「申し訳ありません、大切な本を!」
「気にするな。それより、どこか具合でも悪いのか」
足元に散らばってしまった本を拾い上げようとすれば、近づいてきた賀之助さんは腰を下ろして私の手に触れた。
湯上りなのだろうか。いつもより温かい賀之助さんの指に触れられ、鼓動がますます早くなる。
「紙で指を切ったりはしていないか?」
「だっ、大丈夫です。あの……風鈴が鳴った気がして、驚いてしまって。風もないのに、鳴るわけないですよね」
焦りを誤魔化すように早口になりながら、賀之助さんの手から逃れようとすると、ぎゅっと指を握りしめられた。
「……風鈴が鳴った?」
「い、いえ、きっと聞き違いです。今、これを読んでいたから、夢うつつになっていたのかも」
驚いて落とした本の中から『あやかし往来』を手に取ると、小さく溜息をつくように「そうか」と返ってきた。
私の手を離した賀之助さんは、散らばった本を拾い上げると無造作に棚へ置いた。そうして、さっさと棚に背を向けてしまう。
乱雑になってしまった棚を片付けていると、後ろでがたがたと音がした。
衝立がまた移動された。
「あの、賀之助さん……衝立はいつまで置くんですか?」
本を整えながらおずおずと訊ねてみたが、すぐに返事はなかった。
やっぱり、なにを考えているのか見当がつかない。
祝言から一度たりとも褥を共にしていないこともあり、この結婚が牡丹のいう「施し」の一環に思えて仕方ない。そういった気持ちを賀之助さんは見透かし、私との壁を作っているのだろうか。
ついつい悪い方へと考えて溜息をつきかけた時、静かに「お菊」と呼ばれた。
振り返ると、賀之助さんは障子を開けて立っていた。
「……まだ、お仕事が残られているのですか?」
「急用ができた。久世様のところへ行ってくる」
「こんな夜分にですか?」
遅くにいったら迷惑なのではないか。明朝では駄目なのか。いくつもの疑問が浮かび上がったけど、賀之助さんは変わらぬ静かな表情で「気にせず休め」といい、部屋を出ていってしまった。
一人残された部屋に、ひやりとした風が吹き込んできた。
開けられたままの窓を振り返ると、黒い風鈴が小さく揺れている。でも、それが音を奏でることはなかった。
それから、賀之助さんがいない夜をすごすことが増えた。
戯作者の先生と外へ出ることもあれば、久世様のお屋敷に行くこともある。どれもお仕事だから仕方ない。仕方ないのだろうけど……行燈に照らされた部屋で一人すごす夜に、思い描いていた温かさはなく、本の紙面を捲る音だけが虚しく響いた。こんな時、ふと思う。
「……夜が長いな」
虚しい呟きが闇夜に吸い込まれていく。
長いこと一人の夜をすごした。孤独にはもう慣れたと思っていたけど、そんなことなかったみたい。
柳屋にいた時とは違って、優しい人たちに囲まれているし、お腹が空くようなこともない。店の手伝いも、おみつさんが教えてくれる料理も、楽しんで覚えられる。昼間はあっという間に時間がすぎる。
だから尚更、一人ぼっちの夜が寂しいのだろう。
「……どうして、久世様のお屋敷に通うのかしら」
優しかった久世様夫婦の笑顔を思い出す。お義父様、お義母様と呼ぶ勇気を出せずにいたけど、お二人の優しさは十分に伝わってきた。
悪い話をしにいっているわけではない。そう頭でわかろうとしても、寂しさが残る。
「もう少し教えてくれてもいいのに」
こぼれた本音が虚しく響くと、ひやりとした夜風が窓から吹き込んだ。それを吸い込むと喉がむず痒くなり、こんっと小さな咳がでた。息を呑んで胸を摩ってみるも、また咳がこんこんっと続く。
風邪を引いてしまったのか。
お盆が近づくといえど、夜風の冷える日もある。
賀之助さんの帰りを待って、冷たい風を浴びすぎてしまったのかもしれない。悪い風邪をひく前に休んだ方がよさそうだ。私一人が寝込むならまだしも、店の人たちにうつしてしまっては申し訳ないし。
すっかり捲るのが止まっていた本を閉じて障子を引く。いつもの棚に本を戻し、行燈の火を噴き消してから床に就いた。
それから翌朝、胸が熱く、飛び出す咳で目が覚めた。
私の異変に気付いた賀之助さんは、すぐに医者を呼んでくれ、おみつさんも心配してあれこれ世話を焼いてくれた。そうして、床に臥せて数日がすぎれば、体調はすぐによくなった。
重い病などでなくてよかったと安堵するも束の間、ようやく体を起こせるようになった頃を見計らったように、牡丹が見舞いに訪れた。
賀之助さんが寄り合いに出ていて、いない日のことだった。
座敷に通すと、牡丹は包みを開いて私に「あげるわ」といった。
出てきたのは陶器の壺だ。掌に乗るほどの小さなもので、外からはなにが入っているのかわからない。
「あんた風邪ひいたんでしょ。そんなんで店に立つのは、若女将として示しがつかないわよ」
「それは……」
痛いところをつかれた。
いつも傲慢な様子で私を蔑んでいた牡丹だけど、それでも柳屋の跡取り、商家の娘として一通り教育はされている。もしかしたら、私よりも商売のことをわかっているのかもしれない。
言葉を返せずに唇を引き結ぶと、牡丹の赤い唇が吊り上がった。
「そんな様子じゃ、いくら優しい賀之助様だって愛想をつかすんじゃない?」
ふふっと笑う牡丹を前にして言葉がつまったのは、一人寝の夜を思い出したからだろう。
「やだ、まさか図星? この私を差し置いて賀之助様と祝言を挙げたのよ。一年も経たずに離縁されたなんてこと、ないようにしてよね」
機嫌のよい高笑いが響き、言い返す言葉が見つからずに奥歯を噛む。
大丈夫、こんなのは慣れている。
牡丹はいつだって私を蔑むことを楽しみたいだけ。意見なんてしようものなら、なにをされるか。私が我慢すれば、八雲堂に迷惑はかからない。
「気にするな。それより、どこか具合でも悪いのか」
足元に散らばってしまった本を拾い上げようとすれば、近づいてきた賀之助さんは腰を下ろして私の手に触れた。
湯上りなのだろうか。いつもより温かい賀之助さんの指に触れられ、鼓動がますます早くなる。
「紙で指を切ったりはしていないか?」
「だっ、大丈夫です。あの……風鈴が鳴った気がして、驚いてしまって。風もないのに、鳴るわけないですよね」
焦りを誤魔化すように早口になりながら、賀之助さんの手から逃れようとすると、ぎゅっと指を握りしめられた。
「……風鈴が鳴った?」
「い、いえ、きっと聞き違いです。今、これを読んでいたから、夢うつつになっていたのかも」
驚いて落とした本の中から『あやかし往来』を手に取ると、小さく溜息をつくように「そうか」と返ってきた。
私の手を離した賀之助さんは、散らばった本を拾い上げると無造作に棚へ置いた。そうして、さっさと棚に背を向けてしまう。
乱雑になってしまった棚を片付けていると、後ろでがたがたと音がした。
衝立がまた移動された。
「あの、賀之助さん……衝立はいつまで置くんですか?」
本を整えながらおずおずと訊ねてみたが、すぐに返事はなかった。
やっぱり、なにを考えているのか見当がつかない。
祝言から一度たりとも褥を共にしていないこともあり、この結婚が牡丹のいう「施し」の一環に思えて仕方ない。そういった気持ちを賀之助さんは見透かし、私との壁を作っているのだろうか。
ついつい悪い方へと考えて溜息をつきかけた時、静かに「お菊」と呼ばれた。
振り返ると、賀之助さんは障子を開けて立っていた。
「……まだ、お仕事が残られているのですか?」
「急用ができた。久世様のところへ行ってくる」
「こんな夜分にですか?」
遅くにいったら迷惑なのではないか。明朝では駄目なのか。いくつもの疑問が浮かび上がったけど、賀之助さんは変わらぬ静かな表情で「気にせず休め」といい、部屋を出ていってしまった。
一人残された部屋に、ひやりとした風が吹き込んできた。
開けられたままの窓を振り返ると、黒い風鈴が小さく揺れている。でも、それが音を奏でることはなかった。
それから、賀之助さんがいない夜をすごすことが増えた。
戯作者の先生と外へ出ることもあれば、久世様のお屋敷に行くこともある。どれもお仕事だから仕方ない。仕方ないのだろうけど……行燈に照らされた部屋で一人すごす夜に、思い描いていた温かさはなく、本の紙面を捲る音だけが虚しく響いた。こんな時、ふと思う。
「……夜が長いな」
虚しい呟きが闇夜に吸い込まれていく。
長いこと一人の夜をすごした。孤独にはもう慣れたと思っていたけど、そんなことなかったみたい。
柳屋にいた時とは違って、優しい人たちに囲まれているし、お腹が空くようなこともない。店の手伝いも、おみつさんが教えてくれる料理も、楽しんで覚えられる。昼間はあっという間に時間がすぎる。
だから尚更、一人ぼっちの夜が寂しいのだろう。
「……どうして、久世様のお屋敷に通うのかしら」
優しかった久世様夫婦の笑顔を思い出す。お義父様、お義母様と呼ぶ勇気を出せずにいたけど、お二人の優しさは十分に伝わってきた。
悪い話をしにいっているわけではない。そう頭でわかろうとしても、寂しさが残る。
「もう少し教えてくれてもいいのに」
こぼれた本音が虚しく響くと、ひやりとした夜風が窓から吹き込んだ。それを吸い込むと喉がむず痒くなり、こんっと小さな咳がでた。息を呑んで胸を摩ってみるも、また咳がこんこんっと続く。
風邪を引いてしまったのか。
お盆が近づくといえど、夜風の冷える日もある。
賀之助さんの帰りを待って、冷たい風を浴びすぎてしまったのかもしれない。悪い風邪をひく前に休んだ方がよさそうだ。私一人が寝込むならまだしも、店の人たちにうつしてしまっては申し訳ないし。
すっかり捲るのが止まっていた本を閉じて障子を引く。いつもの棚に本を戻し、行燈の火を噴き消してから床に就いた。
それから翌朝、胸が熱く、飛び出す咳で目が覚めた。
私の異変に気付いた賀之助さんは、すぐに医者を呼んでくれ、おみつさんも心配してあれこれ世話を焼いてくれた。そうして、床に臥せて数日がすぎれば、体調はすぐによくなった。
重い病などでなくてよかったと安堵するも束の間、ようやく体を起こせるようになった頃を見計らったように、牡丹が見舞いに訪れた。
賀之助さんが寄り合いに出ていて、いない日のことだった。
座敷に通すと、牡丹は包みを開いて私に「あげるわ」といった。
出てきたのは陶器の壺だ。掌に乗るほどの小さなもので、外からはなにが入っているのかわからない。
「あんた風邪ひいたんでしょ。そんなんで店に立つのは、若女将として示しがつかないわよ」
「それは……」
痛いところをつかれた。
いつも傲慢な様子で私を蔑んでいた牡丹だけど、それでも柳屋の跡取り、商家の娘として一通り教育はされている。もしかしたら、私よりも商売のことをわかっているのかもしれない。
言葉を返せずに唇を引き結ぶと、牡丹の赤い唇が吊り上がった。
「そんな様子じゃ、いくら優しい賀之助様だって愛想をつかすんじゃない?」
ふふっと笑う牡丹を前にして言葉がつまったのは、一人寝の夜を思い出したからだろう。
「やだ、まさか図星? この私を差し置いて賀之助様と祝言を挙げたのよ。一年も経たずに離縁されたなんてこと、ないようにしてよね」
機嫌のよい高笑いが響き、言い返す言葉が見つからずに奥歯を噛む。
大丈夫、こんなのは慣れている。
牡丹はいつだって私を蔑むことを楽しみたいだけ。意見なんてしようものなら、なにをされるか。私が我慢すれば、八雲堂に迷惑はかからない。


