八雲堂に戻ってもなお、賀之助さんは話を続けてくれず、気にかけながら夜が訪れた。
床の用意を終えた頃だった。
いつもなら賀之助さんは部屋に入るなり、衝立へとまっすぐ向かう。だけど、どういうわけか掛け布団を捲ると、そこに胡坐をかいて座った。そうして、懐から帳面を取り出す。
帳面は布団に置かれ、小さくとさっと音を立てる。その表紙には『幽世失せ物帳』と書かれていた。
賀之助さんと向かい合うようにして布団に座ると、帳面が開かれた。
「お菊、お前に隠していたことがある……俺も気枯れが視えるといっただろう」
ぱらぱらと帳面を捲る指から視線を逸らし、賀之助さんの表情を窺ってから頷いた。
「視えるのは気枯れだけではない。幽世から渡ってきた人ならざるモノを視ることもできる」
静かに告げられた言葉を、すぐさま理解することはできなかった。でもすぐに、文机に置いてある白雲斎先生の草稿を思い出し、そっと後ろを振り返った。
私の戸惑いをよそに、賀之助さんは話しを続ける。
「ゆえに、怪異のからむ失せ物やもめ事を久世様に代わって調べている。この帳面に書かれた人魚の涙も、そういった代物だ」
正直、賀之助さんがなにをいっているのか、すぐに理解するのは難しかった。
賀之助さんも私のように、人ならざるモノが視えるだなんて……
私を元気づけるため、あるいは適当に合わせて嘘をいっているだけかもしれない。だって、今まで生きてきて、気枯れや妖怪の類が視える人なんていなかった。幼い時は気味悪がれ、からかわれ、母や祖母に絶対外でいってはいけないと忠告もされた。
この眼鏡で隔てる景色を、誰もわかってくれなかった。わかってもらえる日が訪れるなんて、生涯ないと思ってきた。
私と同じような人がいる。もしそれが真実なら、嬉しい。
鼻の奥がつんとして視界が滲みだした。すると、賀之助さんが「巻き込みたくなかった」と絞り出すようにいった。
「だから、俺が担う裏の役目を知らせずにきた。……できれば、知らずにいて欲しかった」
帳面を捲る指が止まり、真剣な眼差しが並ぶ文字列に注がれる。
指し示されたところに、人魚の涙と書かれていた。見た目、効能、風味などの注意書きには、解除法の文字もある。
やっぱり、賀之助さんは呪いの解き方を知っていたのね。
ならどうしてと不安を抱きながら、その先を目で追った。そうして、すぐに息を呑むことになる。もしも声が出たなら、驚いて声がひっくり返っていたかもしれない。
二度、三度と読み直すもそこに書かれた文字は変わらない。
呪いを解くためには「真に慕う者の接吻」が必要だと書かれていた。
接吻の文字に釘付けとなり、息を深く吸い込んで胸元をぐっと押さえた。
「久世様に、他の方法を訪ねたのはそういうわけだ」
静かな声に胸の奥が痛んだ。
それは、私と接吻をしたくないということだろうか。私にお役目を知られたくないというのも、私のことが信じられないからなのか。
はらはらと涙がこぼれ落ちた。
わかっていた。賀之助さんは優しいから、私を放っておけなかったのかもしれない。でもそれは、恋慕の情とは違うんだって。私が慕うように、心を寄せてくれることはないんだって。
そっと立ち上がり、文机の帳面と筆を取りにゆく。そうして、まっさらな紙面に文字をしたためた。
『賀之助さんが私を慕っていないのは、わかっています』
手が震えて、文字が醜く歪む。涙がこぼれ落ちて、墨が滲んでいく。
わかっていたから、大丈夫。一生声が出なくても賀之助さんにお仕えします。そう伝えないと。
だけど、文字へ込めようとする思いとは裏腹に、肩が震え出して筆が止まった。止まらない涙を拭おうとした時だった。後ろから覆いかぶさるようにして、賀之助さんが私の肩を抱きしめた。
「俺が、慕いもしない女のために千両も出すと思うのか」
力強い抱擁と耳に触れる低い声が、私の思考力を奪ってゆく。
ゆっくりと肩越しに見上げれば、今にも泣きそうな賀之助さんの顔が間近に迫っていた。
「お菊……夢を奪った酷い男だと、一生、俺を恨んでくれていい」
熱い吐息が唇に触れた。
なにをと尋ねる間もなく唇が塞がれ、胸につまっていた思いとともに吸い上げられる。一瞬、唇が離れたすきに吐息をつくと、それを許さないとばかりに再び唇を塞がれた。
なにが起きているのか理解するよりも先に、身じろいで賀之助さんに向き合っていた。その大きな背に両手を回して縋りつき、離さないでと伝えるように寄り添った。
閉ざされた窓が風を受けてガタガタと鳴る。
そっと唇が離れ、賀之助さんの腕の中で浅い息を繰り返した。そうして、小さく「賀之助さん」と名を呼んでみた。
「これで信じてくれるか。俺が、お菊を真に慕っていると」
声が出た喜びよりも、はじめて聞かされた賀之助さんの気持ちが嬉しくて、止まっていた涙が再びはらはらと落ちた。
「はい……私も、お慕いしています」
かすれた声が零れ、再び抱きしめられた。耳元に「よかった」と安堵の息が触れる。
もう一度、唇が触れた。それは、今まで衝立で隔たれていた時間を取り戻すように熱く、深い口付けだった。
床の用意を終えた頃だった。
いつもなら賀之助さんは部屋に入るなり、衝立へとまっすぐ向かう。だけど、どういうわけか掛け布団を捲ると、そこに胡坐をかいて座った。そうして、懐から帳面を取り出す。
帳面は布団に置かれ、小さくとさっと音を立てる。その表紙には『幽世失せ物帳』と書かれていた。
賀之助さんと向かい合うようにして布団に座ると、帳面が開かれた。
「お菊、お前に隠していたことがある……俺も気枯れが視えるといっただろう」
ぱらぱらと帳面を捲る指から視線を逸らし、賀之助さんの表情を窺ってから頷いた。
「視えるのは気枯れだけではない。幽世から渡ってきた人ならざるモノを視ることもできる」
静かに告げられた言葉を、すぐさま理解することはできなかった。でもすぐに、文机に置いてある白雲斎先生の草稿を思い出し、そっと後ろを振り返った。
私の戸惑いをよそに、賀之助さんは話しを続ける。
「ゆえに、怪異のからむ失せ物やもめ事を久世様に代わって調べている。この帳面に書かれた人魚の涙も、そういった代物だ」
正直、賀之助さんがなにをいっているのか、すぐに理解するのは難しかった。
賀之助さんも私のように、人ならざるモノが視えるだなんて……
私を元気づけるため、あるいは適当に合わせて嘘をいっているだけかもしれない。だって、今まで生きてきて、気枯れや妖怪の類が視える人なんていなかった。幼い時は気味悪がれ、からかわれ、母や祖母に絶対外でいってはいけないと忠告もされた。
この眼鏡で隔てる景色を、誰もわかってくれなかった。わかってもらえる日が訪れるなんて、生涯ないと思ってきた。
私と同じような人がいる。もしそれが真実なら、嬉しい。
鼻の奥がつんとして視界が滲みだした。すると、賀之助さんが「巻き込みたくなかった」と絞り出すようにいった。
「だから、俺が担う裏の役目を知らせずにきた。……できれば、知らずにいて欲しかった」
帳面を捲る指が止まり、真剣な眼差しが並ぶ文字列に注がれる。
指し示されたところに、人魚の涙と書かれていた。見た目、効能、風味などの注意書きには、解除法の文字もある。
やっぱり、賀之助さんは呪いの解き方を知っていたのね。
ならどうしてと不安を抱きながら、その先を目で追った。そうして、すぐに息を呑むことになる。もしも声が出たなら、驚いて声がひっくり返っていたかもしれない。
二度、三度と読み直すもそこに書かれた文字は変わらない。
呪いを解くためには「真に慕う者の接吻」が必要だと書かれていた。
接吻の文字に釘付けとなり、息を深く吸い込んで胸元をぐっと押さえた。
「久世様に、他の方法を訪ねたのはそういうわけだ」
静かな声に胸の奥が痛んだ。
それは、私と接吻をしたくないということだろうか。私にお役目を知られたくないというのも、私のことが信じられないからなのか。
はらはらと涙がこぼれ落ちた。
わかっていた。賀之助さんは優しいから、私を放っておけなかったのかもしれない。でもそれは、恋慕の情とは違うんだって。私が慕うように、心を寄せてくれることはないんだって。
そっと立ち上がり、文机の帳面と筆を取りにゆく。そうして、まっさらな紙面に文字をしたためた。
『賀之助さんが私を慕っていないのは、わかっています』
手が震えて、文字が醜く歪む。涙がこぼれ落ちて、墨が滲んでいく。
わかっていたから、大丈夫。一生声が出なくても賀之助さんにお仕えします。そう伝えないと。
だけど、文字へ込めようとする思いとは裏腹に、肩が震え出して筆が止まった。止まらない涙を拭おうとした時だった。後ろから覆いかぶさるようにして、賀之助さんが私の肩を抱きしめた。
「俺が、慕いもしない女のために千両も出すと思うのか」
力強い抱擁と耳に触れる低い声が、私の思考力を奪ってゆく。
ゆっくりと肩越しに見上げれば、今にも泣きそうな賀之助さんの顔が間近に迫っていた。
「お菊……夢を奪った酷い男だと、一生、俺を恨んでくれていい」
熱い吐息が唇に触れた。
なにをと尋ねる間もなく唇が塞がれ、胸につまっていた思いとともに吸い上げられる。一瞬、唇が離れたすきに吐息をつくと、それを許さないとばかりに再び唇を塞がれた。
なにが起きているのか理解するよりも先に、身じろいで賀之助さんに向き合っていた。その大きな背に両手を回して縋りつき、離さないでと伝えるように寄り添った。
閉ざされた窓が風を受けてガタガタと鳴る。
そっと唇が離れ、賀之助さんの腕の中で浅い息を繰り返した。そうして、小さく「賀之助さん」と名を呼んでみた。
「これで信じてくれるか。俺が、お菊を真に慕っていると」
声が出た喜びよりも、はじめて聞かされた賀之助さんの気持ちが嬉しくて、止まっていた涙が再びはらはらと落ちた。
「はい……私も、お慕いしています」
かすれた声が零れ、再び抱きしめられた。耳元に「よかった」と安堵の息が触れる。
もう一度、唇が触れた。それは、今まで衝立で隔たれていた時間を取り戻すように熱く、深い口付けだった。


