八雲堂あやかし綴~しゃれこうべ娘と呼ばれた私ですが、地本問屋の若旦那に溺愛されてるようです~

 汁物の味を見ながら、賀之助さんの顔を思い出した。本当に、鬼気迫る顔をしていた。
 よほど難解なお仕事を抱えているのかしら。幽世が関わる謎ばかりの裏家業だし、私が口出しできることじゃないのだろうけど。

「なにかお力になれたら、よいのだけど……」

 落ち込む様子の奉公人を見て、せめて八雲堂で働く皆が不安を抱かずにすむよう、心配りの一つや二つをもう少し上手くやれるようにならないと。やっぱり、若女将としてはまだまだよね。
 こぼれかけた溜息を飲み込み、笑顔を浮かべた。
 
 用意された小さな盆が目に入る。そこには毎朝お稲荷様にお供えする米と塩、それから冷たい水が整えられていた。

「お稲荷様に、ご挨拶してきますね」

 炊事場を奉公人たちに任せ、小さな盆を持って裏庭へと向かった。

 庭の隅へ着くとすぐに、小さな祠を手ぬぐい拭った。辺りに落ちた落ち葉を集めてから、持ってきたお供え物をいつもの場所に並べる。すっかり慣れた朝のお勤めだ。
 そっと手を合わせて「おはようございます」と挨拶をしながら、八雲堂の一日が平穏であることを祈った。でも、それだけでは胸の内が晴れない。やっぱり引っ掛かるのは、賀之助さんのことで。

「……賀之助さんがとても忙しそうです。なにかよからぬことが起きるのではないかと心配しています。どうぞ、お守りください」

 商売を見守って下さるお稲荷様に、賀之助さんの安否を願うのはお門違いだろうか。でも、店の大黒柱たる若旦那になにかあったら、それこそ大事だもの。間違ってやしないわよね。

 風が吹き、庭木がさわさわと音を立てた。

 賀之助さんの不在がちの日が続くようになったが、商売は変わらず繁盛し、平穏無事な日々が数日ほど続いた。だけど、町中では飛ぶ烏が日に日に増え、いたる所から烏を迷惑がる声が上がるようになった。

 干していた魚や野菜が持っていかれただの、早朝に煩くてたまらない、外を歩いていたら糞をされたなんて悲鳴まで。
 烏は神の使いだという伝承もあるけど、とんだ試練だと町人たちは頭を抱え始めた。

 かくいう八雲堂の奉公人たちも、夜明け早々に烏の鳴き声で起こされ、気分がよくないだの寝不足だなどと話題に上げることが多くなった。

「通りを歩いていて、簪をつつかれたなんて話も聞いたね」
「それなら、塩問屋に運ばれる俵が荒らされたって話を聞いたよ。烏ってのは塩を食うのかね?」
「長屋で干してた野菜が食い散らかされたなんて話もあったな」
「そりゃ、以前からある話じゃないか」

 本を買いに来たお客さんも、もっぱら烏の話をしている。そして必ずといっていいほど「あの鳴き声が嫌になる」「不吉だね」といって、ため息をこぼしながら帰っていくのだ。
 聞けば、他の店も状況は同じようだった。

「今日は暑いから、烏も幾分少なそうだけど、客も来やしないね」

 おみつさんは暖簾の外を覗くとやれやれとぼやき、奉公人たちに甘酒を配って一休みするよう促した。

「日が暮れたら、烏も山に戻るでしょうし、人も外に出ましょう」
「そうはいってもね。うちはお天道様が上がっている時が、稼ぎ時じゃないかい。ねえ、お菊ちゃん」

 暢気な番頭さんにため息をつき、おみつさんは私に同意を求めながら、冷えた湯呑を差しだす。

「でも、烏相手じゃどうしようもないですよね」
「空の上じゃ、猫だって届きゃしないから、お手上げさぁ」
「本当に困ったもんだ。お稲荷さんに追い払ってもらえるよう願うしかないかねぇ」

 おみつさんと番頭さんが頷き合うように溜息をつくのを見て、庭の祠を脳裏に浮かべた。そうして、まだ口をつけていない湯呑へと視線を落とす。
 すると、外からまた烏の鳴き声が聞こえてきた。

「おみつさん、お稲荷様って甘酒を飲むでしょうか?」
「甘酒をかい? 聞いたことないけど、お神酒みたいに飲むかもしれないね」
「お稲荷さんにも甘酒で滋養をつけもらおうってかい?」

 からからと笑う番頭さんは、さてもうひと仕事といって算盤をはじき始めた。