八雲堂あやかし綴~しゃれこうべ娘と呼ばれた私ですが、地本問屋の若旦那に溺愛されてるようです~

 よく冷やした甘酒を注いだ湯呑を持って、一人で裏庭へとでた。
 白磁の湯呑をお稲荷様の祠にお供えし、二度拍手をして祈願する。

「お稲荷様、町民が烏に困っています。甘酒一杯でどうこうしろというのは図々しい話かと思いますが、お力添えを賜りますようお願い申し上げます」

 瞳を閉じて俯き、ぶつぶつと願いを唱えていた時だった。耳にかかる眼鏡の紐がぷつりと切れ、地面に落ちてからんっと音を立てた。
 はっとして目を開き、眼鏡を探した。すぐ側に落ちている眼鏡の紐は、まるで鋏で断ち切られたように切れているではないか。

 こんなことは初めてだ。
 草履の鼻緒が切れたら、縁起が悪いとよくいう。眼鏡の紐もそうなのではないか。なんの気なしに思って手を伸ばすと、ばさっと羽音がした。同時に、手元が暗くなる。

「……なに?」

 眼鏡までほんの一寸ほどで手を止めるべきではなかった。
 なにごとかと見上げた瞬間、黒い影が舞い降り、土埃を被った私の眼鏡をさらった。
 
「えっ……か、烏!?」

 眼鏡を咥えた烏は庭木の枝にとまると、首を傾げてこっちを見た。

「か、返してちょうだい!」

 烏に人の言葉が通じるかわからないが、ひとまず声をかけてみた。だけど、眼鏡を放すどころか、烏は黒々とした翼を羽ばたかせると飛び立った。
 脳裏に、お客さんのしていた簪をつつかれた話がよぎる。
 烏は光ものが好きだとも聞く。西日が当たった鼈甲が、光り輝いたのかもしれない。

「ま、待って。それがないと困るの!」

 急いで立ち上がり裏木戸を押して飛び出すと、烏は私を待ち構えたように、隣の瓦屋根にとまっている。そうして、また飛び立つ。

 いたずらな烏を追って通りへ飛び出すと、その向こうにおぞましいものを視た。
 人に紛れて暗い影が動いている。それに、空には烏に混ざった人影まである。

「……烏天狗」

 ひそめた声は、横切る人の足音と商売人の活気ある声で書き消えた。
 ギャアギャアと烏の鳴き声がした。
 はっと我に返り、いたずら烏を探した。すると、眼鏡を咥えた烏がまた待ち構えたように、一間(いっけん)先から私を見ていた。

 走り出すと烏は飛び立つ。人の手が届かない程度の高さを時折、隠れるように路地へ入ってゆく。その姿を見失ったかと思えば、ひょっこりと視界に現れる。まるで道案内をされているようだ。
 もしかして、私がお稲荷様に烏をどうにかして欲しいっていったから、烏が私を呼びに来たのだろうか。
 いやいや、さすがに考えすぎよね、

 走り続けて息が上がりはじめ、ついには重たい足を止めてしまった。
 鼻緒が擦れて足が痛かった。下を向くと、ぽたぽたと汗が落ちて地面にいくつもの染みを作る。

 このままだと、烏を見失ってしまう。そうなったら、あの眼鏡は戻ってこない。それは困る。だってあの眼鏡は祖母の形見なんだから。
 息を整えながら顔を上げると、手が届きそうな距離に、いたずら烏がいた。

「お願い、それ、返して……」

 伝い落ちる汗を拭うのも忘れ、烏に手を伸ばした。すると、私の手をひらりと交わして飛び立った。やっぱり、からかわれているだけだろうか。

 追いかけるしかない。
 再び走り出すと、頭上を黒い影が横切った。烏だろうか。それとも別のなにかか。
 暑さがじわじわと身に染みるせいか、それともこの不可思議な状況に鼓動が早まっているからか、汗が滝のようになって背中を伝ってゆく。

 烏を追いかけているだけなのに、どうしてだろう。追われているような気さえしてきた。

 空を横切る黒い影から隠れるように、路地を曲がる。西へ東へと、何度も。そうして、自分がどこにいるのかさえ曖昧になってきた時、折れ曲がった道の先に飛び出すと雑踏が消えた。
 目の前に現れたのは、朽ちたお粗末な木戸だった。

「……ここは」

 木戸をくぐると、しんと静まり返った長屋があった。人の気配はない。ついさっきまで活気があふれていたのに、ここだけは忘れ去られたように静けさが支配している。
 細い道を歩きながら、烏の姿を探した。

 長屋は今にも崩れそうなほど朽ちている。もう何年も人が住んでいないようだ。
 いつだって賑わい、八百八町と呼ばれる瑞江戸にこんな長屋があるなんて、聞いたことがない。いくら道に迷いそうなほど走ったからといって、瑞江戸を抜けたわけでもないだろうに。

「まるで……幽霊長屋みたい」

 いいながら、背筋がぞくりと震えた。
 汗が冷えたのか、ぴとりと貼り付いた襦袢(じゅばん)が気持ち悪かった。

 慎重に歩いていると、ガタガタと音がした。それを振り返ると、いたずら烏がうっすら開いた長屋の戸をくぐって中に入ろうとしているではないか。
 上半分の障子は穴だらけで、下の板張りもだいぶ朽ちている。とはいえ、中に入ってしまえば、逃げ場はないだろう。

 息を殺して烏に近づき、その小さな黒い姿が障子戸をくぐったのを確認すると、すかさずその戸を引いた。

 朽ちた長屋はずいぶんと歪んでいるのだろう。ガタガタと音を立てた障子戸は半分も開かない。それでも、私一人が体を滑り込ませるくらいにはなった。

「観念しなさい。いたずら烏。私の眼鏡を──」

 返しなさいといい終えることなく、私は目の前に広がった光景に釘づけとなった。
 そこにいたのは、艶やかな濡れ羽色の翼を持った若者と、真っ白に輝く南蛮の服をまとった女性だった。女性の背には白無垢よりも眩い純白の翼がある。

「……烏天狗?」

 しんと静まり返る空間に私の声が響いた。
 男の肩にいたずら烏がとまり、その嘴に挟んでいた眼鏡をあっけなく放した。