◇
祝言の日から七日がすぎた。
八雲堂は変わらず繁盛していて、多くの人が出入りする。表に並ぶ本を整えながら挨拶すれば、興味深そうに話しかけてくる人が大半だ。でも、中にはびっくりした顔をしてそそくさといなくなってしまう人もいた。
逃げだす客の姿を初めて目にした時は、ただただ困惑してしまった。
もしかしたら、貧相な私の顔を見てびっくりしてしまったのではないか。そう思ったら、申し訳なさがこみあげてきた。
揺れる暖簾を硬直して見ていると肩が叩かれた。瞬間、脳裏に柳屋での日々が蘇って緊張が走った。
反射的に「申し訳ございません」と口走り、振り返ると姑のおみつさんがいた。だけど、その表情は私が思い描いたものと全く違い、優しい笑顔だった。
「お菊ちゃん、気にすることはないよ」
「で、ですが……悪い噂でも立ってしまったら」
「なあに、お菊ちゃんがあまりにも可愛いからびっくりして飛び出したんだろう。うちは男ばかりだからね」
おみつさんが笑うと、辺りから「違いねぇ」と笑い声が上がった。
柳屋ではすぐに「しゃれこうべのせいだ」と叩かれていたのに、ここはなんて温かいのか。だけど、そんな優しさも度がすぎれば居心地が悪いものだ。
重たい版木を運ぼうとすれば奉公人が「若奥様に持たせられません!」と飛んでくるし、食事の用意のため水を汲もうとしたら同じように「若奥様はお休みください!」と桶を取り上げられてしまう。
ここでの私の仕事はなんなのだろう。優しく気を遣われるほど、肩身が狭くなる。
ある朝のこと。
炊事場で汁物の味を確かめるおみつさんの横、することもなく黙っていると「お菊ちゃん」と呼ばれた。
顔を上げると、椀に注がれた汁が渡された。
「これがうちの味だよ。覚えとくれ」
「……あ、あの」
「奉公人たちは、お菊ちゃんから仕事をとってる訳じゃないよ。それが、若女将の仕事じゃなかっただけだから、気にしなさんな」
「若女将の仕事じゃなかった……」
湯気を立てる椀の中を見ていると、おみつさんが「ほら、冷めちまうよ」という。
慌てて椀の汁を啜ると、大豆の甘みがしっかり出た優しい味がお腹の奥にじんわりと広がった。柳屋で啜った残り物の汁とも、お祖母様のシジミ汁とも違う。
「賀之助は豆が好きで、とくに呉汁が好物なんだよ。手間だけどね」
おみつさんは、とびきり優しい母の顔で「この味覚えておくれよ」といって、横の大きな鍋に菜箸を入れた。小魚の佃煮のようだ。
「旦那様を支えるのが、女将の一番の仕事だ。次に、ここで働く奉公人のために尽くす。そのためには、まず、自分が健康じゃないとね。好き嫌いなく食べて、笑って、皆の話を聞いて」
小魚の佃煮がのった小皿が、手のひらに置かれる。
「どんっと構えりゃいいのさ。そうすりゃ、八雲堂は安泰だよ」
おみつさんは言葉通り満面の笑みでいいきった。その笑顔にほっと肩の力が抜け、いつぞやの夜に賀之助さんが「笑っていれば、なんとでもなろう」といっていたのを思い出した。
母子なんだと、当たり前すぎることを実感し、少し羨ましくも思いながら安堵する。
おみつさんが大根の味を確認して「さあ、運んどくれ!」といえば、奉公人たちがバタバタと動き出した。
私もいつか、おみつさんのように笑える女将さんにならないと。
そうして、おみつさんに助けられながら日々をすごすことで、少しだけ私の目指すべきものが見えたような気がした。ただ、賀之助さんを支えるという点が、いまだぼんやりしている。
そもそも、支えるってなんだろう。
牡丹のように魚の骨を取れとか、外から帰ってきたら足を洗えとか、唐突にあれが食べたい、欲しいといいだして買いに走らせられるとか……ワガママをいわれれば、まただわかりやすい。
でも、そんなことは一度たりもいわれたことがない。
賀之助さんは器用だし、食事も一人で綺麗に食べる。小骨をとりましょうかといった日には「子ども扱いするな」と呆れられたし、周囲から好機の目を向けられてしまった。
外から帰ってきて足を洗う手伝いをしようとした時だって、同じようなもんだ。私にあれを買ってこいどころか、あれを取ってこいなんて指図すらない。
せめて、賀之助さんにしてあげられるのは、翌日の着物を選んで用意するのと、床の用意をすることくらいだ。
「……できることをもっと見つけないと」
とはいえ、すぐ見つかるわけでもない。
部屋の棚に積まれた本を前にして、小さく溜息をついた。
たくさんの本には知識がっっているけど、そのどこにも若女将の心構えなんて載っていない。今は、おみつさんの真似をするくらいしか、方法がなさそうね。
積み重なる本の中には、八雲堂の看板商品といえる怪談本もある。
『冥途の飛脚』『あやかし往来』『影法師の灯火』と、どれも洒落た表題がついている。表紙を捲れば、背筋を震わせるような美しい幽霊やおどろおどろしい妖怪、闇に染まる法師の姿が、目に飛び込んでくる。物語も、振り返ったらそこに現れそうなほどの臨場感だ。
読みかけの『あやかし往来』を手に取って捲ると、ちりんっと風鈴の音が響いた。風がない夜だというに、確かにすぐそこで音がした。
どきっと鼓動が跳ね、驚いて振り返った瞬間、肘を棚にぶつけてしまった。
ばさばさと本が落ちるのと、部屋の障子が開くのは同時だった。
「どうした、お菊?」
部屋に入ってきた賀之助さんが、少し驚いた顔をして私を見ていた。
祝言の日から七日がすぎた。
八雲堂は変わらず繁盛していて、多くの人が出入りする。表に並ぶ本を整えながら挨拶すれば、興味深そうに話しかけてくる人が大半だ。でも、中にはびっくりした顔をしてそそくさといなくなってしまう人もいた。
逃げだす客の姿を初めて目にした時は、ただただ困惑してしまった。
もしかしたら、貧相な私の顔を見てびっくりしてしまったのではないか。そう思ったら、申し訳なさがこみあげてきた。
揺れる暖簾を硬直して見ていると肩が叩かれた。瞬間、脳裏に柳屋での日々が蘇って緊張が走った。
反射的に「申し訳ございません」と口走り、振り返ると姑のおみつさんがいた。だけど、その表情は私が思い描いたものと全く違い、優しい笑顔だった。
「お菊ちゃん、気にすることはないよ」
「で、ですが……悪い噂でも立ってしまったら」
「なあに、お菊ちゃんがあまりにも可愛いからびっくりして飛び出したんだろう。うちは男ばかりだからね」
おみつさんが笑うと、辺りから「違いねぇ」と笑い声が上がった。
柳屋ではすぐに「しゃれこうべのせいだ」と叩かれていたのに、ここはなんて温かいのか。だけど、そんな優しさも度がすぎれば居心地が悪いものだ。
重たい版木を運ぼうとすれば奉公人が「若奥様に持たせられません!」と飛んでくるし、食事の用意のため水を汲もうとしたら同じように「若奥様はお休みください!」と桶を取り上げられてしまう。
ここでの私の仕事はなんなのだろう。優しく気を遣われるほど、肩身が狭くなる。
ある朝のこと。
炊事場で汁物の味を確かめるおみつさんの横、することもなく黙っていると「お菊ちゃん」と呼ばれた。
顔を上げると、椀に注がれた汁が渡された。
「これがうちの味だよ。覚えとくれ」
「……あ、あの」
「奉公人たちは、お菊ちゃんから仕事をとってる訳じゃないよ。それが、若女将の仕事じゃなかっただけだから、気にしなさんな」
「若女将の仕事じゃなかった……」
湯気を立てる椀の中を見ていると、おみつさんが「ほら、冷めちまうよ」という。
慌てて椀の汁を啜ると、大豆の甘みがしっかり出た優しい味がお腹の奥にじんわりと広がった。柳屋で啜った残り物の汁とも、お祖母様のシジミ汁とも違う。
「賀之助は豆が好きで、とくに呉汁が好物なんだよ。手間だけどね」
おみつさんは、とびきり優しい母の顔で「この味覚えておくれよ」といって、横の大きな鍋に菜箸を入れた。小魚の佃煮のようだ。
「旦那様を支えるのが、女将の一番の仕事だ。次に、ここで働く奉公人のために尽くす。そのためには、まず、自分が健康じゃないとね。好き嫌いなく食べて、笑って、皆の話を聞いて」
小魚の佃煮がのった小皿が、手のひらに置かれる。
「どんっと構えりゃいいのさ。そうすりゃ、八雲堂は安泰だよ」
おみつさんは言葉通り満面の笑みでいいきった。その笑顔にほっと肩の力が抜け、いつぞやの夜に賀之助さんが「笑っていれば、なんとでもなろう」といっていたのを思い出した。
母子なんだと、当たり前すぎることを実感し、少し羨ましくも思いながら安堵する。
おみつさんが大根の味を確認して「さあ、運んどくれ!」といえば、奉公人たちがバタバタと動き出した。
私もいつか、おみつさんのように笑える女将さんにならないと。
そうして、おみつさんに助けられながら日々をすごすことで、少しだけ私の目指すべきものが見えたような気がした。ただ、賀之助さんを支えるという点が、いまだぼんやりしている。
そもそも、支えるってなんだろう。
牡丹のように魚の骨を取れとか、外から帰ってきたら足を洗えとか、唐突にあれが食べたい、欲しいといいだして買いに走らせられるとか……ワガママをいわれれば、まただわかりやすい。
でも、そんなことは一度たりもいわれたことがない。
賀之助さんは器用だし、食事も一人で綺麗に食べる。小骨をとりましょうかといった日には「子ども扱いするな」と呆れられたし、周囲から好機の目を向けられてしまった。
外から帰ってきて足を洗う手伝いをしようとした時だって、同じようなもんだ。私にあれを買ってこいどころか、あれを取ってこいなんて指図すらない。
せめて、賀之助さんにしてあげられるのは、翌日の着物を選んで用意するのと、床の用意をすることくらいだ。
「……できることをもっと見つけないと」
とはいえ、すぐ見つかるわけでもない。
部屋の棚に積まれた本を前にして、小さく溜息をついた。
たくさんの本には知識がっっているけど、そのどこにも若女将の心構えなんて載っていない。今は、おみつさんの真似をするくらいしか、方法がなさそうね。
積み重なる本の中には、八雲堂の看板商品といえる怪談本もある。
『冥途の飛脚』『あやかし往来』『影法師の灯火』と、どれも洒落た表題がついている。表紙を捲れば、背筋を震わせるような美しい幽霊やおどろおどろしい妖怪、闇に染まる法師の姿が、目に飛び込んでくる。物語も、振り返ったらそこに現れそうなほどの臨場感だ。
読みかけの『あやかし往来』を手に取って捲ると、ちりんっと風鈴の音が響いた。風がない夜だというに、確かにすぐそこで音がした。
どきっと鼓動が跳ね、驚いて振り返った瞬間、肘を棚にぶつけてしまった。
ばさばさと本が落ちるのと、部屋の障子が開くのは同時だった。
「どうした、お菊?」
部屋に入ってきた賀之助さんが、少し驚いた顔をして私を見ていた。


