逞しい両腕に包まれ、耳に少し早鐘を打つ胸の音が届いた。
「猫ばかりかまわず、少しは俺をかまえ」
いつも涼しい顔をしている賀之助さんとは思えない、少し拗ねたような言葉に胸が甘く痺れた。
「かまえって……妬いてるんですか?」
「あんな毛玉に妬いたりするものか」
ふんっと鼻を鳴らす賀之助さんが、どうにも可愛く見えてしまい、ついつい口元が緩んだ。すると、少し極まりが悪い顔で「なにが、おかしい」と問われた。
「だって、雪丸に妬いていたら……子を授かったら、どうなることやらと」
「しばらく川の字が作れなくてもいいだろう」
「あら。それなら、また衝立を立てないとですね」
ちょっと意地悪にいい返すと、賀之助さんは少し眉間にしわを寄せて「寂しいことをいうな」と呟いた。でもすぐに、なにを思ったのか、ああと呟いて項垂れる。
「賀之助さん?」
「俺はお菊に、寂しい思いをさせていたんだな」
「え……?」
「とんだ男に嫁いだと思っただろう」
申し訳なさそうに尋ねながら、賀之助さんは私の頬を撫でた。暗闇でも、その目が申し訳なさそうに逸らされるのがわかる。
確かに祝言を挙げてからしばらく、私じゃ釣り合わないのではないか、本当の夫婦になれるのかと悩むこともあった。でも今は違う。
「寂しかったですけど、そんなことは……ああ、でも、今はとんでもない旦那様だって思ってますよ」
「そうか。そうだな」
ほんの少し自嘲気味な声に、ちょっとだけ申し訳なく思いながら「勘違いしないでください」といって、話しを続けた。
「私と同じものを視て、不思議な術まで使って、人と妖が共に生きる世を作ろうとしているなんて高い志をもってるんですもの。とんでもない旦那様でしょ」
頬から離れそうになった手を掴めば、一瞬、戸惑ったように指がぴくりと反応した。
「高い志なんかじゃない。俺はただ、お菊が笑っていられる世にしたいだけだ。それに、俺も白雲斎朧の視る世を見てみたいと思った」
「白雲斎先生の視る世……」
脳裏に『あやかし往来』の文字が浮かんだ。
どこか浮世離れした登場人物と、美しい町中で生きる人ならざるモノ。相容れぬ存在が共に生きる物語を描いた繊細でいて力強い言葉の数々が脳裏に蘇る。
もしかして、白雲斎先生も視えているのではと思ったのは、一度や二度ではない。
視えている人は、意外といるのかもしれない。なのに私と同じように、視ないふりをして生きているのではないか。
「お菊、視てみたいだろう?」
賀之助さんの問いかけに頷き、その胸に頬を寄せた。
「先は長そうですね」
「そうだな……まあ、できることを熟すまでだ」
「裏家業のことですか?」
「それもだが、白雲斎朧の本をもっと広めなければな」
賀之助さんは「地本問屋だからな」といって笑うと、私の背に手を回した。大きな手が触れ、浴衣を通して背中へと熱がじわり広がってゆく。
「人魚の涙に、烏天狗と異国の霊鳥……当分、朧先生もネタが尽きないだろうな」
「……え? 待って。それってどういう意味ですか」
「どういうもなにも、そのままだ。新しい着想を得るには、新しいネタが必要だろう」
さも当然というようにいう賀之助さんだけど、私にとっては寝耳に水だ。
「だって、それって……私たちのことが本に書かれるってことじゃ」
「ははっ! そうじゃない。安心しろ、別にお菊を会わせたり、お菊の今までを話すわけじゃない」
「でも、ネタにするって」
「人魚の涙で声を失う。その声を取り戻すには誠に慕う男の接吻が必要。そういった呪物があると噂を聞いたと、朧先生に話すだけだ」
楽しそうに笑う賀之助さんは「それに」といって少し体を放すと、私の顎をそっと押し上げた。
すっかり暗闇にも目が慣れたからだろう。目の前にある賀之助さんの顔が、この上なく幸せそうな笑みを湛えていると、よくわかった。
「お菊のことだと知られて、見物人が集まっても困るだろう。それで本の一つでも買ってゆくなら話は別だが」
「……私に見世物になれと仰られるのですか?」
「ははっ、そう拗ねるな! だから、お菊のことと知られる必要はない。お前を見世物にする気はないし、お前に惚れるのは俺だけでいいだろう?」
慈しむ眼差しをむけられながら問われると、背筋が甘く痺れた。
賀之助さんの指が唇を撫でる。
「この先も、この唇に触れられるのは俺だけだ」
吐息が近づき、すぐ側で「なあ、そうだろう」と訊かれる。
全身が恥ずかしさで熱くなってゆく。
いつも涼しい顔をしているのに、どうして恥ずかしげもなく、そんなことを口にできるのだろう。
「お菊、返事は?」
「……わざわざ聞かないでください」
消えそうな声で「恥ずかしいです」と呟けば、小さく笑う声がして、唇に温かく柔らかいものが触れた。
吐息が吸われる。
それは、思っていることを全部吐き出せといわんばかりの、熱く深い接吻だった。
唇が離れてから、厚い胸に顔を埋めて「賀之助さんだけです」と応えれば、よくいえたと褒められた。それからといったら、眠りに落ちるまで幾度も唇を奪われ、背中を撫でられて夜をすごすことになった。
「またお前を巻き込むこともあろうが、必ず守る。だから俺だけを見ていろ、お菊」
賀之助さんのぬくもりを感じながら眠りに落ちる間際、優しい声が耳の奥に響いた。その声に応えようとしても、もう意識は半分くらい夢の中だった。
瞼を下ろしながら、朧気に「私も」と呟く。
どんなことが起きても、賀之助さんを信じましょう。この先もずっと、この人ならざるモノを視る目と共に、あなたを支えます。
「猫ばかりかまわず、少しは俺をかまえ」
いつも涼しい顔をしている賀之助さんとは思えない、少し拗ねたような言葉に胸が甘く痺れた。
「かまえって……妬いてるんですか?」
「あんな毛玉に妬いたりするものか」
ふんっと鼻を鳴らす賀之助さんが、どうにも可愛く見えてしまい、ついつい口元が緩んだ。すると、少し極まりが悪い顔で「なにが、おかしい」と問われた。
「だって、雪丸に妬いていたら……子を授かったら、どうなることやらと」
「しばらく川の字が作れなくてもいいだろう」
「あら。それなら、また衝立を立てないとですね」
ちょっと意地悪にいい返すと、賀之助さんは少し眉間にしわを寄せて「寂しいことをいうな」と呟いた。でもすぐに、なにを思ったのか、ああと呟いて項垂れる。
「賀之助さん?」
「俺はお菊に、寂しい思いをさせていたんだな」
「え……?」
「とんだ男に嫁いだと思っただろう」
申し訳なさそうに尋ねながら、賀之助さんは私の頬を撫でた。暗闇でも、その目が申し訳なさそうに逸らされるのがわかる。
確かに祝言を挙げてからしばらく、私じゃ釣り合わないのではないか、本当の夫婦になれるのかと悩むこともあった。でも今は違う。
「寂しかったですけど、そんなことは……ああ、でも、今はとんでもない旦那様だって思ってますよ」
「そうか。そうだな」
ほんの少し自嘲気味な声に、ちょっとだけ申し訳なく思いながら「勘違いしないでください」といって、話しを続けた。
「私と同じものを視て、不思議な術まで使って、人と妖が共に生きる世を作ろうとしているなんて高い志をもってるんですもの。とんでもない旦那様でしょ」
頬から離れそうになった手を掴めば、一瞬、戸惑ったように指がぴくりと反応した。
「高い志なんかじゃない。俺はただ、お菊が笑っていられる世にしたいだけだ。それに、俺も白雲斎朧の視る世を見てみたいと思った」
「白雲斎先生の視る世……」
脳裏に『あやかし往来』の文字が浮かんだ。
どこか浮世離れした登場人物と、美しい町中で生きる人ならざるモノ。相容れぬ存在が共に生きる物語を描いた繊細でいて力強い言葉の数々が脳裏に蘇る。
もしかして、白雲斎先生も視えているのではと思ったのは、一度や二度ではない。
視えている人は、意外といるのかもしれない。なのに私と同じように、視ないふりをして生きているのではないか。
「お菊、視てみたいだろう?」
賀之助さんの問いかけに頷き、その胸に頬を寄せた。
「先は長そうですね」
「そうだな……まあ、できることを熟すまでだ」
「裏家業のことですか?」
「それもだが、白雲斎朧の本をもっと広めなければな」
賀之助さんは「地本問屋だからな」といって笑うと、私の背に手を回した。大きな手が触れ、浴衣を通して背中へと熱がじわり広がってゆく。
「人魚の涙に、烏天狗と異国の霊鳥……当分、朧先生もネタが尽きないだろうな」
「……え? 待って。それってどういう意味ですか」
「どういうもなにも、そのままだ。新しい着想を得るには、新しいネタが必要だろう」
さも当然というようにいう賀之助さんだけど、私にとっては寝耳に水だ。
「だって、それって……私たちのことが本に書かれるってことじゃ」
「ははっ! そうじゃない。安心しろ、別にお菊を会わせたり、お菊の今までを話すわけじゃない」
「でも、ネタにするって」
「人魚の涙で声を失う。その声を取り戻すには誠に慕う男の接吻が必要。そういった呪物があると噂を聞いたと、朧先生に話すだけだ」
楽しそうに笑う賀之助さんは「それに」といって少し体を放すと、私の顎をそっと押し上げた。
すっかり暗闇にも目が慣れたからだろう。目の前にある賀之助さんの顔が、この上なく幸せそうな笑みを湛えていると、よくわかった。
「お菊のことだと知られて、見物人が集まっても困るだろう。それで本の一つでも買ってゆくなら話は別だが」
「……私に見世物になれと仰られるのですか?」
「ははっ、そう拗ねるな! だから、お菊のことと知られる必要はない。お前を見世物にする気はないし、お前に惚れるのは俺だけでいいだろう?」
慈しむ眼差しをむけられながら問われると、背筋が甘く痺れた。
賀之助さんの指が唇を撫でる。
「この先も、この唇に触れられるのは俺だけだ」
吐息が近づき、すぐ側で「なあ、そうだろう」と訊かれる。
全身が恥ずかしさで熱くなってゆく。
いつも涼しい顔をしているのに、どうして恥ずかしげもなく、そんなことを口にできるのだろう。
「お菊、返事は?」
「……わざわざ聞かないでください」
消えそうな声で「恥ずかしいです」と呟けば、小さく笑う声がして、唇に温かく柔らかいものが触れた。
吐息が吸われる。
それは、思っていることを全部吐き出せといわんばかりの、熱く深い接吻だった。
唇が離れてから、厚い胸に顔を埋めて「賀之助さんだけです」と応えれば、よくいえたと褒められた。それからといったら、眠りに落ちるまで幾度も唇を奪われ、背中を撫でられて夜をすごすことになった。
「またお前を巻き込むこともあろうが、必ず守る。だから俺だけを見ていろ、お菊」
賀之助さんのぬくもりを感じながら眠りに落ちる間際、優しい声が耳の奥に響いた。その声に応えようとしても、もう意識は半分くらい夢の中だった。
瞼を下ろしながら、朧気に「私も」と呟く。
どんなことが起きても、賀之助さんを信じましょう。この先もずっと、この人ならざるモノを視る目と共に、あなたを支えます。


