「もうすぐ七つの鐘が鳴る。ぐずぐずしていていいのか?」
空になった湯呑を下ろした賀之助さんの忠告にハッとした。
懐に酒饅頭の竹包みを隠し、慌てて立ち上がる。
「あ、あの、ありがとうございました」
「気にするな。目の前で身投げでもされちゃ寝覚めが悪い」
「このご恩は……」
私に返せるものなんてあるだろうか。
言葉に詰まってやせ細った指を見つめる。渡せるとしたら私自身だろうけど、この身体になんの価値があるのか。柳屋のお荷物、厄介者と蔑まれる私に、なにが……
いつか恩返しをしますといいきれず、口を閉ざした私を見た賀之助さんは、ゆったりとした動きで立ち上がった。
「そのうち返してもらう」
ぼそっと聞こえた声に、でもといいかけた時だった。暮七つ時を告げる鐘が鳴った。
しまった。今夜はお客様が来るから夕餉の支度を早くしろといわれていたんだ。
「急ぐんだろう」
「え、あ、はい……賀之助さん、ありがとうございました」
お礼をいえば、賀之助さんは私を追い返すようにひょちひょいと手を払った。深く頭を下げ、お使いの風呂敷を抱え直して彼に背を向け、しっかりと道を蹴った。
懐の中は酒饅頭のぬくもりが残っている。その心地よさのおかげか、お腹が少し満たされたからか、重かった足取りはほんの少し軽やかだった。
裏の勝手口から中へ入り、急いで向かった炊事場では女中たちが忙しく動き回っていた。
「遅くなりました」
抱えていた風呂敷を古参の女中に渡すと、これ見よがしに溜息をつかれた。
風呂敷と交換するように、菜っ葉がのるザルを渡される。
「野菜を洗っておいで。水汲みもだよ」
ザルを抱え直し、はいと頷いてから井戸へと向かう。そこには、夕餉に使う大根や人参、ゴボウが置かれている。これも洗えということだ。
袖にたすきをかけて、井戸に釣瓶桶を落とした。あかぎれとマメだらけの手で水を汲み、一人で黙々と野菜を洗う。
しばらくすると、台所から「野菜はまだかい!?」と怒鳴り声が聞こえた。せっせと洗った野菜を運んだ後は、水瓶を満たすため、桶を抱えてひたすら往復した。
春先の井戸水はまだ冷たい。
指先はすっかりかじかみ、懐にしまった酒饅頭もとうに冷えてしまった。
それでも、後でこっそりこれを食べよう、蔵の隅に行けばきっと見つかりやしないと思えば、ほんの少し望みがあるような気がして頑張れた。
水瓶に桶を返し、水を注いでいた時だった。
「相変わらずどんくさいわね、しゃれこうべは!」
台所に牡丹の甲高い声が響き渡った。
空になった桶を手に下げて振り返ると、薄紅色の振袖姿をした牡丹が、台所の入り口で薄ら笑いを浮かべて立っていた。
ここに来たとて、牡丹がなにをするわけでもない。私が泥にまみれて働いているのを見て、気分よくなりたいだけだろう。
五年前はそれがたまらなく屈辱的で、惨めで、毎晩のように泣いた。でも、今はどうでもいい。牡丹に歯向かったところでなにも変わらないし、悔しさに涙を見せたら喜ばすだけだ。
それに、水瓶はまだ満たされていない。牡丹に構っている暇はない。
任された仕事をこなすべく、そそくさと井戸へ向かおうとした時、牡丹は「そうそう!」とわざとらしく声を上げた。
「今夜は八雲堂の若旦那がお見えになるのよ。粗末な料理をお出しして、お父様や私に恥などかかせるんじゃないわよ!」
牡丹の話しに思わず反応し、足を止めてしまった。
私と視線が合った牡丹の顔が満足げに歪んだ。
「なんでも賀之助様は、お父様にお願いがあってくるそうよ。私もその席に呼ばれているわ。ふふっ、しゃれこうべは鍋底でも洗って待ってなさい。あとでたーっぷり、賀之助様のことを聞かせてあげるから!」
「わ、私は別に……」
胸元にそっと手を寄せ、昼間顔を合わせた賀之助さんの不愛想な顔を思い出した。
「ふんっ、今日も会ってたんですってね。黙っていればバレないとでも思ってるの?」
牡丹の声が地を這うように響いた。黒い双眸は、まるで蛇のように怪しく光っている。
背筋を汗が伝い落ちた。
川辺で誰かが、賀之助さんと私が一緒にいるところを見たのだろう。もしかしたら、酒饅頭を食べているところも見ていて、牡丹に告げ口したのかもしれない。
息を呑んで台所を見渡すと、奉公人たちは忙しく動きだした。皆、火の粉が飛んでくるのを恐れているのだろう。
「あんたみたいな、汚いしゃれこうべ娘が賀之助様に釣り合うわけないでしょ」
「私と賀之助さんは、そんなんじゃ」
「ええ、そうよ! 賀之助様はお優しいから、惨めなあんたに施しをなさっただけ。勘違いなんてするんじゃないわよ!」
甲高い声で喚いた牡丹は、どこか勝ち誇った顔で「それと」と話しを続けた。
「饅頭でお腹がいっぱいでしょう? 夕餉は抜きよ!」
ぴしゃりと言い放った牡丹は、板の間を鳴らしながら台所を出ていった。
空になった湯呑を下ろした賀之助さんの忠告にハッとした。
懐に酒饅頭の竹包みを隠し、慌てて立ち上がる。
「あ、あの、ありがとうございました」
「気にするな。目の前で身投げでもされちゃ寝覚めが悪い」
「このご恩は……」
私に返せるものなんてあるだろうか。
言葉に詰まってやせ細った指を見つめる。渡せるとしたら私自身だろうけど、この身体になんの価値があるのか。柳屋のお荷物、厄介者と蔑まれる私に、なにが……
いつか恩返しをしますといいきれず、口を閉ざした私を見た賀之助さんは、ゆったりとした動きで立ち上がった。
「そのうち返してもらう」
ぼそっと聞こえた声に、でもといいかけた時だった。暮七つ時を告げる鐘が鳴った。
しまった。今夜はお客様が来るから夕餉の支度を早くしろといわれていたんだ。
「急ぐんだろう」
「え、あ、はい……賀之助さん、ありがとうございました」
お礼をいえば、賀之助さんは私を追い返すようにひょちひょいと手を払った。深く頭を下げ、お使いの風呂敷を抱え直して彼に背を向け、しっかりと道を蹴った。
懐の中は酒饅頭のぬくもりが残っている。その心地よさのおかげか、お腹が少し満たされたからか、重かった足取りはほんの少し軽やかだった。
裏の勝手口から中へ入り、急いで向かった炊事場では女中たちが忙しく動き回っていた。
「遅くなりました」
抱えていた風呂敷を古参の女中に渡すと、これ見よがしに溜息をつかれた。
風呂敷と交換するように、菜っ葉がのるザルを渡される。
「野菜を洗っておいで。水汲みもだよ」
ザルを抱え直し、はいと頷いてから井戸へと向かう。そこには、夕餉に使う大根や人参、ゴボウが置かれている。これも洗えということだ。
袖にたすきをかけて、井戸に釣瓶桶を落とした。あかぎれとマメだらけの手で水を汲み、一人で黙々と野菜を洗う。
しばらくすると、台所から「野菜はまだかい!?」と怒鳴り声が聞こえた。せっせと洗った野菜を運んだ後は、水瓶を満たすため、桶を抱えてひたすら往復した。
春先の井戸水はまだ冷たい。
指先はすっかりかじかみ、懐にしまった酒饅頭もとうに冷えてしまった。
それでも、後でこっそりこれを食べよう、蔵の隅に行けばきっと見つかりやしないと思えば、ほんの少し望みがあるような気がして頑張れた。
水瓶に桶を返し、水を注いでいた時だった。
「相変わらずどんくさいわね、しゃれこうべは!」
台所に牡丹の甲高い声が響き渡った。
空になった桶を手に下げて振り返ると、薄紅色の振袖姿をした牡丹が、台所の入り口で薄ら笑いを浮かべて立っていた。
ここに来たとて、牡丹がなにをするわけでもない。私が泥にまみれて働いているのを見て、気分よくなりたいだけだろう。
五年前はそれがたまらなく屈辱的で、惨めで、毎晩のように泣いた。でも、今はどうでもいい。牡丹に歯向かったところでなにも変わらないし、悔しさに涙を見せたら喜ばすだけだ。
それに、水瓶はまだ満たされていない。牡丹に構っている暇はない。
任された仕事をこなすべく、そそくさと井戸へ向かおうとした時、牡丹は「そうそう!」とわざとらしく声を上げた。
「今夜は八雲堂の若旦那がお見えになるのよ。粗末な料理をお出しして、お父様や私に恥などかかせるんじゃないわよ!」
牡丹の話しに思わず反応し、足を止めてしまった。
私と視線が合った牡丹の顔が満足げに歪んだ。
「なんでも賀之助様は、お父様にお願いがあってくるそうよ。私もその席に呼ばれているわ。ふふっ、しゃれこうべは鍋底でも洗って待ってなさい。あとでたーっぷり、賀之助様のことを聞かせてあげるから!」
「わ、私は別に……」
胸元にそっと手を寄せ、昼間顔を合わせた賀之助さんの不愛想な顔を思い出した。
「ふんっ、今日も会ってたんですってね。黙っていればバレないとでも思ってるの?」
牡丹の声が地を這うように響いた。黒い双眸は、まるで蛇のように怪しく光っている。
背筋を汗が伝い落ちた。
川辺で誰かが、賀之助さんと私が一緒にいるところを見たのだろう。もしかしたら、酒饅頭を食べているところも見ていて、牡丹に告げ口したのかもしれない。
息を呑んで台所を見渡すと、奉公人たちは忙しく動きだした。皆、火の粉が飛んでくるのを恐れているのだろう。
「あんたみたいな、汚いしゃれこうべ娘が賀之助様に釣り合うわけないでしょ」
「私と賀之助さんは、そんなんじゃ」
「ええ、そうよ! 賀之助様はお優しいから、惨めなあんたに施しをなさっただけ。勘違いなんてするんじゃないわよ!」
甲高い声で喚いた牡丹は、どこか勝ち誇った顔で「それと」と話しを続けた。
「饅頭でお腹がいっぱいでしょう? 夕餉は抜きよ!」
ぴしゃりと言い放った牡丹は、板の間を鳴らしながら台所を出ていった。


