誰かが溜息をついて声をひそめ「面倒事は困るよ」と囁いた。それに頷くような声も上がる。
奉公人たちは、私が柳屋の姪だと知っている。祖母が生きていた頃は綺麗な着物を着ていたことも知っている。だから、あからさまな意地悪をしてこない。でも、私を庇うようなこともしない。そんなことをしたら、自分たちに矛先が向くからだ。
この大店に私の味方はいない。わかっていたことなのに。
込み上げた涙を堪えながら、井戸へと駆け寄った。
あんな嬉しかった懐の饅頭が、今では厄介な重みを与えてくる。こんなものと投げたい気持ちが芽生えるけど、空腹の辛さを知る私に、そんなことはできなかった。
涙で霞む夕闇の中、井桁の側に腰を下ろした。眼鏡を外し、そっと袖の端で涙を拭う。
牡丹にこんな姿を見られたら、またなにをいわれるだろう。
声を押し殺して泣いていると、私の足元になにか白いものがすり寄った。
薄暗い中でもぼんやりと浮き上がるそれは、小さく「なー」と鳴いた。
「……猫?」
すんっと鼻を鳴らすと、白い猫は二本の尻尾を揺らす。それを見て、ハッとした。慌てて眼鏡をかけると、さっき見たものは幻だといわんばかりに、尻尾が一本になった。
白猫は変わらずに「なー」と鳴いた。
ずいぶん毛並みがいいから、どこかの飼い猫だろうか。だけど、首に鈴や飾り紐が見当たらない。
「どこから迷い込んだの?」
尋ねてみるも、猫と言葉が通じる筈もない。
ふわふわの身体に手を伸ばしてみると、逃げださずにすり寄ってきた。
ずいぶん人慣れしているし、やっぱり飼い猫だろう。試しに抱き上げてみたが嫌がりもせず、またひと鳴きした。
日の落ちた井桁の影で、宝石のような眼が輝いた。右が瑠璃色で左が琥珀色をしている。左右の色が違う目なんて初めて見た。もしかしたら、名のあるお武家様が飼われているのかもしれない。
「ご主人が心配しているだろうからお帰り」
そういって地面に戻そうとすれば、白猫は前足で私の胸元をふみふみと押した。地面に下ろしても、また膝に上がって胸元へと前足を伸ばす。
「……もしかして、お腹が空いてるの?」
酒饅頭の匂いがしたのだろうか。
猫が饅頭を食べるなんていうのは聞いたことがない。だけど、物は試しと思って包みを引っ張りだすと、白猫は嬉しそうに鳴いた。
試しに饅頭を一つ、地面に転がしてみる。すると、白猫は尻尾を振って饅頭に嚙り付いたではないか。
「美味しいかい?」
人の言葉なんてわからないだろうにと思いながら尋ねると、白猫は「なー」と応える。もう一個食べるかと訊ねようとした時、勝手口から誰かがこちらを覗いた。
慌てて残った饅頭を懐に押し込めて立ち上がり、台所へと走って戻った。
伯父と牡丹、それと客人である賀之助さんにお膳が運ばれ、奉公人たちの夕餉の用意も終わった頃だった。器や釜を洗うために土間で控えていると、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「お菊、お菊はいるかい!?」
顔面蒼白で走り込んできたのは、古参の女中だった。
「ここにいます」
「お菊、あんたなにを仕出かしたんだい!?」
「……え?」
「八雲堂の若旦那様が、お菊を呼ぶよういわれたんだよ」
「……賀之助さんが?」
「とにかく、旦那様と牡丹お嬢様の機嫌が悪くなる前に、早く来ておくれ!」
いわれるがまま土間から上がって足を雑巾で擦っていると、早くしろとせっつかれ、腕を引っ張り上げられた。そのまま引きずられるようにして、客間に続く縁側へと向かった。
ひやりとした板の間に膝をつき、両手を揃えて頭を下げると、女中が「お菊様をお連れしました」といった。こんな時ばかり、様をつけなくたっていいのに。
おかしいやら悲しいやらで黙ったまま頭を下げていると、客間と縁側を隔てる障子が静かに開けられた。
「若旦那、お菊がなにかご迷惑をおかけしたのでしょうか?」
伯父の低い声から不愉快さが伝わってきた。
また叩かれるのだろうかと思うと、板の間についた指先が小刻みに震えた。
顔を下げたままじっと身構えていると、賀之助さんは伯父の問いに返さず「お菊、そこは寒いだろう」と、私に声をかけてきた。顔を上げずに黙る私を見て、寒くて震えていると勘違いしたのだろうか。
汚れた小袖姿で座敷に上がったりしたら、後で伯父にどんな酷い仕打ちをされるか、わかったもんじゃない。
「……お気遣いありがとうございます」
「俺の横へこい」
「水仕事をしていましたので、座敷を汚してしまいます」
ご勘弁をというと、衣擦れの音がした。そうして、すぐ横で縁側の板がぎしりと鳴った。
ふわりと白檀の香りがして、釣られるように横を見れば、そこに深い藍染の羽織を身にまとった賀之助さんが座っていた。
奉公人たちは、私が柳屋の姪だと知っている。祖母が生きていた頃は綺麗な着物を着ていたことも知っている。だから、あからさまな意地悪をしてこない。でも、私を庇うようなこともしない。そんなことをしたら、自分たちに矛先が向くからだ。
この大店に私の味方はいない。わかっていたことなのに。
込み上げた涙を堪えながら、井戸へと駆け寄った。
あんな嬉しかった懐の饅頭が、今では厄介な重みを与えてくる。こんなものと投げたい気持ちが芽生えるけど、空腹の辛さを知る私に、そんなことはできなかった。
涙で霞む夕闇の中、井桁の側に腰を下ろした。眼鏡を外し、そっと袖の端で涙を拭う。
牡丹にこんな姿を見られたら、またなにをいわれるだろう。
声を押し殺して泣いていると、私の足元になにか白いものがすり寄った。
薄暗い中でもぼんやりと浮き上がるそれは、小さく「なー」と鳴いた。
「……猫?」
すんっと鼻を鳴らすと、白い猫は二本の尻尾を揺らす。それを見て、ハッとした。慌てて眼鏡をかけると、さっき見たものは幻だといわんばかりに、尻尾が一本になった。
白猫は変わらずに「なー」と鳴いた。
ずいぶん毛並みがいいから、どこかの飼い猫だろうか。だけど、首に鈴や飾り紐が見当たらない。
「どこから迷い込んだの?」
尋ねてみるも、猫と言葉が通じる筈もない。
ふわふわの身体に手を伸ばしてみると、逃げださずにすり寄ってきた。
ずいぶん人慣れしているし、やっぱり飼い猫だろう。試しに抱き上げてみたが嫌がりもせず、またひと鳴きした。
日の落ちた井桁の影で、宝石のような眼が輝いた。右が瑠璃色で左が琥珀色をしている。左右の色が違う目なんて初めて見た。もしかしたら、名のあるお武家様が飼われているのかもしれない。
「ご主人が心配しているだろうからお帰り」
そういって地面に戻そうとすれば、白猫は前足で私の胸元をふみふみと押した。地面に下ろしても、また膝に上がって胸元へと前足を伸ばす。
「……もしかして、お腹が空いてるの?」
酒饅頭の匂いがしたのだろうか。
猫が饅頭を食べるなんていうのは聞いたことがない。だけど、物は試しと思って包みを引っ張りだすと、白猫は嬉しそうに鳴いた。
試しに饅頭を一つ、地面に転がしてみる。すると、白猫は尻尾を振って饅頭に嚙り付いたではないか。
「美味しいかい?」
人の言葉なんてわからないだろうにと思いながら尋ねると、白猫は「なー」と応える。もう一個食べるかと訊ねようとした時、勝手口から誰かがこちらを覗いた。
慌てて残った饅頭を懐に押し込めて立ち上がり、台所へと走って戻った。
伯父と牡丹、それと客人である賀之助さんにお膳が運ばれ、奉公人たちの夕餉の用意も終わった頃だった。器や釜を洗うために土間で控えていると、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「お菊、お菊はいるかい!?」
顔面蒼白で走り込んできたのは、古参の女中だった。
「ここにいます」
「お菊、あんたなにを仕出かしたんだい!?」
「……え?」
「八雲堂の若旦那様が、お菊を呼ぶよういわれたんだよ」
「……賀之助さんが?」
「とにかく、旦那様と牡丹お嬢様の機嫌が悪くなる前に、早く来ておくれ!」
いわれるがまま土間から上がって足を雑巾で擦っていると、早くしろとせっつかれ、腕を引っ張り上げられた。そのまま引きずられるようにして、客間に続く縁側へと向かった。
ひやりとした板の間に膝をつき、両手を揃えて頭を下げると、女中が「お菊様をお連れしました」といった。こんな時ばかり、様をつけなくたっていいのに。
おかしいやら悲しいやらで黙ったまま頭を下げていると、客間と縁側を隔てる障子が静かに開けられた。
「若旦那、お菊がなにかご迷惑をおかけしたのでしょうか?」
伯父の低い声から不愉快さが伝わってきた。
また叩かれるのだろうかと思うと、板の間についた指先が小刻みに震えた。
顔を下げたままじっと身構えていると、賀之助さんは伯父の問いに返さず「お菊、そこは寒いだろう」と、私に声をかけてきた。顔を上げずに黙る私を見て、寒くて震えていると勘違いしたのだろうか。
汚れた小袖姿で座敷に上がったりしたら、後で伯父にどんな酷い仕打ちをされるか、わかったもんじゃない。
「……お気遣いありがとうございます」
「俺の横へこい」
「水仕事をしていましたので、座敷を汚してしまいます」
ご勘弁をというと、衣擦れの音がした。そうして、すぐ横で縁側の板がぎしりと鳴った。
ふわりと白檀の香りがして、釣られるように横を見れば、そこに深い藍染の羽織を身にまとった賀之助さんが座っていた。


