文机の端の置いてあった小さな壺には、真珠のような薬飴が残っている。
牡丹が高価なものだといっていたし、毎夜、床へ入る前に一粒だけ舐めていた。数日たっても効かないのをみると、よっぽど性根の悪い風邪をひいてしまったのだろう。そう楽観視していた。
壺の中身を見る賀之助さんの眼差しが厳しい。
「これは、どこで買った?」
さっきまでの優しい空気は失われ、いつもの淡々とした静かな声が尋ねた。
文机の上においてある帳面に、牡丹に貰った薬飴だと書くと、形のいい眉が顰められた。
不愉快だといわんばかりの声が「柳屋の?」と呟く。
筆を取り、牡丹が今までのことを謝ってくれたと書き記すと、賀之助さんはますます眉間にしわを刻んだ。
賀之助さんは、伯父と牡丹の嫌がらせをひどく気にしていたから、まさか私の身体を気遣ってくれたなんて信じられないのだろう。私だって、はじめはそうだった。
でも、牡丹ちゃんと呼んだ時、確かに反応してくれた。あれは、昔のことを忘れていない証だと思いたい。ただ、賀之助さんは、私と牡丹が幼い頃に仲良かったなんて知らないだろうし、疑うのも仕方ないのだろう。
窓から暖かい風が吹き込んだ。
帳面に「信じたいの」と綴れば、賀之助さんは深く息を吸い、低く唸るように「しかしだな」と呟き、壺の中を見つめる。そうして、しばらく壺を片手に思案しすると、突然、壺を文机に戻すと立ち上がった。
賀之助さんは着物の裾が捲れるのも気にせず、書物が置かれる棚に歩み寄る。どこか焦りを滲ませた面持ちで、積み重なる帳面の中から古びたものを取り出す。
静かに側へよると、帳面の表紙に「幽世失せ物帳」の文字をちらりと見た。
現世と相対し、人ならざるモノたちが住まう場所。だけど、決して遠くない。見えないだけで側にある朧気な世界だと、白雲斎先生の本にも書かれていた。
もしかしたら、眼鏡を外した時に視えるモノは、幽世の欠片なのかもと思ったこともある。
眼鏡の縁にそっと触れ、息を飲んだ。
ぱらぱらと帳面を捲る音が止まり、しばらくして、賀之助さんが私を呼んだ。
「お菊、あの薬飴はもう食すな」
どうしてと問うにも声が出ない。
じっと賀之助さんの横顔を見ていると、帳面が閉ざされた。
「人魚の涙……嵐の夜、幽世の海から瑞江戸に辿り着いた禁忌の品だ」
禁忌の品って、どういう意味だろう。人魚って、肉を食べると不老不死になれるっていう伝承の生き物よね。本当にその涙だっていうのか。
現実とは思えない。だけど、賀之助さんの表情は真剣そのものだし、物語の中を話しているわけでもなさそうだ。
会話が途切れた静けさの中、ふと思い出したのは、口に広がった潮風のような香りだった。
背筋がうすら寒くなり、身震いをして息を呑んだ。直後、帳面を懐に押し込んだ賀之助さんが「久世様に会いにゆく」といった。
またお仕事だろうか。本当に忙しい人だ。
送り出そうと床に腰を下ろし、指をついて頭を下げようとした時だった。振り返った賀之助さんは、小さな溜息をついた。
「なにをしている。一緒に来い。それも持ってゆく」
指し示されたのは、文机の上にある薬飴の壺だった。
いわれるがまま、小さな壺をちりめんの袱紗で包んで巾着に入れる。すると、賀之助さんが再び私を呼んだ。
「お菊、一つ聞く。その飴を舐める前は声が出たか?」
障子の縁に手をかけたまま、こちらを見ていた賀之助さんに頷くと、小さく溜息をつくように「わかった」と返された。
私はなに一つわからないのだけど。
首を傾げても、賀之助さんから事の説明はなかった。
それから久世家に辿り着くと、晃照様と奥様が笑顔で出迎えてくれた。だけど、賀之助さんが「ご報告があります」と静かに告げると、晃照様は神妙な顔つきになって、奥様を下がらせた。
賀之助さんが持ってきた帳面と薬飴の壺を差し出すと、晃照様は眉間のしわを濃くした。
「お探しの、人魚の涙にございます」
「もう見つかったのか。早かったな……どこで見つけた?」
「柳屋の娘が、お菊に詫びの品だといい渡したそうです」
淡々と答えた賀之助さんがちらりと私を見た。
それに頷くしかできない私を見て、晃照様は壺の中へと視線を移して「わかった」と呟いた。
二人のやり取りを聞いても、どうして私がここに連れて来られたのか見当もつかない。もしや、食べてはいけなかったものなのか。
賀之助さんは禁忌の品だといっていたし、牡丹も貴重な品だといっていた。もしかして、気安く食べていいものではなかったのだろうか。それで、罰が当たって声が出なくなったとか。
唐突に、脳裏に怒りで顔を赤くする伯父の手を振り上げる姿がよぎった。とたんに恐怖を感じ、膝の上で手を握りしめれば、ますます身体が緊張で強張る。
悶々とする私の横で、賀之助さんは変わらぬ様子で話を続けた。
「お菊がそれを食しました」
賀之助さんの言葉に鼓動が跳ね、とっさに畳へ指をついて頭を下げていた。どうやら、叱られる前に謝る癖は、そう簡単になくなってくれないようだ。
脳裏から伯父の顔が消えない。指先はますます冷えていく。
「声が出なくなり難儀をしたろう、お菊」
頭を上げることができないできない私に降ってきた言葉は、怒鳴り声ではなくとても穏やかで労わるものだった。
恐る恐る顔を上げれば、眉間にしわを寄せながらも微笑む晃照様がいた。
「これを食したのであれば、声が出なくなったのは人魚の呪いだ」
牡丹が高価なものだといっていたし、毎夜、床へ入る前に一粒だけ舐めていた。数日たっても効かないのをみると、よっぽど性根の悪い風邪をひいてしまったのだろう。そう楽観視していた。
壺の中身を見る賀之助さんの眼差しが厳しい。
「これは、どこで買った?」
さっきまでの優しい空気は失われ、いつもの淡々とした静かな声が尋ねた。
文机の上においてある帳面に、牡丹に貰った薬飴だと書くと、形のいい眉が顰められた。
不愉快だといわんばかりの声が「柳屋の?」と呟く。
筆を取り、牡丹が今までのことを謝ってくれたと書き記すと、賀之助さんはますます眉間にしわを刻んだ。
賀之助さんは、伯父と牡丹の嫌がらせをひどく気にしていたから、まさか私の身体を気遣ってくれたなんて信じられないのだろう。私だって、はじめはそうだった。
でも、牡丹ちゃんと呼んだ時、確かに反応してくれた。あれは、昔のことを忘れていない証だと思いたい。ただ、賀之助さんは、私と牡丹が幼い頃に仲良かったなんて知らないだろうし、疑うのも仕方ないのだろう。
窓から暖かい風が吹き込んだ。
帳面に「信じたいの」と綴れば、賀之助さんは深く息を吸い、低く唸るように「しかしだな」と呟き、壺の中を見つめる。そうして、しばらく壺を片手に思案しすると、突然、壺を文机に戻すと立ち上がった。
賀之助さんは着物の裾が捲れるのも気にせず、書物が置かれる棚に歩み寄る。どこか焦りを滲ませた面持ちで、積み重なる帳面の中から古びたものを取り出す。
静かに側へよると、帳面の表紙に「幽世失せ物帳」の文字をちらりと見た。
現世と相対し、人ならざるモノたちが住まう場所。だけど、決して遠くない。見えないだけで側にある朧気な世界だと、白雲斎先生の本にも書かれていた。
もしかしたら、眼鏡を外した時に視えるモノは、幽世の欠片なのかもと思ったこともある。
眼鏡の縁にそっと触れ、息を飲んだ。
ぱらぱらと帳面を捲る音が止まり、しばらくして、賀之助さんが私を呼んだ。
「お菊、あの薬飴はもう食すな」
どうしてと問うにも声が出ない。
じっと賀之助さんの横顔を見ていると、帳面が閉ざされた。
「人魚の涙……嵐の夜、幽世の海から瑞江戸に辿り着いた禁忌の品だ」
禁忌の品って、どういう意味だろう。人魚って、肉を食べると不老不死になれるっていう伝承の生き物よね。本当にその涙だっていうのか。
現実とは思えない。だけど、賀之助さんの表情は真剣そのものだし、物語の中を話しているわけでもなさそうだ。
会話が途切れた静けさの中、ふと思い出したのは、口に広がった潮風のような香りだった。
背筋がうすら寒くなり、身震いをして息を呑んだ。直後、帳面を懐に押し込んだ賀之助さんが「久世様に会いにゆく」といった。
またお仕事だろうか。本当に忙しい人だ。
送り出そうと床に腰を下ろし、指をついて頭を下げようとした時だった。振り返った賀之助さんは、小さな溜息をついた。
「なにをしている。一緒に来い。それも持ってゆく」
指し示されたのは、文机の上にある薬飴の壺だった。
いわれるがまま、小さな壺をちりめんの袱紗で包んで巾着に入れる。すると、賀之助さんが再び私を呼んだ。
「お菊、一つ聞く。その飴を舐める前は声が出たか?」
障子の縁に手をかけたまま、こちらを見ていた賀之助さんに頷くと、小さく溜息をつくように「わかった」と返された。
私はなに一つわからないのだけど。
首を傾げても、賀之助さんから事の説明はなかった。
それから久世家に辿り着くと、晃照様と奥様が笑顔で出迎えてくれた。だけど、賀之助さんが「ご報告があります」と静かに告げると、晃照様は神妙な顔つきになって、奥様を下がらせた。
賀之助さんが持ってきた帳面と薬飴の壺を差し出すと、晃照様は眉間のしわを濃くした。
「お探しの、人魚の涙にございます」
「もう見つかったのか。早かったな……どこで見つけた?」
「柳屋の娘が、お菊に詫びの品だといい渡したそうです」
淡々と答えた賀之助さんがちらりと私を見た。
それに頷くしかできない私を見て、晃照様は壺の中へと視線を移して「わかった」と呟いた。
二人のやり取りを聞いても、どうして私がここに連れて来られたのか見当もつかない。もしや、食べてはいけなかったものなのか。
賀之助さんは禁忌の品だといっていたし、牡丹も貴重な品だといっていた。もしかして、気安く食べていいものではなかったのだろうか。それで、罰が当たって声が出なくなったとか。
唐突に、脳裏に怒りで顔を赤くする伯父の手を振り上げる姿がよぎった。とたんに恐怖を感じ、膝の上で手を握りしめれば、ますます身体が緊張で強張る。
悶々とする私の横で、賀之助さんは変わらぬ様子で話を続けた。
「お菊がそれを食しました」
賀之助さんの言葉に鼓動が跳ね、とっさに畳へ指をついて頭を下げていた。どうやら、叱られる前に謝る癖は、そう簡単になくなってくれないようだ。
脳裏から伯父の顔が消えない。指先はますます冷えていく。
「声が出なくなり難儀をしたろう、お菊」
頭を上げることができないできない私に降ってきた言葉は、怒鳴り声ではなくとても穏やかで労わるものだった。
恐る恐る顔を上げれば、眉間にしわを寄せながらも微笑む晃照様がいた。
「これを食したのであれば、声が出なくなったのは人魚の呪いだ」


