八雲堂あやかし綴~しゃれこうべ娘と呼ばれた私ですが、地本問屋の若旦那に溺愛されてるようです~

「三味線にお茶、お花、久世の娘として覚えることがたくさんございますよ」
「八雲堂では必要なかろう」
「そんなことはありません。きっと、お菊の力になりますよ……遠慮せず、遊びにいらっしゃい」

 手をきゅっと握られ、優しさが伝わってくる。
 お二方を父母とはまだ思えない。だけど、その優しさや懐の深さは十分に伝わってきた。
 まるで菩薩みたいな人たちだ。なにも関わりのない私のために、こんなに尽くしてくれるなんて。

「……ありがとうございます」

 柔らかな手を握り返すと、涙がほろりと落ちた。
 今までたくさん泣くのを我慢してきたせいだろうか。ここのところ、涙脆くて恥ずかしい。だけど、その涙はちっとも嫌なものではなく、胸の奥が温かくなる。

「お菊、泣くでない。お前を泣かせたと賀之助が知ったら、大変だ」
「あらあら、それはもうお遅うございますね」

 朗らかに微笑むお千代の方が視線を向けたのは、晃照様の背後。そこに、口を真一文字にした賀之助さんが佇んでいた。いつの間に来ていたのだろう。
 一瞬だけ賀之助さんと視線が合い、びっくりして涙が止まった。

「久世様、お菊を泣かせてもらっては困ります。目が腫れてしまいます」

 淡々とした声に、晃照様が顔を引きつらせて「相すまぬ」と笑った。
 賀之助さんがいくら大店の若旦那といっても、所詮は町民。だというのに、晃照様は機嫌を損ねたり苦言を呈することもない。
 なんだろう、この二人の不思議な距離感は。

 微妙な空気に口を挟むことができず黙っていると、白猫が晃照様の膝で欠伸をした。お千代の方はその小さな身体を抱き上げ、微笑ましいとばかりに「あらあら」と呟かれる。

 違和感を抱きながらも、どうしてか、今まで感じたことのない穏やかな空気を、とても居心地よく思えた。

 ◇

 暮れ六つ時、久世の屋敷から八雲堂へと向かう。
 たった五日の親子関係。思い出は、昨日の縁側で交わした会話くらい。それでも、私を八雲堂へ送り出してくれる二人がいることは、とても心強く思えた。

 篝火がたかれた門の前には、豪華な駕籠が用意されている。華やかな婚礼行列を一目見ようと集まった人垣から「美しい花嫁さんだね」「八雲堂の花嫁だそうだ」と囁き合う声が聞こえてきた。

 それから到着した八雲堂で、紋付き袴に身を包んだ賀之助さんと対面した。いつも以上に凛々しく、まるで静寂に輝く月のようだった。
 本当に、この人の妻になるのか。

 白無垢に身を包み、盃を交わすために並んで座っても、まだ実感がわかない。

 それでも、婚礼の儀はつつがなく進んだ。

 灯された明かりの中、一つ目の盃を手にする。
 唇をつけ、ふと川辺で口にした酒饅頭の香りを思い出す。あの時は、まさかこんなことになるなんて、欠片も想像しなかった。
 盃を賀之助さんに戻し、彼が再びそれを口にするのを盗み見た。どこまでも静かで、やっぱり感情が読めない。

 今でも、どうして私をと思ってしまう。でも、もう引き返せない。

 新しくお神酒が注がれた二つ目の盃に唇をつけたとき、賀之助さんの私を守りたいといった声が脳裏によぎった。ただそうしたいと思ったのだといっていた。それは、どういうことなのか。

 お神酒が三つ目の盃に注がれる。
 受け取った盃の中で揺れたお神酒を見て、これからを思い描こうとしても、なにも浮かばなかった。それでも、三々九度を交わした私たちは、夫婦として歩みださなければならい。

 それから始まった賑わう祝いの席で、私はずいぶん緊張していたのだろう。上手く話せもせず、曖昧に頷いて微笑むのが精一杯だった。
 有名な戯作者の先生を紹介されたり、絵師の方に浮世絵を一枚、記念に作らせて欲しいなんていわれたり。想像したことのない華やかな時間だった。

 人のよさそうな先生方をみて、賀之助さんが慕われているとわかる。
 私にはどうにも感情を見せないというか読めない部分が多い人だけど、賑わう宴席をみれば、彼と八雲堂が人々に求められているのも十分伝わってきた。

 祝いに駆けつけてくれた人々が帰った後、重たい婚礼衣装を脱いで身軽になると、ほんの少しだけ現実に戻ったような気がした。
 だけど、部屋に並べられた布団を見て、すぐさま、夢ではないのだと改めて思う。

 並んだ布団の枕元で膝をつき、そっと窓の外を眺めた。
 見上げた夜空では、ちかちかと星が瞬いている。その中でいっとう大きな輝きを放つ星は、まるで賀之助さんのようだ。たくさんの輝かしい先生に囲まれている。
 これから私も、一緒に輝けるのかな。
 
 不安と一緒に、宴席に訪れた伯父と牡丹の顔が脳裏をよぎった。
 二人はちっとも祝う顔をしていなかった。伯父はどこか気落ちしたような、牡丹は憎しみさえ向けてきた。そんなに憎いなら、祝いにこなくてもいいのに。でも、柳屋の主とその娘という立場上、来ないという選択肢はなかったのだろう。

 あの地獄のような日々を思えば、これからの日々は、なんとかなるだろう。そう思わせてくれたことにだけは、感謝をしてもいいかもしれない。

 胸を押さえて溜息をつくと「疲れたか」と耳に心地よい声が響いた。
 振り返ると、浴衣に着替えた賀之助さんが佇んでいた。その後ろに控えた仲人の方は、両手をついて「では、これにて」と告げると襖を閉ざした。
 足音が静かに遠ざかっていく。