時、ふらっと現れた二又の猫だ。だけど、植え込みから出てきた白猫のすらりとした尻尾は一本だ。やっぱり、あの時は見間違えだったのか。
そうよね、猫又がいるのは物語の中だけよね。
ほっとしたような、少し残念なような、複雑な気持ちで縁側から手を伸ばして「おいで」と声をかけてみた。すると、白猫は私の言葉がわかるのか、小さな足でとととっと歩いて近づいてきた。
とっと軽やかに跳ね、縁側に上った白猫は、私の膝にすりすりと頭をこすりつけてくる。
「ずいぶん人になれているのね。もしかして、ここの子かしら」
小さな頭にそっと触れると、宝石のような眼が私に向いた。なにか訴えるようにじっと見つめたかと思えば、膝に乗ってきた。そうして、前足を伸ばして立ち上がると、小さな肉球が、ふにふにと胸元に押しつけられる。
あの時、白猫が見せた仕草が重なった。
「ごめんね。今日は酒饅頭もっていないのよ」
白猫の仕草が愛らしくて、ほっこりしながら美しい毛並みを撫でてみた。すると、白猫はころんっと膝でくつろぎ始めるではないか。
どうしたものかと硬直していると、ちらりと視線が送られた。もしかして撫でろといっているのか。
小さな頭や喉をそっと撫でれば、気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らす。
白猫の愛らしさに癒され、ふふっと笑みがこぼれた時だった。
「雪丸を手懐けたか」と声がした。振り返ると、私の養父となった久世晃照様が穏やかな微笑みを浮かべながら近づいてきた。慌てて姿勢を正そうにも、膝には白猫が乗ったままだ。
「このような姿で、申し訳ございません」
おろおろして挨拶もままならない状態を謝ると、晃照様がやれやれといわんばかりの顔で「他人行儀なことだな」と呟いた。
だって他人ですからと胸の内でいいかけたけど、少し寂しそうに笑っているお顔をみたら、なおさら申し訳なさが込み上げてきた。


