八雲堂あやかし綴~しゃれこうべ娘と呼ばれた私ですが、地本問屋の若旦那に溺愛されてるようです~

 白雲斎先生の草稿を預かってから、三日がすぎた。
 先生のためにきちんと伝わる言葉で感想をしたためなければと思い、繰り返し物語を読んだ。噛み締めるように幾度も。
 これはただの怪談本ではない。白雲斎先生が人情本として出したいという気持ちも、よく伝わってきた。
 賀之助さんが難儀だといっていたことが、読めば読むほどわかるし、幾度もほうっと感嘆の息をこぼしてしまう。

 名は体を表すというけれど、文章もそうなのだろうか。

 白雲斎朧先生の世界は、そのお名前に相応しい美しい描写で瑞江戸を描いている。その上、どこか浮世離れした登場人物が町中で生き生きとしていた。
 人と相容れぬ存在、あやかしの姫が人の世を知りたいと舞い降りた物語は、なんと残酷でいて優しいのか。全てを読み終えた時、自然と涙が頬を伝った。

 眼鏡を外し、袖の端でそっと涙を抑えていると、障子が静かに開いた。

「お菊、どうした?」

 怪訝そうな声に振り返ると、驚いた顔をした賀之助さんが大股でずかずかと傍まで寄ってきた。
 慌てて眼鏡をかけようとしたけど、大きな手に指を握られた。

「泣いていたのか。喉が痛むのか?」

 こんなに慌てる賀之助さんを見たのは初めてだった。
 いいえ違いますと伝えたくても、やっぱり声は出ない。だから、必死に首を振って伝えようとしたけど、どういうわけか「我慢などするな」と余計に心配をさせてしまう。
 話せないというのはこれほど不便なことなのか。自分の気持ちすら伝えられないなんて。

 さてどうしたものかと考えていると、文机にことんと白磁の器が置かれた。器の上では、艶々とした金柑の甘露煮が宝石さながらに輝いている。

「これが喉に効くといいんだが」

 穏やかな声が溜息とともにこぼれた。
 金柑をわざわざ持ってきてくれたのだと気づき、賀之助さんの心配してくれている気持ちが、なおのこと伝わってくる。
 これを私にと尋ねたくて口を開きかけ、すぐさま、そうだったと気づいて唇を引き結んだ。

「こんなことしかしてやれず、すまんな。……医者は疲れだろうといっていたが」

 気遣うような声に、慌てて首を横に振る。そもそも、冷たい夜風に当たりすぎて風邪をひいた私が悪いんだし。

 ああ、何度こうして声が出ないことに悔しい思いをするんだろう。ほんの少し勇気を言葉にのせれば、簡単に気持ちを伝えられるのに。
 声がでないことに苛立ちを感じていると、賀之助さんはすぐ横で胡坐をかくと、目を細めて私を見つめた。

 ぎゅっと拳を握って俯く私に、優しい声が「食べないのか?」と訊ねる。
 顔を上げると、賀之助さんはいつのまにか器を手にし、添えられていた黒文字をさしていた。

 唇に触れそうなところまで金柑が近づけられ、甘酸っぱい蜜の香りがふわりと鼻腔をくすぐった。

 距離の近さと金柑の香りに鼓動が早まり、頬が熱くなっていく。だって、男の人に食べさせられるなんて、恥ずかしいにもほどがあるじゃない。
 衝立てで褥を隔てている私に、賀之助さんは特別な感情を抱いていないだろう。これは、病人労る優しさにすぎないのに。
 甘い香りが、もしかしたらと私を勘違いさせる。

「ほら、口を開けて」

 声が出ないから断ることも難しい。戸惑いながらも促されるまま口を開けると、とろりとした蜜とともに柔らかい金柑が口に転がり込んだ。
 一噛みすると、じゅわりと蜜が口の中を満たしてゆく。それを飲み込むのがもったいないような、名残惜しいような思いでいると「美味いか?」と訊ねられた。
 頷いて美味しいと伝えれば、賀之助さんは目を細めて微笑んだ。その顔があまりにも美しくて、堪らず、ごくりと金柑を飲み下した。

 ああ、私はもうすでに賀之助さんを求めている。この染み渡る甘露のように、彼の気持ちで満たされたいと望んでいるんだ。

 ほろりと涙がこぼれ落ちた。

「どうした、お菊。やはりどこか痛むのか?」

 尋ねられ、ちりちりと痛む胸を抑える。

「胸が痛むのか?」

 違う。そうだけど、そうじゃないの。
 首を振って俯き、この時ばかりは声が出ないことに感謝した。だって、こんな思いを言葉で伝えたって、賀之助さんに迷惑だろうから。

 どうにか気持ちを落ち着けようとしていたら、ことんと音がした。
 なんだろうと思う間もなく、賀之助さんの大きな手に引き寄せられ、気づけばその胸へ頬を寄せるようにして抱きすくめられていた。

 回された大きな手が、とんとんっと優しく背を叩く。

「案ずるな。きっと声は戻る」

 静かな声が耳元で囁いた。
 私が思い詰めていると思ったのだろう。まるで泣いた子どもをあやすように、賀之助さんは私の背を優しく叩き続ける。それが恥ずかしくも嬉しく、だけど少しだけ悲しいような、あべこべの感情で胸がいっぱいになった。

 どれくらいそうして寄り添っていただろう。
 離れるに離れられずいると、賀之助さんが身じろいだ。

「……お菊、この壺はなんだ?」

 すっと離れた賀之助さんが手を伸ばしたのは、牡丹がもってきた薬飴の壺だった。