八雲堂あやかし綴~しゃれこうべ娘と呼ばれた私ですが、地本問屋の若旦那に溺愛されてるようです~

 なにが起きたのか、すぐに理解することはできなかった。
 いつの間に現れたのか、目の前には墨で描かれた狐のような生き物がいた。ふさふさの大きな尻尾を揺らし、板の間に足をかける。
 宵一さんは女性を背に庇うようにして、じりじりと後ずさった。

 唸り声が発せられると、浮かんでいた墨色の火が、宵一さんと女性に向かって放たれた。

「──!? やめてっ!」

 止めようよして墨狐に伸ばした手が、後ろからぬっと現れた手に捕まれた。ぐんっと引っ張られて後ずさると、肩がどさりと誰かにぶつかった。

「下がれ、お菊」

 静かで力強い声が降ってきた。見上げれば、まっすぐ前を睨む賀之助さんの顔があった。

「……賀之助さん。どうして、ここに」
「話は後だ。今すぐここを出て、久世様の屋敷へ走れ」

 私を長屋の外に押し出した賀之助さんは、腰に挿していた矢立を振ると小筆を取り出した。そうして、持っていた帳面にその筆先を走らせる。
 墨の灯火がいくつも帳面から浮かび上がる。それは、賀之助さんが「喰らえ!」と叫ぶと、墨狐のところに飛んでいき、大きな口にばくりと食べられた。

 なにが起きているの。

 荒唐無稽にもほどがある。もしかして夢でも見ているのだろうか。
 墨狐の背が逆立ち、その口から大きな墨の火だるまが現れ、宵一さんに向かって放たれた。だが、宵一さんはどこからともなく錫杖を持ち出し、一振りで襲いくる火を振り払ったではないか。

 びしゃりと音を立て、朽ちた長屋に墨が叩きつけられる。

「ゆけ、お菊。そう長くはもたぬ!」

 叫びながら、賀之助さんは再び筆を走らせた。
 なにが起きてるというのか。
 烏天狗だ、神の使いだと、わからないこと続きだったけど、賀之助さんがあんな化け物を操っていることが、一番の衝撃だった。ただ、私を守ろうとしているのだろうことは伝わってくる。でもそれは、大いなる勘違いだ。

「待って、違うの……違うの、賀之助さん!」

 その背に縋りつくも、賀之助さんは振り向かない。厳しい声が「ゆけ!」と繰り返すばかりだ。
 立ちはだかる背の向こうで、墨狐に錫杖が振り下ろされるのが見えた。

「話を聞いて、賀之助さん!!」

 ちっとも振り向こうとしない賀之助さんの背を叩いた時だった。錫杖が叩きつけられる音と、ギャンッと鳴き声がして、賀之助さんの呻く声がした。

 このままじゃダメだ。

 唇を噛み、賀之助さんの背かから手を離した私は、思い切って地面を蹴った。上げられた彼の袖の下を潜り、墨まみれになった土間を抜ける。あられもなく着物の裾をまくり上げ、板の間に飛び上がった。

「お菊!? 戻るんだ!」

 止める声をかまわず、唸り声をあげる墨狐の前に飛び出した。

「宵一さん、待って! お願い、話をしましょう!!」
「襲いくる者は排除する。たとえそれが、弱き人であろうとも」
「違うの。彼は私を守ろうとしただけなの。そうですよね、賀之助さん!」

 私の叫びに「わかっているなら、戻れ!」と叫ぶ声がし、背後でざりっと土間を踏む音がした。

「宵一さん。彼が、貴方の探している八雲堂の主です! こんなことしたら、烏天狗たちの思うつぼよ!!」

 振り上げられた錫杖が揺れ、宵一さんの黒い瞳が見開かれた。すると、背中に庇われていた女性が後ろからしがみついた。白い翼が広がり、宵一さんを包み込もうとする。
 錫杖が消え、宵一さんの口から小さく歯ぎしりが零れた。

 賀之助さんを振り返り、宵一さんたちを庇うように、両手を広げた。

「彼らは悪くないの。お願いだから、話を聞いて!」
「……お菊? なにをいっているんだ。その男は、異国の妖を売ろうとしている」

 帳面を開き、筆を持ったままの賀之助さんは「こちらに来るんだ」と、少し厳しい声でいった。

「烏天狗が、そういったの?」
「そうだ。瑞江戸の秩序を守る烏天狗一族にあるまじき咎人(とがびと)だ」
「嘘よ! どうして、烏天狗のいっていることが正しいっていえるの? 宵一さんたちの話を聞きもしないで!」
「それは……」

 一瞬、賀之助さんの双眸に迷いが浮かんだ。

「もしも、彼らが先に相談してたら、賀之助さんは信じなかったの? 二人は怪我をしてまで、八雲堂へ向かおうとしてたのよ。賀之助さんを頼ろうとしていたのよ!!」
 
 今の私には、願うことしかできない。信じてと訴えること以外、なにも方法が浮かばなかった。

 非力な自分に涙が込み上げる。声が出るのに、どうして伝わらないのだろうかと、不甲斐なさばかりが胸を重くする。だけど、ここで引き下がるわけにはいかない。
 だって、信じている。賀之助さんは、きっと私の言葉を聞いてくれるって。

 埃と墨の匂いを深く吸い込み、意を決して「とんだ、べらぼうだわ!」と叫んだ。
 賀之助さんの切れ長の瞳が、驚きに見開かれた。

「そんなに頭が固いんじゃ、売れる本なんて作れないわね。暖簾を畳んだらどうかしら!?」
「……なんだと?」
「戯作者の声が聞けても、外の声が聞けないなら、それまでよ。烏天狗だろうが、異国の女だろうが……この瑞江戸で生きているなら、八雲堂のお客様になりうる人よ」

 矢継ぎ早に訴える私を、賀之助さんは口一文字になって見ていた。
 私はまだまだ店のことをわかっていない。でも……賀之助さんがたくさんの人と関わって、いろんな声を聞いて本を作っているのを知っている。なにも知らない私の意見だって聞こうとしたのよ。
 話を聞かなくなったら、終わってしまう。

「今、起きていることから目を逸らさないで、賀之助さん!」

 唇を噛んで見つめ返すと、賀之助さんは手に持っていた帳面を畳んだ。
 ぱたんと小さな音が響くと、不思議なことに目の前にいた墨狐が消えた。それに、長屋のいたる所に飛び散った墨や、私の手や足についていた墨も、嘘のように消えた。

 筆を矢立に納めた賀之助さんは「話を聞けばいいのだな」と、ため息をこぼすようにいった。