八雲堂あやかし綴~しゃれこうべ娘と呼ばれた私ですが、地本問屋の若旦那に溺愛されてるようです~

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 薬問屋の並ぶ薬研通りに足を踏み入れると、ほんの少しだけ足が重くなった。
 ここには母や祖母を懐かしむ景色がいくつもある。だけど、伯父と牡丹との辛い思い出も数えきれないほどある。
 
 ふと立ち止まり、つい今しがた渡ってきた橋を振り返った。
 その向こうには八雲堂のある錦町が広がり、川沿いに並ぶ屋台はどこも賑わいを見せている。

「どうした、お菊。気分が優れないか?」

 賀之助さんの声をすぐ横に聞き、顔を上げると凛々しい眼差しがそこにあった。
 そっと首を横に振って微笑むと、風が優しく吹き抜けた。すると、賀之助さんの纏う藍染の着物が少しはためいた。夜空を思わせる藍染に咲くのは、白い花火。それは菊の花にも見えて、彼に寄り添うことを許された私を見ているようでもあった。

 再び歩き出してすぐに、白地に柳屋の文字が大きく染められた暖簾が見えてきた。
 今日の私が身に纏う小袖も白地で、藍染で菖蒲の花が描かれている。賀之助さんが夏の花で一番好きなのが菖蒲だと聞いてこれを仕立てたのだけど、こうして柳屋の前に立つと、当てつけたように見えてしまう気がした。そんなつもりは微塵もなかったのだけど。

 暖簾をくぐると、待ち構えていたようにして、奉公人が私たちを奥の座敷へと案内した。

 私を遠ざけていた人たちの驚くような表情や探るような視線が、居心地の悪かった日々を思い出させ、呼吸が浅くなる。
 すると、賀之助さんが「お菊、前を向け」と静かに背を叩いてくれた。
 しゃんとして前を向くと、古びた仏壇が目に入った。

 促されるままに仏壇の前に座し、線香に火を灯し、瞳を伏せて手を合わせる。そうして心の内で、母と祖母に「お世話になりました。私は八雲堂のお菊になります」と決意を告げる。
 深く吸い込んだ線香の香りに、懐かしさと穏やかさをもらって目を開けた。

 ゆっくり振り返ると、待ち構えていた伯父が菓子とお茶を勧めてきた。今まで見たことのないような笑顔で、気味が悪い。当然だけど、菓子もお茶も一口たりとも口にする気は一切ない。

「またこうして来てくれて、私も嬉しいよ、お菊」

 向かい合って座った伯父は何を思っているのだろう。
 
「喉の具合はどうなの。薬飴は効いたかしら?」

 これ見よがしに着飾った牡丹は、満面の笑みで訊いてくる。その笑みが気遣いや好意からくる優しさでないと、嫌でもわかった。
 信じたかった。昔のようにもう一度仲良くしようと思ってくれているんだって、二人で双六をした日々に戻れるんだって。

 すうっと息を吸い込み、仄かに薫る線香の香りで胸の内を満たす。

「おかげさまで、この通りよくなりました」

 静かに、だけどはっきりと告げた瞬間、二人の顔から笑みが消えた。
 牡丹がかすかに「どうして」と呟いて息を呑んだ。それを見て、もう幼い日には戻れないのだと悟った。
 残念だけど、私だっていつまでもお人好しではいられない。賀之助さんと一緒に、八雲堂を守らなければいけないんだもの。

「牡丹ちゃん、あの薬飴、本当に不思議な力があったのよ」
「ふ、不思議なって……」
「あの薬飴のおかげで、声が出るありがたさを知れたの。声があれば、ちゃんと賀之助さんに気持ちを伝えられるんだって」

 顔を引きつらせる牡丹を真っすぐ見つめて微笑む。

「牡丹ちゃんのおかげで、私はとっても幸せよ。ありがとう」
「貴重な品を感謝する。お菊に気持ちを伝えるよい機会となった。これは少しばかりだが、礼だ」

 そういった賀之助さんは、懐から出した包みを伯父の前で広げた。出てきたのは、ずっしりと重たい輝きを放つ金子(きんす)だ。
 そんなものを持ってきていたなんて、私も知らなかった。

 驚きに息を呑んで賀之助さんの横顔を見つめていると、伯父が声を震わせて笑った。

「は、ははっ……な、なんの真似だい、若旦那」 
「柳屋さん、あんたらの思惑がなんにせよ、人魚の涙のおかげで俺はかけがえのない人を手に入れた。これはその礼だ。それとも、はした金すぎたか。足らんというなら、もうひと山用意するが」

 声を震わせる伯父に対し、賀之助さんは不敵な笑みを浮かべたまま淡々と告げる。

「しかし、あまり危険な品に手を出さないことだ。今回は見逃してやるが、次はないと思うんだな」

 なに一つ言い返せない二人を座敷に残し、私たちは柳屋を去った。
 真っ白な暖簾を押して通りへ出て、川を渡る橋を前にした時だった。からりとした夏の風が吹き抜けた。

 ふと足を止めて顔を上げれば、どこまでも青い空が視界に飛び込んできた。
 背を叩いた風は、母と祖母の優しい手だったのかもしれない。仏壇を前にして、別れを告げた薄情な娘だけど、そんな私に「前を向いて笑いなさい」って、いっている気がした。

「お菊、そうやって笑った方がいいぞ」
「賀之助さん……」
「さて、甘酒でも飲んでから帰るか。それとも、団子でも食っていくか?」

 歩き出す賀之助さんに歩み寄り、その袖の端をそっと摘まむ。すると、私の勇気に気づいてくれたらしい彼は、目を細めて嬉しそうに笑った。

「賀之助さん、甘いものはお嫌いでしょ?」
「なあに、俺の分もお菊が食べればいい」
「そんなに食べたら身体が重くなって動けなくなるかもしれません」
「そうしたら、俺が抱えて帰ってやるさ」

 他愛もないのに、とても心地よい会話だった。笑い合いながら、二人で橋を渡った。
 もう二度と柳屋の暖簾をくぐることはないだろう。でも、それでいい。私は賀之助さんの妻として、八雲堂の若女将として生きていくと決めたのだから。