今、ここには私と賀之助さんしかいないんだ。
風が吹き込み、窓の外から聞こえる夏虫の音がぴたりと止んだ。おかげで、耳の奥で鼓動が煩く鳴りだす。
「……賀之助さんは、お疲れでないですか?」
「これくらい、連日の宴に比べたらどうってことはない」
賀之助さんが少し口角を緩めた。
「連日の宴?」
「戯作者の先生方ってのは、酒好きが多くてな。次回作の打ち合わせと称して飲みに行くこともよくある」
「……それで、夜にいらっしゃらないことが多いのですね」
「ああ。夜は俺を気にせず先に休んでかまわない」
穏やかな口調で話しながら部屋に入ってきた賀之助さんは、ついっと並んだ布団に視線を向けると、なにを思ったのか、布団を少し離してから壁際に寄せてある衝立の側へ立った。
なにをしているのかと問う間もなく、衝立が持ち上げられた。そうして、驚いているうちに布団の間へと置かれてしまった。
「……賀之助さん、あの、これは?」
「今夜はゆっくり休め」
「え、でも……」
祝言を挙げて夫婦になったのに、これはどういう事だろうか。だって、今夜はいわゆる初夜になるのよね。
「数日は、祝いに訪れる客も絶えない」
「……そうでしょうけど」
「ようやっと顔色がよくなったのだ。無理をして倒れては本末転倒だろう」
いやいや、そういうことではなくて。初夜は夫婦になった証というか、それも儀式というか。
衝立の向こうで賀之助さんが横になる気配がした。
「いつまでも夜風に当たっていては、風邪をひくぞ」
労わる言葉だけど、それがひどく冷たく胸に沁みる。
胸元で手を握りしめ、寂しい布団を見下ろした。
私は何を期待していたんだろう。晃照様とお千代の方に優しくされ、少しばかり勘違いをしていたのかもしれない。
静かに窓の障子を閉ざしてから、冷えた布団に足を差し入れた。眼鏡をそっと外して枕元に置き、体を横たえた先に見たのは大輪の菊が咲く衝立だった。
灯したままの行燈の火が、散ることのない黄金色の花びらをゆらゆらと照らしている。
同じ名前なのに、私と違ってなんて美しいのだろう。そう思ったら、目の前が涙で滲んだ。たった一枚の衝立に、この先お前はなにも変われやしないと、いわれているようだった。
「灯りを消すぞ」
静かな声がどこまでも遠く感じた。
たった一言「はい」といえばいいのに、どうしてか声が出ない。
「……お菊? もう寝たのか」
衣擦れの音が届き、賀之助さんが寝返りを打ったのだとわかる。もしかしたら、私の方を見ているのだろうか。
ふっと吐息が聞こえ、部屋は暗闇に包まれた。
しばらくして、小さな溜息と一緒に「難儀なものだな」と低い呟きが聞こえた。
それはどういう意味だろうか。
私と夫婦になり、夜を共にするのが嫌ということか。
つまり、私が妻として認められていないということだろうか。女としての魅力は……確かに、つい先日まで〝しゃれこうべ〟なんていわれていたから、ないだろうけど。
衝立に少し指を伸ばし、そっと触れてみた。この向こうに賀之助さんがいる。だけど、二度と会えない母やお祖母様よりももっと遠くに感じてしまう。
無意識に溜息をこぼして寝返りを打つと、また衣擦れの音がした。
賀之助さんは寝たのだろうか。
瞼を下ろし、夢と現とも区別のつかない暗闇に意識を向け、小さく「賀之助さん」と名を呼べば、頬のあたりに温かく優しいものが触れた。
それがなにか知りたかったけど、自分で思っていた以上に体は疲れていたのだろう。重たい瞼が上がることはなかった。
風が吹き込み、窓の外から聞こえる夏虫の音がぴたりと止んだ。おかげで、耳の奥で鼓動が煩く鳴りだす。
「……賀之助さんは、お疲れでないですか?」
「これくらい、連日の宴に比べたらどうってことはない」
賀之助さんが少し口角を緩めた。
「連日の宴?」
「戯作者の先生方ってのは、酒好きが多くてな。次回作の打ち合わせと称して飲みに行くこともよくある」
「……それで、夜にいらっしゃらないことが多いのですね」
「ああ。夜は俺を気にせず先に休んでかまわない」
穏やかな口調で話しながら部屋に入ってきた賀之助さんは、ついっと並んだ布団に視線を向けると、なにを思ったのか、布団を少し離してから壁際に寄せてある衝立の側へ立った。
なにをしているのかと問う間もなく、衝立が持ち上げられた。そうして、驚いているうちに布団の間へと置かれてしまった。
「……賀之助さん、あの、これは?」
「今夜はゆっくり休め」
「え、でも……」
祝言を挙げて夫婦になったのに、これはどういう事だろうか。だって、今夜はいわゆる初夜になるのよね。
「数日は、祝いに訪れる客も絶えない」
「……そうでしょうけど」
「ようやっと顔色がよくなったのだ。無理をして倒れては本末転倒だろう」
いやいや、そういうことではなくて。初夜は夫婦になった証というか、それも儀式というか。
衝立の向こうで賀之助さんが横になる気配がした。
「いつまでも夜風に当たっていては、風邪をひくぞ」
労わる言葉だけど、それがひどく冷たく胸に沁みる。
胸元で手を握りしめ、寂しい布団を見下ろした。
私は何を期待していたんだろう。晃照様とお千代の方に優しくされ、少しばかり勘違いをしていたのかもしれない。
静かに窓の障子を閉ざしてから、冷えた布団に足を差し入れた。眼鏡をそっと外して枕元に置き、体を横たえた先に見たのは大輪の菊が咲く衝立だった。
灯したままの行燈の火が、散ることのない黄金色の花びらをゆらゆらと照らしている。
同じ名前なのに、私と違ってなんて美しいのだろう。そう思ったら、目の前が涙で滲んだ。たった一枚の衝立に、この先お前はなにも変われやしないと、いわれているようだった。
「灯りを消すぞ」
静かな声がどこまでも遠く感じた。
たった一言「はい」といえばいいのに、どうしてか声が出ない。
「……お菊? もう寝たのか」
衣擦れの音が届き、賀之助さんが寝返りを打ったのだとわかる。もしかしたら、私の方を見ているのだろうか。
ふっと吐息が聞こえ、部屋は暗闇に包まれた。
しばらくして、小さな溜息と一緒に「難儀なものだな」と低い呟きが聞こえた。
それはどういう意味だろうか。
私と夫婦になり、夜を共にするのが嫌ということか。
つまり、私が妻として認められていないということだろうか。女としての魅力は……確かに、つい先日まで〝しゃれこうべ〟なんていわれていたから、ないだろうけど。
衝立に少し指を伸ばし、そっと触れてみた。この向こうに賀之助さんがいる。だけど、二度と会えない母やお祖母様よりももっと遠くに感じてしまう。
無意識に溜息をこぼして寝返りを打つと、また衣擦れの音がした。
賀之助さんは寝たのだろうか。
瞼を下ろし、夢と現とも区別のつかない暗闇に意識を向け、小さく「賀之助さん」と名を呼べば、頬のあたりに温かく優しいものが触れた。
それがなにか知りたかったけど、自分で思っていた以上に体は疲れていたのだろう。重たい瞼が上がることはなかった。


