八雲堂あやかし綴~しゃれこうべ娘と呼ばれた私ですが、地本問屋の若旦那に溺愛されてるようです~

 眼鏡が男の手に落ちると、烏は何事もなかったように飛び立ち、私の横を抜けて外へ出ていった。
 朽ちた障子戸の向こうに烏の羽音が遠ざかる。隙間風が三尺ばかりの土間に吹き込み、煽られた土埃から古びた香りが立ち上がった。

 人ならざるものが、今、目の前にいる。たった九尺ばかりの朽ちた長屋の一室で肩を寄せ合う彼らが、私を探るようにじっと見ている。
 どうしよう、言葉は通じるのだろうか。妖怪って、人を食べるのもいるよね。烏天狗って、どんな妖怪だったかしら。不安とともに疑問が思考を埋め尽くしていく。つい先日に読んだ白雲斎先生の本を思い出そうとするが、恐怖も伴っているからか、美しい一文が一つも出てこなかった。

 一目散に逃げ出すべきだったのかもしれない。でも、大切な眼鏡を置いていくなんて、できなかった。
 若者の握る眼鏡が、かすかだけど光った。

「あ、あの……その眼鏡、私のです。返してください」

 勇気を振り絞って話しかければ、若者がゆっくりと立ち上がった。
 一段上がる朽ちた板の間から見下ろされ、得も言われぬ威圧感に震えあがりそうになる。
 じりっと足を引くと、眼鏡が差し出された。

「やはり、私たちが視えるのだな?」
「え……それは、その」

 若者に訊かれたことで、彼らが人の目に映らない人ならざるモノだと確信した。だとすると、こうして言葉が通じるのも不思議な話だ。

 あまりの状況で、なにから尋ねたらいいのか戸惑っていると、青年は「よく来てくれた」といった。

 対話を求められているようだ。だけど、得体のしれない相手と情状況に足がすくんで、指先が震える。どうしたらいいのだろうと躊躇していると、目の前で私の眼鏡がきらりと光った。
 息を呑み、差し出される眼鏡を受け取った。

「貴方は妖怪、よね。どうして人の言葉が、わかるの?」
「瑞江戸で生まれ育った烏天狗だからだ」

 低い声で紡がれる言葉は紛れもなく人の言葉だし、そこに敵意も感じられない。
 それに、さっきは「よく来てくれた」といっていた。私をここに招いたという意味なら、あの烏を追いかけていた時に案内されているようだと感じたことも、腑に落ちる。

「……私になにか、ご用ですか?」

 逃げ出したい気持ちを堪えて尋ねれば、若者は頷いた。

「手荒な方法をとったのは申しわけなく思う。だが……」

 真っ白な翼を持つ女性を肩越しにちらりと見た若者は、朽ちた板の間に腰を下ろして胡坐をかくと、両膝に手をついて頭を下げた。

「八雲堂の主に会わせてほしい 。主に、久世の屋敷への案内役を頼みたい」
「久世様の……どういうことですか? それに、私が八雲堂の者だと知ってここまで連れてきたというなら、店の場所は知っているんですよね?」

 だったら直接訪ねてくればいいのではないか。
 私に視えるのかと尋ねるくらいだ。町人に姿を視られる心配だってないだろう。翼があるんだし、暖簾をくぐらなくても、雨戸をつついた烏たちのように屋根から入ってくればいい。

「知っておる。だが、傷を負った彼女を連れて向かうのが難しかった」

 静かに若者の側へ寄ってきた女性は、心細そうな表情で彼を見つめている。そっと白い手が彼の山伏のような装束に触れると、骨ばった大きな手が重ねられた。彼らはもしかして、夫婦なのだろうか。
 こっそり姿を窺うと、女性の真っ白な羽根がはらりはらりと落ちているのに気づいた。それは朽ちた板の間に触れると、まるで川面に映った花火が消えるように霧散して消える。

「もしかして、翼を怪我しているの?」
「……飛べなくはないが、追っ手を撒くのは厳しいだろう」
「追っ手? 追われているってこと?」

 よく見れば、二人の着物の裾は泥に汚れ、その手足にはいくつもの切り傷がある。ここに来るまでにどんな道を辿ったのか。
 妖怪のことはわからない。もしかして悪事を働いて追われているのではと、一瞬だけ不信感を抱いた。でも、女性と視線が合った瞬間、どうしても二人に非があるとは思えなくなった。それは、彼女が未だかつて見たことのない美しさだったからかもしれない。

 晴れ渡る青空のように澄んだ瞳に、黄金色に輝く髪、儚い光を放つ白い翼とどれをとっても、この世のものとは思えない美しさだ。天女か菩薩といわれても頷ける。
 赤い唇がゆっくり動き、流れるように言葉を発した。まるで歌うような調べだけど、意味は全くわからない。

「しかし、それで私たちのことが追っ手に伝わったら……そうだが、まだこの女が味方になるとは」

 女性の言葉は、どうやら若者に通じるらしい。
 煮え切らない様子の青年が顔をしかめて私へ視線を投げる。すると、女性は訴えるようなにかを叫んだ。

「……わかった。だが、私が信じるのは貴女の言葉だけだ。この女を信じたわけではない」

 男の突き放すような緊迫する声に、女性は唇を噛んだ。