賀之助さんに抱えられたまま外へ出ると、すぐに地面へと下ろされた。そうして向かい合うと、少し怒った表情で名を呼ばれた。
「お菊、どうしてあんな無茶をしたんだ。そもそも、こんな場所まで一人で来る奴があるか」
声を荒げこそしないけど、明らかに怒っている。
こんな場所というのは、ここが妖のための長屋ということをいっているのだろう。それに関しては、知らなかったから仕方ない。そもそも、眼鏡を追いかけてきただけだもの。それをどうこう問われても……言い返したいことが次々に頭に浮かぶけど、どこから話したらいいのか。
「悪かったとは思うけど、悪いことをしようとしたわけじゃないし」
ぼそぼそと怒らなくてもと愚痴をこぼした時だった。ふわりと白檀の香りがして、気づけば賀之助さんの両腕に包み込まれていた。
「八雲堂に戻ったら、お前がいないといって皆が探していた」
「……え?」
「庭の裏木戸が開いたままだったと聞いて、お前が人攫いにでもあったのではと……生きた心地がしなかったぞ」
烏を追うのに夢中になり、お店のことをすっかり忘れていた。
私を抱きしめる賀之助さんの腕にほんの少し力が込められ、ずいぶん心配をかけたんだとわかる。
八雲堂の皆への申し訳なさも込み上げ、俯きながら「ごめんなさい」と呟くと、さらに強く抱きしめられた。
こんな往来で恥ずかしい。だけど、相変わらず人の声どころか気配すら感じなくて、しんと静まり返った空の下、賀之助さんと二人っきりのような気がしてくる。
体温と鼓動を感じながら、ここが妖の長屋でよかったと少し思いつつ、その背に両手を回した。
「無事でよかった」
「……それをいうなら、賀之助さんもです。あんな危ないことをして、もしも、宵一さんが賀之助さんを襲ったらどうされたんですか」
「その時はその時だ」
「またそんなことを! 賀之助さんが怪我でもしたら、私は……生きた心地がしません」
床に伏した母と、ものいわなくなった祖母の静かな死に顔を思いだし、胸が痛くなる。
賀之助さんにもしものことが起き、また一人ぼっちになったら……そう思うと、怖かった。
「俺に気枯れは視えないだろう? それなら、問題ない」
「……そういうことをいっているんじゃありません!」
「わかっている。ただ……好いた女を守れず生きるような生き地獄を味わいたくはない。俺の気も少しはわかれ」
少し呆れたようでどこか照れた顔をする賀之助さんは、それにと呟く。
「俺はそれほど弱くはない。とはいえ……烏天狗を相手にするのは、少々骨が折れた」
「……本当に、べらぼうなんだから!」
こっちの気持ちもわかってよと、賀之助さんの言葉を借りていいえば、賀之助さんの切れ長の瞳が見開かれた。
羽織をしっかりと握りしめれば背中が優しく叩かれ、穏やかになった声が「そういうお菊は、おきゃんがすぎる」といって笑った。
「しかし、あの男一人でも手こずったというに、ここからどうやって久世様の屋敷に向かえばいいか……」
少し体を離した賀之助さんは、連なる長屋の入り口を振り返った。そこでは、お粗末な木戸が風もないのにぎいぎいと音を立てていた。
「やっぱり、外には烏天狗がいるんですか?」
「ああ。ここらは屋敷に近いこともあって、数は少ないが……そういえば、お菊はどうやってここまで来たんだ」
「私の眼鏡を咥えた烏を追いかけていたら、いつの間にか。だいぶあちこち走らされました」
「なるほど……方違えのように走ったといったとこか。痕跡を辿るのに苦労したわけだ」
頷きながら、賀之助さんは腰に下がる帳面を引き上げた。それは、先ほど持っていたものとは違う。表紙には『幽世失せ物帳』と書かれている。
「お菊、眼鏡を出してくれ」
「……眼鏡を、ですか?」
「失せ物帳に記したら、必ず、確認をする決まりだからな」
ほらと促され、懐から紐の切れた眼鏡を出すと、賀之助さんは矢立から取り出した筆を帳面に走らせた。
──文享三年七月十三日夕七つ、妖長屋にて見つかる。かけ紐が切れているが、本体に破損はなし。持ち主である八雲堂のお菊の手に戻る。
すると、不思議なことに私の手の上で眼鏡が一瞬、ぽうっと蛍火のように発光した。でもそれは、賀之助さんが帳面を閉じると同時に消えてしまった。
今日は不思議なことばかりが起きる。
私がしげしげと帳面を見ていると、賀之助さんは「どうした」と事もなげに訊いてきた。
「さっぱりわからないのですが……その帳面に、どうして私の眼鏡のことが書かれているのでしょうか?」
「眼鏡を紛失したことにして、お前を探したんだ」
筆を戻した矢立を腰に挿し、賀之助さんは腰に下がる二つの帳面を叩いた。
「この帳面は幽世のものだけ記せる。紛失したもの、失踪した妖の名……こいつだけじゃ探せはしないが、まあ、色々と手を加えて、探すことができるようになる」
「……色々とは?」
少々興味をそそられ、食い入るように尋ねると、賀之助さんはどこか楽しそうに口角を上げた。
「いくらお菊でも、そいつは話せねぇな」
「秘密が多い人ですね」
「そう拗ねるな。その眼鏡に関していえば、紐に特徴があってな。その妖力を辿ったといえばいいか」
「妖力……やはり、この眼鏡は幽世のものなんですね。だから、かけると人ならざるモノが視えなくなる」
胸のあたりを押さえながら尋ねれば、賀之助さんは頷いた。だけど「その話はまた今度だ」といい、静まり返る長屋を振り返った。すると、壊れた障子戸の向こうから宵一さんと女性が出てきた。
「待たせてすまない。道案内を頼む」
二人がそろって頭を下げると、賀之助さんは「覚悟は決まったか」といって、帳面を引き出した。
「お菊、どうしてあんな無茶をしたんだ。そもそも、こんな場所まで一人で来る奴があるか」
声を荒げこそしないけど、明らかに怒っている。
こんな場所というのは、ここが妖のための長屋ということをいっているのだろう。それに関しては、知らなかったから仕方ない。そもそも、眼鏡を追いかけてきただけだもの。それをどうこう問われても……言い返したいことが次々に頭に浮かぶけど、どこから話したらいいのか。
「悪かったとは思うけど、悪いことをしようとしたわけじゃないし」
ぼそぼそと怒らなくてもと愚痴をこぼした時だった。ふわりと白檀の香りがして、気づけば賀之助さんの両腕に包み込まれていた。
「八雲堂に戻ったら、お前がいないといって皆が探していた」
「……え?」
「庭の裏木戸が開いたままだったと聞いて、お前が人攫いにでもあったのではと……生きた心地がしなかったぞ」
烏を追うのに夢中になり、お店のことをすっかり忘れていた。
私を抱きしめる賀之助さんの腕にほんの少し力が込められ、ずいぶん心配をかけたんだとわかる。
八雲堂の皆への申し訳なさも込み上げ、俯きながら「ごめんなさい」と呟くと、さらに強く抱きしめられた。
こんな往来で恥ずかしい。だけど、相変わらず人の声どころか気配すら感じなくて、しんと静まり返った空の下、賀之助さんと二人っきりのような気がしてくる。
体温と鼓動を感じながら、ここが妖の長屋でよかったと少し思いつつ、その背に両手を回した。
「無事でよかった」
「……それをいうなら、賀之助さんもです。あんな危ないことをして、もしも、宵一さんが賀之助さんを襲ったらどうされたんですか」
「その時はその時だ」
「またそんなことを! 賀之助さんが怪我でもしたら、私は……生きた心地がしません」
床に伏した母と、ものいわなくなった祖母の静かな死に顔を思いだし、胸が痛くなる。
賀之助さんにもしものことが起き、また一人ぼっちになったら……そう思うと、怖かった。
「俺に気枯れは視えないだろう? それなら、問題ない」
「……そういうことをいっているんじゃありません!」
「わかっている。ただ……好いた女を守れず生きるような生き地獄を味わいたくはない。俺の気も少しはわかれ」
少し呆れたようでどこか照れた顔をする賀之助さんは、それにと呟く。
「俺はそれほど弱くはない。とはいえ……烏天狗を相手にするのは、少々骨が折れた」
「……本当に、べらぼうなんだから!」
こっちの気持ちもわかってよと、賀之助さんの言葉を借りていいえば、賀之助さんの切れ長の瞳が見開かれた。
羽織をしっかりと握りしめれば背中が優しく叩かれ、穏やかになった声が「そういうお菊は、おきゃんがすぎる」といって笑った。
「しかし、あの男一人でも手こずったというに、ここからどうやって久世様の屋敷に向かえばいいか……」
少し体を離した賀之助さんは、連なる長屋の入り口を振り返った。そこでは、お粗末な木戸が風もないのにぎいぎいと音を立てていた。
「やっぱり、外には烏天狗がいるんですか?」
「ああ。ここらは屋敷に近いこともあって、数は少ないが……そういえば、お菊はどうやってここまで来たんだ」
「私の眼鏡を咥えた烏を追いかけていたら、いつの間にか。だいぶあちこち走らされました」
「なるほど……方違えのように走ったといったとこか。痕跡を辿るのに苦労したわけだ」
頷きながら、賀之助さんは腰に下がる帳面を引き上げた。それは、先ほど持っていたものとは違う。表紙には『幽世失せ物帳』と書かれている。
「お菊、眼鏡を出してくれ」
「……眼鏡を、ですか?」
「失せ物帳に記したら、必ず、確認をする決まりだからな」
ほらと促され、懐から紐の切れた眼鏡を出すと、賀之助さんは矢立から取り出した筆を帳面に走らせた。
──文享三年七月十三日夕七つ、妖長屋にて見つかる。かけ紐が切れているが、本体に破損はなし。持ち主である八雲堂のお菊の手に戻る。
すると、不思議なことに私の手の上で眼鏡が一瞬、ぽうっと蛍火のように発光した。でもそれは、賀之助さんが帳面を閉じると同時に消えてしまった。
今日は不思議なことばかりが起きる。
私がしげしげと帳面を見ていると、賀之助さんは「どうした」と事もなげに訊いてきた。
「さっぱりわからないのですが……その帳面に、どうして私の眼鏡のことが書かれているのでしょうか?」
「眼鏡を紛失したことにして、お前を探したんだ」
筆を戻した矢立を腰に挿し、賀之助さんは腰に下がる二つの帳面を叩いた。
「この帳面は幽世のものだけ記せる。紛失したもの、失踪した妖の名……こいつだけじゃ探せはしないが、まあ、色々と手を加えて、探すことができるようになる」
「……色々とは?」
少々興味をそそられ、食い入るように尋ねると、賀之助さんはどこか楽しそうに口角を上げた。
「いくらお菊でも、そいつは話せねぇな」
「秘密が多い人ですね」
「そう拗ねるな。その眼鏡に関していえば、紐に特徴があってな。その妖力を辿ったといえばいいか」
「妖力……やはり、この眼鏡は幽世のものなんですね。だから、かけると人ならざるモノが視えなくなる」
胸のあたりを押さえながら尋ねれば、賀之助さんは頷いた。だけど「その話はまた今度だ」といい、静まり返る長屋を振り返った。すると、壊れた障子戸の向こうから宵一さんと女性が出てきた。
「待たせてすまない。道案内を頼む」
二人がそろって頭を下げると、賀之助さんは「覚悟は決まったか」といって、帳面を引き出した。


